余四郎さまの言うことにゃ

かずえ

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「おい」

 呼ばれて伊之助いのすけは、平伏したまま、はい、と返事をする。この、おい、と言うのが自分の名前だと、もっとうんと幼い頃は思っていた。だって、そうとしか呼ばれていなかったから。でもまあ、今はそうでは無いと知っている。
 手習いをしてこい、と五つの頃に放り込まれた市井しせいの寺子屋でそれを知った。まずは自分の名前を書く練習だ、と師範に言われて渡された名前手本が、二文字では無かったのだ。なんと書いてあるのかと聞いてみると、「いのすけ」に決まっているだろう、と師範は答えた。伊之助はびっくり仰天した。それが自分の名前なのか、と何度も聞く伊之助に、自分の名前も知らんのか、と師範が呆れ顔をしたことを覚えている。
 その後は、寺子屋で、師範にも共に学んでいる子どもたちにも「伊之助」と呼んでもらえたので、何とか自分の名前を忘れずに済んだ。伊之助は格好の良い名前が嬉しくて、たくさん書いて練習した。今では、仮名でも漢字でもばっちり書ける。師範や寺子屋の仲間たちに、上手な字だと褒めてもらうことも多いくらいだ。いつまでも自分の名前ばかりを練習するものだから笑われていた。
 良い思い出だ。
 屋敷に戻れば相変わらず、「おい」なのだから。

「お前の嫁ぎ先が決まった」
「はい……はい?」

 伊之助は父の言葉に、いつもの癖で素早く返事をし、けれど言われた言葉の意味が分からずに首を傾げてしまった。
 嫁ぐ、とは嫁に行くことではなかっただろうか。それは、女の人が男の人の元へ嫁に行くことを意味していたように思う。だとしたら、無理である。女のような顔だのちびだのと寺子屋の仲間や屋敷の者、兄や姉にからかわれているとはいえ、伊之助には生まれつきの男としての印が体に付いていた。れっきとした男なのだ。

「顔合わせは、三日の後だ」

 だが、聞き間違いではなかったらしい。名家の当主である父は、淡々と話を進めていった。まだ八つである伊之助には、言葉の意味も分かっていないと思われているのだろうか。屋敷で学ぶ兄や姉たちほどではなくとも、寺子屋で学んでいる伊之助にだって、分かることは多いのだが。下世話な話なら、お上品な教育しかされていない兄や姉たちより伊之助の方が知っているかもしれない。町の人たちは、あけっぴろげで、何かを隠して遠回しに言うようなことはしないのだから。

「三日の間に、身なりを整えておくように」

 もう、伊之助への伝達は済んだのか、父の後の言葉は、部屋の隅に控える女中へと向けられていた。訳が分からない。しかし、許可もなく顔を上げるわけにも、はい、以外の返事をするわけにもいかず、伊之助は途方にくれた。
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