【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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291 ◇ないです、何も

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 担当者が、あ、あ、ええっと、と意味をなさない言葉を吐く。一太は、とても冷静に見えた。少し笑顔まで浮かべて、声も普通だ。普通。そう、とても普通に見えた。
 でも。
 晃は、躊躇いなくその体を抱きしめる。前から。ベッドと一太の間に入って。
 あの、一太を刺すナイフのような女から一太を守らなくてはならない。こんなに危険なこの女に一太を近付けようとする訳の分からない男から、一太を守らなくてはならない。

「うちの子に、なんて言いぐさだ!」

 隣へ立った父が、大きな声を上げた。扉を閉めた個室とはいえ、病院で。
 ベッドの女が、辛そうに顔を歪める。目に涙をためてそうしていると、守ってやらなければいけない生き物のように見えた。

「お静かに! 病院ですよ」
「ええ、分かっています。すみませんね。この方のあまりの酷い言葉に、冷静さを失いました」
「…………」

 看護士は、父の言葉にうろ、と視線をさ迷わせた。
 晃は、一太を少し持ち上げて、部屋の隅に移動する。
 ずたずたと、一声ごとに一太の精神を削っていくとんでもない生き物から、一太を遠ざけなくてはならない、と思ったのだ。一太は、なんの抵抗もしなかった。……しがみつきもしなかった。

「息子さんのお名前を、この方は仰っておられなかったのですか。今日、この時まで?」
「え、ええ。はい。息子に会いたい、とだけ……」

 看護士が言う。

「ああ。では、わざとですか」
「え?」
「この方は、わざと名前を言わずに、うちの一太を呼んだんですね」
「え……」

 看護士が絶句している。

「ストレスのはけ口を求めて呼んだのかな。息子を呼べと言って、もし来たなら、お前なんて息子じゃないと言って言って言って、絶望に歪む顔を見て胸を晴らしたかった? 私には全く理解できませんが、世の中には立場の弱い人間にそうした態度をとる方がいらっしゃることは知っています。目の前でまともに見たのは、初めてでしたが……」

 父は、そこで一度深呼吸した。こんなに怒っている姿を見たのは初めてだった。声を荒げないように、必死に自分を抑えている。晃は今まで、父のそんな姿を見たことはなかった。
 父も、こんな風に怒ることがあるのだと驚きながら、晃は、自分の内に渦巻く苛立ちをどう表に出したらいいのか分からず、ただ一太を抱きしめた。
 晃は、色んなことを諦めながら生きてきたから、物心ついて少ししてからは感情を酷く昂らせたことはない。苛立つことや納得のいかないことがあっても、仕方ない、と諦めて飲み込んで生きてきた。けれど、今、自分も怒鳴れるものなら怒鳴りたい気分でいっぱいだ。大切な、本当に大切な人を、悪意を持って傷付けられた。それが許せなかった。

「なんて醜悪で気持ちの悪いことだ! 一太はもうとっくにうちの子ですから、二度と呼びつけないで頂きたい。鈴木さん、よろしいか!」
「え、あ、いや。あの……」
「帰るぞ、晃、一太!」

 父は大きな声で言ってから、また深呼吸をした。晃と一太の側に近寄って、少し屈む。

「一太。あの女の人に、何か言いたいことはあるか?」

 父が頑張って出した優しい声に、晃の腕の中の一太が静かに顔を動かした。晃は、少し腕の力を緩めて一太が女の方を向く隙間を作った。

「ないです」
「…………」
「ないです、何も」

 いっちゃんも、怒りを表す術をしらないのだろうか。それとも、怒りすらもう湧かないのだろうか。
 その顔は、声は、どこまでも平坦だった。
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