完璧な薬

秋川真了

文字の大きさ
上 下
2 / 11

林檎が落ちたのは

しおりを挟む
ここは17世紀のヨーロッパのとある国。
月明かりのみに照らされた薄暗い細道に男はうつむき立っていた。
男の右手には安物のウイスキー、左手にはナイフが握られており、もし今人が彼を見かけようものなら腰を抜かしてしまうだろうと推測できる程彼は殺気だっていた。
男はひどく酔っていた。そしてその酔いの原因は失業によるものだった。
男がなぜ失業したのかといえばそれはヨーロッパ全土で猛威を振るう伝染病によるものだった。
伝染病は脅威だった。人々に無差別に感染し、そしてほぼ確実に命を落とす。
そんな伝染病により経済は停滞し貴族などの上流階級を除く一般市民は路頭に迷うこととなった。

最愛の妻が感染症により死に、残された子供たちは失業により養えず、貴族に売り払ってしまった男はこの夜、死ぬつもりであった。左手に握られているナイフで。
しかしどうせ死ぬならと買ったウイスキーによる悪酔いで結局男は自分で死ぬことができず、たたずむことしかできなかった。

そんなことを思い出してしまった男は自己嫌悪に陥り走り出した。
もともとその日を生き抜くので精一杯だった稼ぎは伝染病で水の疱となった。
家族に恐ろしく苦しい生活を強い、そして自分は死んで詫びることすらできない。
自然と視界は涙で歪んだ。
それでも男は走るのを止めなかった。
息することすら困難になり、栄養をまともに吸収していない男の体は徐々に感覚を失ってきた。
それでも男は走るのを止めなかった。
それが家族に自分ができる唯一の償いであると男は思ったから。

太陽の暖かい日差しで男は目を覚ました。
どうやら走る途中で気を失ってしまったらしく、酔いも覚めていた男は急激に疲労と空腹を感じた。
ふと、顔を上げると男の前には壁がそびえていた。
それは家を囲む塀であり、
その塀からは林檎の木が半分ほど顔をのぞかせていた。
男は声にもならない声をあげた。
男や家族が腹をすかせ、喉から手がでるほど欲しい食べ物が、林檎が大量に熟している。
男は全身に力を入れ立ち上がり、視界に入った石を掴んだ。
そしてその石を怒りに身を任せるように投げた。
貧しさに苦しむ男を見下ろし、まるで嘲笑するかのような林檎の木に向かって。
石が林檎の木にぶつかりガサリという音をたてたのと共に男は倒れ息絶えた。
男の死に顔は浮かばれなかった。


その音を聞いたのは若者が読書にふけっていたときだった。
ガサリ、と自分が日陰として使っていた木が突然少し揺れたのだ。
何事かと思い若者は顔をしかめる。
すると揺れの影響からか林檎が一つ若者の目の前に落ちた。
何だ、と思い若者が再び読書をしようとしたその時だった。
若者の頭の中で何かが弾け、とある理論が頭の中に生まれた。
若者の顔は幸せに満ちていた。

若者が考案した理論は現代でも確かに引き継がれている。
しかし、彼がその考えに至ったのは、
そもそも林檎が落ちたのは、
もしかすればこういう犠牲の上に生まれたのかもしれない。





しおりを挟む

処理中です...