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十二・彩絵と父

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 雨は小降りになってきてはいるものの、夜の街をしとしとと濡らし続けている。
 そんな中、彩絵は傘もささず駆けていた。
 息が切れて喉が痛い。運動不足の脚も、ずっと前から痛い。
 膝の疲労に限界を感じて、彩絵は足を止めた。
 両膝に両手をついて、深呼吸をして呼吸を整えようと試みる。

「こっちで、合ってるかな……今の現場、熊松沢の方って、言ってた、っけ」

 それとも、以前の現場の話だっただろうか。
 この状況ではっきりとわからない自分に腹が立った。
 父が無口なのは今に始まったことではない。それを理由に会話を避けていたのは自分ではないのか。
 市からの仕事も請け負う会社で現場主任をしているということは知っているが、実際にどのようなことをしているのか、どこで働いているのか、何も知らない。

 彩絵は顔を上げて、雨が頬に降り注ぐのを感じながら遠くを見る。
 熊松沢であれば、そう遠くない裏山の方だが……。

「そうだ、電話」

 緊急の連絡先として、父の勤務先も登録してあったはず。
 が、手を入れたパーカーのポケットの中で、柔らかいものに触れた。
 ポケットから出した彩絵の手に握られていたのは、ミツからもらった龍神のマスコットだ。

「スマホ忘れた……」

 愕然とつぶやく。
 そうだ。部屋に入った時に、怒りに任せてベッドの枕にスマホを投げつけたような気がする。
 ここまで来てしまっては家に戻るより熊松沢へ行く方が早い。
 呼吸も少し落ち着いて来た。

 彩絵は再び走り出す。
 極力近い道を選び、線路脇の鉄柵に沿った細道へ出て踏切へ向かって走る。

 ふと、幼い頃の記憶が呼び起こされる。
 まだ幼稚園にも入っていない頃、父が休みの日は線路向こうの公園に家族三人で遊びに出かけていた。
 両手を両親につながれ、歩くのに疲れたと言っては父のおんぶをせがんでいた。
 今まで思い出すこともなかった情景に、涙が出そうになるのをこらえる。

 もし……もしこんな風に喧嘩したまま、話もできなくなってしまったら――。

「!」

 突然足裏に硬い感触。バランスを崩し、膝から前へ転倒する。
 水溜りの中にあった大きめの石を踏んでしまったのだ。
 強かに打ち付けた右膝がジンと痛む。
 道路に腹這いになった体勢から起き上がろうとして、手の中に握られたままの龍神様が目に入った。

『良くないことばっかり言ってると、そのうち本当に良くないことが起こっちまうよ』

 ミツの言葉が思い出される。
 そうだ、確かあのとき言霊の話をしてくれていた。

『強い気持ちでお願いを言うと、言霊として宿って龍神様が叶えてくれるってさ』

「私が、いなくなればいいって言ったから……?」

 彩絵は勢いよく上体を起こし、地面に座り込んだまま両手に龍神様を包んだ。
 とにかく龍神様に届くようにと、声に出して訴える。

「違うの! あれはそういうんじゃなくて……本当に言霊ってあるんだったら、お願い、お父さんを無事に帰して!!」

 龍神様を握った両手を祈りの形に結び、胸に強く押し当て彩絵は祈った。

「お願いします……お願い……お願いします」

 後悔と不安に涙があふれるのを止められず、うずくまるようにして繰り返しつぶやいた。

「彩絵?」

 聞き覚えのある声に、彩絵は顔を上げた。
 そこには、泥にまみれた仕事着で息を切らせた父の姿があった。

 真武も、また彩絵を探していた。
 絵美が専務との電話で早とちりをし、彩絵が家を飛び出してしまったと電話を受けていたのだ。

 彩絵は脱力し、歩み寄る真武の姿を呆然と見ていた。

「お母さんが心配していたぞ。自分の早とちりのせいで、彩絵に何かあったらと」

 真武に腕を取られ助け起こされる。その呼吸はまだ乱れたままだ。自分を、探して走っていたのだろうか。

 謝らなくては。
 無事でよかった。
 あんなことを言ってしまったのに探してくれていたの?
 お父さん。

 いろんな感情と言葉が身体の中に渦巻き、言葉が出てこない。

「膝、血が出てる」

 真武に言われ、見ると痛む右膝は擦り傷ができて血が滲んでいた。

「……転んだから」

 短く、それしか答えられなかった。
 が、返事があったことに真武は少し安心したようだった。
 突然彩絵の前にかがみこみ、両手を後ろに向ける。

「ほら」

 ぶっきらぼうな父の声。
 先ほど思い出した、線路脇の記憶。
 子供の頃は、この背中に跳びついていた。

「い、いいよ。大丈夫」

 真武はふと自分の作業着の泥汚れに気付き立ち上がる。

「そうか、汚れてるもんな」

 その言葉に、汗と泥に汚れてて汚いと言っていたことに対する後悔の念が押し寄せる。

「そうじゃなくて! ……私、重いから」

 考えて出て来た断る理由が、自分が同年代の子よりもぽっちゃりしていることしか思い浮かばなかった。
 いつしか雨は止んでいた。
 彩絵は真武の顔をまっすぐ見ることができず、家の方に歩き出しながら言う。

「帰るんだよね、家に」

 右膝が痛く、かばうようにして歩いていく彩絵を真武は追い越し、立ち止まると曲げた左腕を出した。
 彩絵も足を止め、その腕を見た。と、真武がもう一度腕を揺すって示した。
 掴まれ、ということなのだろうか。
 躊躇しつつも、彩絵が右手をその腕に掛けると真武はゆっくり歩き出した。
 彩絵も隣に並んで歩き出す。

 しばらく無言のまま、ふたりは線路脇の道を歩いた。

「もうおんぶされるような歳じゃないか」

 小さく、真武が呟く声が聞こえた。
 もしかしたら、彩絵が思い出していたのと同じ光景を思い出しているのだろうか。
 彩絵は意を決して切り出す。

「私、子供じゃないなんて偉そうなこと言って、全然わかってなかった」

 絵の道を志していたからこそ、体験した辛い思いを娘にさせたくないという気持ちを。
 画家として生きていくことを志していた父が、家族の為にその道を閉ざした。彩絵が生まれたその時に、絵の道を捨てるという人生の選択をした父としての覚悟を。

「ごめんなさい」

 言葉に魂がこもるようにと、想いを込めて彩絵は告げた。

 その言葉を受けた真武は黙したまま。
 つい怒鳴ってしまったことを謝るつもりでいたのだが、先に謝られてしまった。

 ふと、真武は片足を引きずる彩絵に合わせて歩く自らの歩調が、一歩、また一歩とどこかで見たような歩みになっていることに気がついた。
 それは白い晴れ姿に身を包んだ娘を送り出す父の姿だ。

「いつかこうして、彩絵を送り出す時が来るんだろうな……」
「え?」

 その呟きはとても小さく、彩絵にはよく聞き取れなかった。
 真武は前を見たまま首を横に振る。その横顔は少し寂しそうに見えた。
 彩絵も再び前を向いて歩きながら、会ったら言おうと思っていたもうひとつのことを父へ伝える。

「私、小さい頃お父さんの絵を見たの。お母さんとの想い出の海の夕陽」

 ずっと憧れだった絵の描き手への想いも合わせて、彩絵は真摯に言葉を紡ぐ。

「いつか、こんな絵を描きたいって……私があの絵を見た時みたいな、素敵な気持ちになれる絵を、いろんな人に見てもらいたい、って」

 真武の返事はない。
 彩絵は足を止め、父の横顔を見上げた。

「お父さん、私に絵を教えてよ」

 真武は返事の代わりに、自らの腕に掴まった彩絵の小さな手に、力仕事でごつごつと硬くなってしまった手を重ねた。
 その横顔には、わずかながら笑みが浮かんでいる。
 不器用に口端を小さく持ち上げるだけのその笑みが、心の中の幼い頃の記憶の父と重なった。
 彩絵の中でもつれていた感情の糸がほぐれていくと共に、彩絵の口元にも少し恥ずかしそうな笑みが生まれていた。

 あの憧れの絵の作者を探せるなら、ひと目会いたいと思っていた。
 そして、できることなら絵を教わりたいと。
 それがまさか、父に教わることになろうとは――。

 彩絵はそこまで考えて、もうひとり謝らなくてはいけない人物がいることを思い出した。

「私、謝りに行かなきゃ!」
「彩絵」

 突然走り出した彩絵を真武が呼び止める。
 彩絵は必死の形相で真武を振り返った。

「お父さんを亡くしたばかりの人に、私……ニーナの気持ちも考えずに。もし、許してもらえなかったら」

 要領を得ない彩絵の説明だったが、真武は彩絵の目をまっすぐに見つめてこう告げた。

「許してもらえなくても、何度でも謝りなさい。どれだけ時間がかかっても。彩絵が本当に許してほしいと思う相手なら」
「……」
「今日はもう遅いから」

 真武に促され、彩絵は家路を歩き出す。
 そうだ、明日きちんと謝りに行こう。もし許してもらえなくても、許してもらえるまであきらめずに謝ろう。
 彩絵は父の腕を借りて歩きながら、アトリエのある方角の空を見上げる。
 夜空を閉じていた灰色の雨雲は晴れて、雲の切れ目から星の瞬きがこちらを見下ろしていた。

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