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第4話「憧レノ記憶」
5.ルイティア
しおりを挟む「何よこれ」
静かに扉が開き、訪れた人物は開口一番にそう言って呆れた。
血が染みた絨毯の上を歩く足音はぐちゅりと濡れた繊維を踏み潰す音。雨の日でもこんな音は聞こえない。きっと色も見違えるほど染まってしまっているだろう。臭いもする。想像していたよりも惨状なのかもしれない。
「自分ではわからないものですが、そんなに酷い有様でしょうか」
「あんたね、言っておくけど床一面、お綺麗なドレスもぐっしょり血塗れよ」
「まぁ」
なるほど。身体が重いと思った。立ち上がろうとしたわけではない。動けないなりにも体の重みは感じていた。それでも服を着た状態で前全身が濡れている感覚など、子供の頃ふざけて池に飛び込んで以来だった。その感覚とは結び付かない。
重い腕を上げようとした。鈍痛。ましになって来たがそれも危険な気がする。力が足りずに零れそうになる腕を小さな手が拾う。
「こっちの腕、よく動くわね。肩の辺りからざっくり切れてる、それも相当深い。もしかして痛みを感じなくなってる?」
「よくわかりましたね。先ほどまで脳まで痺れる痛みでしたが、動かせるほどには」
「馬鹿。動かすんじゃないわよ」
「……そんなに大きな怪我を?大変ですね」
「他人事みたいに言うんじゃない」
傍らに置いた箱を開ける音。器具と箱が擦れる音が聞こえる。シャリシャリと鋭い金属が交差する。大きなハサミで袖を切り裂いている。
液体が動く音がしたと思えば何の合図もなしにそれが傷口に注がれる。焼けるような痛みに声を上げそうになる。傷ができた一瞬の痛みと比べればこちらの方が痛い気がするのは気のせいだろうか。
傷口を抉られる。細い器具で細かく刺さった破片を探す。薬師のはずなのに手慣れている。アリシアがいない今、彼女に頼って正解だった。
「見えてないって幸せね」
堪えられない痛みと共に異物が取り除かれる。嫌味、皮肉。どちらともとれる言葉に反応する余裕はなかった。
「ユウ、酷い顔してたわよ。ずるい女。わかってるくせに。ユウのこと」
「……ずるい、ですか」
「えぇ、ずるい。ずるい」
薬液を塗られた傷口は感覚を無くしていく。糸が張る音。肉を通る音。適切な処置を続けつつ、彼女が呪うように「ずるい」と唱えた。
ずるい女。否定の余地がないほど、よく似合う表現だった。自覚はある。ルイティアと言葉を交わす度に痛感している。あぁ、自分はなんてずるいのだろう、と。
子供のものとしか思えない小さな手。両手でも支えきれない問題を全て彼女に押し付けている。羨ましいと、助かったと安堵している瞬間が確かに存在する。扉を開ける声を聞いた時もそうだ。そこにユウはいなかった。彼は今、別の場所にいる。
手を握ってやったのだろうか。震える手を小さな手を覆って、優しく声をかけて安心させて。あとは任せて、とここまで1人で来てくれたに違いない。自分にできないことを全て、こなしてここにいるのだろう。
手を伸ばしたかった。触れたかった。でもそこにあったのは痛みだった。ガラス片に触れた体は望まなくても後退してしまう。
「―――拒絶されているような、気がしました」
指先に刺さったガラス片が抜かれた。刺さった時の方が、痛かった。
「これはユウの本当の感情じゃない。少なくとも、あんたにはそんな風に思わない。痛みがあっても、手を伸ばすべきだった。どれだけ傷を負っても、汚れても。あんたなら許される」
「許される?」
「……あんただけよ。私じゃダメだった」
滑り気のある薬を塗られた指先は包帯で包まれていく。
他の指でなぞる。それだけではどこに傷があるのかわからない。同じ。私は触れてもわからない。彼の感情が、心が、痛みが。
「触れることができても、私には目の前の彼が、本当に彼なのかわかりません。自信がないんです」
見えない。どれだけ触れ合っても、彼がわからない。ユウのふりをした誰かなのか、そもそも全くの別人なのかも判断がつかない。本当の彼に触れたことがない。知らないから怖い。
「こんな私に心配されたところで、彼は困ってしまうのではないかと。同情の目を向けられる側の私に憐れまれて、惨めに思うのではないかと」
可哀想なお姫様。幼い頃から何度も聞かされた。ただでさえそんな無力な存在に手を差し伸べられたところで。真っ直ぐ歩けない人間に助け起こされ、満足できるはずがない。
不安に溺れそうになっている人間を先導するのに一番相応しくない。全身の痛みが、言い聞かせてくる。
「私も割りたくなった」
「この大怪我です。いくら割ってももうバレませんよ。私が派手に転んでしまったと言えば済む話ですから」
「そういう問題じゃないわよ」
まぁ、残念。扉の音の位置から察するに割れたのは彫像や剥製などを飾っていたガラス扉の棚。細かな細工と淡い色のガラスが散りばめられ、光の加減で何色にも透き通る美しい棚だった記憶が残っている。それだけでも芸術作品として評価されていた逸品が割れてしまったなら、もういっそ原型が残らないほど壊してしまえばいいのに。
粉々になった扉も、来訪者に見せつけるだけの飾りの品々も、全て撤去してしまえばいい。私には価値が見えないのだから。こんなことで彼を傷つけてしまうのなら、いらない。
口を噤んでから時間はかからなかった。ルイティアの処置は何も問題なく終わり、起こされる。痛みにふらつく私を支えてくれる。
執務室の隣の自室へ向かう前に薬品を床に零す音がした。どぼどぼと相当量を撒いている。聞けば血液の中和剤だとか。「普段あんたに媚び諂ってる連中にもわかんないくらい綺麗に色が抜けるわ」と教えてくれた。
あとはその服ね、と傷を労わりながら脱がされる。慣れていないのがわかる手つき。面倒だと言ってまたハサミで切られた。もう洗いに出せないのだから、私も気に留めない。適当なものしか用意できない、と衣装棚を漁る音をベッドに腰掛けながら聞いた。
「あんたはどうして周りの目に甘んじて、自分を縛るの」
これじゃない、これも違う。無駄な工程なしで着れる服を探しながらルイティアは言った。背中を通して聞こえる声は小さかった。それでも刺さる言葉。
「可愛くて、可哀想で、お人形だと言われてる自分を受け入れてる。どうしてよ。頑張ってるところもあるじゃない。大怪我をしても悲鳴を上げない。なのに痛みを恐れて動こうとしない」
「私1人にできることは限られています。もう子供じゃありませんから、弁えているつもりです。こうして貴女の助けがないと、自分の傷の具合もわからないのですから」
裸になった自分を手で探る。腕、足。包帯の数が思ったより多い。それだけの痛みを感じた記憶はない。見えない痛みの方が勝った。聞かされて初めて、痛みを感じた。
「他人に見られて初めて理解できる痛みがあるのです。私には、それをわかってあげられない」
触れるだけではすべての傷が見つけられない。痛みを理解できない、指摘できない。ルイティアのように小言を零しながら癒すことができない。
「あんたがそんなんだから、あいつが無理してるんじゃないの」
また刺さる。この騒動のことも、それよりもずっと前から、無理をさせていた。それが爆発しただけ。
「最近目を合わせてくれなくなった。顔色も良くなることなんてない。記憶も曖昧で、自分が今どこに立ってるのかもわからないみたい」
声が力を無くしていくのに、強く突き刺さる。
「なんでそんなに臆病なのよ。あんたが不器用でもなんでも、手を伸ばせば救えるかもしれないじゃない。不安同士だっていい、あんたにしかできない、アリシアも私もダメだった。目が見えないあんたならわかるはずでしょ。足元が何を踏んでいるのかわからない恐怖、目の前に広がる暗闇。無理やりでもいいからとっ捕まえるべきなのよ!」
涙交じりの言葉。大人になってしまった私にはもうできない。心の内を叫ぶなんてこと、もう忘れてしまった。
「どうして、どうしてあんたなの…なんで、私じゃダメなの……」
「ルイティア……」
ベッドからすすり泣く少女に近づく。年相応の、か弱い少女。私と同じ。想い人の力になりたい、それなのに何もできない無力な乙女。
そんなことはない。十分力になってくれている。少なくとも私なんかより、ずっと頼りになる。手を引かなくとも前を歩いてくれるだけで、闇を照らしてくれる。それがどれだけ僅かなものでも、道標になってくれる。彼女はそんな存在。ユウだって、そう思っているから、貴女を呼んできてくれた。
「触らないで、卑怯者」
これ以上ない、ぴったりな表現だった。
「友達面もやめて。私、あんたのこと嫌いだから」
わかっていた。私はルイティアに嫌われている。全てを押し付けているから。同じだと思って、ユウのことを押し付けている。想ってくれるなら、任せられる。自分にできないことをさせようとしている。
「どうしてここまで頑張って来たはずなのに、都合のいい所だけ諦めるの。悲劇のお姫様を気取るの。ずるい、卑怯よ」
目のせいでできないことが増えた。やらせてもらえないことが増えた。それでもなんとかこの城で生きようとして、できることを全てやった。そのつもりだった。
一番したいことができないことに気付いてしまったとき、逃げるように執務に没頭した。見えないふりをした。それが国のためになると言い訳して、1人を救うことから逃げた。
大好きなのに、大切なのに、危険な目に遭わせて。そうじゃない。そんなことするべきじゃなかった。私も、ルイティアもわかっている。だから、彼女は泣いてくれる。
独りぼっちのユウのために。何もできない私に怒って。
「あんたの、あんたのせいで!ユウはああなったのかもしれないのに!」
ごめんなさい。ごめんなさい。
「―――ごめんなさい。私に、勇気がなくて」
行動して、拒絶されて、力になれないことを知る前に、何もできないと手放した。そんなつもりはない。傍にいてほしい。だから騎士の称号を与えた。私のための騎士。我が儘だった。“紅衣騎士”は戦場を駆けて敵味方関係なく肉塊に変える亡者の名前じゃない。友人たちに自分じゃ気付いてない、好きな紅の色を贈る優しい彼に相応しい名前のつもりだった。
私にも、いつか贈ってくれますか。淡い期待を込めたはずなのに。そんな未来は来なくて。
抱きしめたい。傍から離れないで。不安にさせないで。温もりを感じたい。だけど、それは許されない。また言い訳を増やしてしまう。
「臆病でごめんなさい。がむしゃらに、心のままに前に走り出せなくてごめんなさい」
臆病なんです。姫と言う立場を捨てきれない。
心のまま動くことなんて忘れてしまった。だって前が見えないから。危険だから、と走ることを禁じられた。
「躓いて、転ぶのが怖い。闇の中で誰かが助けてくれるのを待つのは怖いんです」
やりたいことと、それ以上の言い訳を増やして生きてきた。
彼に拒絶されてしまったら、立ち上がれなくなる。頑張れない。
それが怖い。愛することがこんなに怖いなんて。だから欲張るのをやめた。彼が生きていてくれるならなんでもいい。私以外なら、闇を真っ直ぐ歩いてくれるはず。
期待してる。誰か、私の他のだれか、彼を救って。
呆れた。そう言って扉が動いた。いつの間にか1人になってしまった。
床にへたり込む。裸の体は冷えているはずなのに、包帯の内側は熱い。
「……痛い」
強がることを覚えたせいで、言えなかった。叫びたかった。泣き喚きたかった。
痛みで立ち上がれなかった。誰も、助けてくれない。
求めちゃ、いけない。
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