ウワサの重来者 どうか、心振るえる一生を。（中辛）

序 霧と虚構

　先ほどまで鏡のように滑らかだった水面に、突如とつじょとして白波しらなみが立ち始めた。

　ここは海なのか、それとも川なのか。ただ一隻いっせきの船が静かに進む。

　その船のブリッジには、一人の女性士官が目を凝こらしていた。

「そろそろね。救助きゅうじょの時に限って吹くんだから。少しでも穏おだやかであってほしいわ」と彼女はつぶやいた。
　
　やがて伝令でんれいが響く。

「要救助者ようきゅうじょしゃ視認しにん！左30度、距離 きょり約1500！」
　女性士官はすばやく風を読む。後ろからだ。
「これは好機チャンス」と心の中で呟いた。
「右、救助艇きゅうじょてい、降おろし方用意かたようい！」
「右舷みぎげんで救助する。風を使って寄よせるぞ。見張みはりは随時ずいじ 位置を報告せよ！」
　彼女は充分に船の旋回径せんかいけいを考慮こうりょして発令はつれいする。

　ここだ！

「とぉりぃかぁぁじ！機関後進きかんこうしんへ切り替え！」

　船は彼女の指示した通り左へ舵かじを切り、速度を落としていく。

　しばらくの後、伝令が届く。

「溺者できしゃを船内に揚収ようしゅうした。脈みゃくあり、自発呼吸じはつこきゅうあり、意識なし！溺者は少年!」

　太陽はすでにその身を半分隠かくし、雨雲が西の空から忍しのび寄よるのを照らしていた。


　舷窓げんそうというのだろう、それは夜の海を行く船にとって、船内の光を遮断しゃだんする重要な役割を持つ。

　その丸い窓が、大人の背丈せたけほどの間隔かんかくで四つ、船の壁に配はいされている。

　向かい合わせに十名が座れるテーブルには、白いクロスがきちんと掛かけられており、波の揺ゆれにも動どうじないよう床にしっかりとボルトで固定されていた。

　一番奥には、他とは一線いっせんを画かくす立派な椅子が壁を背に据すえられている。それがこの場の主あるじの席だろう。

　少年は、そのテーブルの一番手前に腰を下ろしていた。
　
　目の前に置かれた紅茶が、ゆらゆらと右回りにカップの縁ふちを撫なでている。

「体は温あたたまったかしら？」
　女性士官が少年の正面に座りながら尋たずねた。

　彼女は、彼を海から救いあげた人物だ。

　白い手袋を外し、テーブルに置いた彼女は、自分のティーカップを両手で優しく包み込む。

「ごめんなさいね、お行儀ぎょうぎ悪くて。指が冷えちゃって」

　彼女は少し照れくさそうに言った。金髪を後ろでお団子だんごにして、白い制服を着こなす彼女は、まだ士官になりたてのようだった。

　一方の少年は、黒い短髪たんぱつに成長途中の体つきをしており、15、6歳といったところだろう。

「これより本船ほんせんは、あなたを帰るべき場所へお送りします」と、少年に向かって彼女は言った。

　それを聞いて、少年は初めて顔を少し上げた。

　女性士官は優しく微笑ほほえんで、
「さあ、飲んで。私が淹れた特別製のお茶ですよ。」と、手のひらを見せた。

　少年は再びカップに目を落とした。
　
　金色の縁取ふちどりの底には、何かのマークがある。紋章もんしょうのようなものだ。
　
　カップを手に取り、一口、口をつけようとした瞬間、少年が目を上げると、彼女は瞳ひとみを閉じていて、そのまぶたには涙が滲にじんでいるように見えた。

　少年は手を止めたが、カップは彼の唇くちびるを求めるかのように吸い付き、紅茶は彼の喉のどに踊おどり出た。

　それを確認すると、女性士官は席を立ち、
「明日の朝には目的地に着きます。お部屋に案内しますね。」と言い、手を差し伸べた。

　その手には、再び白い手袋がきちんとはめられていた。

　
　
　明くる朝、霧きりに包まれた甲板かんぱんに、少年と女性士官の姿があった。 

　霧が立ち、視界は霞かすんでいるが、どこかの港に着いたらしい。
　
　少年は薄手の白いシャツにズボン、しかも薄うすいスリッパしか履はいていない。
　
　女性士官によると陸上側にすべて用意してあるからともかく降りてみてくれとのことだ。

　階段状の桟橋さんばしが用意されたとの報告を受けて、彼女は微笑むと少年の肩を軽く叩たたいて、
「・・・君の人生に幸さちあれ」
　祈るように言った。

　少年はその柔らかな手の感触かんしょくと、肩を叩かれた行為こういが、どこか懐なつかしく感じられた。

　そして、彼は一歩、そしてまた一歩と、桟橋を踏みしめた。


「あれ？」と少年はしゃがんで足元の板に触れる。

　桟橋の階段が凍こおっている。だがその次の段は虫が這はっている。次の段は焼けるように熱い。 そして次は紅葉もみじが散らばっていた。

　「なんだこれ！」 

　振り返るとそこはもう霧が立ち込め、船と女性士官は見えない。

　それよりも少年の踏ふんで いる段より上の段はないし、下も霧で見えないのだ。

　ここで引き返すのは危ない・・・彼はそう思った。

　もう引き返せない・・・進むしかないのか。　

　ともかく前には足場が ある。

　ものすごく変だがこちらの方がマシのようだ。
　
　彼は怖さが伴ともなって、階段を駆かけ下おりはじめた。

　足元の四季はめくりめく流れ、彼の意識は溶けてしまうように薄れた。



　霧の船上、女性士官はつぶやいた。 
「どうやら無事についたみたいね。君にはきっとまた会えると思うわ。」 


　そして号令ごうれいが響く。

　「出港用意しゅっこうようい、次のポイントへ向かう！」


　霧の中を進む船の船尾せんびには、「レダ」という名前が金色の文字で輝いていた。