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三・ニーナ

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 クリームあんみつを制覇した彩絵は、大樹の残したブリュレにスプーンを差しながら言う。
 苦労して作ったと言っていたクレーム・ブリュレは濃厚な卵の風味が際立ち甘すぎず、表面のカラメルのパリッとした厚みも絶妙である。
 これだから学校帰りの『マダムの庭』はやめられないのだ。

「バイトかぁ。大樹の家お金あるのに、バイトすることないと思うんだけど」
「お金のためだけにするんじゃないんだろ。何事も経験だよ」

 ミツが言うが、彩絵にはいまいちピンと来なかった。

「私はバイトする時間があるなら絵を描いてそっちの経験値上げたいなぁ」
「そうだ。あんた、ニーナに見てもらったらどうだい」
「なにを?」
「絵をさ。ほら、授業中に描いてたとかいうやつでもなんでも。ニーナは絵描きなんだよ」
「ええっ、ほんとう!?」

 彩絵は思わず立ち上がってニーナを見る。
 ニーナは店奥の壁に顔を寄せ、視線をずらしながら細かく見つめていく。少ししてから思い出したように言った。

「ああ、ラッコ描いてんだっけ?」
「なんで知ってるの!?」
「換気で窓開いてるだろ。声がでかいから外に全部筒抜けだったよ」

 よく見ると、ニーナが見ているあたりの壁はほかの部分と色が違っていた。くすんだアイボリー色の中、1.5m四方程のその範囲だけが白い。

「よし、ちゃんと塗れてるね。ジェッソ完了、と」
「ジェッソ? 壁に? こんな臭いだったっけ……あ、ニーナって日本人じゃないの?」
「質問が多いな、彩絵は」

 絵描きと聞いて急に興味が増したのか、思いつくままに口にする彩絵にニーナは思わず苦笑した。
 カウンター内と厨房を行ったり来たりしているミツが口を挟む。

「ほら、うちの店『マダムの庭』って名前なのに庭がないだろ? だから描いてもらうんだよ」

 ミツが入っていった厨房からは、みりんと醤油を火にかけた香ばしい香りが漂ってきている。
 ニーナはボストンバッグからスケッチブックや大きめのポーチなどを取り出しながら、彩絵に言う。

「美術部ではジェッソ使わない? 今回はアクリル絵の具を使うから、先にこいつを塗っとく」
「色がきれいに出るように?」
「そ。んで、経費の関係で安物だから結構な臭いだろ。普通の奴はこの中でコーヒー飲んでゆっくりしたいなんて思わないよね」

 そういうニーナだが、本人はまったく気にした様子もない。彩絵もある程度は耐性がついているため、それほど嫌とも思ってはいない。
 そこへどんぶりと箸を手にしたミツが現れ、仁王立ちでそれを差し出す。

「本当だよ。あんたらよく平気だね。ほら、カツ丼」
「待ってました!」

 さっきまでどこか気だるげな雰囲気さえ漂わせていたニーナが、別人のような素早さでカツ丼を受け取り、作業していた壁の近くの床に座り込む。

「いっただきまーす」

 よほど腹を空かせていたのか、ミツの料理の腕がそうさせるのか。ニーナはまさしく掻きこむという以外に表現できない勢いで食べ始める。
 ミツは小さく溜息をつく。

「だからうちは『ふらんすかふぇー』だってのに。どいつもこいつもラーメンだの親子丼だの……ここは定食屋じゃないからね」
「ヨーロッパから来てんのにわざわざフランス的なメニュー欲しがる?」

 当然と言わんばかりに言って、ニーナはだし汁の染みた米と溶き卵が絡んだサクサクのトンカツを口いっぱいに頬張った。

「ふふぁいほ、ほへ(美味いよ、コレ)」
「ったく、しょうがないね」

 ミツは彩絵のテーブルにある空いた食器を片付けながら憤然とした声を出すが、その表情は嬉しさがにじんでいるように彩絵には感じられた。

「ほら、出して」

 ニーナの声に反射的に振り返った彩絵だが、自分にかけられたものだとは思わず。
 黙っているとニーナがカツ丼を食べる手を止めて左手を差し出した。

「ラッコ。描いたやつ」
「ええっ!」

 驚く彩絵に、洗い物をしながらカウンター越しにミツが促す。

「見てもらいなよ。これでも一応絵で食ってるんだからさ」
「一応は余計」

 すかさず切り返すニーナとミツを交互に見ながら、彩絵はしどろもどろになる。

「だ、だめだよ、今日描いてたのは落書きみたいな……どうせならちゃんと彩色したの、家に取りに」
「あそ。じゃあほら」

 最後まで聞かず、ニーナは傍らに出してあったA5サイズのスケッチブックを彩絵に差し出す。
 彩絵は一瞬ためらったが、ミツが目線で背中を押した。
 新しいおもちゃを貸してもらえる子供のように駆け寄り、ニーナのスケッチブックを手に取った。

 山吹色と黒でプリントされた縦開きの表紙には『FABRIANO』と書かれている。
 確か、美術部にも同じメーカーのものを使っている子がいたのを思い出す。
 期待に胸を高鳴らせながら、表紙を開く。

「わぁ!」

 ページをめくるたびに現れる様々な形の花壇や鉢。
 それらを切り取って大きく描かれた色とりどりの花や木々。
 アンティークな鉄製と思われるガーデンテーブルセットやフラワーアーチ。
 そして様々な窓枠の形。

 イメージデッサンなのだろう。
 鉛筆だけのものや淡く彩色されているものもあるが、どれに対しても彩絵は心を強く揺さぶられる感覚を覚えた。

 彩絵は興奮を抑えられない勢いのまま顔を上げてニーナを見る。

「荒いタッチなのに……生きてるみたい。この庭の絵を壁に描くの? 窓から見える風景みたいに?」
「へぇ、察しがいいね。センスあるんじゃない?」

 ニーナに褒められたのがこそばゆくて彩絵は再びスケッチブックに視線を落とす。
 デッサンでこんなに感動するのなら、ニーナが書き上げた窓越しの風景はどんな素晴らしいものになるのだろう。
 ミツも彩絵の横からスケッチブックをのぞき込み、

「どうだい。なかなかの腕だろ」

 誇らしげに言うと、うっとりと庭に想いを馳せる。

「昔からの憧れなんだよ。フランスの郊外でさ、静かな一軒家にターシャ・テューダーみたいな庭」
「ターシャ・テューダーはフランス人じゃないけどね」

 茶々をいれるニーナをミツはじろりとにらむ。

「うるさいね。水差さないの」
「へいへい……サボテンだって枯らすくせに」

 後半は小声で言ったものの、ミツの地獄耳にはしっかり届いている。

「聞こえてるよ」

 ニーナはそれが聞こえていないふりで空になったどんぶりと箸をミツに渡す。

「ごちそうさまでした、マダム」

『マダム』をあからさまに強調して言い、ニーナは彩絵からスケッチブックを取り上げる。

「うっし、じゃあもうちょっと描いてこーかな」
「見ててもいい?」

 彩絵が期待に満ちた眼差しをニーナに向ける。

「ダメ」
「えっ」
「気が散るからだーめ。なんのためにここ休みにしてると思ってんの」

 取りつく島もなく、ニーナはそっけなく言い放つと手近な席に座り高く足を組んだ。
 が、スケッチブックはテーブルに置いたまま頬杖をついて彩絵を見る。
 彩絵はあきらめずに両手を合わせてきゅっと目をつむる。

「そんなこと言わないで、お願い!」
「見てどうすんの」

 問われて、彩絵は合わせた両手越しにニーナを見つめた。

「絵の勉強のために」
「それならラッコ持って出直してきな」

 早く帰れと言わんばかりに手をひらひらと振られ、彩絵はがっくりと肩を落とす。
 それはニーナとしても予想の範疇の反応だったが、彩絵の奥で動くものが視界に入り焦点を合わせる。

 ミツが彩絵を指し、『なんとかしてやれ』とジェスチャーしていた。
 一度『無理』と返したが、『飯作ってやらないぞ』とジェスチャーが帰ってくる。
 ニーナはちょっとだけ天を仰いで、まぁいいか、と気持ちを切り替えた。

「ここに来られても仕事の邪魔だから、明日アトリエに来なよ。場所はそこのお」

 言いかけてニーナは口をつぐむ。
 一文字しか言っていないのにも関わらず『おばちゃん』に反応したミツの眼力をうけたニーナは丁寧に言いなおす。

「『マダム』に教えてもらいなよ」
「本当!?」

 ぱぁっと、花が開くように笑顔になる彩絵に、ミツは一件落着と帰宅を促す。

「ほら、あまり遅くなると親御さんが心配するから。もう帰んな」
「うん!」

 リュックを背負いスキップしそうな軽い足取りで出入口まで行くと、

「ミッちゃん、ニーナ、またね!」

 彩絵は振り返って大きく手を振って帰って行った。ドアベルが鳴り扉が閉まるまで見送り、ニーナは呟いた。

「なんだ、あいつ」

 思わず頬が緩む。
 思考が単純で、思ったことが正直に外にダダ漏れている無邪気な子供だ。
 中学生にしてそれ、というのは良くも悪くもあるが、ニーナはそういう人間は嫌いじゃなかった。

 ミツがそんなニーナを珍しそうに眺めながら、いつもの調子で声をかける。

「ほら、誰もいなくなったよ。さっさと仕事しな」
「へーい」

 やる気のない返事を返すニーナに、ミツが毒づく。

「まったく。アンタがこの調子じゃあ、ラウルもおちおち休んでられないだろうねぇ」
「……あたしは、あの人とは違うよ」

 思いもよらない低い声に、ミツは驚き皿を拭く手を止めた。
 声を発したニーナ自身も驚いていた。そんな風に言うつもりはなかった、
 が、意識するより先に声が発せられてしまった。

 二人の間に流れた沈黙を破ったのは静かなミツの声だった。

「なんかあったのかい」
「べっつにぃ。相変わらず」

 スケッチブックを広げながらの返事はいつものおどけたニーナのものだった。
 その様子に余計に違和感を覚えたが、ミツも普段と変わらぬよう努めて言う。

「ひとりで日本に来るなんてさ、初めてだろ? だから」
「向こうでの個展の打ち合わせが忙しすぎるだけ」

 ミツの言葉を遮るように言ったきり、ニーナはスケッチブックに鉛筆を走らせている。
 さらに声を掛けようと口を開きかけたミツだが、思いとどまった。そっと厨房の方へ移動する。

「あ」

 ミツの後姿を慌てて顔を上げたニーナが引き留める。

「ん?」
「あー……」

 ミツが振り向いたが、ニーナは視線を外し言葉を探しながら視線をさまよわせる。
 そのうち、壁の一点に目が留まり反射的に立ち上がる。

「そこの絵、ラウルの」

 飾り棚の上、フランス風の陶器製の置物やガラスのキャンドルホルダーなどが置かれている。
 その中に小さな額縁に入れられた6号サイズの油彩画。
 自然と足が飾り棚の前へ運ばれていく。昨日までは置かれていなかった。

「こんな絵、描いてたんだ……初めて見る」

 独り言のように、ごく小さな声でニーナは呟く。
 温かみを感じるシェンナやバーミリオン、イエロー系を中心とした色彩で描かれたそれは、ふわりとした雰囲気を出すためか精密な描写ではない。
 が、若い母親が胸に抱えた赤子を慈しむように見つめる母子の姿だった。

 ミツは絵の前に立つニーナの背中を見ながら、当時を思い出す。

「昔にもらったものさ。ずっとしまってあったんだけど……やっぱり絵は人に見てもらわないとね」
「ふーん……」

 恩師であるラウルの作品を見つめながら、ニーナはミツがレースの暖簾の向こうに消え階段を上る音を聞いていた。
 それが聞こえなくなってから、

「あーもう! なんで言わなかったんだよ」

 たまらず自らの両掌底を両の膝に叩きつけ、そのままがっくりとうなだれる。
 胸にわだかまる感情のもつれを持て余しながら、一目でそれとわかるラウルの筆遣いや色の重ねが詰め込まれた額縁を手に取った。

「このまま言わないでいるわけにもいかないんだぞ……」

 見つめても、ラウルの絵が答えを導き出してくれるわけもなく。
 ニーナは絵をそっと棚に戻すと、ジェッソが乾いた後の壁画の構想に頭の中を切り替えた。
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