11 / 37
十一
しおりを挟む
「さあ、様子は見られたであろう。これで良いか。この通り、これは、自らの不注意で転んで腕の骨を傷めてしまったのだ。いっときは、傷が腫れて出た熱が高く危ういやもしれぬと医者が言うておったが、看病の甲斐あって、峠は越えたとのこと。余四郎さまにも報告いたした通りだ。確かにそうであったと、お主から確と報告しておいてくれ。お主をこうしてわが家へ寄越すということは、私の言葉は、信用してもらえなかったようだからな。なあ、直井小太郎殿?」
「……峠は、超えた。これで……」
人の声だ、と伊之助はぼんやり思う。兄と、聞き覚えのない子どもの声が話している。
痛い、熱い、苦しい、水が欲しい、以外のことを思うのは久しぶりだった。覚醒しては、痛くて苦しくて、もう目を覚ましたくない、とまで思っていたけれど。
余四郎さま、と聞こえて、ああ、と伊之助は掠れた息を吐いた。
会いたいな。いの、と呼んでほしいな。
不思議なことだ。
知り合ったのはついこの間のことなのに、こうして弱っている時に会いたいのは、声を聞きたいのは、余四郎だった。
「ああ、医者は確かにそう言っておった。さあ、もうよいであろう? 帰りはあちらだ」
「いや、できれば、伊之助殿と言葉を交わしたい。しばし、こちらで目覚めを待たせてもらっても?」
「は? あ、いや。……この通りであるから、いつ目を覚ますとも知れぬ。待っても無駄だ。見舞いの名目は果たしたのだからよいだろう? 帰れ」
兄がいるので目を開けずに寝たふりをしていたが、開けた方がいいのだろうか。
「いや。私が、もうしばし、伊之助殿を見舞いたいのだ。成正殿にはお付き合い頂かなくとも結構。ここに座っておるだけだ。動く際は必ずお声掛けいたすので、心配ご無用。世話係の女中も、こちらの部屋に戻していただいて構わない。伊之助殿のお目が覚めたら、少し声を掛けてから失礼することとする」
「いや。これの体に負担があってはいかぬ。本日はお引き取りいただこう」
伊之助は、ぱちりと目を開けた。
長いまつげに縁どられた切れ長の目と、目が合う。伊之助の知らない子だった。けれど、その子は、ああ、と心底ほっとしたように息を吐いて伊之助殿、と言った。高く澄んだ聞き取りやすい声だった。
「はい……」
反射的に返事をしたが、ひどく掠れて、自分でも聞き取りにくい。
「ああ、無理はなさらぬように。水、は見当たらぬな。成正殿。女中に飲み水を持ってくるよう頼んできてくださらぬか」
「は? なんで私が」
「家の者を差し置いて、私が貴家の使用人に用を言いつけるのもおかしかろう。そうしてよいと言うなら、そうするが?」
「ぐ、む。くそ。おい! おい、誰かおらぬか。くそ、おらんのか」
応えがなかったのか、兄が部屋を出て行った。
ほう、と思わず息を吐いた伊之助を優しい目が見ている。ふと、この人は兄と対等に話していたな、と思い当たり、伊之助は慌てて身を起そうとした。もちろん、身を起こすことなどできずに、体に走った痛みに呻くこととなった。
「ああ、ああ。そのままで。無理をしてはいけない」
布団を掛けなおしてくれる手つきが優しい。
「私は、直井小太郎という。梅千代さまの許婚だ」
「はい……」
伊之助です。余四郎さまの許婚です、と言いたかったが、上手く声が出せなかった。
「苦しいだろう。無理に声を出さずともよい。……大変だったな」
どこまでも心配してくれる様子に、喉が詰まる。
「そなたが三日も藩校に来ぬもので、余四郎さまが大層気をもまれていらっしゃった。見舞いに行くと言ってきかぬのを留めて、私が代わりに来た」
そこで、小太郎は声を潜める。
「転んでできる傷でないことは、見れば明白。しかし、そなたの家の者は皆、そなたが転んだと申している」
そうか。なら、伊之助は転んだのだろう。
「梅千代さまと余四郎さまには、見たままを申し上げるつもりだ」
伊之助は、そっと首を横に振った。
「しかし、伊之助殿……」
そこに兄が女中を連れて戻ってくる。
小太郎は、済ました顔で座り直した。
「話せたなら、もうお帰りいただこう」
「そうだな。本日は失礼して、また明日来ることとしよう。伊之助殿の負担になってもいけないしな」
「はあ?」
「伊之助殿。くれぐれも。お大事に」
伊之助は、兄に一歩も引かない小太郎を、かっこいい人だなあ、と思った。
「……峠は、超えた。これで……」
人の声だ、と伊之助はぼんやり思う。兄と、聞き覚えのない子どもの声が話している。
痛い、熱い、苦しい、水が欲しい、以外のことを思うのは久しぶりだった。覚醒しては、痛くて苦しくて、もう目を覚ましたくない、とまで思っていたけれど。
余四郎さま、と聞こえて、ああ、と伊之助は掠れた息を吐いた。
会いたいな。いの、と呼んでほしいな。
不思議なことだ。
知り合ったのはついこの間のことなのに、こうして弱っている時に会いたいのは、声を聞きたいのは、余四郎だった。
「ああ、医者は確かにそう言っておった。さあ、もうよいであろう? 帰りはあちらだ」
「いや、できれば、伊之助殿と言葉を交わしたい。しばし、こちらで目覚めを待たせてもらっても?」
「は? あ、いや。……この通りであるから、いつ目を覚ますとも知れぬ。待っても無駄だ。見舞いの名目は果たしたのだからよいだろう? 帰れ」
兄がいるので目を開けずに寝たふりをしていたが、開けた方がいいのだろうか。
「いや。私が、もうしばし、伊之助殿を見舞いたいのだ。成正殿にはお付き合い頂かなくとも結構。ここに座っておるだけだ。動く際は必ずお声掛けいたすので、心配ご無用。世話係の女中も、こちらの部屋に戻していただいて構わない。伊之助殿のお目が覚めたら、少し声を掛けてから失礼することとする」
「いや。これの体に負担があってはいかぬ。本日はお引き取りいただこう」
伊之助は、ぱちりと目を開けた。
長いまつげに縁どられた切れ長の目と、目が合う。伊之助の知らない子だった。けれど、その子は、ああ、と心底ほっとしたように息を吐いて伊之助殿、と言った。高く澄んだ聞き取りやすい声だった。
「はい……」
反射的に返事をしたが、ひどく掠れて、自分でも聞き取りにくい。
「ああ、無理はなさらぬように。水、は見当たらぬな。成正殿。女中に飲み水を持ってくるよう頼んできてくださらぬか」
「は? なんで私が」
「家の者を差し置いて、私が貴家の使用人に用を言いつけるのもおかしかろう。そうしてよいと言うなら、そうするが?」
「ぐ、む。くそ。おい! おい、誰かおらぬか。くそ、おらんのか」
応えがなかったのか、兄が部屋を出て行った。
ほう、と思わず息を吐いた伊之助を優しい目が見ている。ふと、この人は兄と対等に話していたな、と思い当たり、伊之助は慌てて身を起そうとした。もちろん、身を起こすことなどできずに、体に走った痛みに呻くこととなった。
「ああ、ああ。そのままで。無理をしてはいけない」
布団を掛けなおしてくれる手つきが優しい。
「私は、直井小太郎という。梅千代さまの許婚だ」
「はい……」
伊之助です。余四郎さまの許婚です、と言いたかったが、上手く声が出せなかった。
「苦しいだろう。無理に声を出さずともよい。……大変だったな」
どこまでも心配してくれる様子に、喉が詰まる。
「そなたが三日も藩校に来ぬもので、余四郎さまが大層気をもまれていらっしゃった。見舞いに行くと言ってきかぬのを留めて、私が代わりに来た」
そこで、小太郎は声を潜める。
「転んでできる傷でないことは、見れば明白。しかし、そなたの家の者は皆、そなたが転んだと申している」
そうか。なら、伊之助は転んだのだろう。
「梅千代さまと余四郎さまには、見たままを申し上げるつもりだ」
伊之助は、そっと首を横に振った。
「しかし、伊之助殿……」
そこに兄が女中を連れて戻ってくる。
小太郎は、済ました顔で座り直した。
「話せたなら、もうお帰りいただこう」
「そうだな。本日は失礼して、また明日来ることとしよう。伊之助殿の負担になってもいけないしな」
「はあ?」
「伊之助殿。くれぐれも。お大事に」
伊之助は、兄に一歩も引かない小太郎を、かっこいい人だなあ、と思った。
493
お気に入りに追加
339
あなたにおすすめの小説
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
雫
ゆい
BL
涙が落ちる。
涙は彼に届くことはない。
彼を想うことは、これでやめよう。
何をどうしても、彼の気持ちは僕に向くことはない。
僕は、その場から音を立てずに立ち去った。
僕はアシェル=オルスト。
侯爵家の嫡男として生まれ、10歳の時にエドガー=ハルミトンと婚約した。
彼には、他に愛する人がいた。
世界観は、【夜空と暁と】と同じです。
アルサス達がでます。
【夜空と暁と】を知らなくても、これだけで読めます。
随時更新です。
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
一日だけの魔法
うりぼう
BL
一日だけの魔法をかけた。
彼が自分を好きになってくれる魔法。
禁忌とされている、たった一日しか持たない魔法。
彼は魔法にかかり、自分に夢中になってくれた。
俺の名を呼び、俺に微笑みかけ、俺だけを好きだと言ってくれる。
嬉しいはずなのに、これを望んでいたはずなのに……
※いきなり始まりいきなり終わる
※エセファンタジー
※エセ魔法
※二重人格もどき
※細かいツッコミはなしで
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる