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#5 弾ける意志
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カコン。
「柳君」は「涼真」なのか。
カコン。
疑う余地なんてないはずなのに、小難しく考えているだけなのに、私は踏ん切りがつかないでいた。
カコン。
このままこの世界の涼真を、元いた世界の涼真だと思って、恋の焼き直しをしても良いのか。
カコン。
でもそれ以上に、こっちの涼真との恋は、そもそも叶うのか。
カコン。
「ちょっ、菜緒強すぎだって! なんでどんなの打っても返してくるの!」
カコン。
「え、特に意識してないけど」
カコン。
「こんのっ!」
みどりは体を捻って横に大きくカーブした球を放ってきた。
私はテーブルから距離を取って、緩い力で打ち返した。当たり方がまずかったのか、ピンポン球は大きくアーチを描いた。
「もーらいっ!」
ここぞとばかりにみどりはスマッシュを打ち込んだ――ものの、私は動かなかった。
「アーーーウトォォォッ、もー! 菜緒強いって! はい! もう菜緒アウト! 貴子イン!」
しっしっと指先であしらわれて、私はソファに座っていた貴子と変わった。
すれ違いざま、ごくごく普通にラリーしてたんだけどな、と訴えたい目をすると、貴子はダメダメ、と言いたげにかぶりを振った。
私は貴子のいた場所に腰を落ち着けた。
横に置いておいたコーラを啜ると、渇いていた喉に炭酸が弾けて痛かった。
みどりのサーブで始まったラリーは、貴子が打ち返せずに終わった。
みどりが歯ごたえ欲しさに私の方を見つめてきた。でも私は首を横に振って断った。これで貴子の出番を奪うような真似をしたら、貴子もつまらないだろう。
仕方なくみどりが背を向けたのを見てから、私は鞄からスマホを出した。ロック画面には、八月十一日と出ている。本来なら、明日は涼真に告白する日のはずだ。するだけなら、別に簡単だろう。でも、そのための空気というか、雰囲気がまるで出来ていない。
文化祭の準備で、何度となく顔を合わせたし、一緒に作業もした。それでも、距離が縮まるような出来事は無く、いたずらに日数を重ねているだけだった。
関係は悪くないと思う。意識しすぎているだけなのかもしれない、とも感じる。告白したあの時も、涼真が私のことを好いてくれているのかなんてことは、正直はっきりとは分からなかったはずだ。ただ、想いを伝えたいような雰囲気になったから、率直に伝えてみただけのことで。
だけど、一度恋仲になったからこそ、何となく、涼真の気持ちがそうだった頃のものとは違うと分かってしまうような気がした。
コツン、と何かが足に当たる感触があった。ピンポン球だった。私がおもむろにそれを拾うと、
「すみません」
と声がした。顔を上げれば、爽やかな感じの大学生らしき男の人がいた。涼真の方が断然かっこいい。
どうぞ、と言って手のひらの上にピンポン球を置くと、彼はお礼と共に軽く頭を下げて、元いただろう台のところへ帰っていった。
ちょうど向かい側に、同じように軽く会釈したのは、きっと彼の恋人なんだろう。
二人は小気味よくラリーを始めた。まだ付き合いたてなんだろうか、初々しそうな感じが伝わってくる。ちょっとしたことでも微笑みがこぼれるし、遠慮みたいなものが端々に見えて、まだまだ幸せが増えていくように思えた。
私は、今の涼真を好きなんだろうか。
確かに、二人を別人だとは思えない。でも、この世界の涼真に、良くしてもらったことはあっても、どうしても伝えたい想いがある、といったような、胸のときめきや痛みを感じさせられたことはない気がする。
そう、そうだ。仮に二人がまったく同じ涼真だったとしても、それぞれとの間に起きた出来事は、一緒じゃない。
でも――
劇的な物語が私たちの間にあったわけでもない。ただ一緒に過ごした時間の中で、徐々に心惹かれるようになっていっただけのことで。きっかけこそ、倒れた私を保健室まで運んでくれて、心配して傍にいてくれたっていう、ドラマチックなものだったものの、そこからは別に、誰かに語れるような、特別なものなんてなかった。
ただ人として、柳涼真という存在を、ぼんやりと、でも確実に好きになっていった。
だから、今の涼真も、変わらない。
変わらないはずなのに。
ここに来たことを間違いだったんじゃないかと、問い続ける自分を否定出来ないでいる。
「やっぱりあたし、スポーツはてんでダメ。菜緒、変わってくれる? あ、今度は手加減してあげて。じゃないとまたあたしが呼び戻されるハメになるから」
貴子は戻りがてらそう言った。ラリーはほとんど続かなかったというのに、ひどく汗を流している。
「別に、本気出したりとかしてるわけじゃないんだけど……」
「じゃあ、手でも抜いてあげて」
わざと打ち損じでもすれば良いのか、と思ってはみたものの、それはそれで技術が必要な気がする。卓球経験者でもないし、自分に出来るごく普通のプレイをしてるだけなんだけどな、と心の中でこぼしながら、私はまたひたすらにみどりの打った球を打ち返しては、みどりに怒られた。
「二人に相談があるんだけど」
注文した各自の飲み物が運ばれてきたところで、貴子が真面目なトーンで言った。
「何?」
みどりは貴子がしようとしてる話題を分かってるのか、身を乗り出して聞いた。そのおかげで、私も大体の想像がついた。
「幼稚園の時から仲が良くて、小中と一緒だった奴がいるんだけど、あ、今は高校別ね、そいつに、告白されたの」
ハッとした。それって、もしかしなくても、現実の貴子がこの前別れたっていう、例の彼に違いない。
私はてっきり、この世界では全ての恋が違うように傾くのだと思っていた。貴子は部活の先輩と付き合うことになる、そんなふうに。だけど、必ずしもそうではないのかもしれない――そもそもそうじゃないと、涼真とこの世界では付き合えないことになるわけだし。
「え、ねえねえ、どんなふうに?」
横からじゃはっきりとは見えないけど、いつもみたく目を輝かせてるんだろうみどりの瞳が思い浮かんだ。
「久々に会いたいって言うから、ちょうど観たいと思ってた映画もあったし、一緒に観ることにしたのね」
「なんで最初からデートしてるの」
「いや、そいつとは幼なじみだから、男子として意識したことなかったし、何て言うの、仲の良い友だちみたいな、そういう印象が強くて」
「まあいいや、続けて」
相変わらず恋愛のこととなるとみどりは超積極的だ。すぐに聞き役に徹してしまう私だけど、今ばかりは私の姿勢が合わさって上手くバランスが取れてるように思えた。
「うん。でね、映画観てご飯食べて、何となくふらふらしてた時に、『俺、ずっとお前のことが好きだったんだ』って。最初あたし全然信じられなくて、そういう罰ゲームでもやらされたの? って聞いちゃったの」
さっきも言ってたけど、幼なじみとの出来事だからか、貴子は笑いながら話す。そのせいであまり緊張感がない。
「そしたら、真剣だって言うの。え? あたし? 本気で言ってる? って聞き返したら、すっごい真面目な顔で頷くんだよね。まああたしもさ、先輩のこと諦めてたし、彼氏出来たら良いなって思ってたからさ、悪くはないかもって思ってたんだけど、一応待って、って言ってあるんだよね」
貴子からしたらおかしくてならないんだろうけど、私とみどりにはその感覚がどうにも分からない。まあそもそも、圧倒的に綺麗な貴子の恋愛感覚なんて、私たちに分かるはずもないんだろうけどさ。幼なじみなんてポジションにいようものなら、むしろ惚れない方がおかしい気がする。
「でも貴子が幼なじみとか、恋しないはずないよねー」
まさに思ってたことをみどりが言ってくれた。私もうんうん、と頷く。
「でも性格とか言動とか、幼なじみなら知ってるわけじゃん? それをふまえた上で好きになるとか、あいつも結構物好きだと思うんだよね」
「まあ確かに、貴子は見た目と中身が一致してない感じはするよね、菜緒」
なんでそこで私に振るの!
「そ、そりゃ思ってたのとはちょっと違うかも、って最初は感じたけど、むしろそっちの方が私としては仲良くしやすくて良かったかな。貴子が見た目通りだったら、遠慮しちゃってあんまり話しかけられなかったりしそうだし」
「あー、生徒会長とかそんな感じだよね。ちゃっかり彼氏作ってたけど」
みどりの吐き捨てたような言い方は、若干藤原さんを敵認定してるような感じだった。あれか、麗音似のイケメンと付き合ってるからか。
「ところで、その幼なじみ君ってイケメンなの?」
でも、貴子の恋については否定したいわけではないらしい。
「え、どうなんだろう。あたしからしたらそういうの本当意識したことない相手だからさ」
「写真とか持ってないの?」
さすがにずっと聞き専でいるのも変な気がして、私も気になったところを突いてみることにした。
「ああ、写真? あるよ」
貴子がこっちに向けたスマホの画面を、二人でじっと見つめる。みどりがスマホの正面に顔を出そうとするから、斜め左から見ることになった私にはそれほどハッキリとは見えなかったけど、
「は? 普通にイケメンじゃん!」
感想としてはみどりと一致していた。多分、十人に聞いたらほとんど全員イケメン認定すると思う。
「イケメンなんだ、あいつ。言っといてあげよ」
貴子はとくに喜ぶ様子もなく、むしろ彼がイケメンだと言われてることにおかしさを感じているふうだ。
「で、どう? 付き合った方が良いと思う?」
理由としては幼なじみだからそんな感覚も湧かない、ってものなんだろうけど、私たちからしたら、美少女だからこそ思ってしまうような、贅沢な悩みに聞こえてしまう。彼で手を打って良いのかな、的に変換されてしまうのだ。
「むしろ要らないんだったら私に欲しい」
みどりは真顔で言う。本当面食いで人を選ばないんだもんなぁ……悪いイケメンに遊ばれないか心配だ。少なくとも向こう一年はその心配はない、はずだけど。
「断る理由も目立ってないけど、何か、新鮮味が無いって言うの? 大体分かりきっちゃってるし。そもそも、あいつのどこに今さらときめくの? って思いが強いんだよね」
その言葉は、今の私の気持ちを表しているようにも感じられた。
「でも、付き合う気がないわけじゃないから、こうやって私たちに相談してるんだよね?」
だからだろうか。私は貴子が付き合わないという選択肢を素直に取らないことの理由を知ろうとしていた。
「あいつと一緒だったら、楽しいことには違いないかな、って思うからねー。相性はさ、良いと思うし。そもそも幼なじみって言ったって、仲が良いからそういう存在だって思ってられるわけだし。嫌いな奴をそうは表現しないじゃん?」
貴子は艶やかな唇をストローにつけた。終始上がったままの口角を見れば、この話をするだけでも貴子が幸せを覚えているのが分かる。
「もっかい聞くけど、付き合うべき? それとも、これくらいの気構えだったらやめた方が良い?」
「私は付き合わないとかもったいないと思う」
私の知る未来では、二人は別れてしまう。原因は確か、彼の方が浮気したから、とかだったはずだ。いったい貴子の何が不満だからといって、そうなったんだろう。
「菜緒は?」
貴子に見つめられて、ドキリとする。これだけ綺麗なのに、彼はどうして他の子に気を移してしまったんだろう。貴子はどうして、彼に気をそらさせてしまったんだろう。
「学校とか違うわけだけど、それでも上手く付き合っていける自信はあるの?」
「菜緒って結構現実的だよね、考え方」
貴子はそういうことは考えていなかった、とでも言いたげに目を丸くした。
「でも、大事なことじゃない? ずっと付き合ってくなら」
「確かにね。うーん、どうだろう。上手く行かない未来とか、想像つかないんだよね」
そう。
そうだった、私たちも。
あんなことになるなんて、考えられなかった。
涼真のことを知る度に、もっと愛しさが募っていって。
こんな日がずっと続けば良いって、思い続けた毎日だったのに。
些細なぶつかりはあっても、亀裂が入るようなことはなかったはずなのに。
気が付けば、手遅れになっていた。
「だったら、大丈夫なんじゃないかな」
でも、貴子にあげられる言葉は、それくらいしかなかった。
別の未来で起きたことを、別の過去の貴子に言ったところで、仕方がない――ううん、ただ、私は都合の良い言葉だけ与えたかっただけだ。
何より、そんな未来には至らないって、信じたかっただけかもしれない。
「二人がそう言うなら、付き合っちゃおうかな。何か、変な感じだけど。あいつが今さら彼氏なんて、本当」
いつか覚める夢でしかないんだろうか、恋なんて。
それを覚悟して望むべきもので、一度始まってしまった恋には、終わりが来るものと言い聞かせて待つしかないんだろうか。
「ちゃんと幸せになってよ?」
「大げさだよ、菜緒。結婚するわけじゃないんだから」
「だ、だよね、あはは……」
あの貴子も、同じようにこんな世界に来ていたりするんだろうか。
彼とやり直せる未来を、選び取るんだろうか。それとも、全く違う未来を選ぶんだろうか。
この世界じゃ、私、ひとりぼっちだ。
こうして友だちと一緒にいても、私だけが、世界を鮮やかに見ていられない。
「さーて、貴子の恋愛相談も無事終わったわけだし、今度は菜緒の恋愛事情も根掘り葉掘り聞いちゃいますかー!」
「お、いいね、あたしもさんせーい」
二人は小さく手を叩いた。何もありがたくない。
「え、わ、私は良いよ、何も目新しいこと出てこないって」
「またまたー、菜緒が柳君のこと気にしてるの、私はよーく知ってるんだからねー?」
「え、菜緒って柳が好きなんだ?」
「ち、違うって、柳君は、ちょっとだけ良いかもって思ったことがあるくらいで、そんな」
「ほーう、どこが良いって思ったのかにゃー?」
適当に誤魔化したら良かったのに、私は考えてしまった。
ふいに視線が重なって胸をときめかせて――
映画館でそっと手を繋いで鼓動の速さを知って――
隣を歩く横顔に言いようのない愛おしさを感じて――
球技大会で頑張る姿にいつもと違う嬉しさを覚えた――
思い浮かんだのは、全部、もう一人の涼真の姿ばかり。
「どこが、良いんだろう」
「え、何かないの? キュンときたエピソードみたいなのとか」
「う、うん、何となくだから……」
同じはずなのに。
一緒にいれば、同じようにそうなるはずなのに。
〝でも、見た目とか声じゃない部分に、きっと揺らがない何かがあるから、ちゃんと自分だって感じると思う〟
同じじゃ、ないっていうの?
きっと揺らがない何かに、まだ気付けてないだけ。ただそれだけのことのはずなのに、私には、この世界の涼真が、私の知っている涼真とは違うという強迫観念めいたものが押し寄せてくるように感じられてならない。
「まあ、これから、だんだんどこが好きかってことはハッキリしてくるんじゃないの? 普通に生きてるだけでそんなエピソードとか、あるわけないって」
私は貴子が言ったことに、ただ無心で頷いた。何だかそれは、縋っているようだった。
「さ、あたしらはこうやって話したわけだし、当然、みどりのも話してくれるんだよね?」
「私はそりゃ麗音一筋でして?」
「今日という今日ばかりはその逃げ、許さないんだからね」
「ひ、ひぃぃ!」
私は無理に笑顔を作って、この日常の中に溶け込むことを選んだ。
この世界には、涼真と付き合い直して、失敗しない道を辿るために来たはずだったけど。
何だかもう、そんなふうにしたいとも思えなくて、だったらいっそのこと、この世界に留まることで、あの辛い現実と向き合うことから逃げることだけが、今の私の願いだった。
たかが日付に特別さを感じる心を、不便だと思った。
一年後の今頃、カレンダーにはピンクの蛍光ペンで記念日だと書き記されていたはずだ。
真っ白な今日の日付を見つめて、懐かしく、そして痛ましく思う。
もう既に付き合い始めの頃のような熱情はなかったけど、一周年という日を祝うだけの愛しさは、まだ持ち合わせていた。
八月十二日。
花火大会の今日、告白したのは、私の方からだった。
別にいつだって良かった。お互い、薄々自分たちの気持ちは分かってたはずだし、きっかけさえあれば、そうなるのは必然のようにも思えた。それでも何か、口実めいたものが欲しくて、私たちはその時を待っていた。
でもそれは、あくまでも歩み寄れていた私たちの間で起こったことで。
何の予定もない今の世界では、私たちはそうはならないだろう。
〝いないな〟
結局この世界で分かったことは、涼真の気持ちは誰にも向いていない、ということだ。多分、その言葉通りに、他に誰か好きな相手がいるわけでもないんだろう。
ここにいることを、私の脳が見せる夢だと言い聞かせてやまなかった頃、ここに来た意味を考えたことがあったっけ。
都合の良い、夢よりももっとよく出来た場所だと思いたい今の私には、その意味が、分かりかけてきたようにも思う。それはきっと、あまりにも単純で、簡単で、そして、どうしようもなく分かりきったものなんだろう。
私はベッドに背を預けた。ぽすっと枕に頭が収まると、電気をつけないせいで陰った天井が見えた。虚しいばかりの私の感情のように、暗いばかりで何もない。
考えても考えても、いやむしろ、考えれば考えるほど、自分は手に負えないどうしようもない馬鹿で、やることなすこと、全部ダメな方向に向かうんじゃないか、って気がする。
無理になったら、はいおしまい、ってするだけで済ませられる、そんな簡単な心に生まれたかった。
いつだってそうだ。
幼い頃に習ってたピアノも、難しい曲になってくると上手く弾けなくなって、でもやめるにやめられなくて、最後には後ろ足で砂をかけるようにして教室をやめた。それでも自分の中では、やめなかった方が良かったのかもしれない、なんて気持ちがいつまでも大きな顔をして居座ってて、結局、ピアノを見るのも嫌になってしまった。
ハッキリ終わらせることができないから、いつまでも尾を引いて苦しむことになる。
あっさりと割り切って、何事もなかったかのように振り切って前に進むことができれば良いのに。
でも私には、そうはできない。
悩んで、考えて、思い留まって。
終いにはこんなところに来ることにまでなって、でもここですら、何も為せない。
私はただ――
机の上に置いていたスマホが振動して、嫌な音を立てる。私は腰を立てて、息を遠く吐くと、立ち上がってスマホを取りにいった。
みどりからの着信だった。
「もしもし」
「あ、菜緒?」
何やらガヤガヤした音が聞こえる。人混みの中にでもいるんだろうか。アナウンスの音がするところからして、ショッピングモールか何かにいるのかもしれない。
「今日暇?」
「今日っていうか、今日も、でしょ」
「まあそうなんだけど!」
かなりざわついたところだからか、みどりは声を張って喋ってくる。私の部屋は静かで仕方ないから、耳元がうるさくてかなわない。仕方なく、スピーカーホンにしてスマホを机の上に戻した。
「で、暇?」
「忙しい、って言いたいところだけど、何も入ってないよ」
「おー、じゃあ今日の花火大会、一緒に行く?」
私は少し、行きたくないな、と思ってしまった。涼真とならともかく、そうでないならかえって気分を落ち込ませるだけだろう。
でも、このまま家にいたら、花火大会に行くよりずっと陰鬱な時間が増えるような気がした。これでも、外を出歩いたり誰かと話してる間は、しんどい気持ちがいくらかはマシになる。
「まあ、良いけど」
「貴子も誘ったんだけど、例の彼と行くって断られたー」
「昨日の今日で……早いね」
二人の行く末は、どうなるんだろうか。この世界では、二人が上手く行けば良いのに、なんてお節介なことを考えてしまう。
「ま、そういうことだから、六時に中央駅ね、よろしく」
そう言うと通話は勝手に終えられた。その時間は無理だとか、場所が他のところの方が良いんじゃないかとか、私に全く言わせてくれないのが、本当にみどりだと思う。
花火大会、か。
てっきり行かないものだと思ってたのに、なんでこう、行くような状況を作ってくれるんだろうか。私の知ってる過去では、みどりの状況としては今と同じだったはずなのに、誘いの電話なんてかかってこなかった。他の誰だって、私を花火大会の場所に連れ出そうとはしなかった。
それが、こうしてかかってきたのは、何か意味のあることのように思えてならない。
考えすぎだろう。
私は一人で首を横に振って、その時間近くまで眠ることにした。
辛い気持ちを自室で忘れられる最終手段は、意識を遮断することだけだった。
どうせなら寝過ごして行かないという選択肢も一瞬脳裏をかすめたけど、結局はスマホのアラームをかけて、私は目を瞑った。
夢は見なかった。
いや、見たのかもしれない。
目元を濡らしていた涙は、後者だと言ってるようなものだった。
着替えなきゃ、という段になって、かつての私は浴衣を着て家を出たのを思い出した。
私の浮き足立った姿を母が見て、相手がいるなら浴衣を着ていけ、なんて言って着付けてくれたのだ。私のことなんて普段ほとんど気にしないのに、大事なところにはあっさり気付くなんて、心底ずるいと思った。
でもこの世界では、母は友だちと温泉旅行に行っていて家にいない。
何もそこまでしなくたって良いのに、今日がそういう日でないことを、わざわざ思い知らされてるように思えてくる。
精一杯めかしこんだあの日に対して、私は当てつけのようにラフな格好を選んだ。
身に付けるものもほとんどしないで、パッと家を出た。
電車に乗り込めば、同じように花火大会に行くんだろう人たちで溢れかえっていた。和服なんてもうほとんど着ない日本人には、浴衣さえ似合わないように思えてならない。私もまた、誰かにそんなふうに思われてたんだろうか。
私はつり革に手を軽くかけながら、ただ無心で電車に揺られた。
せめてイヤホンでも持ってくれば良かったかもしれない、と少し反省した。これだけたくさん人がいると、話し声も随分煩わしい。中にはゲスい会話を平然とする男の人たちもいて、品性を疑いたくて仕方なかった。
次の駅は大きいこともあって、さらに多くの人が乗り込んできた。わらわらと次々押し寄せてくるおかげで、既に乗っていた人たちはどんどんと押し潰される形になっていく。生温かい感触を直に背中に感じたかと思えば、発車と同時に誰かの足が私の上に乗っかって痛みが走った。
我慢だ我慢、と言い聞かせたところで、
「より戻すって……ありかな」
「柿崎と? え、まだ好きなの?」
後ろからそんな会話が聞こえてきた。顔は見えないけど、声の感じからして、中高生くらいだろうか。
「別れてから、崇人のこと、やっぱり好きだったんだって、思ったの」
やっぱり、好き。
誰かにそんなふうに言えるだけ、この人は強いな、って思った。
「向こうはどうなの。その気はありそう?」
「分かんない。でも、伝えたい。ちゃんとまだ好きだって、言いたい」
私はほんのり顔を横に向けるフリをして、さらに目だけを後ろの方へやった。
まだ中学生になりたてのような、幼さを残した子だった。
「間違えたかもしれないけど、もう一回、やり直したいってちゃんと伝えたいの。言わなかったらきっと、ずっと後悔するから」
「そっか。じゃあ、絶対そうした方が良いね。大丈夫、芹香なら、きっと上手くやれる」
頑張って、なんて私も心の中で応援していた。
私にも、そんな強さがあったら――
そう思いつつも、正面の窓ガラスに映った自分の顔を見たら、とてもそうできるような強さを持っていないと思ってしまった。幸薄そうな、酷い顔だ。
それから列車が駅に着くまで、私はただひたすら俯き続けた。強い彼女の言葉を、聞きたくもないのに聞き続けて。
ドアが開くとすぐ、私は我先にと逃げ出すようにして列車を降りた。
もう泣いているのか、泣いていないのか、自分でも分からない。頬に手を当ててみれば渇いていたけど、とても信じられなかった。
改札を抜けてすぐ、柱の手前で待つみどりを見つけられなかったら、きっと膝から崩れ落ちていた。
「聞いてよ、菜緒。イケメンが私の方に向かってどんどん近付いてきてね、お、これはもしかして噂に聞くナンパでは!? ってわくわくしてたらね、直前で右に逸れて、モデルみたいな子の腰に手を回したの。最初からそっちの方に真っ直ぐ行けって思わない?」
「な、何その新手の逆ギレ……」
私は半笑いを浮かべながら、ブレないみどりのスタイルに心底感謝した。それと同時に、彼女の呑気な考え方に憧れもした。
「イケメンはもっと自分の与える影響を考え――はぁっ」
唐突に大きく息を吸い込むものだから、私はびっくりした。
「ど、どうしたの」
「あ、あれ、あれ……!」
左手の人差し指が震えながら指した方を見る。片足の裏を柱に付けながら、スマホの画面に目を落としている男性の姿が見えた。サングラスをしてるものの、その雰囲気でもイケてる感じはひしひし伝わってきた。
「れ、れれれ、麗音……」
「まさか。こんなところに来てるわけ」
「間違いないって! 私が見間違えるわけないじゃん!」
「う、うん、そっか」
その勢いに気圧されて、思わず私はのけぞった。
「絶対人待ちだよね、はわわ、麗音も恋人とデート……そんなのショックで生きてけない……」
麗音らしき彼は、ふいに顔を上げると、柱から離れた。そしてそのまま私たちの脇を通り抜けた。
「やっぱり……麗音だ」
周囲にいた人たちも、まさか彼が麗音だとは思わないのか、はたまた知らないのか、全く気にする様子はない。
そのまま彼が行った方へ目をやると、友人らしき二人と合流していた。二人は楽しげな表情をしてるものの、当の麗音はつまらなさげだった。
「嘘、ハンニバルとおせんべまで……」
「え、誰」
初めて聞いた名前だ。しかも二人目の方は、私の聞き間違いじゃなかったら、随分変な名前だ。
「麗音が歌い手時代からずっと仲良くしてる、人気歌い手だよ!」
「そ、そうなんだ。でも、良かったね、デートじゃなくて」
「うん、ってかむしろ胸アツ? あの三人の貴重なプライベートシーンをこうやって見れちゃったなんて、もう花火見ずに帰っても全然オッケーなくらい!」
「いや、誘ったのみどりじゃん。ちゃんと見て」
私はみどりの額に軽くチョップを落とした。
「でも菜緒、偶然で麗音に会えるとか、奇跡の中の奇跡なんだよ? リアル一期一会なんだよ?」
「いや、別に会ってはないじゃん」
「こんなのファンからしたら、会ってるのも同じだよ!」
謎理論を破るつもりには到底なれなくて、私は適当に頷くに留めた。それよりも、みどりの言った奇跡という言葉が、私の心には深く響いていた。
たとえそれが有名人でなくても、一人の人に逢うのは、奇跡みたいなもので。
誰かとの時間が始まるのは、その時、偶然出逢ったから。出逢えたから。
「あ、でもさ、ここでこうやって会えたりするってことは、いつか私にもとんでもないチャンスがあるかも、ってことだよね?」
みどりの心には、やっぱり麗音みたいな人が良いって思いがあるんだろう。結局涼真になびかなかったのは、そういう理想の高さ故なのかもしれない。
「それこそ本当に一期一会じゃないじゃん」
「良いの良いの、なんとなくで!」
私は適当に合わせながら、先に会場に向かって歩きだした。
「あ、ちょっと待ってよ!」
その偶然が、この世界でもあったということだけど。
あの世界とは、形を変えていた。
そのことがどんな意味を持つのか、私にはもう、分かりきっているような気がした。
飲み物買ってくるね、とみどりは私を置いてコンビニに入ってしまった。
そんなの私も一緒に行くのに、とは思いつつ、私はなぜか店の中に入らずに待っていた。
駐車場からぼーっと見上げた空は、まだいたって静かだ。
ちらと腕時計に目をやれば、予定時刻まで後二、三分というところだった。
「桜木」
これが私のことを描いた物語だとしたら、あまりにもわざとらしい演出だと思った。
この日、この瞬間に、できすぎた形で私たちをめぐりあわせるなんて。
「偶然だね、こんなところで会うなんて」
「ああ、俺もびっくりだ。何て言うか、世界は狭い、って感じだな」
視界の端に、みどりを捉えた。私と涼真が一緒にいるのを見かけたからか、にまにましながら手を振っている。さしずめ、ごゆっくりどうぞ、とでも言いたい感じなんだろう。みどりはそのまま少し離れたところにあるベンチに腰掛けて、私たちの方には近付いてこない姿勢を示した。
仕方なく、私は涼真に視線を戻した。
「一人で来たの?」
「いや、友だちと一緒だったんだけどな、彼女と予定入れてたの忘れてたらしくて、途中で放ってかれたんだ。そのまま帰っても良かったんだけど、折角だから、見て帰るか、って」
そう耳にして、私はそれでも安堵する自分がいるのをおかしく思った。そっか、この涼真にはそういう相手、やっぱりいないんだ、って。
「桜木は? 誰かと一緒なのか?」
「ああ、うん。みどりと」
「綾先とか。お前ら、仲良いもんな」
「そう見える?」
「いつも一緒にいるだろ」
「そう、かな」
「ああ」
話はそこで途切れた。多分、私の方に非があるのは間違いなかった。二回目にここに来てからは、ずっとこの涼真との距離感の取り方に思い悩んでばかりだから。
見ているとは気付かれない程度に瞳に映す。やっぱり、涼真であることに変わりはなく見える。ただ、過ごした時間が違うということくらいしか思いつかない。
きっと、きっと――
付き合ってしまったら、二人の違いなんて分からなくなるだろう。それで、後は私が、舵取りを間違えなければ――
私たちの雰囲気は、決して悪くない。私の知る過去でだって、明白に涼真が私を好きだったかなんて分からないまま、こうやって告白したんだ。同じようにしたら、あるいは――
「ねえ――」
言いかけて、私は口を噤んだ。
気付いてしまったから。
その言葉は、今目の前にいる人にあげるべきではない、って。
「ごめん、何でもない」
違う。
目の前にいる涼真は涼真のようだけど、違う。
涼真の瞳には、私の向こうにいるみどりが映っていた。
涼真は少しだけ顔に陰りを見せると、私を通り越してみどりを見つめたまま、こう言った。
「俺さ、綾先のことが好きなんだ」
花火が上がった。
ドーンと弾けるような音の後、パラパラと落ちる火に、涼真の顔が照らされる。
「桜木、綾先と仲良いから、どうやったら付き合えそうか、アドバイスとか――お、おい、桜木!」
気が付けば、私は走りだしていた。
涼真と同じ顔をして、別の誰かを好きだと言うのを口にするのを見た瞬間、私の中で弾けた思いがあった。
気付いた瞬間には、耐えられると思った。でも、無理だった。中身は違っても、外身はあくまでも涼真そのものだから。私には、とても、耐えられるわけがなかった。
何度も人とぶつかりそうになって、その度に立ち止まってしまいたくもなって、でも涼真が追いかけてくるんじゃないかと思ったら、そうもできなかった。
分かっていた、分かっていたのに。
この世界は、恋愛に関わることは現実とは違う流れを辿るなんてこと。
次々と打ち上がる花火の音が、私には脅迫めいて聞こえてならなかった。
最初にみどりを助けた時点で、この世界での運命は決していたんだ。たとえみどりが涼真に心を寄せなくても、涼真の心は動いていた。でもそれを、涼真はすぐに私に分からせるほど分かりやすくはなかった。あれだけすぐに顔に出すのに、恋心だけは、気付かせてくれなかった。
それも、当然のことだったのかもしれない。だって、私は涼真の本心を上手く引き出せたことなんてほとんどないのだから。
あれから、同じ小道具班になったり、先輩に憧れていた貴子がやっぱり幼なじみの彼と付き合ったりしたせいで、この世界が元の世界と違うということから目をそらしていた。
息が切れて、私は足を止めた。膝に手を当てて、何度もぜえぜえとみっともない呼吸をする。そんな私には目もくれず、周囲の人たちは次々と花が咲く空を、綺麗だと口にする。
この世界の涼真は、私の知る涼真とは違う。
そんなこと、初めて来た時に可能性として思い浮かんでいたはずなのに。
現実の辛さを厭うあまり、勝手に都合の良い場所だと思い変えて、逃げてきてしまった。
私が涼真といられるのは、私が好きになった涼真といられるのは、他のどこでもなく、あの世界しかない。
あの世界にしか、私の涼真はいない。
たとえ失いかけているとしても、私を好きになってくれた涼真は、あそこにしかいない。
戻らなきゃ。
帰らなきゃ。
涼真に、私の本当の気持ちをもう一度ぶつけなきゃ。このまま終わらせたくない、あの頃とまでは行かなくとも、これからも一緒に居続けたいと。
私の心は無意識に階段を探していた。
階段だ。階段から落ちれば、また私は元いた世界に戻れるんだ。
少し先に、私は地下鉄の入口を見つけた。
あそこなら。
私はもう一度両肢に力を込め、その前まで走った。
段数の多さと高さを思えば、これからやろうと決めた心は萎縮しそうになった。
ダメだ。そうやって痛みを厭って避けてきたから、私はこんなになるまで自分をダメにしてしまったんだ。
私は首を横に振って、目を瞑って足を前に出した。一歩目はまだ、すぐ次の段についてしまった。ならばもう一歩と、恐れを振り払うように下ろした。意識は同じように次の段差を踏むと思っていたものの、そうはいかず、バランスを失った身体はそのまま前に放り出された。
今度こそ。
逃げずに、涼真と向き合うんだ。
地面に叩きつけられた激痛は、じんわりと私の意識を蝕んでいった。
「柳君」は「涼真」なのか。
カコン。
疑う余地なんてないはずなのに、小難しく考えているだけなのに、私は踏ん切りがつかないでいた。
カコン。
このままこの世界の涼真を、元いた世界の涼真だと思って、恋の焼き直しをしても良いのか。
カコン。
でもそれ以上に、こっちの涼真との恋は、そもそも叶うのか。
カコン。
「ちょっ、菜緒強すぎだって! なんでどんなの打っても返してくるの!」
カコン。
「え、特に意識してないけど」
カコン。
「こんのっ!」
みどりは体を捻って横に大きくカーブした球を放ってきた。
私はテーブルから距離を取って、緩い力で打ち返した。当たり方がまずかったのか、ピンポン球は大きくアーチを描いた。
「もーらいっ!」
ここぞとばかりにみどりはスマッシュを打ち込んだ――ものの、私は動かなかった。
「アーーーウトォォォッ、もー! 菜緒強いって! はい! もう菜緒アウト! 貴子イン!」
しっしっと指先であしらわれて、私はソファに座っていた貴子と変わった。
すれ違いざま、ごくごく普通にラリーしてたんだけどな、と訴えたい目をすると、貴子はダメダメ、と言いたげにかぶりを振った。
私は貴子のいた場所に腰を落ち着けた。
横に置いておいたコーラを啜ると、渇いていた喉に炭酸が弾けて痛かった。
みどりのサーブで始まったラリーは、貴子が打ち返せずに終わった。
みどりが歯ごたえ欲しさに私の方を見つめてきた。でも私は首を横に振って断った。これで貴子の出番を奪うような真似をしたら、貴子もつまらないだろう。
仕方なくみどりが背を向けたのを見てから、私は鞄からスマホを出した。ロック画面には、八月十一日と出ている。本来なら、明日は涼真に告白する日のはずだ。するだけなら、別に簡単だろう。でも、そのための空気というか、雰囲気がまるで出来ていない。
文化祭の準備で、何度となく顔を合わせたし、一緒に作業もした。それでも、距離が縮まるような出来事は無く、いたずらに日数を重ねているだけだった。
関係は悪くないと思う。意識しすぎているだけなのかもしれない、とも感じる。告白したあの時も、涼真が私のことを好いてくれているのかなんてことは、正直はっきりとは分からなかったはずだ。ただ、想いを伝えたいような雰囲気になったから、率直に伝えてみただけのことで。
だけど、一度恋仲になったからこそ、何となく、涼真の気持ちがそうだった頃のものとは違うと分かってしまうような気がした。
コツン、と何かが足に当たる感触があった。ピンポン球だった。私がおもむろにそれを拾うと、
「すみません」
と声がした。顔を上げれば、爽やかな感じの大学生らしき男の人がいた。涼真の方が断然かっこいい。
どうぞ、と言って手のひらの上にピンポン球を置くと、彼はお礼と共に軽く頭を下げて、元いただろう台のところへ帰っていった。
ちょうど向かい側に、同じように軽く会釈したのは、きっと彼の恋人なんだろう。
二人は小気味よくラリーを始めた。まだ付き合いたてなんだろうか、初々しそうな感じが伝わってくる。ちょっとしたことでも微笑みがこぼれるし、遠慮みたいなものが端々に見えて、まだまだ幸せが増えていくように思えた。
私は、今の涼真を好きなんだろうか。
確かに、二人を別人だとは思えない。でも、この世界の涼真に、良くしてもらったことはあっても、どうしても伝えたい想いがある、といったような、胸のときめきや痛みを感じさせられたことはない気がする。
そう、そうだ。仮に二人がまったく同じ涼真だったとしても、それぞれとの間に起きた出来事は、一緒じゃない。
でも――
劇的な物語が私たちの間にあったわけでもない。ただ一緒に過ごした時間の中で、徐々に心惹かれるようになっていっただけのことで。きっかけこそ、倒れた私を保健室まで運んでくれて、心配して傍にいてくれたっていう、ドラマチックなものだったものの、そこからは別に、誰かに語れるような、特別なものなんてなかった。
ただ人として、柳涼真という存在を、ぼんやりと、でも確実に好きになっていった。
だから、今の涼真も、変わらない。
変わらないはずなのに。
ここに来たことを間違いだったんじゃないかと、問い続ける自分を否定出来ないでいる。
「やっぱりあたし、スポーツはてんでダメ。菜緒、変わってくれる? あ、今度は手加減してあげて。じゃないとまたあたしが呼び戻されるハメになるから」
貴子は戻りがてらそう言った。ラリーはほとんど続かなかったというのに、ひどく汗を流している。
「別に、本気出したりとかしてるわけじゃないんだけど……」
「じゃあ、手でも抜いてあげて」
わざと打ち損じでもすれば良いのか、と思ってはみたものの、それはそれで技術が必要な気がする。卓球経験者でもないし、自分に出来るごく普通のプレイをしてるだけなんだけどな、と心の中でこぼしながら、私はまたひたすらにみどりの打った球を打ち返しては、みどりに怒られた。
「二人に相談があるんだけど」
注文した各自の飲み物が運ばれてきたところで、貴子が真面目なトーンで言った。
「何?」
みどりは貴子がしようとしてる話題を分かってるのか、身を乗り出して聞いた。そのおかげで、私も大体の想像がついた。
「幼稚園の時から仲が良くて、小中と一緒だった奴がいるんだけど、あ、今は高校別ね、そいつに、告白されたの」
ハッとした。それって、もしかしなくても、現実の貴子がこの前別れたっていう、例の彼に違いない。
私はてっきり、この世界では全ての恋が違うように傾くのだと思っていた。貴子は部活の先輩と付き合うことになる、そんなふうに。だけど、必ずしもそうではないのかもしれない――そもそもそうじゃないと、涼真とこの世界では付き合えないことになるわけだし。
「え、ねえねえ、どんなふうに?」
横からじゃはっきりとは見えないけど、いつもみたく目を輝かせてるんだろうみどりの瞳が思い浮かんだ。
「久々に会いたいって言うから、ちょうど観たいと思ってた映画もあったし、一緒に観ることにしたのね」
「なんで最初からデートしてるの」
「いや、そいつとは幼なじみだから、男子として意識したことなかったし、何て言うの、仲の良い友だちみたいな、そういう印象が強くて」
「まあいいや、続けて」
相変わらず恋愛のこととなるとみどりは超積極的だ。すぐに聞き役に徹してしまう私だけど、今ばかりは私の姿勢が合わさって上手くバランスが取れてるように思えた。
「うん。でね、映画観てご飯食べて、何となくふらふらしてた時に、『俺、ずっとお前のことが好きだったんだ』って。最初あたし全然信じられなくて、そういう罰ゲームでもやらされたの? って聞いちゃったの」
さっきも言ってたけど、幼なじみとの出来事だからか、貴子は笑いながら話す。そのせいであまり緊張感がない。
「そしたら、真剣だって言うの。え? あたし? 本気で言ってる? って聞き返したら、すっごい真面目な顔で頷くんだよね。まああたしもさ、先輩のこと諦めてたし、彼氏出来たら良いなって思ってたからさ、悪くはないかもって思ってたんだけど、一応待って、って言ってあるんだよね」
貴子からしたらおかしくてならないんだろうけど、私とみどりにはその感覚がどうにも分からない。まあそもそも、圧倒的に綺麗な貴子の恋愛感覚なんて、私たちに分かるはずもないんだろうけどさ。幼なじみなんてポジションにいようものなら、むしろ惚れない方がおかしい気がする。
「でも貴子が幼なじみとか、恋しないはずないよねー」
まさに思ってたことをみどりが言ってくれた。私もうんうん、と頷く。
「でも性格とか言動とか、幼なじみなら知ってるわけじゃん? それをふまえた上で好きになるとか、あいつも結構物好きだと思うんだよね」
「まあ確かに、貴子は見た目と中身が一致してない感じはするよね、菜緒」
なんでそこで私に振るの!
「そ、そりゃ思ってたのとはちょっと違うかも、って最初は感じたけど、むしろそっちの方が私としては仲良くしやすくて良かったかな。貴子が見た目通りだったら、遠慮しちゃってあんまり話しかけられなかったりしそうだし」
「あー、生徒会長とかそんな感じだよね。ちゃっかり彼氏作ってたけど」
みどりの吐き捨てたような言い方は、若干藤原さんを敵認定してるような感じだった。あれか、麗音似のイケメンと付き合ってるからか。
「ところで、その幼なじみ君ってイケメンなの?」
でも、貴子の恋については否定したいわけではないらしい。
「え、どうなんだろう。あたしからしたらそういうの本当意識したことない相手だからさ」
「写真とか持ってないの?」
さすがにずっと聞き専でいるのも変な気がして、私も気になったところを突いてみることにした。
「ああ、写真? あるよ」
貴子がこっちに向けたスマホの画面を、二人でじっと見つめる。みどりがスマホの正面に顔を出そうとするから、斜め左から見ることになった私にはそれほどハッキリとは見えなかったけど、
「は? 普通にイケメンじゃん!」
感想としてはみどりと一致していた。多分、十人に聞いたらほとんど全員イケメン認定すると思う。
「イケメンなんだ、あいつ。言っといてあげよ」
貴子はとくに喜ぶ様子もなく、むしろ彼がイケメンだと言われてることにおかしさを感じているふうだ。
「で、どう? 付き合った方が良いと思う?」
理由としては幼なじみだからそんな感覚も湧かない、ってものなんだろうけど、私たちからしたら、美少女だからこそ思ってしまうような、贅沢な悩みに聞こえてしまう。彼で手を打って良いのかな、的に変換されてしまうのだ。
「むしろ要らないんだったら私に欲しい」
みどりは真顔で言う。本当面食いで人を選ばないんだもんなぁ……悪いイケメンに遊ばれないか心配だ。少なくとも向こう一年はその心配はない、はずだけど。
「断る理由も目立ってないけど、何か、新鮮味が無いって言うの? 大体分かりきっちゃってるし。そもそも、あいつのどこに今さらときめくの? って思いが強いんだよね」
その言葉は、今の私の気持ちを表しているようにも感じられた。
「でも、付き合う気がないわけじゃないから、こうやって私たちに相談してるんだよね?」
だからだろうか。私は貴子が付き合わないという選択肢を素直に取らないことの理由を知ろうとしていた。
「あいつと一緒だったら、楽しいことには違いないかな、って思うからねー。相性はさ、良いと思うし。そもそも幼なじみって言ったって、仲が良いからそういう存在だって思ってられるわけだし。嫌いな奴をそうは表現しないじゃん?」
貴子は艶やかな唇をストローにつけた。終始上がったままの口角を見れば、この話をするだけでも貴子が幸せを覚えているのが分かる。
「もっかい聞くけど、付き合うべき? それとも、これくらいの気構えだったらやめた方が良い?」
「私は付き合わないとかもったいないと思う」
私の知る未来では、二人は別れてしまう。原因は確か、彼の方が浮気したから、とかだったはずだ。いったい貴子の何が不満だからといって、そうなったんだろう。
「菜緒は?」
貴子に見つめられて、ドキリとする。これだけ綺麗なのに、彼はどうして他の子に気を移してしまったんだろう。貴子はどうして、彼に気をそらさせてしまったんだろう。
「学校とか違うわけだけど、それでも上手く付き合っていける自信はあるの?」
「菜緒って結構現実的だよね、考え方」
貴子はそういうことは考えていなかった、とでも言いたげに目を丸くした。
「でも、大事なことじゃない? ずっと付き合ってくなら」
「確かにね。うーん、どうだろう。上手く行かない未来とか、想像つかないんだよね」
そう。
そうだった、私たちも。
あんなことになるなんて、考えられなかった。
涼真のことを知る度に、もっと愛しさが募っていって。
こんな日がずっと続けば良いって、思い続けた毎日だったのに。
些細なぶつかりはあっても、亀裂が入るようなことはなかったはずなのに。
気が付けば、手遅れになっていた。
「だったら、大丈夫なんじゃないかな」
でも、貴子にあげられる言葉は、それくらいしかなかった。
別の未来で起きたことを、別の過去の貴子に言ったところで、仕方がない――ううん、ただ、私は都合の良い言葉だけ与えたかっただけだ。
何より、そんな未来には至らないって、信じたかっただけかもしれない。
「二人がそう言うなら、付き合っちゃおうかな。何か、変な感じだけど。あいつが今さら彼氏なんて、本当」
いつか覚める夢でしかないんだろうか、恋なんて。
それを覚悟して望むべきもので、一度始まってしまった恋には、終わりが来るものと言い聞かせて待つしかないんだろうか。
「ちゃんと幸せになってよ?」
「大げさだよ、菜緒。結婚するわけじゃないんだから」
「だ、だよね、あはは……」
あの貴子も、同じようにこんな世界に来ていたりするんだろうか。
彼とやり直せる未来を、選び取るんだろうか。それとも、全く違う未来を選ぶんだろうか。
この世界じゃ、私、ひとりぼっちだ。
こうして友だちと一緒にいても、私だけが、世界を鮮やかに見ていられない。
「さーて、貴子の恋愛相談も無事終わったわけだし、今度は菜緒の恋愛事情も根掘り葉掘り聞いちゃいますかー!」
「お、いいね、あたしもさんせーい」
二人は小さく手を叩いた。何もありがたくない。
「え、わ、私は良いよ、何も目新しいこと出てこないって」
「またまたー、菜緒が柳君のこと気にしてるの、私はよーく知ってるんだからねー?」
「え、菜緒って柳が好きなんだ?」
「ち、違うって、柳君は、ちょっとだけ良いかもって思ったことがあるくらいで、そんな」
「ほーう、どこが良いって思ったのかにゃー?」
適当に誤魔化したら良かったのに、私は考えてしまった。
ふいに視線が重なって胸をときめかせて――
映画館でそっと手を繋いで鼓動の速さを知って――
隣を歩く横顔に言いようのない愛おしさを感じて――
球技大会で頑張る姿にいつもと違う嬉しさを覚えた――
思い浮かんだのは、全部、もう一人の涼真の姿ばかり。
「どこが、良いんだろう」
「え、何かないの? キュンときたエピソードみたいなのとか」
「う、うん、何となくだから……」
同じはずなのに。
一緒にいれば、同じようにそうなるはずなのに。
〝でも、見た目とか声じゃない部分に、きっと揺らがない何かがあるから、ちゃんと自分だって感じると思う〟
同じじゃ、ないっていうの?
きっと揺らがない何かに、まだ気付けてないだけ。ただそれだけのことのはずなのに、私には、この世界の涼真が、私の知っている涼真とは違うという強迫観念めいたものが押し寄せてくるように感じられてならない。
「まあ、これから、だんだんどこが好きかってことはハッキリしてくるんじゃないの? 普通に生きてるだけでそんなエピソードとか、あるわけないって」
私は貴子が言ったことに、ただ無心で頷いた。何だかそれは、縋っているようだった。
「さ、あたしらはこうやって話したわけだし、当然、みどりのも話してくれるんだよね?」
「私はそりゃ麗音一筋でして?」
「今日という今日ばかりはその逃げ、許さないんだからね」
「ひ、ひぃぃ!」
私は無理に笑顔を作って、この日常の中に溶け込むことを選んだ。
この世界には、涼真と付き合い直して、失敗しない道を辿るために来たはずだったけど。
何だかもう、そんなふうにしたいとも思えなくて、だったらいっそのこと、この世界に留まることで、あの辛い現実と向き合うことから逃げることだけが、今の私の願いだった。
たかが日付に特別さを感じる心を、不便だと思った。
一年後の今頃、カレンダーにはピンクの蛍光ペンで記念日だと書き記されていたはずだ。
真っ白な今日の日付を見つめて、懐かしく、そして痛ましく思う。
もう既に付き合い始めの頃のような熱情はなかったけど、一周年という日を祝うだけの愛しさは、まだ持ち合わせていた。
八月十二日。
花火大会の今日、告白したのは、私の方からだった。
別にいつだって良かった。お互い、薄々自分たちの気持ちは分かってたはずだし、きっかけさえあれば、そうなるのは必然のようにも思えた。それでも何か、口実めいたものが欲しくて、私たちはその時を待っていた。
でもそれは、あくまでも歩み寄れていた私たちの間で起こったことで。
何の予定もない今の世界では、私たちはそうはならないだろう。
〝いないな〟
結局この世界で分かったことは、涼真の気持ちは誰にも向いていない、ということだ。多分、その言葉通りに、他に誰か好きな相手がいるわけでもないんだろう。
ここにいることを、私の脳が見せる夢だと言い聞かせてやまなかった頃、ここに来た意味を考えたことがあったっけ。
都合の良い、夢よりももっとよく出来た場所だと思いたい今の私には、その意味が、分かりかけてきたようにも思う。それはきっと、あまりにも単純で、簡単で、そして、どうしようもなく分かりきったものなんだろう。
私はベッドに背を預けた。ぽすっと枕に頭が収まると、電気をつけないせいで陰った天井が見えた。虚しいばかりの私の感情のように、暗いばかりで何もない。
考えても考えても、いやむしろ、考えれば考えるほど、自分は手に負えないどうしようもない馬鹿で、やることなすこと、全部ダメな方向に向かうんじゃないか、って気がする。
無理になったら、はいおしまい、ってするだけで済ませられる、そんな簡単な心に生まれたかった。
いつだってそうだ。
幼い頃に習ってたピアノも、難しい曲になってくると上手く弾けなくなって、でもやめるにやめられなくて、最後には後ろ足で砂をかけるようにして教室をやめた。それでも自分の中では、やめなかった方が良かったのかもしれない、なんて気持ちがいつまでも大きな顔をして居座ってて、結局、ピアノを見るのも嫌になってしまった。
ハッキリ終わらせることができないから、いつまでも尾を引いて苦しむことになる。
あっさりと割り切って、何事もなかったかのように振り切って前に進むことができれば良いのに。
でも私には、そうはできない。
悩んで、考えて、思い留まって。
終いにはこんなところに来ることにまでなって、でもここですら、何も為せない。
私はただ――
机の上に置いていたスマホが振動して、嫌な音を立てる。私は腰を立てて、息を遠く吐くと、立ち上がってスマホを取りにいった。
みどりからの着信だった。
「もしもし」
「あ、菜緒?」
何やらガヤガヤした音が聞こえる。人混みの中にでもいるんだろうか。アナウンスの音がするところからして、ショッピングモールか何かにいるのかもしれない。
「今日暇?」
「今日っていうか、今日も、でしょ」
「まあそうなんだけど!」
かなりざわついたところだからか、みどりは声を張って喋ってくる。私の部屋は静かで仕方ないから、耳元がうるさくてかなわない。仕方なく、スピーカーホンにしてスマホを机の上に戻した。
「で、暇?」
「忙しい、って言いたいところだけど、何も入ってないよ」
「おー、じゃあ今日の花火大会、一緒に行く?」
私は少し、行きたくないな、と思ってしまった。涼真とならともかく、そうでないならかえって気分を落ち込ませるだけだろう。
でも、このまま家にいたら、花火大会に行くよりずっと陰鬱な時間が増えるような気がした。これでも、外を出歩いたり誰かと話してる間は、しんどい気持ちがいくらかはマシになる。
「まあ、良いけど」
「貴子も誘ったんだけど、例の彼と行くって断られたー」
「昨日の今日で……早いね」
二人の行く末は、どうなるんだろうか。この世界では、二人が上手く行けば良いのに、なんてお節介なことを考えてしまう。
「ま、そういうことだから、六時に中央駅ね、よろしく」
そう言うと通話は勝手に終えられた。その時間は無理だとか、場所が他のところの方が良いんじゃないかとか、私に全く言わせてくれないのが、本当にみどりだと思う。
花火大会、か。
てっきり行かないものだと思ってたのに、なんでこう、行くような状況を作ってくれるんだろうか。私の知ってる過去では、みどりの状況としては今と同じだったはずなのに、誘いの電話なんてかかってこなかった。他の誰だって、私を花火大会の場所に連れ出そうとはしなかった。
それが、こうしてかかってきたのは、何か意味のあることのように思えてならない。
考えすぎだろう。
私は一人で首を横に振って、その時間近くまで眠ることにした。
辛い気持ちを自室で忘れられる最終手段は、意識を遮断することだけだった。
どうせなら寝過ごして行かないという選択肢も一瞬脳裏をかすめたけど、結局はスマホのアラームをかけて、私は目を瞑った。
夢は見なかった。
いや、見たのかもしれない。
目元を濡らしていた涙は、後者だと言ってるようなものだった。
着替えなきゃ、という段になって、かつての私は浴衣を着て家を出たのを思い出した。
私の浮き足立った姿を母が見て、相手がいるなら浴衣を着ていけ、なんて言って着付けてくれたのだ。私のことなんて普段ほとんど気にしないのに、大事なところにはあっさり気付くなんて、心底ずるいと思った。
でもこの世界では、母は友だちと温泉旅行に行っていて家にいない。
何もそこまでしなくたって良いのに、今日がそういう日でないことを、わざわざ思い知らされてるように思えてくる。
精一杯めかしこんだあの日に対して、私は当てつけのようにラフな格好を選んだ。
身に付けるものもほとんどしないで、パッと家を出た。
電車に乗り込めば、同じように花火大会に行くんだろう人たちで溢れかえっていた。和服なんてもうほとんど着ない日本人には、浴衣さえ似合わないように思えてならない。私もまた、誰かにそんなふうに思われてたんだろうか。
私はつり革に手を軽くかけながら、ただ無心で電車に揺られた。
せめてイヤホンでも持ってくれば良かったかもしれない、と少し反省した。これだけたくさん人がいると、話し声も随分煩わしい。中にはゲスい会話を平然とする男の人たちもいて、品性を疑いたくて仕方なかった。
次の駅は大きいこともあって、さらに多くの人が乗り込んできた。わらわらと次々押し寄せてくるおかげで、既に乗っていた人たちはどんどんと押し潰される形になっていく。生温かい感触を直に背中に感じたかと思えば、発車と同時に誰かの足が私の上に乗っかって痛みが走った。
我慢だ我慢、と言い聞かせたところで、
「より戻すって……ありかな」
「柿崎と? え、まだ好きなの?」
後ろからそんな会話が聞こえてきた。顔は見えないけど、声の感じからして、中高生くらいだろうか。
「別れてから、崇人のこと、やっぱり好きだったんだって、思ったの」
やっぱり、好き。
誰かにそんなふうに言えるだけ、この人は強いな、って思った。
「向こうはどうなの。その気はありそう?」
「分かんない。でも、伝えたい。ちゃんとまだ好きだって、言いたい」
私はほんのり顔を横に向けるフリをして、さらに目だけを後ろの方へやった。
まだ中学生になりたてのような、幼さを残した子だった。
「間違えたかもしれないけど、もう一回、やり直したいってちゃんと伝えたいの。言わなかったらきっと、ずっと後悔するから」
「そっか。じゃあ、絶対そうした方が良いね。大丈夫、芹香なら、きっと上手くやれる」
頑張って、なんて私も心の中で応援していた。
私にも、そんな強さがあったら――
そう思いつつも、正面の窓ガラスに映った自分の顔を見たら、とてもそうできるような強さを持っていないと思ってしまった。幸薄そうな、酷い顔だ。
それから列車が駅に着くまで、私はただひたすら俯き続けた。強い彼女の言葉を、聞きたくもないのに聞き続けて。
ドアが開くとすぐ、私は我先にと逃げ出すようにして列車を降りた。
もう泣いているのか、泣いていないのか、自分でも分からない。頬に手を当ててみれば渇いていたけど、とても信じられなかった。
改札を抜けてすぐ、柱の手前で待つみどりを見つけられなかったら、きっと膝から崩れ落ちていた。
「聞いてよ、菜緒。イケメンが私の方に向かってどんどん近付いてきてね、お、これはもしかして噂に聞くナンパでは!? ってわくわくしてたらね、直前で右に逸れて、モデルみたいな子の腰に手を回したの。最初からそっちの方に真っ直ぐ行けって思わない?」
「な、何その新手の逆ギレ……」
私は半笑いを浮かべながら、ブレないみどりのスタイルに心底感謝した。それと同時に、彼女の呑気な考え方に憧れもした。
「イケメンはもっと自分の与える影響を考え――はぁっ」
唐突に大きく息を吸い込むものだから、私はびっくりした。
「ど、どうしたの」
「あ、あれ、あれ……!」
左手の人差し指が震えながら指した方を見る。片足の裏を柱に付けながら、スマホの画面に目を落としている男性の姿が見えた。サングラスをしてるものの、その雰囲気でもイケてる感じはひしひし伝わってきた。
「れ、れれれ、麗音……」
「まさか。こんなところに来てるわけ」
「間違いないって! 私が見間違えるわけないじゃん!」
「う、うん、そっか」
その勢いに気圧されて、思わず私はのけぞった。
「絶対人待ちだよね、はわわ、麗音も恋人とデート……そんなのショックで生きてけない……」
麗音らしき彼は、ふいに顔を上げると、柱から離れた。そしてそのまま私たちの脇を通り抜けた。
「やっぱり……麗音だ」
周囲にいた人たちも、まさか彼が麗音だとは思わないのか、はたまた知らないのか、全く気にする様子はない。
そのまま彼が行った方へ目をやると、友人らしき二人と合流していた。二人は楽しげな表情をしてるものの、当の麗音はつまらなさげだった。
「嘘、ハンニバルとおせんべまで……」
「え、誰」
初めて聞いた名前だ。しかも二人目の方は、私の聞き間違いじゃなかったら、随分変な名前だ。
「麗音が歌い手時代からずっと仲良くしてる、人気歌い手だよ!」
「そ、そうなんだ。でも、良かったね、デートじゃなくて」
「うん、ってかむしろ胸アツ? あの三人の貴重なプライベートシーンをこうやって見れちゃったなんて、もう花火見ずに帰っても全然オッケーなくらい!」
「いや、誘ったのみどりじゃん。ちゃんと見て」
私はみどりの額に軽くチョップを落とした。
「でも菜緒、偶然で麗音に会えるとか、奇跡の中の奇跡なんだよ? リアル一期一会なんだよ?」
「いや、別に会ってはないじゃん」
「こんなのファンからしたら、会ってるのも同じだよ!」
謎理論を破るつもりには到底なれなくて、私は適当に頷くに留めた。それよりも、みどりの言った奇跡という言葉が、私の心には深く響いていた。
たとえそれが有名人でなくても、一人の人に逢うのは、奇跡みたいなもので。
誰かとの時間が始まるのは、その時、偶然出逢ったから。出逢えたから。
「あ、でもさ、ここでこうやって会えたりするってことは、いつか私にもとんでもないチャンスがあるかも、ってことだよね?」
みどりの心には、やっぱり麗音みたいな人が良いって思いがあるんだろう。結局涼真になびかなかったのは、そういう理想の高さ故なのかもしれない。
「それこそ本当に一期一会じゃないじゃん」
「良いの良いの、なんとなくで!」
私は適当に合わせながら、先に会場に向かって歩きだした。
「あ、ちょっと待ってよ!」
その偶然が、この世界でもあったということだけど。
あの世界とは、形を変えていた。
そのことがどんな意味を持つのか、私にはもう、分かりきっているような気がした。
飲み物買ってくるね、とみどりは私を置いてコンビニに入ってしまった。
そんなの私も一緒に行くのに、とは思いつつ、私はなぜか店の中に入らずに待っていた。
駐車場からぼーっと見上げた空は、まだいたって静かだ。
ちらと腕時計に目をやれば、予定時刻まで後二、三分というところだった。
「桜木」
これが私のことを描いた物語だとしたら、あまりにもわざとらしい演出だと思った。
この日、この瞬間に、できすぎた形で私たちをめぐりあわせるなんて。
「偶然だね、こんなところで会うなんて」
「ああ、俺もびっくりだ。何て言うか、世界は狭い、って感じだな」
視界の端に、みどりを捉えた。私と涼真が一緒にいるのを見かけたからか、にまにましながら手を振っている。さしずめ、ごゆっくりどうぞ、とでも言いたい感じなんだろう。みどりはそのまま少し離れたところにあるベンチに腰掛けて、私たちの方には近付いてこない姿勢を示した。
仕方なく、私は涼真に視線を戻した。
「一人で来たの?」
「いや、友だちと一緒だったんだけどな、彼女と予定入れてたの忘れてたらしくて、途中で放ってかれたんだ。そのまま帰っても良かったんだけど、折角だから、見て帰るか、って」
そう耳にして、私はそれでも安堵する自分がいるのをおかしく思った。そっか、この涼真にはそういう相手、やっぱりいないんだ、って。
「桜木は? 誰かと一緒なのか?」
「ああ、うん。みどりと」
「綾先とか。お前ら、仲良いもんな」
「そう見える?」
「いつも一緒にいるだろ」
「そう、かな」
「ああ」
話はそこで途切れた。多分、私の方に非があるのは間違いなかった。二回目にここに来てからは、ずっとこの涼真との距離感の取り方に思い悩んでばかりだから。
見ているとは気付かれない程度に瞳に映す。やっぱり、涼真であることに変わりはなく見える。ただ、過ごした時間が違うということくらいしか思いつかない。
きっと、きっと――
付き合ってしまったら、二人の違いなんて分からなくなるだろう。それで、後は私が、舵取りを間違えなければ――
私たちの雰囲気は、決して悪くない。私の知る過去でだって、明白に涼真が私を好きだったかなんて分からないまま、こうやって告白したんだ。同じようにしたら、あるいは――
「ねえ――」
言いかけて、私は口を噤んだ。
気付いてしまったから。
その言葉は、今目の前にいる人にあげるべきではない、って。
「ごめん、何でもない」
違う。
目の前にいる涼真は涼真のようだけど、違う。
涼真の瞳には、私の向こうにいるみどりが映っていた。
涼真は少しだけ顔に陰りを見せると、私を通り越してみどりを見つめたまま、こう言った。
「俺さ、綾先のことが好きなんだ」
花火が上がった。
ドーンと弾けるような音の後、パラパラと落ちる火に、涼真の顔が照らされる。
「桜木、綾先と仲良いから、どうやったら付き合えそうか、アドバイスとか――お、おい、桜木!」
気が付けば、私は走りだしていた。
涼真と同じ顔をして、別の誰かを好きだと言うのを口にするのを見た瞬間、私の中で弾けた思いがあった。
気付いた瞬間には、耐えられると思った。でも、無理だった。中身は違っても、外身はあくまでも涼真そのものだから。私には、とても、耐えられるわけがなかった。
何度も人とぶつかりそうになって、その度に立ち止まってしまいたくもなって、でも涼真が追いかけてくるんじゃないかと思ったら、そうもできなかった。
分かっていた、分かっていたのに。
この世界は、恋愛に関わることは現実とは違う流れを辿るなんてこと。
次々と打ち上がる花火の音が、私には脅迫めいて聞こえてならなかった。
最初にみどりを助けた時点で、この世界での運命は決していたんだ。たとえみどりが涼真に心を寄せなくても、涼真の心は動いていた。でもそれを、涼真はすぐに私に分からせるほど分かりやすくはなかった。あれだけすぐに顔に出すのに、恋心だけは、気付かせてくれなかった。
それも、当然のことだったのかもしれない。だって、私は涼真の本心を上手く引き出せたことなんてほとんどないのだから。
あれから、同じ小道具班になったり、先輩に憧れていた貴子がやっぱり幼なじみの彼と付き合ったりしたせいで、この世界が元の世界と違うということから目をそらしていた。
息が切れて、私は足を止めた。膝に手を当てて、何度もぜえぜえとみっともない呼吸をする。そんな私には目もくれず、周囲の人たちは次々と花が咲く空を、綺麗だと口にする。
この世界の涼真は、私の知る涼真とは違う。
そんなこと、初めて来た時に可能性として思い浮かんでいたはずなのに。
現実の辛さを厭うあまり、勝手に都合の良い場所だと思い変えて、逃げてきてしまった。
私が涼真といられるのは、私が好きになった涼真といられるのは、他のどこでもなく、あの世界しかない。
あの世界にしか、私の涼真はいない。
たとえ失いかけているとしても、私を好きになってくれた涼真は、あそこにしかいない。
戻らなきゃ。
帰らなきゃ。
涼真に、私の本当の気持ちをもう一度ぶつけなきゃ。このまま終わらせたくない、あの頃とまでは行かなくとも、これからも一緒に居続けたいと。
私の心は無意識に階段を探していた。
階段だ。階段から落ちれば、また私は元いた世界に戻れるんだ。
少し先に、私は地下鉄の入口を見つけた。
あそこなら。
私はもう一度両肢に力を込め、その前まで走った。
段数の多さと高さを思えば、これからやろうと決めた心は萎縮しそうになった。
ダメだ。そうやって痛みを厭って避けてきたから、私はこんなになるまで自分をダメにしてしまったんだ。
私は首を横に振って、目を瞑って足を前に出した。一歩目はまだ、すぐ次の段についてしまった。ならばもう一歩と、恐れを振り払うように下ろした。意識は同じように次の段差を踏むと思っていたものの、そうはいかず、バランスを失った身体はそのまま前に放り出された。
今度こそ。
逃げずに、涼真と向き合うんだ。
地面に叩きつけられた激痛は、じんわりと私の意識を蝕んでいった。
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