ロストパートナーズ

篠宮璃紅

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第5話「望ミハタダヒトツ」

1.秘めた想い

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夢ならよかった。夢であってほしかった。
幸せな夢が良かった。悪夢みたいな現実から逃げたかった。
夢のような感覚なのに、そうじゃない。
わからない。全部。怖い。
お願いだから、みんな、どうか。どうか。




僕を忘れないで。






雲一つない晴天。大空を翔る鳥。視線を落とせば青々と広がる緑と花々。

耳を澄ませば金属がぶつかり合う音。調理場の慌ただしい声や馬屋からの嘶き。

そしてここに立つ僕。肌着の上から薄い皮素材で作られた最低限の装備。動きやすいことこの上ない。防御性能はほぼない。木人相手の自主訓練にはもってこいの恰好をしている。

握っているのは剣じゃなくて、箒だけど。


「ふぅ」


これを剣に見立てて振り回す町の子供や、幼い給仕は度々見かける。よくやるよ。

簡素な造りのわりにしっかりと芯があって、柔軟性もあれば重心もある。きちんと握らなければ体勢を崩すほどには重さを感じる。

少なくとも僕は転んでしまう。片手で振るなんてとてもできない。両手で構えてもふらついてしまう。

この非力さのおかげで未だに訓練用の木剣も満足に扱えない。配給されてから部屋の隅で飾りになってしまっている。最後に日の光を浴びたのはいつだったかな。手入れもできていないのが申し訳ない。

断然握り慣れているのは箒の方。これで素振りすらできないんだから、兵士としての自信を無くす。もともとあったかどうか怪しい自信だけど。

今日、本当は掃除当番じゃなかった。訓練が恐ろしくて変わってもらった。僕を知る兵士たちは「またかー」と呆れながらも己の腕を磨くチャンスだ、と前向きに捉え快く承諾してくれる。彼らはそのためにここにいるんだから。

城に来てから逃げ癖が酷くなった。痛いのは嫌だ。傷つけるのはもっと嫌だ。

訓練とはいえ打ち身くらいはある。屈強でも、経験豊富でも、イレギュラーに対応できないこともある。僕みたいな素人以下の相手をして、怪我をしない可能性はゼロじゃない。

どんなに小さい可能性でも嫌だ。人を、傷つけるなんて。自分が傷つくことよりも、もっと怖い。


「また掃除なんかしてー。あんたの訓練姿はいつになったら拝めるのかしら」

「あ、アリシア」


後ろから声を掛けられた。ヒールを履く彼女が歩いてきたのは石造りの道のはず。気が付かなかった。彼女が気配を消して無音で近づいてきたのか、僕が相当鈍感なのか。少し凹んだ。

それでもこの声は安心する。見つかってしまった気まずさはあるけど。


「一応いつも訓練場の方から回り込んでるんですけどー?言い訳なんて探さないで正直にサボってる理由を聞かせなさい」


アリシアは僕の目の前に立った。正直、目のやり場に困る。

領主の娘として生まれ、普段の窮屈な環境を紛らわせるために大胆で開放的な恰好を好む彼女。お願いだからもう少し胸元を隠してほしい。見慣れてはいるけど、それはそれでこっちも困ってる。

そんな気持ちなんて当然考えていない彼女はさらに接近して顔を迫らせる。


「あんたは安請け合いしすぎ。そんなんじゃいつまで経っても活躍できなわよ」

「わかってる、けど」

「けど?」

「こわい」

「でしょうね」


こんな情けない話、打ち明けられる相手は限られている。昔から友人と呼べる相手がほとんどいない僕の悩みを聞いてくれるのは、よく通う図書室の管理人であるアメリさんか、幼馴染のアリシアくらい。特に彼女は子供のころから僕を助けてくれるし、屋敷で世話になっていたこともあって話がしやすい。

そう、怖くて逃げだしたい。望んでここに来たはずなのに。それも自分一人の実力でもなんでもなくて、頼れる幼馴染のコネで。そんなことまでしてここにいるはずなのに。怖いことを明かしても彼女は責めないし、僕らしいと笑う。

その通りなんだけど。違うんだよアリシア。安請け合いじゃない。押し付けられたんじゃないんだ。僕が無理やり代わってもらって、逃げているんだ。

つい俯いてしまう。彼女の腰にぶら下がった装飾剣と目が合う。精巧な銀細工が施されたそれは住んでいた屋敷の広間で見上げればいつもそこにあった。今あそこに残っているのはレプリカで、こっちが本物。

あの家の宝。顔。責任そのもの。

剣なんてただでさえ握るのも振るうのも、人に向けるのも恐ろしいのに。様々な思いがのしかかっているはずの立派な剣を、アリシアは子供のころと変わらない様子で携えている。昔から、強い女性だと思う。


「アリシアは怖くないの。ずっとそんなもの持ってて」


何度聞いたか、もう数えきれない。彼女が騎士になると決めてから。家の期待を背負って屋敷を出てから。顔を合わせる度に言葉を変えて質問している。

またそれ?と呆れたように肩をすくめる。それでも、決まった答えを返してくれる。


「怖くないわ。自分の身と、誰かを守るためのものだもの。飾ってるだけのこれはただの骨董品。私が振るうんだから、意味を成す。でも剣がなきゃ戦えない。折れたら代わりの物を握る。じゃなきゃ騎士は名乗れない。これの期待なんて知ったこっちゃないわ」


騎士、かぁ……。

東の国では貴族がそれぞれの役目、領地を任されている。役目の一つが騎士としてこの国を守ること。騎士を名乗るには貴族の位が必要だ。他にも貴族としての責務はたくさんあるらしいけど、平民の目から一番目立って映るのは騎士の姿。


「兵士でも名を上げればそれなりの地位が与えられる。貴族になれば騎士も名乗れる。あんたも知ってるでしょ」


勿論。幼い頃から君に聞かされてきた。僕は逆のことを君に言った。

アリシアにはすでに揺るがない地位があった。穏やかに、貴族の娘として静かに過ごしていても良かった。改めて騎士になる必要なんてなかった。

僕と出会う前には王妃、姫に仕える侍女だったこともある。その頃に得たものも多いはず。それを利用すれば城の中でだって不自由なく過ごせた。

爵位を継ぐために結婚をすれば屋敷から出る必要もなかった。その相手がそれ相応の地位を持つ人物なら尚更。わざわざ危険に身を投じなくても、安全に暮らせたのに。

いつも悶々としてしまう。彼女の性格はわかっているつもりだ。大人しくしていられない。できることはなんでもする。守られるだけは嫌。それと、いつでも僕の味方でいてくれる。

僕がとある少女を意識し始めた頃、アリシアは剣を取った。きっと偶然なんだろうけど。けど、自分の意志以外に何かあったとすれば。そのきっかけは―――

「ねぇ、なんならあたしと結婚する?」

「は、はぁ!?し、しし、しないよ!?」

「やだ、本気にしないでよ」


かこーん、と音が響いた。石の床に箒が転がっている。
アリシアが変なこと言うから。困ったことに、恥じらいってものがない。本当に貴族のご令嬢……?

そもそも、僕なんかが嫁いだってなんの力も持たないんだから、領主様に迷惑しかかからない。使用人見習いとして世話になってた頃みたいに、迎え入れてはくれない。

アリシアだって本気じゃないはず。いつも情けない姿を晒している僕に、そんなこと言うわけがない。冗談だよ、絶対。


「あっ…………」


城内に聳え立つ煉瓦造りの塔。ここはそのすぐ目の前。

よじ登れないほどの高さに設置された窓。そこから顔を出す少女の姿に息をのんだ。


「き、聞かれてたらどうしよう」

「なに、結婚?」

「言わないで言わないで!」


こんな内容の話、聞かれるわけにはいかない。彼女には関係ない話だけど、それでも。

一方的過ぎるけど、恋焦がれている相手に聞かれていい話じゃない。


「あはは、聞こえるわけないじゃない。ほら、今だってこっちに気付きもしないで向こうの方を眺めてるわけだし」


そう。窓辺の少女はこちらに見向きもせず、ただ遠くを見つめている。

この塔に登ったことはないけれど、長梯子を使ってもまだ届かないような高さからの景色。遠くまで見渡せるはずだ。

家ほどの太さの幹を這わせる大木が生い茂る隙間から覗ける城下。その向こう側の城下町のもっと向こう。緩やかな傾斜になっている街の頂上にある城壁からも一望できるんだから、あの窓からは街中の動きが見えるはず。

少女は自国の民の日常を、空の上から眺めているんだ。


「声かけないの?」


拾い上げた箒をまた落っことしそうになった。


「なんなら紹介するわよ。上手く予定が合えば今からお茶会とか」

「い、いい。いいから」


ただでさえ訓練をサボった後ろめたさがあるのに、どんな顔してお茶を飲めっていうんだよ。

でも少し期待してしまっている気がする。アリシアが僕を見てにやにや笑っている。きっと僕のころころ変わっているであろう顔を見て面白がっている。

遠慮なんてしなくていいのに、とアリシアは続ける。するさ。しないなんて無理だ。君にとっては僕とは別の幼馴染でも、僕にとっては国と共に支えるべき主の一人。遠くない未来、彼女がこの国の中心に立つ。遠慮しすぎても足りないくらいだ。

僕なんかが個人的な感情を持つことすら許されないような存在。それが今、頭上にいる少女。彼女と対面してしまうなんて、城中の人に石を投げられたらどうするんだよ。ううん、そんなことはないけど。だけど、この気持ちを、知られたくない。


「見上げているだけで十分なんだ。僕のことなんて知らなくていい。僕が勝手に好きなだけだから」


こんな気持ち初めてだった。どう口にすればいいのかも、消化すればいいのかもわからない。目が合ったらどうなってしまうのか。だから見ないで欲しい。認識しないで、記憶に残さないで欲しい。僕は、それでいい。


「それ言ったら喜ぶと思うけど……」

「え?」


アリシアが呟いた。普段はっきり物を言う彼女の言葉を聞き漏らすことがなくて、驚いた。


「男なんだから、そんな小さいこと言ってんじゃないわよ!」

「ぐぇっ」


思い切り首を後ろから締め上げられた。昔これと似た様子を見た人が羨ましがっていたけど、結構苦しいからおすすめはしない。

確かに背中全体に柔らかい感触があるけど、それどころじゃない。何とか腕を振りほどいて詰まった息を整える。これ、手加減してくれてるんだよね?

せき込む背中を強く叩いて、大男さながらの笑い声でアリシアは誤魔化しながら言った。


「頑張って立派な兵士になって、偉くなって、堂々とあの子の前でかっこいいところ見せてやりなさいよ!それくらい大きな欲を持たなきゃ。ま、あんたにそこまでできるかはわかんないけど」


領主様に知られたら嘆かれるほどの大笑い。でも、ほっとした。アリシアはいつだって僕を支えてくれて、背中を押してくれる。だから逃げ出さずにいられる。

明日こそ、本当に握るべきものを手にしないと。臆さずに、強くならなきゃ。アリシアにも応えなきゃ。


「あれっ……」


鳥の影を追って空を見た。視線が遅れて本当に鳥だったのかわからなかったけど、窓際の彼女の髪が揺れていた。
影よりも、彼女の蒼い瞳の色が映った気がして、空っぽの空から目が離せなかった。


「どうかした?」


はっとして、なんでもないよ、と答えた。

気のせいだ。箒を落とした時だって彼女はこちらを気にしなかった。窓から身を乗り出してこちらを覗くなんてありえない。そのはずだ。


「そんなわけないよね」


言い聞かせた。胸の高鳴りが抑えきれないと思ったから。

あの瞳に捉えられたら、きっと夢中になってしまう。目が離せなくなる。心を奪われる。

いや、とっくに奪われてる。だから頑張りたいんだ。

独占なんて思わない。大勢のうちの一人として見ていたい。

お茶会なんてとんでもない。真っ直ぐと見据えられたら、きっとまともな思考ではいられない。

自分でも理解できないくらい、心を動かされる。この感情に名前があるのは知っているけど、考えるだけで烏滸がましい。だからなんでもないと思い込んでいる。これでも頑張っている。

いつか彼女の隣に立てればとも思った。無理だ。心臓がもたない。この距離でこんなにも緊張しているのに。
夢は夢だから、綺麗なんだ。だから、微かに想うだけ。形は望まない。

望みは、奥底に仕舞っておかなきゃ。


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