【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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29 その呼び名は特別なもの

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「一太くん。一太くん……。いっちゃん」

 いっちゃん。
 それは、一太がお世話をしてもらって暮らしていた頃の呼び名だ。職員……先生たちは皆優しくて、ご飯はいつもたっぷり時間通りに出てきた。甘えたい時には抱きしめてくれる職員もいた。洋服も、誰かのお古だけれどその時の一太に丁度よいサイズだった。いつもきちんと洗濯されて自分のタンスに入っていたし、特別なお出かけの日や参観日のためにほとんど新品の綺麗な洋服も一着ずつ準備されていた。一台だけだけれどゲーム機もあって、皆で順番に使って遊んでいた。
 生まれてすぐに預けられて父や母を知らなかった一太は、何故、養護施設の仲間たちが捨てていった父や母を求めて泣くのかさっぱり分からなかった。
 一太には、養護施設で暮らすことが普通だったし、なんの不満も無かった。
 
「いっちゃん」

 もう一度呼ばれて、はっと顔を上げる。食堂の机に座ったままうとうととしていたようだ。食べ終えた食器が片付けられて、松島が心配そうな顔で一太を覗きこんでいる。

「起こしてごめんね。食堂はもう閉まるから、出ようか」
「あ、ごめん……。食器……」
「片付けておいたよ。立てる?」
「ごめん、ありがと……」

 慌てて立ち上がると、くらりと目眩がした。

「寝不足?  バイト?」
「あ、いや、バイトは十一時には上がってる。その、うん。寝不足……」
「暑いもんねえ。冷房苦手?」

 支えてくれる手に甘えながら、とりあえず食堂を出た。やはり、外は暑い。

「あー、うん。ううん。別にちょっと暑いくらいなら寝れる。寒い方が苦手……」
「そう?」
「その……。何日か前から、バイクの集団が俺の住んでるとこを溜まり場にし始めて。うるさくて」
「え?」

 少し迷った後で口にしてみると、松島がひどく驚いている。治安の良い街だから縁がなかっただろう。一太も、四月に住み始めてから五ヶ月、特に困ったこともなく過ごしていた。夜にバイトを終えて帰るときも、危ない思いをしたことはない。
 夏休みの解放感で、少しだけ遅い時間まで遊んでしまっている子ども達がいるのだろう。数台のバイクの音と賑やかな話し声、眩しいライトの光が明け方まで一太の住むアパートの敷地内で響いており、その場所をすっかり気に入ってしまったようだった。

「いっちゃんは、アパートに住んでる?」
「いっちゃん……」

 またそう呼ばれて、思わず呟いてしまう。

「あ、ごめん。一太くん、より言いやすいからつい。嫌だった?」
「ううん」

 慌てて首を横に振れば、良かった、と笑顔を返される。むしろ嬉しい、とは言えなくて、会話の続きを繋げることにした。

「えーと、アパート。うん、アパートだよ」
「誰も通報しないの?」
「誰もって?」
「他の住人」
「あ、いない」
「え?」
「俺だけが住んでて、その、誰も住んでないと思われてるみたいで……」
「ええ?」

 通報か。
 その言葉に思い出す。
 住むところを探している時に言われたのは、このアパートは本当はもうガタがきていて取り壊さなくてはいけない建物だけれど、すぐに壊す金が無いから家主さんが放置しているということ。放置しているだけでも金がかかるし、近隣から早く取り壊せとせっつかれる。誰かが住んでいれば、いきなり取り壊せとは言われないから、住んでくれるなら格安でいい、ということだった。その値段で借りられる部屋なんて他には無く、とにかく雨風凌げたら上等だと喜んで契約した。二年間、何とかそこで暮らしたい。
 下手に通報して、アパートが人の住む基準を満たしていないことがバレたら、警察から追い出されてしまうかもしれない。追い出されて困るのは一太だった。

「もう少ししたら、夏休みが終わっていなくなるかも?」

 賑やかな会話を聞くに高校生くらいの集まりだ。夏休みは八月の末までだろう。
 松島は、納得いかない様子で眉をきゅと寄せたが、とりあえず一太の家を教えろ、と言った。

「そんなフラフラじゃ心配だし、家まで送るよ」

 一太がうん、と頷いてしまったのは、頭が半分寝ていたからだろう。風呂もない壊れかけの家は普通ではない。
 半分寝ていたのでもなければ、普通ではない、と思われることをなるべく隠してきた一太が、その提案に頷くことなんてなかった筈だから。
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