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六
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「いの。いの。こっちだ。ここにすわれ」
「はい。余四郎さま」
「うん。いの」
余四郎が機嫌よく指し示したのは、師範の目の前。余四郎の隣の席である。伊之助の兄よりも上座であった。
ざわり、と揺れる他の子どもたちを目に入れないようにしながら、伊之助は余四郎の隣に座る。首にしっかり力を入れておかないと、すぐにうつむいてしまいそうだ。
初めて足を踏み入れた藩校は、兄に似た格好の子どもばかりで落ち着かなかった。一応、今日は伊之助も兄のおさがりの着物を着せてもらっている。ここにいる皆と同じような格好になっているはずなのだが、どうにも馴染めそうにない。周りの、伊之助を見る目が鋭いように感じて、逃げ出してしまいたくなっていた。
だが、皆の目につかない後ろの席に座るわけにもいかない。伊之助の席はここなのだ。
そう。余四郎の隣に決まっている。
だって余四郎は言ったのだ。
「いいなじゅけというのはな、いのしゅけ。ずうっとともにいりゅものなんだ」
「へえ。そうなんですか」
伊之助は、真面目な顔で頷いた。伊之助には、許婚というものがよく分かっていない。誰かに聞こうにも、暮らしている屋敷の使用人たちに、うかつに聞いてもよいものかどうかの判断がつかなかった。寺子屋に行った時に師範に聞こう、と思っていたが、余四郎との顔合わせの後、屋敷から出してもらえぬままに二日が過ぎた。そうして、余四郎が呼んでいるからと言われて、また、父と城へ足を運んだ。着せられた着物は姉ではなく兄のおさがりで、父は仕事だとすぐに伊之助の側を離れたので、心底ほっとした。
向かい合った余四郎は、許しを得て顔を上げた伊之助をまじまじと見た。格好が違うから分からないかもしれぬ、と伊之助は心配したが、いのしゅけか、と聞かれて思わずにこりとしながら、はいと言えば余四郎は、あ、いのしゅけだ、とすぐに得心してくれた。
そこからの、許婚談義である。
伊之助が、寺子屋に行かせてもらえず、使用人の手伝いをしたり、繕い物の練習などというものをさせられている間に、余四郎が調べていてくれたらしい。
真面目に頷いた伊之助に、余四郎も、うんと頷いた。
「うん、そうだ。だからいのしゅけは、しろうとずっといろ」
「はあ……」
と言ってもどうやって、と伊之助が首をひねっていると、余四郎はにこにこと笑った。
「ちちうえが、すこしはやいがしろうもはんこうにかよえばよいというてくれた」
「はんこう?」
「むっつになれば、みないくのであろ?」
「ははあ、なるほど……」
兄の通っている寺子屋のことか、とぴんときた伊之助は曖昧に頷く。兄のいる場所へわざわざ行きたくはない。行きたくはないが、そういう訳にもいかぬのだろうなあ、と考えながら屋敷に戻ると、案の定、父から、明日から藩校へ通うように、と言われた。
そうなることを予想して、帰り際、伊之助は余四郎に、自分のことをいの、と呼んでほしい、とお願いして別れた。いのしゅけ、と余四郎の可愛らしい声で呼ばれると、思わずにこりと笑ってしまうからだ。そんな顔を兄に見られたら、後でどんな目に合うか分からない、と思って。
だが先ほど、いの、と自分を呼んだ余四郎もとても可愛くて、あまり意味はなかったかもしれないとちょっと思った。周りからの視線の鋭さに顔がこわばっていたので助かったが。
そんな訳で、初めて藩校に来た二人は、仲良く並んで座り授業を受けた。渡された教書は、伊之助がこれまで通っていた寺子屋では習っていない漢字や言葉がたくさん並んでいて、共に音読しろと言われても無理だった。
「はい。余四郎さま」
「うん。いの」
余四郎が機嫌よく指し示したのは、師範の目の前。余四郎の隣の席である。伊之助の兄よりも上座であった。
ざわり、と揺れる他の子どもたちを目に入れないようにしながら、伊之助は余四郎の隣に座る。首にしっかり力を入れておかないと、すぐにうつむいてしまいそうだ。
初めて足を踏み入れた藩校は、兄に似た格好の子どもばかりで落ち着かなかった。一応、今日は伊之助も兄のおさがりの着物を着せてもらっている。ここにいる皆と同じような格好になっているはずなのだが、どうにも馴染めそうにない。周りの、伊之助を見る目が鋭いように感じて、逃げ出してしまいたくなっていた。
だが、皆の目につかない後ろの席に座るわけにもいかない。伊之助の席はここなのだ。
そう。余四郎の隣に決まっている。
だって余四郎は言ったのだ。
「いいなじゅけというのはな、いのしゅけ。ずうっとともにいりゅものなんだ」
「へえ。そうなんですか」
伊之助は、真面目な顔で頷いた。伊之助には、許婚というものがよく分かっていない。誰かに聞こうにも、暮らしている屋敷の使用人たちに、うかつに聞いてもよいものかどうかの判断がつかなかった。寺子屋に行った時に師範に聞こう、と思っていたが、余四郎との顔合わせの後、屋敷から出してもらえぬままに二日が過ぎた。そうして、余四郎が呼んでいるからと言われて、また、父と城へ足を運んだ。着せられた着物は姉ではなく兄のおさがりで、父は仕事だとすぐに伊之助の側を離れたので、心底ほっとした。
向かい合った余四郎は、許しを得て顔を上げた伊之助をまじまじと見た。格好が違うから分からないかもしれぬ、と伊之助は心配したが、いのしゅけか、と聞かれて思わずにこりとしながら、はいと言えば余四郎は、あ、いのしゅけだ、とすぐに得心してくれた。
そこからの、許婚談義である。
伊之助が、寺子屋に行かせてもらえず、使用人の手伝いをしたり、繕い物の練習などというものをさせられている間に、余四郎が調べていてくれたらしい。
真面目に頷いた伊之助に、余四郎も、うんと頷いた。
「うん、そうだ。だからいのしゅけは、しろうとずっといろ」
「はあ……」
と言ってもどうやって、と伊之助が首をひねっていると、余四郎はにこにこと笑った。
「ちちうえが、すこしはやいがしろうもはんこうにかよえばよいというてくれた」
「はんこう?」
「むっつになれば、みないくのであろ?」
「ははあ、なるほど……」
兄の通っている寺子屋のことか、とぴんときた伊之助は曖昧に頷く。兄のいる場所へわざわざ行きたくはない。行きたくはないが、そういう訳にもいかぬのだろうなあ、と考えながら屋敷に戻ると、案の定、父から、明日から藩校へ通うように、と言われた。
そうなることを予想して、帰り際、伊之助は余四郎に、自分のことをいの、と呼んでほしい、とお願いして別れた。いのしゅけ、と余四郎の可愛らしい声で呼ばれると、思わずにこりと笑ってしまうからだ。そんな顔を兄に見られたら、後でどんな目に合うか分からない、と思って。
だが先ほど、いの、と自分を呼んだ余四郎もとても可愛くて、あまり意味はなかったかもしれないとちょっと思った。周りからの視線の鋭さに顔がこわばっていたので助かったが。
そんな訳で、初めて藩校に来た二人は、仲良く並んで座り授業を受けた。渡された教書は、伊之助がこれまで通っていた寺子屋では習っていない漢字や言葉がたくさん並んでいて、共に音読しろと言われても無理だった。
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