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二十二
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「若様。なりません」
そう言ったのは、小姓だった。
「そこは、市井の卑しい者が通うところです。若様が、足を運ぶようなところではありません」
「いやしい?」
「左様でございます」
「ふーん? そっか」
「はい」
真剣な顔の小姓に、余四郎は軽く頷く。それから伊之助の、吊っていない方の腕にしがみついた。
「でも、いのがいくならいく」
「は?」
小姓は、低い声を漏らしてからうつむき、ふう、と息を整えた。顔を上げた時には、垣間見えた眉間のしわは消えていた。
「お勉強をなさりたいなら、藩校へ参りましょう、若様。こんなところへいらっしゃっているより、余程、若様のためになります」
「いのは、はんこうへいくか?」
余四郎は、小姓へは答えずに伊之助を見上げて尋ねる。
「いえ、あのう、おいら、あ、いや、わたしは、できれば藩校ではなく、寺子屋で勉強をしたいと、考えて……います……」
伊之助は、きょろきょろと視線をさ迷わせながら答えた。余四郎へ、というより、小姓へ向かって。話しているうちに、寺子屋へ行きたいと願うことは、余四郎と共にいたくないということと同義かもしれない、と思えてきて、だんだんに声が小さくなっていった。
そんなことはない。決してない。伊之助は、余四郎と共に居たい。
けれど、余四郎は、寺子屋などに足を運んでよいような方ではない?
なら、余四郎と共にいるためには、伊之助が藩校を選ぶべきなのだろう。余四郎の許婚になる前は、寺子屋へ通わせてもらえるだけでもありがたいと思え、と言われていたが、余四郎の許婚になった後は、藩校へ通え、と言われたのだから。
でも。
「はんこうへいかないのか?」
「その、は、はい……」
兄が、恐ろしい。藩校へ行けば必ず会うことになる、と考えるだけで伊之助は、体が震えだすのが止まらなかった。
「そうか。なら、てらこやへいこう」
余四郎の答えは簡単だ。
「いのがいきたいところに、しろうもいきたい」
「若様、なりません。若様は、この国を太平の世に導いた、貴い将軍様の血を引くお方。現将軍様とも血縁に在らせられます。そのような貴い方が、寺子屋へ行くなどあり得ません」
「……」
「若様が行く場所は藩校のみ。寺子屋へはお一人で行かれるといい。これまでのように」
ああ、そうか、と伊之助は気付いた。この人は、伊之助のことが気に入らないのだ、と。なんだか見慣れた目付きが懐かしい。奥方も兄も姉も、こんな目で伊之助を見ていた。余四郎と出会って、こうして居心地のよい家に住まわせてもらってからは、そんな目で伊之助を見る人はおらず、すっかり忘れていた。
「はい、」
「いのは、ひとりだったのか」
目を伏せ、慣れた返事を返しかけた伊之助の腕が、ふるふると振られる。
「あ、しろ、さま」
はっと、腕にあるぬくもりを思い出した。
「ひとりだったか」
「ええっと。はい、そうですね。一人でした」
「そうか。しろうもだ」
「え?」
「しろうもひとりだった。でも、ひとりじゃなくなった」
「……」
目を見開く伊之助の腕を、余四郎はまた、ふるふると振った。
「いのがいるからな。ふたりになった」
「あ……は、はい」
「いいなじゅけはいいな。じゅっと、ともにいられるのだものな」
にこりと笑う余四郎の顔がなんだか眩しくて、伊之助は目を細めた。喉が、ひくっとなったのをぐっと抑え込む。こくり、とこみ上げる何かを飲み込んで、伊之助は答えた。
「ええ、いいですね。……本当に、いいです」
そう言ったのは、小姓だった。
「そこは、市井の卑しい者が通うところです。若様が、足を運ぶようなところではありません」
「いやしい?」
「左様でございます」
「ふーん? そっか」
「はい」
真剣な顔の小姓に、余四郎は軽く頷く。それから伊之助の、吊っていない方の腕にしがみついた。
「でも、いのがいくならいく」
「は?」
小姓は、低い声を漏らしてからうつむき、ふう、と息を整えた。顔を上げた時には、垣間見えた眉間のしわは消えていた。
「お勉強をなさりたいなら、藩校へ参りましょう、若様。こんなところへいらっしゃっているより、余程、若様のためになります」
「いのは、はんこうへいくか?」
余四郎は、小姓へは答えずに伊之助を見上げて尋ねる。
「いえ、あのう、おいら、あ、いや、わたしは、できれば藩校ではなく、寺子屋で勉強をしたいと、考えて……います……」
伊之助は、きょろきょろと視線をさ迷わせながら答えた。余四郎へ、というより、小姓へ向かって。話しているうちに、寺子屋へ行きたいと願うことは、余四郎と共にいたくないということと同義かもしれない、と思えてきて、だんだんに声が小さくなっていった。
そんなことはない。決してない。伊之助は、余四郎と共に居たい。
けれど、余四郎は、寺子屋などに足を運んでよいような方ではない?
なら、余四郎と共にいるためには、伊之助が藩校を選ぶべきなのだろう。余四郎の許婚になる前は、寺子屋へ通わせてもらえるだけでもありがたいと思え、と言われていたが、余四郎の許婚になった後は、藩校へ通え、と言われたのだから。
でも。
「はんこうへいかないのか?」
「その、は、はい……」
兄が、恐ろしい。藩校へ行けば必ず会うことになる、と考えるだけで伊之助は、体が震えだすのが止まらなかった。
「そうか。なら、てらこやへいこう」
余四郎の答えは簡単だ。
「いのがいきたいところに、しろうもいきたい」
「若様、なりません。若様は、この国を太平の世に導いた、貴い将軍様の血を引くお方。現将軍様とも血縁に在らせられます。そのような貴い方が、寺子屋へ行くなどあり得ません」
「……」
「若様が行く場所は藩校のみ。寺子屋へはお一人で行かれるといい。これまでのように」
ああ、そうか、と伊之助は気付いた。この人は、伊之助のことが気に入らないのだ、と。なんだか見慣れた目付きが懐かしい。奥方も兄も姉も、こんな目で伊之助を見ていた。余四郎と出会って、こうして居心地のよい家に住まわせてもらってからは、そんな目で伊之助を見る人はおらず、すっかり忘れていた。
「はい、」
「いのは、ひとりだったのか」
目を伏せ、慣れた返事を返しかけた伊之助の腕が、ふるふると振られる。
「あ、しろ、さま」
はっと、腕にあるぬくもりを思い出した。
「ひとりだったか」
「ええっと。はい、そうですね。一人でした」
「そうか。しろうもだ」
「え?」
「しろうもひとりだった。でも、ひとりじゃなくなった」
「……」
目を見開く伊之助の腕を、余四郎はまた、ふるふると振った。
「いのがいるからな。ふたりになった」
「あ……は、はい」
「いいなじゅけはいいな。じゅっと、ともにいられるのだものな」
にこりと笑う余四郎の顔がなんだか眩しくて、伊之助は目を細めた。喉が、ひくっとなったのをぐっと抑え込む。こくり、とこみ上げる何かを飲み込んで、伊之助は答えた。
「ええ、いいですね。……本当に、いいです」
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