余四郎さまの言うことにゃ

かずえ

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 伊之助は、しばらく真剣に、部屋に響く音読の声を聞いていた。しかし、どんなに真剣に耳を澄ませて目で教書きょうしょを追ってみても、皆が教書のどこを読んでいるかも分からない。辺りから紙をめくる音がすれば、慌てて共にめくった。できる事はそれだけだった。少しすれば、聞き慣れない言葉の羅列に、あっという間に疲れてしまった。
 そこで伊之助は、はたと気付く。余四郎さまは大丈夫だろうか。寺子屋に三年あまり通った経験のある自分が戸惑っているのだから、初めての余四郎さまはさぞかし戸惑っていることだろう。それとも、武家の授業とはこういうものだと知っていたのだろうか。
 気になって隣をそっと伺うと、大きな目がじいっと伊之助を見ていた。驚いて瞬きする伊之助に、余四郎が口を開く。

「いのもよめないのか」
「はい。すみません」

 年長の自分が、小さな余四郎の助けになってやろうと考えていたが、これはどうにもなりそうにない。伊之助の通っていた寺子屋で、こんなに難しい教書を読んでいる者はいなかったのだ。ある程度の読み書きそろばんができるようになれば、皆、すぐに働きに出ていくのだから。
 それにしても、あまりに不親切ではなかろうか。伊之助はともかく、あきらかに小さな余四郎に、こんなに難しい教書をただ渡して、読んでくださいと言うだなんて。伊之助は、手習いの最初は、自分の名前の読み書きをするものだとばかり思っていた。だから、今日は、余四郎が名前を書く練習の手伝いをしようと考えながらここへ来たのだ。伊之助の通っていた寺子屋ではそうだった。新しく来た子には年長の者がついて教えるものだったし、皆、わいわいと話しながら、自分に合った手本を師範にもらって読み書きの練習をしていた。手習いに通い始める年齢はまちまちだが、いくつから手習いを始めても、まずは、名前を練習していた。それから仮名。そして、よく使う漢字。
 少しずつ練習していくうちに、読める文字や書ける文字が増えていって楽しくなるのだ。自分の名前を読めて書ける、というのは大事なことじゃないか? 嬉しいことだし。まずは、思う存分、名前を書いたら良いのにな、と伊之助は思う。余四郎さまだって、余四郎、と自分で書けるようになったら嬉しいに違いない。伊之助は、とても嬉しかったから。余四郎さまもそうだといい。そして、たくさんの文字を覚えて書けるようになったら、二人で手紙のやり取りなんてしたらどうだろう。それは、とても良い案に思えた。
 
「余四郎さま。私語は慎まれますよう」

 師範が、余四郎と伊之助をじろりと睨みつけながら言う。はっと身を固くする伊之助をよそに、余四郎は堂々と言った。

「よめない」
「聞いて覚えてください」
「そういうものか」
「ええ。皆様、そうされておられます」
「そうか」

 師範の言葉に伊之助は、自分はここできちんとやっていけるのだろうか、とげんなりした。
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