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一、いつもの朝、と違う朝

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 雲一つない青空の下、『ミーッ』というバス昇降口特有のブザー音が鳴りエンジン音が遠ざかっていく。
 町が見下ろせる坂の上のバス停は無人となった。

 バスの進行方向とは反対側から駆けあがってきた紺ブレザーの男子高校生が、走り去るバスをバス停の横で見送った。
 大きなバックパックを背負いそこそこの距離を走ってきたが、息ひとつ切らせていない。

「ほら、間に合わなかった。あと10分でいいから早く起きろって」

 振り返ったが、声をかけた相手はまだバス停から2mほど離れた位置をのろのろと走っている。
 胸元にえんじ色のリボンタイをあしらった黒セーラーの女子中学生は息も絶え絶えに答えた。

「だから、先に、行ってていいって……言ってる、でしょ」
「どうせ同じバスだろ」
「どうせ私の方が先に降りるでしょ」
「……いまさら十年以上続いてる習慣崩すのも気持ち悪い」

 ちょっとためらった後、もっともらしい回答を選んで答えた。

 会話の間に距離は詰まり、隣にならんだ幼馴染は解田彩絵ときたあやえ
 彩絵は「あっそ」とそっけない返事を返すと、脚を両手でさすったり足首をぶらぶらさせたり。たまった乳酸を分散させようと奮闘している。
 ややぽっちゃり体型で柔らかそうな身体は万年文化部と雄弁に語っている。

 一方それを横目に見ているのは、短めの髪に体は細いが筋肉はしっかりついているスポーツ少年といった風体の佐藤大樹さとうたいき
 実際、運動や持久力には自信がある。
 彩絵とはふたつ歳の差があるが、家が隣同士でお互い一人っ子であることも手伝い、幼い頃から兄妹のように過ごしてきた。
 故に家を出てから幼稚園、学校までの道のりは分かれ道までいつも一緒だったのだ。

 小さい頃こそ背丈もほとんど変わらなかった二人だが、彩絵が小柄で150cmしかないため今では大樹の方が頭一つ半高い。
 子供の頃から少しぽっちゃりとしているのは変わらないが、それでも中学三年生となった彩絵は女の子らしくなってきたと大樹は思う。

 そんな大樹の視線を知らず、彩絵は背負っていたリュックを下ろしてしゃがみ込み、スマホで友達からのメッセージへ返信を打ち込んでいる。

 次のバスが来るまで10分ほど。幸か不幸か遅刻ギリギリのこの時間、他に人が来る気配もない。
 バスに乗ってしまえば少なからず乗客はいる。いなくとも運転手は必ずいる。
 大樹は思い切って、しかしなんでもない風を装って切り出す。

「なあ」
「ん?」
「まだ聞いてないけど」
「なにを?」

 彩絵は相変わらずスマホを両手で打ち込みながら大樹を見ようともしないし、返事もおそらく惰性でしている。
 少し語調を強めた言葉を大樹は彩絵の頭上に降らせた。

「この間の。今日までに返事するって自分で言ったろ」
「……そうだっけ?」

 素知らぬ風で答えた彩絵だが、一瞬手が止まったのを大樹は見逃さなかった。
 そしてその微妙な言い回しの違い。明らかに気づいていてごまかした時のものだ。

「出た! すぐそうやって先延ばしにする。 彩絵!!」

 突然腹から発声され、反射的に彩絵は大樹を見上げた。直立不動の姿勢で大樹が続ける。

「即断即決! 今決めろ、決めてもう迷うな!」
「出た、おじいちゃんの真似して。武士道気取り」

 あからさま馬鹿にした口調の彩絵だったが、大樹はむしろ誇らしげに腕組みし胸を張る。

「気取ってない。武士道だ」
「すぐなんて無理。この先の人生決まるかもしれない決断なんだよ? そんな簡単に決められないよ」
「もうすぐ三者面談だろ」

 三者面談、という言葉が彩絵の心にぐさりと刺さる。
 刺さったそこから空気が抜けたように、それまで言い返していた勢いが消沈する。

「ですよねー……」
「遅かれ早かれ決断の時は来る。なら……」
「あー! わかってるから、もー」

 たまらず立ち上がり、彩絵は打ち終えたスマホをスカートのポケットにしまいリュックを背負いなおした。大樹には背中を向ける立ち位置になるように。

 わかっている。決めても決めなくても卒業の時は来る。
 それでもまだ彩絵は決められずにいた。
 キーホルダーやマスコットがぶら下がったリュックの中にしまってから、一度も取り出していない進路希望調査票は空白のままだ。

「先月まではうちの高校受けるって言ってたろ? その方がいい」

 うつむいた後姿の彩絵に声をかける大樹は、武士道はどこへやら。
 すっかり彩絵を甘やかすお兄ちゃん、下手をすれば心配するお母さんにもなりかねない調子だ。

 ちら、と目線だけ振り向く彩絵。大樹はつい視線を逸らしてバス停の正面に広がる町の方へ目を向けた。

「今のランクなら十分合格圏内だし、入学したら大学まで出られるのが付属の強みだぞ。美術部だって、何度か賞をもらっているレベルだからな。それに……」

 俺と同じ高校に進学すべき理由、彩絵が命名したところの『俺高アピール』を熱弁する大樹だが、同じ内容をすでに3度聞いている彩絵は途中から別のものに意識が向いていた。

 いつもの朝であれば、そこにはないはずのもの。

 ここには、幅が広めの歩道を挟んでバス停と対になる位置に小さな待合所がある。
 丘の上が分譲されたのに合わせておしゃれなログ壁と木造のベンチに建て替えられた。
 そのベンチの上にはそぐわない、ベージュのボロ布が横たわっている。

 注意深くそれを観察しながら、手だけを大樹に向けて手招きする。

「ねねね、ちょっと」
「……だろ? それにその」

 小声で呼びかける彩絵の様子には気づかないまま『俺高アピール』を続けていた大樹は、両の手をポケットに突っ込んでぶっきらぼうに締めの言葉を放った。

「俺もいろいろとサポートしてやれるし?」
「あれあれ、あそこ……ちょっと、大樹聞いてる?」

 一向に反応がない大樹に業を煮やした彩絵が振り返る。
 同時に、彩絵が自分の話を聞いていないということをようやく察した大樹も彩絵を振り向く。

「それはこっちのセリフだよ! 人の話を」
「しっ……」

 大樹の大声に慌てた彩絵は人差し指を口元に立てて制する。その指を待合所の中へ向けた。

「ほら、あれ」

 彩絵の好奇心に満ちた瞳を見て、諦めた大樹は促されるまま視線を向ける。
 使い古されたボストンバッグがベンチの端に置かれている。その奥にもベージュの塊が見えるが……。

「なんだ? 忘れものか?」
「人じゃない?」

 言われて、どきりとした。
 確かに、ボストンバッグの向こうに見えるベージュの塊は、人を包んだコートのように見えなくもないが……。

「まさか。ホームレスじゃあるまいし」
「まさかさ、まさかして。死体……だったりしないよね」

 怖さ半分期待半分が詰まった声の彩絵だが、自分に一瞬浮かんだ考えを見透かされた気がした大樹はピシャリと否定した。

「サスペンスの見すぎ! そんなわけないだろ」

 相変わらずノリの悪い大樹に頬を膨らませて彩絵が訴える。

「百歩譲って具合悪くて倒れてるんだったら? 大樹、見てきてよ」
「なんで俺!? 放っておけって」

 興味ない、といった様子でそっぽを向く大樹。
 その視線側に、ちょん、と跳び移って彩絵は上目遣いに大樹を見上げた。

「じゃあ、一緒に確認しよ? ね?」

 ね? と共に繰り出された、両手を合わせた『お願い』ポーズ。
 かわいい。そして頼られている。

「しょうがないな」

 言葉とは裏腹にやる気に満ちながら待合所を向く大樹の後ろで、彩絵は小さく舌を出した。
 昔から大樹はこの『お願い』に弱いのだ。

 勢い込んで待合所に向かったはずの大樹の足取りは、待合所が近づくに比例して重くなっていく。
 待合所の入り口から牛歩となった大樹の背中を、待ちきれなくなった彩絵が押そうとして触れた瞬間。
 大樹が振り返りざまに彩絵の手を軽く払う。そこだけは武士並みの反射神経、と彩絵は思った。

 押すなって! と口の形だけで言う大樹に、彩絵は 早く! と同じように言い返す。

 大樹は改めてベンチ上のものと向き合う。
 近くで見ると、ベージュ色は汚れたトレンチコートであることがわかった。うっすら膨らんでいるのが、余計に中に人が入っていると想像させる。

 しかし、ビビっていると思われたくはない。

 意を決した大樹の手が、ゆっくりとコートへと伸びる。
 もちろん腰は引けているが、横からのぞき込んでいる彩絵は大樹の手とコートの距離に集中していて気づいていない。

 コートに指先が触れようとしたその瞬間。

「やっぱダメ!」
「!!」

 彩絵は二重に驚いた。
 大樹の裏返った素っ頓狂な声に。
 声をあげながら1mほどバス停から遠ざかる方向に跳び、女子のように胸元で両手を結んでいる大樹に。

 すぐに我に返った大樹は、両手をさっとポケットにしまうと泰然たる振る舞いで、努めて落ち着いた声を出す。

「勝手に触る前に、警察に通報した方が」
「怖いんだ?」

 意地悪な笑いを浮かべる彩絵に、大樹はムキになって言い返す。

「怖いとかそういう問題じゃない!」
「だってさぁ~」
「違う! ニヤニヤすんな」

 言い合う二人は気づいていなかった。
 ベージュのトレンチコートがゆったりとした動きで持ち上がっていくのを。

「あのさぁ……」
「うわああぁぁあ!」
「ひゃああぁあ!!」

 トレンチコートの動きが視界に入った大樹の悲鳴が、待合所の中から発せられたくぐもり声をかき消した。
 ほぼ時を同じくして大樹の悲鳴に驚いた彩絵も悲鳴を上げる。
 二人が転がるように走り去っていくのを、被っていたトレンチコートを払い立ち上がった人物が数歩追いかけた。

「道聞きたいんだけどー!」

 その声は、二人を追いかけるように走り去ったバスのエンジン音にかき消された。

 トレンチコートの中身は女だった。
 細身の長身。170cm近くはある。背中まである髪を無造作に後ろで一つに束ね、シャツにジーンズというラフな格好が様になっている。

 どうしたものか、と思った矢先。ジーンズの後ろポケットでデフォルトのままの着信音が鳴った。待ってましたと言わんばかりに通話キーをフリックする。

「やーっと繋がった! んー、どうしたもこうしたも金なくってさ、も、すっからかん。迎え来て。
 ……違う違う。今、日本だから。
 ……うん。近くまでは来てると思うんだけど、5年て町並み変わるもんだねぇ」

 あっけらかんと話していた女は、思わず電話を耳から離す。
 この大きな声での小言を聞くのも、5年ぶりだった。

「わかった、わかった。後は会ってから聞くからさ。ね、マダム?」

 マダム、を特に丁寧にゆっくりと発音する。案の定折れた相手に、してやったりと調子を戻す。

「はいはーい、じゃお願いね」

 言うだけ言って一方的に通話を終えた。
 ベンチに戻りコートを纏めてボストンバッグの上に置くことで、空いたスペースに腰掛ける。

 最低限の荷物で急いで旅立ち、財布内の残金まで気が回っていなかった。
 夜になり金を下ろすこともできず、ホテルを探すのも面倒になりここで夜を明かしたのだった。

 ボストンバッグの横、ベンチの背に持たれかけさせるように置いてあった木製のトランクを、彼女は膝に乗せた。
 さほど大きくはないそれは、長年の使用で傷は多く見られるが丁寧に手入れされている。
 見る人が見れば画材ケースであるとわかるそれに、彼女は両手を組んで乗せた。

「来てくれるってさ。ありがたいね。でも・・・どう言ったらいいかな」

 小さく呟き、画材ケースを両腕で囲い込んだ。

 久しぶりの日本。久しぶりのこの町。バス停周りも、バス停のある丘から見える景色もすっかり様変わりした。
 自分を取り巻く環境も、あのころとはすっか変わってしまった。
 それでも。
 迎えに来てくれるあの人は、きっと変わらずにいてくれるのだろう。そう思えることが、今の彼女には救いだった。
 
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