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29: お出かけする二人の少年の話 1
しおりを挟む少しずつ近づいてくる気配に、レステラーは手元から視線を外し、顔を斜め後ろへと向けた。
微かに耳に届くのは、パタパタと廊下を走る軽快な足音。
今にも扉を開けて飛び込んできそうなほど元気な気配の主は、彼しかいない。
以前より少し伸びた亜麻色の髪をふわりと揺らし、疑う事をしらない深緑の瞳をレステラーに向ける、成長途中の小柄で華奢な身体の子供。
魔族が住まうこの魔界においては珍しい、人間の少年ツァイトのものだった。
そのツァイトが息を弾ませて、こちらに向かって駆けてくる。
しかし、あと一歩というところでその足が止まった。
「陛下?」
謁見の最中、急に明後日の方を向いたレステラーに、不思議に思った彼の側近の一人が問いかける。
レステラーにもっとも近い場所にいる、側近の中でも最古参の三人は、レステラーと同じように気づいたが、この魔族は鈍感なのか、近づいてくるツァイトの気配には気付いていないようだった。
どうやらツァイトは、警固のために扉の前にいる魔族兵に怯んだらしい。
確かに兵士と言うだけあって、戦う事にしか能のなさそうな、屈強な体躯を持った厳つい顔の魔族が二人、扉の両脇に槍を構えて立っているのだが、ツァイトがその兵士たちを見るのは何も今日が初めてではない。
扉を警固する魔族兵も、最初は嫌悪感を露わに人間のツァイトを警戒していたが、魔王が唯一溺愛する少年だと知ると、彼らの内心はどうであれ、今では無表情で対応し、ツァイトを無条件で通すようになった。
だから、ツァイトには危害は加えられない。
それなのに未だに慣れていないらしく、毎回扉の前に立つ兵士を見た瞬間だけは、彼の元気な気配が一瞬萎む。
実際に見なくても気配だけでその光景がまざまざと頭に思い描けて、無意識にレステラーの口元に笑みが浮かんだ。
冷笑でも嘲笑でもない、慈しみを湛えた穏やかな笑みだ。
初めて見る種類のレステラーの笑みに、謁見の間にいた魔族たちからざわめきが起きる。
無理もない。
右手で頬杖をつき、長い脚を組んで玉座に腰かけているこの男は、滅多なことでは嗤わないのだ。
魔族一冷酷で残忍な、情の欠片も持ち合わせていない無慈悲な魔王であるレステラーが笑むのは、極悪非道な方法で相手を屠る時ぐらだと言われるほどだ。
そんなレステラーが浮かべた慈愛にも似た微笑に、この世の終わりでも来たかのようにうすら寒いものが謁見の間にいた魔族たちの背筋に走った。
しかし当の本人は我関せずといった態度で玉座から立ち上がると、背後の濃紺の厚地の垂れ幕の後ろにある重厚な扉へと向かった。
謁見の間の正面の大きな扉とは違い、レステラーが向かった扉の先には小さな部屋が隣接している。
例の兵士たちは、その小部屋から外へと繋がる扉の前に立っていた。
小部屋の中を通り過ぎ、レステラーは躊躇せずにその扉を内側から開ける。
すると、吃驚したような三対の、色とりどりの瞳がレステラーの方を向いた。
「そんなところに突っ立ってないで入ってこいよ」
魔王であるレステラーの突然の登場に、魔族の兵士たちは微動だにできない。
彼の前を塞ぐように槍を構えていなかったことだけが幸いだった。
「レスター、なんでオレがいるってわかったの?」
急にレステラーに会いに行ったため、誰もレステラーに知らせていないはずだ。
それなのにどうして分かったのか。
吃驚したツァイトは、ぽかんとした表情でレステラーを見上げた。
「そりゃあ、アンタの気配は分かりやすいからなぁ」
「え……いつから?」
「アンタが向こうの角で蹴躓いたとこくらいかな」
「えっ! そんなところから!?」
たしかにさっきツァイトは向こうの曲がり角で躓き、こけそうになった。
こことはずいぶん距離が離れているのに、そんなことまで知られているとは。
恥ずかしさからツァイトの顔がみるみるうちに赤くなった。
「とりあえず中に入れば?」
「あ、うん……」
レステラーに促され、ツァイトは遠慮なく部屋に足を踏み入れると、背後でパタンと小さく音を立てて扉が閉まった。
その音を聞いて、ほっと安心したようにツァイトの肩から力が抜けた。
ツァイトが人間界で住んでいた地域は、特に争いもなく、平和そのものだった。
そのため、本物の兵士に加え、本物の槍をこんなに間近で見たことがない。
ここに来てからが初めてだった。
扉を守る槍を持った兵士以外に、城内を巡回している剣を帯刀している兵士もこの城にはいるのだが、人間界にもいないわけではない。
ツァイトが住んでいた地域では騎士団があり、彼らは騎士と呼ばれていたが、ツァイトがよく行っていた町ではあまり見かけなかった。
それに加えて、不審人物を通さないように警戒している所為もあってか、魔族兵たちの雰囲気と顔がとても怖いのだ。
彼らはただ真面目に警固にあたっているだけなのだが、怖さが勝る。
見慣れればそのうち平気になるのだろうが、ツァイトにはまだ無理だった。
「それでどうした。何かあったのか」
同じ魔族でも、レステラーといる時だけは心の底から安心できる。
魔族たちからすれば魔王であるレステラーの方が恐ろしいのだが、ツァイトにはレステラーに対する恐怖心なんてものはない。
部屋の真ん中にある長椅子にツァイトが腰を下ろすと、当然のように隣にレステラーが座った。
「あのさ、レスター……」
「ん?」
「今日さ、いまから町に行ってもいい?」
「町? この城の近くのか?」
「うん、そう。行っちゃダメかな?」
小首を傾げながら、隣に座るレステラーを見上げる。
「えらく急な話だな……まさかアンタ一人でいくつもりじゃねえだろうな。さすがにそれは危ないぞ」
今二人がいるのは魔界で、当然魔界は人間界とは違う。
魔界は魔族の住処だ。
自分たちよりも能力が劣る人間を、下等と蔑み嫌う魔族は多い。
そんな魔族たちが大勢いるのだ。
人間界ではツァイトが一人で出かけても特に問題はなかったが、魔界では出来ない理由の一つがそれだ。
しかし、レステラーの言葉にツァイトは首を横に振った。
「ううん。あのね、ノイくんと一緒に行こうかと思って」
「ノイくん?」
「ほら、この前レスターに友だち出来たーっていったの覚えてる? その友だちがノイくんなんだけど……今日これから仕事がお休みなんだって」
「ああ、なるほど」
最近よく聞く名前に、またアイツかとレステラーは思った。
だが口に出すことはせず、ツァイトに気づかれない程度にわずかに眉を寄せただけにとどめた。
ツァイトのいう『ノイくん』とは、この城の調理場で働いている下っ端の料理人のことだ。
名はノイギーアといい、もちろん彼も魔族だ。
偶然庭で出会って以来、見た目の年が近いせいもあってか二人は意気投合したらしく、最近はひどく仲がいい。
そう言えばこの前、側近ヴァイゼの口から二人が城下町に遊びに行きたいと話していたと聞いたことをレステラーは思いだした。
背もたれに左肘を乗せて頬杖をつき、レステラーが少しだけツァイトの方へ身体を向けた。
「アンタ、随分とそのノイくんってヤツ気に入ってるんだな。今度、そいつ連れてこいよ」
「いいけど……なんで?」
きょとんとした瞳が向けられ、レステラーは軽く笑った。
「アンタが世話になってるみたいだしな。礼も兼ねて今度一緒に食事でもしようぜ」
「あ、うん! いいね、それ。オレもノイくんと一緒にご飯食べたい!」
思いがけないレステラーの提案に、ツァイトは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
そういえば今までそんな事を考えたこともなかった。
いつも食事を一緒にとるのはレステラーとだけだったので、そこにノイギーアも加わればきっと楽しいはずだ。
満面の笑みを浮かべるツァイトに、レステラーもどこか満足そうに笑った。
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