ロストパートナーズ

篠宮璃紅

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第5話「望ミハタダヒトツ」

2.交渉

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頬に熱を感じた。

うっすらと目を開けると、睫毛が何かで固まっているようで動きが鈍い。夢を見た後によくこうなることがある。泣いていたんだろう。あんなにも平和で、懐かしい夢を見ていたのに。

ずっと見ていたかった。瞳の裏にいつまでも映していたかった。あんな夢ばかりならいいのに。

また眠れば、あの夢の続きが見られるのか。起きてはいけない気がした。


「気分はどうだい」

「…………最悪」


カツカツと、硬い床を歩く靴音。邪魔をされた。最低の気分。

聞き慣れない声だ。警戒しないわけにはいかない。固まった睫毛などお構いなしにこじ開け、声の主の姿を確認する。

男。歳はそう離れていないように見える。20代前半ほどの華奢な体格の男だった。こんな知り合いはいない。利紅や真樹のように、夢の中では出会っているのかもしれないが、私にはわからない。きっと知っていたとしても、ユウが覚えていないのなら知り様がない。


「本当は素敵なベッドでも用意できればよかったんだけど」


男は足でガラスの破片やコンクリートの小さな瓦礫を端に寄せながら近づいてくる。様々な足音が混じっている。そんな床に座らされているようだ。手に伝わる冷たさ。足裏に感じる硬さは人工物のものだった。確かに何か敷くものでもあれば体の冷えもましだったかもしれないが、何故こんな場所に。

考えようとした。浮かんだものが泡のように弾ける感覚。思考が纏まらない。

知っている感覚だ。夢で散々味わった。


「幸せな夢だった。ずっと、あんな夢ならよかったのに」


もう夢の内容も薄れてきている。幸せだったはずだ。確か、そうだったはず。


「水道が通っていれば綺麗にできたんだけどね。ダメだったからそのままにしてしまったよ。着替えさせるわけにもいかなかったし」


聞いているのかいないのか。男はマイペースに話を続ける。

汚れている。実感がなかった。全身が軋んでいるような感覚。何かに塗りつぶされ固まったような。鼻を衝く臭いもした。

知らないはずで、知っている臭いだった。乾いた何かで塞がった手。その何かは確認するまでもなかった。寧ろ、今思い浮かべているもの以外であった方が驚いてしまうかもしれない。

血。鮮やかさを失い、黒く固まった、血。私のものじゃない。どこにも痛みなんてない。知らない痛みから零れ出た血だ。


「真樹は無事だよ。今のところは。救急車を呼んでおいたから、命の心配はいらない」


そう、真樹、真樹だ。

暖かかった。和泉悠の手では初めて味わった感覚。

刺した。許されるはずがないのに、何故か解放感があった。

煩わしかった。あんなに親身になってくれていたのに。


「キミはまだ誰も殺していない」


男が囁いた。

違う。殺したも同然だ。

傷つけてしまった。ただ助けてくれようとしていた彼を。

真樹個人をどうにかしたかったわけでもない。誰でもよかった。熱を感じられれば、肉を裂く快感が得られるなら。暗かったから、赤が良く見えなかった。

掌の赤。こんな薄汚れた黒が混じった赤は綺麗じゃない。もっと赤いのが欲しかったのに。


「交渉しよう」


声が鋭く聞こえた。気が付けば目の前にいて、こちらをじっと見つめている。

こいつはどうしてここにいる。誰だ。交渉とは何のことだ。


「なに、簡単だよ。キミの願いをボクが叶える。ね?」


願いを、叶える。私の願い……

今何かを欲していた気がする。欲しい気持ちだけしか残っていない。


「ボクにはキミを救う力がある」


救う?何から?

救いなんて求めていない。だけど、何が欲しいのかもわからない。


「ボクは天使だ。この命を消費することで人の願いを叶えることができる。キミもよく知っているはずだよ」


知らない。天使。願い。さっぱりだ。

それよりも私が欲しかったのもがわからない。床を探っても、視界で探しても見つからない。

立とう。探さなきゃ。欲しいもの、自分で。

肩を抑えられた。どうして、そんなことを。


「そのためにここにいる。キミに、この命を使ってもらうために」


言ってる意味が分からない。離して。探さなきゃ。


「ボクならキミが望めば全てをなかったことにもできる。キミの過ちも、夢も、記憶も全部」


なかったことになんてしたくない。これ以上忘れたくない。

ここがどこで、どうしてここにいて、引き留められるのか。それもわからないのに、これ以上なかったことになんてできない。したくない。


「忘れてしまえばいい。そうすればもう苦しむことはないし、煩わしいこともない」

「そ、れは…………」


苦しい。でも忘れたくない。忘れられたくない。苦しいのも嫌だ。

どうしてそう思うの。苦しいって。わからないことだらけ。涙が止まらない。

落ちる雫を追った。冷たい床と、汚れた手。赤い服。こんな服着てたっけ。


「早くしないと、手遅れになってしまうよ?」


もう全部手遅れ。そんな気がした。もう遅すぎる。この汚れた手がその証拠。

見たくないはずなのに、目が離せない。頭が動かない。張り付いたよう。思考もぐちゃぐちゃだ。

一つ考えれば、一つ消える。ならいっそ全て消えてしまえ。忘れさせろ。

男はどうしろと言った。天使、天使の命。それを使う。

誰の、いのち?


「ほら」


手が伸びてきた。頬をかすめるように、髪に触れるように。身構えた。しかし感触は全く知らない場所から伝わった。

背中に感じる。男の手は真っ直ぐ伸びている。そんなはずはない。

目で追った。感覚の先を確認しようとして、視界が遮られた。


「白い、羽根……」


頭の上から降って来たそれは、絵に描いたような天使の羽根だった。


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