【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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2 思い返してみれば、最初の一歩

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「あれ? 村瀬くん。どうしたの?」 

 扉はあっさり開いて、松島は驚いた声を上げながらも、ピアノ室の中に入れてくれた。

「あ、あの。その」

 ここまでは、とにかくピアノの練習がしたい、しなくては、とそればかり考えていたので、その勢いのまま押し掛けてしまったが、よくよく考えたら、松島の練習時間を今この瞬間にも奪ってしまっている。彼だって、練習するためにこの部屋をわざわざ借りたのに、とんでもない迷惑をかけてしまった、と今更ながら気付いてしまったのだ。

「ん?」

 屈んで目線を合わせてくれる顔に、苛立ちは見当たらないけれど。

「い、一緒に」
「うん」
「ピアノ、練習、してほしぃ……」

 最後の方は申し訳なくてうつ向いてしまったが、ここまで来たら今更だと言い切った。
 ぽんぽん、と優しく両肩に手が置かれる。

「いいよ」

 顔を上げると、嬉しそうににこにこと笑う顔が目の前にあった。

「わ」
「テスト、近いもんね。一緒にやろう」

 顔の近さに驚いた一太を気にした風もなく、松島は一太の手を引いてピアノの前に歩く。

「い、いいのか」
「もちろん」
「お前の練習時間が減っちゃうだろ」
「一人でやってたら同じ間違いを繰り返しちゃうことあるけど、誰かに教えてもらうとすぐできたりするから、たまにはいいと思うよ?」

 確かに、と一太は共感して頷いた。
 一太には、音符を見てもどんな曲かを想像することが難しい。先生が弾いた手本のメロディーを覚えて、それをなぞるように弾く。途中で苦手な箇所があっても、初めから弾いていないとメロディーが分からなかったりするから、何回も同じ場所でミスをするのだ。
 有り難く使わせてもらうことにして、いそいそと破れかけの鞄を開いた。

「あ。教科書ならここに」

 松島が言いたいことは分かっている。もう、ピアノの前に課題の載っている教科書は置いてあるのだ。しかし、あの教科書を借りても一太には弾けない。昨日、課題曲が発表されてすぐに全ての音階をカタカナで書き込んだ特別な教科書でないと。
 真っ黒な一太の教科書を見て松島は口を閉じ、そっと自分の教科書を避けてくれた。

「ありがと……」

 申し訳ないと思いつつ、椅子に座ってまずは右手を練習し始める。いきなり両手で弾くなんて無理なので、片手ずつ覚えて、どちらかを考えなくても弾けるようにしてから、もう片方のことだけを考えて弾かなくちゃならない。確かこんなメロディーだったな、と思い出しながら、つっかえ、つっかえ、弾いていった。

「ピアノ、習ったことない?」

 しばらくして聞こえた松島の声に、あっと顔を上げた。自分ばかり練習していては、松島の練習ができない。今ここは、松島が借りた練習室なのに。

「ご、ごめん。俺ばっかり」
「いや、それはいいんだ。あのさ、指の形なんだけど」

 謝った一太に松島は、そうじゃない、と手を振った。

「指をこう、立てて、指先で鍵盤を叩くようにすると動きやすいんだ。指を寝かせていると大きな音が出にくいし、動きにくいから、こうして弾くといいよ」

 そう言いながら、鍵盤の上に指を置き、流れるように課題曲の右手を弾いていく。手元はほとんど見ずに、教科書の音符と一太の顔を見ながら。
 ああ、弾ける人なのか、と一太はその様子を見て少しほっとした。それなら、練習時間を奪った罪悪感を深く抱かずにすむ。これが原因で松島のテストに影響が出たら申し訳ないと思っていたから、助かった。

「ね? やってみて?」
「あ、うん」

 言われた通りに指を立ててみると、確かに動かしやすいがその形を保つのが大変で指がつりそうである。爪が少し伸びているので、かんと鍵盤に当たって弾きにくい。

「爪はしっかり切っておかないと弾きにくいからね」
「はい」

 自然と丁寧な返事をしていたが、一太は気付いてもおらず、真剣に言われた通りの形を保って右手を動かしていた。何とか最後までたどり着いて、ほっと見上げた先に、優しくこちらを見ている松島が居る。

「動きがよくなったね」
「あ、ありがとう」
「もう一回。僕が左手を弾くから右手を弾いてみて」
「はい」

 左隣に腰を下ろした松島に真剣な顔で頷くと、松島がくっくっくっと笑った。

「え、何?」
「ううん。何だか先生になった気分」
「あ、えーと。よろしくお願いします」
「うん。じゃ合わせて。せーの」

 たどたどしい右手の音に、流れるような左手の音が加わると、もう合格できるような見事な曲が出来上がって、一太はただただ感心した。
 入学してすぐにあった初めての課題テストの曲はとても簡単だったらしいが、一人で練習室にこもっても、右手が最後まで弾けるようになるには数日かかった。右利きの一太には、左手で弾くのは難しく更に時間がかかって、最初のお試しのような曲で試験に落ちかけたのだ。
 この後のピアノのテストはどうしたらよいのだろう、と落ち込んでいた一太にとって、希望の光が見えた瞬間だった。


 
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