【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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100 すき焼きの思い出

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「今日はね、すき焼きだから本当にすることないのよ」
「すき焼き」

 カウンターになっているキッチンに一太が入り込むと、松島の母が手早く野菜を切りながら言った。

「そう。晃の好物なの。帰って来たら作ってあげようと思ってたんだけど、やっぱり夏の白菜は高いわねえ。あ、そうだ。いっちゃんはすき焼きはどう? 好き? 苦手な物とかあったりする?」
「あの、食べられれば何でも……」
「そう。なら良かった」

 この会話は、松島ともしたことがあるな、と一太は思った。食べ物の好き嫌いを聞かれたのは生まれて初めてだったから、とてもよく覚えている。好きも嫌いも言っていられなかった一太の好きなものは、本当は、少量で腹がふくれて傷みにくいもの、なのだが、そんな事を聞かれているのではないことくらいは分かっている。苦肉の策が、食べられれば何でも、という答えなのだ。

「いっちゃんは甘いもの好きだし、お肉も、とろっとした感触のものも好きだから、すき焼きは絶対好きだと思う」

 一太に付いてキッチンにきた松島が母に告げた。今日の病院でもそうだったな、と一太は思う。松島はどうも、一太本人よりも一太のことを知っている可能性が高い。おかしなことだ。
 ふふ、と一太は笑った。

「え? 何?」

 戸惑う松島が更におかしくて、またくすくす笑った。

「俺のこと、俺より知ってる」
「え? 甘いもの好きでしょ?」
「うん。好きかも」
「いや、絶対好きだよ。プリンとかクッキーとかケーキとか、作ってたじゃん」
「あー、うん。あー、好きだね」
「違うの? 味が好きなんじゃないの?」
「んー。味も好き」
「え?」
「あー、うん。その、何か、生きていくのに絶対必要って訳じゃないものを作って食べているっていう贅沢が、嬉しくて。それに晃くんが、作りたいなら作ったらいいって材料買ってくれたのが嬉しくて。だから、作ってた。その、晃くんも喜んで食べてくれるし……」
「あ、うん。美味しかったし」

 一太は、松島が喜んで食べてくれるのが嬉しい、と言ってから気恥しくなって視線を彷徨わせる。松島もつられて照れたようにもごもごと答えた。

「新婚さんの会話?」

 荷物を置いてキッチンを覗きにきた松島の姉、灯里あかりの突っ込みに、二人はますます挙動不審になった。何だ、それ。新婚さんって……。

「灯里、あんたこそ手伝いなさい。あそこの食卓に、ガスコンロ置いて」
「うわ、覗きに来るんじゃなかった」
「いっちゃん。すき焼きはあっちで焼くから、お皿とか卵、運ぼう」

 食卓で焼く、卵を運ぶと言われて不意に一太は思い出す。
 すき焼き。
 弟の父親が好きだった鍋か。
 彼が家を出ていくまでの間、給料日には必ず机の上にガスコンロを出して準備がされていた。一太が一緒に食べたことはもちろん無い。キッチンで完成しないのでおこぼれがなく、夜ご飯抜きが決定されている日だった。
 すき焼きか……。
 その日は、三人が仲良く肉を焼いている音や話し声がよく聞こえてきた。
 食べられるものなら何でも好きだと言ったけれど、その料理を食べられるだろうか、と少しだけ一太は不安になった。
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