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第54話 老婆と乙女
しおりを挟む虎成城 奥の奥
一人の青年と老婆が刃をつき合わせていた。
「忘れてくれていると助かったのですが。」
「別れてもないのに、旦那の顔を見忘れる妻はあまりおりませぬ。」
シロウには訳の分からない会話だ。
「憎くてもそうでなくとも、私はあなた様への関心を失った訳ではありませぬ。」
無関心の反対。つまり未だに。
「お戯れを。婆様を相手になど・・・。」
「だから、三年の間、遠くから見つめておりました。」
何の話をしているのか?シロウは思った。三年前とはロクロウがこの城に来た時か?
「背筋が凍ったのを覚えておりまする。三十年も前、己が手で介錯した夫がそのままの姿で若様の横に座っておりました故になぁ。」
「他人の空似でござろう。甚だ迷惑。」
「女が抱かれた男を忘れるわけなかろう!」
婆様の目に睨まれるロクロウはその名のとおり鹿のように立ちすくんで動かない。
「苦労をかけたみたいだな。」
観念した音の響きがあった。
そのロクロウの一言で、戦乙女の護りが唸りをあげる。逆鱗に触れたな。
逆巻く突風、鬼神のような薙ぎの連撃。周囲の建物もろとも切り刻まれていく。
勇那の国一番の猛々しさを誇る一族で最強とも呼ばれた女傑である。
「そんな一言で拭える人生ではなかったわ!」
そう、この女性は六年前のあの天巫女城落城の折、殿を務め若様を逃がした人物でもある。
追手のほとんどを引き受け、死んだ夫の代わりに敵兵をその刃の下に転がした。
それが何だ。
懸命にひとりで家族を支え続けた人生の先で、一番会いたかった夫の顔をしたやつがいる。
目を見張った。
大殿とジカイ殿は、分かっていてこの若者を若様に侍らせたのか?
そうであろうな。
あのふたりが、恋敵の顔を忘れるわけがあるまいて。
この若く見える美しい男には、何か裏がある。その時にヨウコは確信していた。
老婆はこれでもかというほど、薙刀を振り抜いた。
「どれだけ、ひとりで朝を迎えたか。死んだなら迷い出てくるな!」
城の延焼する煙と斬撃の土埃の中、その男は立っている。無傷だ。
「淋しかったか。」
また、気にかけるようなことを言う、この男は。
「そういうところよ!」
間髪入れない薙刀の一閃は扇によってその顔の前に留められていた。
「旦那様。」
「なにかな?」
「旦那様の正体は扇であろう?」
「分かるか?」
「死んで、ク海の住人になったことを、なかったこと・・にしたな!」
ロクロウはニヤリと笑った。
「ああ、そなたは私を楽にしてくれた後、敵討ちをしてくれたか?」
「ええ、旦那様を背からトゲで刺し抜いた仇花のツボミを咲く前に斬り落としてやったわ!」
「だろうな。」
「孫も同じ死に方をするとはな。」
ほんの少し、ロクロウの声にかげりがあった。
「ええ、可愛そうなことをしました。」
「だから、ク海に探しに行きたいのか?」
「ええ、あの子も旦那様のように形を成しているかもしれませぬ故。」
説得しても聞かないはずだ。まだ孫に会えると思っている。
「どうせならば、仇花が咲き誇った後に切り落として欲しかったものよ。」
ヨウコは言葉の意味が分からずロクロウを見上げた。
「そうすれば、こんなつらい記憶をもったまま、そなたに会わずに済んだ。いや、会えて良かったのか・・・。」
ロクロウの細くしなやかな指がヨウコの頬に触れようとする。
ヨウコは咄嗟に身をよじってその指から逃れた。
「老いさらばえておりますれば・・・。」
このようになった自分に、あの頃のあなたに触れて欲しくない。
本当は姿さえも見られたくは・・・。
その目じりに光る珠がある。
火勢はさらに強くなってきた。
「刃を持ってそなたを傷つけること、許しは乞わぬ。早くその赤子をこちらへ。」
「黄泉返りの亡者に赤子を預ける者がどこにおりましょうや?」
ヨウコはジカイと明丸を背に戦乙女の護りを構えなおす。
ロクロウは息をひと息吸う。腹の底の最後の心残りを絞り出すように吐いた。
「覚えてさえいなければ、こんなに苦しいことはなかった!」
ロクロウの刀はヨウコの首をめがけて奔っていた。
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