46 / 397
46 無駄ではなかった
しおりを挟む
「トイレ行ってから、顔を洗ってくる。タオル、ありがとう」
とにかく汗が気持ち悪い。顔だけでも洗いたいと、一太はスリッパに足を入れて立ち上がる。点滴はまだ繋がっているので、これを付けたまま歩かなければならないようだ。恐る恐る引っ張って歩く。何とかなりそう。
だから、振り返って言う。
「一人で行けるよ?」
「そう?」
それでも付いてくる松島に、一太は何だか笑ってしまった。今だけ。今だけでいい。この幸せな気持ちを大事にしよう。
顔を洗ってさっぱりした後は、タオルを濡らして首もとや胸の辺りも拭く。
待っていた松島が、汗で濡れた背中を見て、
「やっぱりパジャマがいるなあ」
と、呟いたのが聞こえた。
「そのうち乾くから大丈夫。さっきは、夜に寝るときの服なんて持って無い、どうしようって思ってしまったけど、半袖のシャツでも良かったなあ。ほんと駄目だな、俺」
「入院の荷物は任せて、とか言いながら半袖シャツを持ってこなかった僕も失敗だったなあ」
二人でベッドへ戻ると、松島の父が椅子に座って待っていた。ペットボトルのお茶をごくごく飲んでいる。
「あ」
松島が一人で荷物を持ってきてくれたから、お父さんはもう家に帰ったのかと思っていた。
「ああ、村瀬くん。まずは謝らなければならない」
一太が口を開く前に、松島の父が立ち上がって頭を下げた。
「え?」
「君の住んでいたアパートは、取り壊しが決定した。あそこは倒壊の危険があるから人は住めない。不動産屋はそれを分かっていて君に貸していた」
「はい……」
一太も知っていた。取り壊しの予定がある建物だと知っていて、それでも借りていたのだ。それだけ安かったから。そこ以外に、今の一太が借りられる金額の部屋は無かった。だから、敷地内で騒がれても通報できなかった。
「あんな危険な場所に人を住まわせるなんて許せなくてね。命の危険があるというのに、金を取って、子どもを一人で置いておくなんて! しかも、室内の環境もかなり劣悪だった」
子ども、と言われて、そこは訂正しなくてはいけない、と口を挟む。
「あの、俺、もう成人してます……」
「ん? そうなのか?」
「二十歳になりました。だから、年金の支払いの用紙も届いていて。でもまだ払えてなくて」
「年金は、学生の間は免除措置があるはずだ。後からお金に余裕ができてから払うこともできるし、後々の受け取りが少なくなっても構わなければ、払わなくてもいい。手続きをしなさい」
「……っ! はいっ」
そうなのか。手続きをしたら学生の間は払わなくても大丈夫なのか。束で届いた支払い書にぞっとして、金の工面をどうつけようかとばかり考えていた。普段の一太なら、しっかりと中の書類を読み込んでいただろうに、やはり頭がうまく回っていなかったのだ。
ああ。良かった。一つ懸念が解決した。……学生でいられるのが、あとほんの少しだとしても。
「まあ、つまりだ。私は君の住む場所を失くしてしまった」
「はい」
先ほどからの話しぶりを聞くに、松島の父は、一太の身を案じてくれたのだろう。不動産屋に話をしに行ったのか。警察に通報したのか。松島の父は、取り壊しが決定した、と言った。一太が寝ていた午後の数時間で、もう決定してしまっているのだ。とても行動力のある方だな、と感心してしまう。
「とりあえず、君が退院して荷物を片付けるまで部屋の鍵は預かっている。だから荷物の心配はしなくていい。だが、退院した後の行き先が無くなってしまったことについては、非常に申し訳なく思う」
「…………大丈夫です。ありがとう、ございます」
来年の学費にと思って置いておいたお金を使えば、借りられる部屋はあるだろう。部屋を借りて、仕事を見つけて、ただ毎日を暮らしていこう。いい夢を見た。たった半年だけれど、学校に通えて楽しかった。
晃くんに会えて、嬉しかった。
「いっちゃん、あの、あのね」
「晃くん、晃くんのお父さん。本当に、ありがとうございました」
だから、一太はにっこり笑って、もう一度お礼だけを言った。
とにかく汗が気持ち悪い。顔だけでも洗いたいと、一太はスリッパに足を入れて立ち上がる。点滴はまだ繋がっているので、これを付けたまま歩かなければならないようだ。恐る恐る引っ張って歩く。何とかなりそう。
だから、振り返って言う。
「一人で行けるよ?」
「そう?」
それでも付いてくる松島に、一太は何だか笑ってしまった。今だけ。今だけでいい。この幸せな気持ちを大事にしよう。
顔を洗ってさっぱりした後は、タオルを濡らして首もとや胸の辺りも拭く。
待っていた松島が、汗で濡れた背中を見て、
「やっぱりパジャマがいるなあ」
と、呟いたのが聞こえた。
「そのうち乾くから大丈夫。さっきは、夜に寝るときの服なんて持って無い、どうしようって思ってしまったけど、半袖のシャツでも良かったなあ。ほんと駄目だな、俺」
「入院の荷物は任せて、とか言いながら半袖シャツを持ってこなかった僕も失敗だったなあ」
二人でベッドへ戻ると、松島の父が椅子に座って待っていた。ペットボトルのお茶をごくごく飲んでいる。
「あ」
松島が一人で荷物を持ってきてくれたから、お父さんはもう家に帰ったのかと思っていた。
「ああ、村瀬くん。まずは謝らなければならない」
一太が口を開く前に、松島の父が立ち上がって頭を下げた。
「え?」
「君の住んでいたアパートは、取り壊しが決定した。あそこは倒壊の危険があるから人は住めない。不動産屋はそれを分かっていて君に貸していた」
「はい……」
一太も知っていた。取り壊しの予定がある建物だと知っていて、それでも借りていたのだ。それだけ安かったから。そこ以外に、今の一太が借りられる金額の部屋は無かった。だから、敷地内で騒がれても通報できなかった。
「あんな危険な場所に人を住まわせるなんて許せなくてね。命の危険があるというのに、金を取って、子どもを一人で置いておくなんて! しかも、室内の環境もかなり劣悪だった」
子ども、と言われて、そこは訂正しなくてはいけない、と口を挟む。
「あの、俺、もう成人してます……」
「ん? そうなのか?」
「二十歳になりました。だから、年金の支払いの用紙も届いていて。でもまだ払えてなくて」
「年金は、学生の間は免除措置があるはずだ。後からお金に余裕ができてから払うこともできるし、後々の受け取りが少なくなっても構わなければ、払わなくてもいい。手続きをしなさい」
「……っ! はいっ」
そうなのか。手続きをしたら学生の間は払わなくても大丈夫なのか。束で届いた支払い書にぞっとして、金の工面をどうつけようかとばかり考えていた。普段の一太なら、しっかりと中の書類を読み込んでいただろうに、やはり頭がうまく回っていなかったのだ。
ああ。良かった。一つ懸念が解決した。……学生でいられるのが、あとほんの少しだとしても。
「まあ、つまりだ。私は君の住む場所を失くしてしまった」
「はい」
先ほどからの話しぶりを聞くに、松島の父は、一太の身を案じてくれたのだろう。不動産屋に話をしに行ったのか。警察に通報したのか。松島の父は、取り壊しが決定した、と言った。一太が寝ていた午後の数時間で、もう決定してしまっているのだ。とても行動力のある方だな、と感心してしまう。
「とりあえず、君が退院して荷物を片付けるまで部屋の鍵は預かっている。だから荷物の心配はしなくていい。だが、退院した後の行き先が無くなってしまったことについては、非常に申し訳なく思う」
「…………大丈夫です。ありがとう、ございます」
来年の学費にと思って置いておいたお金を使えば、借りられる部屋はあるだろう。部屋を借りて、仕事を見つけて、ただ毎日を暮らしていこう。いい夢を見た。たった半年だけれど、学校に通えて楽しかった。
晃くんに会えて、嬉しかった。
「いっちゃん、あの、あのね」
「晃くん、晃くんのお父さん。本当に、ありがとうございました」
だから、一太はにっこり笑って、もう一度お礼だけを言った。
応援ありがとうございます!
79
お気に入りに追加
1,489
1 / 2
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる