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84 想像力が足りない
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「い、いやいやいや。無理でしょ。まだ十六歳で、そんな、一人で。施設でも十八歳までは置いてもらえる、の、に……」
椛田は、一太の言葉に普通に返事をしようとして、一太の無表情に気付いた。語尾が心許なく揺れる。
「置いて欲しかったです。施設に」
「あ、う、き、君は、随分と薄情……」
「牧谷さん。こちらが、村瀬一太くんが先日、栄養失調で入院した際の診断書です。ネグレクトの痕跡がはっきりと分かるものとなっておりますので、彼が希望する、血縁との縁切り申請の書類として提出したく存じます」
松島の父は、椛田の暴言を遮るように口を開いた。今、何とも感じていなくとも、ボディブローのように効いてくる言葉というものがある。これ以上は許せない。
「診断書……。分かった。受理しよう。必ずきちんと処理することを誓う。だから、訴えるようなことは……」
「ありがとうございます。こちらには、いつでもそうできる準備がありますので、これからの発言には細心の注意を払って頂きたい」
「ええ、ええ、もちろんです。村瀬さん、これまですまなかった。こちらの手落ちだ、申し訳ない」
「ま、牧谷さん?」
「椛田くん。君も謝りたまえ」
「し、しかし……」
椛田は、全く腑に落ちていない様子で視線をさ迷わせた。一太の、弟に対する感情が理解できない、とでも言いたげな顔で。
「椛田さん。あなたは二十歳の頃、何をしていらっしゃいましたか?」
松島の父が唐突に言った。穏やかな顔付きは変わらないのに、ぞっとするほど目つきが鋭い。
「え? は、二十歳? 普通に、大学に……」
「普通に、ね。では、想像してほしい」
「は?」
「その年に突然、親が全財産を持ち逃げして失踪したので、弟を引き取って育ててください、と電話がくる。さて、君の答えは?」
「いや、そんな、こと、突然言われ、て、も……」
「ふむ。だが弟さんはお兄さんと暮らしたいと希望している。願いを叶えてやってはくれまいか?」
「ぼ、僕には弟はいません!」
「では、妹? それとも、父親の隠し子が出てきたことにしようか。血縁だ。見知らぬ子どもだが、戸籍上は家族だ。相手は君のことを知っていて、共に暮らしたいと願っている、さて?」
「そ、そんなことは起こらなかった」
「もしもの話をしているんだよ。自分ならどうするかという話だ。私なら、引き取るのは無理だと断る。何故なら大学生で収入がない。親が金を持って消えたなら、大学に払うお金も無くなったということだから、大学は休学か退学かしなくてはいけないだろう。奨学金を借りていたなら、借金を背負って大学中退という最悪のスタートだ。まずは自分の生きる術を探さなくてはいけない。そんな所に、更にもう一人の人間の人生など背負えないからね。実際問題、無理だ。人の情でどうにかなる話ではないね」
「う、あ……ああ」
「牧谷さんなら如何です? できますか?」
「いや。二人で不幸になることはない。弟だけでも幸せに暮らしてほしいから、施設へ行ってもらうことを選択するだろう」
「お優しい。私は理性で無理だと考えましたが、あなたは情の上でも、弟のために共に暮らさない道を選ばれるのですね」
「いや……。私たちが、村瀬さんに如何にとんでもない提案をしていたのかを思い知らされたよ。誠に、申し訳なかった」
「椛田さんは如何です?」
それでもまだ、椛田はぶつぶつ言った。
「でも、その時の弟さんの気持ちは……」
「兄の気持ちにはなれない? では、あなたは弟の方だと仮定しましょうか。何故あなたは、その弟は、施設へ行かずに兄と暮らすことを望むのですか?」
「それは! 家族と居たいから」
椛田は、ここぞと声を張り上げる。家族は共に暮らすべきだ、という考えに囚われているのは、この仕事をするに当たっての教育の賜物なのか、本人の持論なのか。後者だとしたら、余程、家族仲の良い幸せな家庭に育ったのだろう。
「施設にいれば、衣食住の心配もなく、高校にも通えて、仕事の斡旋もしてもらえる。問題を起こさなければ、十八歳までは面倒を見てもらえます。一方、兄と暮らせば、常にお金がなくて高校へ通えるかも危うい上に、衣食住も足りない生活になるかもしれない。なのに何故、兄と暮らしたいと言い募るのですか?ものの分からぬ幼子ではありませんよね? 十六歳ですよね?」
椛田は、え? と間抜けに口を開けた。
何で施設へ行かないか。一太には分かる。弟のことを知っているから。我儘で我慢のきかない性格を知っているから。
弟はきっと、今まで通りに一太をこきつかって、一生一太に寄生して、遊んで暮らしたいんだろう。
弟の演技に騙された椛田には、絶対に分かるまい、と彼の答えの行き着く先を見守った。
椛田は、一太の言葉に普通に返事をしようとして、一太の無表情に気付いた。語尾が心許なく揺れる。
「置いて欲しかったです。施設に」
「あ、う、き、君は、随分と薄情……」
「牧谷さん。こちらが、村瀬一太くんが先日、栄養失調で入院した際の診断書です。ネグレクトの痕跡がはっきりと分かるものとなっておりますので、彼が希望する、血縁との縁切り申請の書類として提出したく存じます」
松島の父は、椛田の暴言を遮るように口を開いた。今、何とも感じていなくとも、ボディブローのように効いてくる言葉というものがある。これ以上は許せない。
「診断書……。分かった。受理しよう。必ずきちんと処理することを誓う。だから、訴えるようなことは……」
「ありがとうございます。こちらには、いつでもそうできる準備がありますので、これからの発言には細心の注意を払って頂きたい」
「ええ、ええ、もちろんです。村瀬さん、これまですまなかった。こちらの手落ちだ、申し訳ない」
「ま、牧谷さん?」
「椛田くん。君も謝りたまえ」
「し、しかし……」
椛田は、全く腑に落ちていない様子で視線をさ迷わせた。一太の、弟に対する感情が理解できない、とでも言いたげな顔で。
「椛田さん。あなたは二十歳の頃、何をしていらっしゃいましたか?」
松島の父が唐突に言った。穏やかな顔付きは変わらないのに、ぞっとするほど目つきが鋭い。
「え? は、二十歳? 普通に、大学に……」
「普通に、ね。では、想像してほしい」
「は?」
「その年に突然、親が全財産を持ち逃げして失踪したので、弟を引き取って育ててください、と電話がくる。さて、君の答えは?」
「いや、そんな、こと、突然言われ、て、も……」
「ふむ。だが弟さんはお兄さんと暮らしたいと希望している。願いを叶えてやってはくれまいか?」
「ぼ、僕には弟はいません!」
「では、妹? それとも、父親の隠し子が出てきたことにしようか。血縁だ。見知らぬ子どもだが、戸籍上は家族だ。相手は君のことを知っていて、共に暮らしたいと願っている、さて?」
「そ、そんなことは起こらなかった」
「もしもの話をしているんだよ。自分ならどうするかという話だ。私なら、引き取るのは無理だと断る。何故なら大学生で収入がない。親が金を持って消えたなら、大学に払うお金も無くなったということだから、大学は休学か退学かしなくてはいけないだろう。奨学金を借りていたなら、借金を背負って大学中退という最悪のスタートだ。まずは自分の生きる術を探さなくてはいけない。そんな所に、更にもう一人の人間の人生など背負えないからね。実際問題、無理だ。人の情でどうにかなる話ではないね」
「う、あ……ああ」
「牧谷さんなら如何です? できますか?」
「いや。二人で不幸になることはない。弟だけでも幸せに暮らしてほしいから、施設へ行ってもらうことを選択するだろう」
「お優しい。私は理性で無理だと考えましたが、あなたは情の上でも、弟のために共に暮らさない道を選ばれるのですね」
「いや……。私たちが、村瀬さんに如何にとんでもない提案をしていたのかを思い知らされたよ。誠に、申し訳なかった」
「椛田さんは如何です?」
それでもまだ、椛田はぶつぶつ言った。
「でも、その時の弟さんの気持ちは……」
「兄の気持ちにはなれない? では、あなたは弟の方だと仮定しましょうか。何故あなたは、その弟は、施設へ行かずに兄と暮らすことを望むのですか?」
「それは! 家族と居たいから」
椛田は、ここぞと声を張り上げる。家族は共に暮らすべきだ、という考えに囚われているのは、この仕事をするに当たっての教育の賜物なのか、本人の持論なのか。後者だとしたら、余程、家族仲の良い幸せな家庭に育ったのだろう。
「施設にいれば、衣食住の心配もなく、高校にも通えて、仕事の斡旋もしてもらえる。問題を起こさなければ、十八歳までは面倒を見てもらえます。一方、兄と暮らせば、常にお金がなくて高校へ通えるかも危うい上に、衣食住も足りない生活になるかもしれない。なのに何故、兄と暮らしたいと言い募るのですか?ものの分からぬ幼子ではありませんよね? 十六歳ですよね?」
椛田は、え? と間抜けに口を開けた。
何で施設へ行かないか。一太には分かる。弟のことを知っているから。我儘で我慢のきかない性格を知っているから。
弟はきっと、今まで通りに一太をこきつかって、一生一太に寄生して、遊んで暮らしたいんだろう。
弟の演技に騙された椛田には、絶対に分かるまい、と彼の答えの行き着く先を見守った。
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