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10: 東の第二王女と少年の話 3
しおりを挟むレステラーの前から走り去り、ツァイトが向かった先は彼の部屋ではなかった。
部屋に帰ればきっとすぐにレステラーに見つかる。
いまはなんだか気持ちがモヤモヤするから会いたくない。
けれど、ツァイトが行けるところは限られている。
制限されている、という意味ではなく、魔王城が広すぎてどこに何があるのか覚えきれていないからだ。
普段生活している魔王の私室がある区画を拠点に、さっきまでいた書庫と、魔王の執務室、謁見の間など、ツァイトが迷わず一人で行けるところは少ない。
女官長や、女官のミアに案内されながら、魔王城とその庭を探検し始めたのはここ最近のことだ。
そんなツァイトが向かったのは、魔王城にあるとある部屋だった。
「ヴァイゼさん!」
パタパタと足音を立てながら、慌ただしく入って来たツァイトに、この部屋の主は少し驚いた表情で彼を迎え入れた。
「あれー、何かあったんですかー?」
部屋の主は、魔王の側近の一人、ヴァイゼだ。
突然やってきた少年に吃驚して、いつもは笑顔を絶やさない彼が、珍しく真面目な顔をしてツァイトに問いかけてきた。
語尾をのばして話す癖は、驚いていても相変わらずだ。
「お仕事中にごめんなさい! 少しの間、ここに居させて下さい!」
「はーい、構いませんよー」
珍しいなと思いながらヴァイゼはツァイトにいつもの笑顔を向ける。
用事がある時はいつでも遠慮なくどうぞと言っているので、ツァイトが急にやってきたのは別に問題ない。
魔王が溺愛するツァイトに見られて困るものなど特にないし、部屋に居座られても構わない。
突然やってこられて、仕事をさぼって女官とイチャイチャしているところを見られたとしても、困るのはヴァイゼの方ではなく、きっとそういう免疫がないツァイトの方だろう。
そのため、入室許可も、ヴァイゼは特に求めていない。
けれどいつもツァイトは律儀に入室の許可を得てから扉を開ける。
魔王であるレステラーには遠慮の欠片もないのに、彼以外の相手には、ツァイトはとても礼儀正しい。
そのツァイトが、入室の許可も得ず扉を開けて入って来た。
もちろんヴァイゼは無礼だなんだとツァイトを責めるつもりもないが、彼らしくない行動に、本当にどうしたのだろうと思った。
全速力で走ってきたためにまだ弾む息を、数回深呼吸することで落ち着け、ツァイトはゆっくりと顔を上げた。
「あっ」
そこでやっと、部屋の中にいるのはヴァイゼだけではない事に気がついた。
ヴァイゼの部屋には、ヴァイゼ本人以外にもう一人、同じく魔王の側近である赤毛の魔族のエルヴェクスがいた。
彼は、魔王が不在の間、この城の一切を取り仕切ってきた側近中の側近だ。
ヴァイゼもエルヴェクスも、ツァイトに優しく接してくれる数少ない魔族だった。
「あの、お願いがあるんですけど……」
一瞬だけ言うのを躊躇ったが、それでもツァイトはヴァイゼとエルヴェクスを見た。
「はーい、なんでしょう?」
「あ、あの! オレを人間界まで連れてってくれませんか!」
二人の方を向いてツァイトははっきりとそう言った。
この際どちらでもいい。
人間界に連れて行ってくれるならば。
真剣なツァイトの表情に、どうしたものかとヴァイゼはエルヴェクスへと視線を移した。
自分一人なら、一も二もなくいいですよと即答するのだが、エルヴェクスがいる手前それをしてしまうと後で彼に怒られてしまう。
もうすこし後先を考えろ、と。
この際、返事をエルヴェクスに丸投げしてヴァイゼは傍観者になることを決めた。
面白くなりそうなら途中で嘴をいれようと思いながら。
「人間界、ですか……?」
「はい、出来れば今すぐに」
エルヴェクスの問いかけにも、ツァイトはきっぱりと答えを返した。
迷いがない。
これはもうツァイトの中では人間界に行くことは決定済みのように思えた。
だが腑に落ちない事が少しある。
ツァイトが人間界に行きたいのなら、エルヴェクスとヴァイゼに頼む前にまず魔王であるレステラーに頼むはずだ。
あの魔王は、ツァイトに酷く甘い。
人間界に行きたいというツァイトの願いを、叶えこそすれ反対する事はないはずだ。
それなのに、なぜこちらに頼むのか。
「……理由を伺っても?」
「そ、それは……言わなきゃダメですか……?」
さっきまでの勢いはしぼみ、途端に目が泳ぎ出す。
歯切れが悪い返答に、これは確実に何かあったなと二人は思った。
「人間界に行かれることを、レステラー様はご存じなのですか?」
「えっと……」
「ご存じであるなら何も問題はないのですが、無断で人間界にお連れしたとあっては……」
怒声を浴びる程度ならまだいい方だ。
最悪の場合は命がないのだが、それを恐れているのではない。
この側近中の側近は、魔王の考えをなによりも最優先させる傾向があった。
だからもし、人間界に行きたいというツァイトに魔王が反対しているのなら、行かせるわけにはいかなかった。
「エルー、仕事モードになってるー。顔がこわーい」
緊張をほぐすかのように、ヴァイゼの間延びした声がエルヴェクスを遮る。
「べつにー、いいんじゃないのー? エルも堅苦しいこと言わずにさー、連れてってあげればー?」
「……おまえは黙っていろ」
「はーい」
行儀悪く執務机の端に腰をおろして傍観者を決め込んでいるヴァイゼを一睨みして、エルヴェクスはツァイトに向き直った。
「理由の如何では考えなくもないですが……」
なぜこうも急に人間界に行きたいのか知らないが、事情によっては人間界のツァイトの家まで連れて行ってもいいと思った。
結局エルヴェクスもツァイトには甘いのだ。
だが―――……。
音も立てずにツァイトの背後に空間移動で現れた存在に、エルヴェクスは申し訳ございませんと断りの返事をいれた。
「え?」
「どうやら我々ではお力になれないようです」
「え、どういう……う、わっ!?」
ふわりと身体が浮いた感覚に、ツァイトは驚いた声を上げた。
脇を持たれ、ツァイトの身体が持ち上げられる。
首だけで後ろをふり返れば、レステラーがそこに立っていた。
「レ、レスター!? なんで、ここに……ッ!」
レステラーの前から逃げ出してからそんなに時間が経ってないのに、どうしてもう居場所がバレたのか。
居場所がわかりにくいように、滅多に行かないヴァイゼの執務室に来たというのに。
早すぎる。
せめてもの抵抗とばかりに身体をひねってレステラーの腕から逃れようとする。
「コイツが邪魔したな」
「いえー、たいしたお構いもできず申し訳ないですー」
バタバタともがくツァイトをものともせず、まるで荷物でも抱えるかのようにツァイトを肩に担ぎ、レステラーは冷たい視線を側近の二人に向けた。
聞くまでもなくその顔は不機嫌そうだった。
「は、離せ! やだっ!」
「おとなしくしてろ」
暴れてると舌を噛むぞと、男はツァイトの方を見ないままに告げ、そして来た時と同じように姿を消した。
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