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#4 二人の涼真

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 夢を見ていた。
 映写機のカラカラという音だけがして、セピア色の景色の中で、私たちは見つめ合っていた。
 ちゃんと私は涼真の目を見ていたし、涼真は私の目を見てくれていた。
 いつだろう。そもそも本当にあったことなのかさえ、分からない。
 この人は私のことを想ってくれている、そう伝わるような瞳の光。
 私が微笑みかければ、涼真も同じふうに笑ってくれた。
 カラカラ、カラカラ、音だけがするようになって、セピア色だけが残って。
 ぼやけるようにして、消えた。

 *

 ああ、まただ、と思った。
 私はまた、どこか違う時間にいる。
 雰囲気からして、ここは自室ではなかった。でもすぐに、見覚えのあるところだと思った。
 そう、ここは――保健室。
 バッと私は起き上がった。やはり今度も怪我はしてないらしい。
 どういう理屈かは知らないけど、未来から過去へ、過去から未来へ飛ぶ時、階段から思い切り転げ落ちる必要があって、それは私を傷付けることなく移してくれるらしい。
 私はそっとカーテンを開けた。
「良かった。急に倒れたから、心配したんだ」
 目を疑った。
 涼真だ。しかも、私とちゃんと向き合ってくれてる。
「ねえ、今って、何年の何月?」
 どうしたんだよ、と笑いながらも、涼真は今が一年前の七月――つまり、私がエスカレーターから突き倒された日であることを教えてくれた。
「よく覚えてないんだけど、私、倒れたりでもした?」
「ああ。朝礼の最中、凄い音立ててな。貧血なんだろう、ってみんな言ってたけど、最近ちゃんと食事とかしてないのか?」
 この時空間のジャンプは、もう一度そこに戻るとしても、必ずしも前の状態に続くようにはならないらしい。
 私はあの日、頭痛が酷いせいで学校を休んで、二度寝して目が覚めたらマシになっていたから、街に出かけた。それでエスカレーターに乗ろうとして、後ろから誰かに押されたんだ。でもここは学校の保健室だし、遠くに見える空もまたお昼休みくらいだと告げている。
 心配そうに見つめる涼真に気付いて、私は答えなきゃいけないことに思い至った。
「最近食生活が急激に悪くなった、ってつもりはないけど、もともと食事は人並みにはしてないと思う。食べないことも結構あるし、食べても一口かじるとかザラにあるし」
「そりゃ倒れもするだろ。お前、倒れた時の音、本当びっくりしたんだからな。バスケットボール叩きつけたみたいな音して倒れたら、心臓に悪いんだよ。もうちょっとちゃんと食えよな」
「って言われても、ずっとそうやって生活してきたし、探してみたところでご飯があるわけでもないから」
 涼真はあからさまに、触れちゃいけないことに触れてしまった、みたいな顔をした。私と違って、あまりにも顔に出やすいのはよく知ってるけど、こうやってしっかり顔を見たのも久々だったから、新鮮に映った。
「うち、両親共働きで、帰ってくるのも凄い遅いから、ご飯って各自バラバラなの。夕飯は誰かが作る時もあるけど、家族揃って食べるような習慣ってあんまり無いし、一人のために作るのも面倒の方が多いから、結局買ってくるか、食べないかになるの。私は面倒くさがりやだから、すぐ抜いちゃう」
「でもそれ、健康に悪いだろ」
 涼真からしたら、とても信じられない話なんだろう。小学生の頃、まだデリカシーなんて持ち合わせてなかった友だちが、菜緒ちゃんの家は変、とハッキリ言ったのを思い出した。
「まあね。でもだからって自分で買ってたらお金なくなっちゃうから、すぐケチっちゃうんだよ」
「病気になった方がお金かかるだろ……」
「一応これでも、風邪くらいしか引かないよ。それもたまにだし。今日倒れたのは――たまたま。うん、本当だよ? 中高の間で貧血で倒れたのなんて、数えるくらいだし」
 食生活の悪さは自覚してたけど、それが原因で倒れたりしたことなんて、ほとんどない。今度のは多分、この世界に戻ってくるための口実めいたものなんだろう。
「一度でもあったらダメだろ……」
 そう言う涼真の様子は、どうやら最初にこの世界に来た時、私を運んでくれたという人とは違うように思わせた。もし同じなら、ちょっと前にも同じことがあっただろ、とか言いそうだし。
「どう? 桜木さん、目を覚ました?」
 カーテンの向こうから、まどか先生の声がした。
「はい。話してみた限りじゃ調子は悪くなさそうです」
 涼真が答えてから一呼吸置いて、シャッとカーテンが開けられた。顔に似合わず割と豪快な開け方だった。
「うん、顔色も良いわね。歩けそう?」
「大丈夫、だと思います」
 私は涼真とは反対側に身体を90°回して、靴下のまま足を床に下ろした。立ち上がってみても、特によろめいたりすることはなかった。
「立ちくらみとかしない?」
「しないです」
「なら、差し当たっての心配はなさそうね。でも、体調管理には気を付けなさいよ。そう何度も倒れられたらこっちだって困るんだからね」
 腰に両手を当ててむくれた感じは、さぞかし男子にウケるんだろうな、とか思った。いったいどんな旦那さんが、まどか先生の心を射止めたんだろうか。案外、みんな首を傾げるような人だったりするのかもしれない。芸能人でも、めちゃくちゃ綺麗な女優さんが、えっ、あんな人と? とか思ってしまうような芸人さんと結婚したりするし。
「気を付けます」
「それから、柳君にも感謝してあげてね。倒れたあなたを運んできてくれたの、彼なんだから。にしても、柳君、いつもヒーローみたいな役なのね。前もほら、ぶつかられて頭をぶつけた――綾……そう、綾先さんの介抱もしてあげてたでしょ?」
「たまたまが重なっただけですよ」
 涼真は例の如く、首を僅かに傾げて、口角をほんのり上げた。
「いつか凄い現場にも立ち合ってそうね。そういうの、運命めいたものだから」
 まどか先生みたいな美人な人が言うと、スピリチュアルなことでもうさんくさく聞こえないんだから凄い。
「そう、なんですかね」
 でも涼真には効かないのか(まどか先生に気が向かれても困るけど)、苦笑いするばかりだった。
 私は涼真の方に移って、上履きを履いた。
「もう良いのか?」
「うん。教室戻ろ」
 私はまどか先生に確認を取った後、保健室を出た。
 涼真と一緒に歩いても、不思議と緊張はしなかった。ついこの前、一緒に買い出しに行った時はあんなにどきまぎしたのに、今は熱の高まりが少し落ち着いた頃のような、穏やかな気持ちが胸にあった。
 あの頃にはもう戻れないという感情の昂ぶりを経た後で、こうしてあの頃に近い状態にやって来れたからだろうか。
「ありがと」
 だから、感謝の言葉もあっさり口に出来た。でも、最大限の優しさを込めた、私なりのくどくない言い方で。
「ああ。でも少しくらいは、倒れないようにしろよ」
「うん」
 私はそう答えながら、どこかちくちくと胸が痛むのを感じていた。
 ここにいてはいけない、ちゃんと向き合わなきゃいけない、そんなふうに訴えてくる自分の声が聞こえた気がした。
 だけど私はそれを無視して、教室のドアを開けた。

「何読んでるの」
 この世界で初めて、私から涼真に話しかけた。
 席替えの結果、元の世界じゃ一度だってならなかった隣同士になったからだ。
 やっぱりここだと、恋愛に関わる事象は異なる道筋を辿るらしい。
「ああ、これ? こういうやつ」
 涼真が見せてくれたのは、まさかのあの本――背表紙にタイトルがエンボス加工で刻まれた本だった。
 私の知る涼真も読んだことはあったんだろうか。でも、涼真が図書室の本を読んでるのを見るのは初めてで、何だか不思議な気がした。
「それ、面白い?」
「俺は結構面白く読めてるな。でも、人に勧めたいかって言われたら、そこまで、かもしんない。かなり古い作品だし、文章もなかなか読みにくいからな」
「柳君は、なんでそんなの読もうと思うの」
 どちらの涼真にも初めてする質問だった。涼真が本を読むことについては、ずっとノータッチを貫いてきた。それは、私が本を読まない人間になってしまったせいで、涼真と分かち合える要素にはならないと思っていたからだった。そういう話をするなら、同じくらい趣味にしてる人同士じゃなきゃ、かえって迷惑だろう、って。
 でも今は、これまで触れてこなかったことについても、明らかにしたいという思いがあった。
 私に足りない何かのせいで、あの未来を呼び寄せることになるのかもしれないから。
「なんで、か。あんま考えたことなかったな」
 涼真は本を手にしたまま、窓の外に目をやった。放課後目前の空は、夏の訪れを告げるようにまだまだ明るい。
「俺の家、みんな本好きでさ、本棚だけの部屋があるんだけど、幼い頃からそこで過ごす時間が多くてさ。その部屋は古い本がほとんどで、俺の中じゃ本って言ったら、そういう古いのが該当するんだろうな。で、たまたま図書室でこの本を見かけてさ、うちには無い奴だな、って思って借りたんだよ」
 そんなこと、知らなかった。もちろんノータッチだったんだから、それで当たり前なんだけど、涼真が自分の話をすること自体稀だったから、驚きだった。
 私は涼真の家庭については、ほとんど何も知らない。でもそれは、私も同じだった。
 私も涼真も、あったこと、見たこと、聞いたことについては話をしても、それが自分に与えたもの、感じたものについてはあまり語ろうとしなかった。自分の内側を、見せ合ったことはほとんどなかった。思えば、私たちはお互いのことを、全然知らなかったのかもしれない。
「実はね、その本、私も途中まで読んでみたことあるんだ。難しい表現だらけだし、漢字は読めないのいっぱいあるし、意味がさっぱりな単語もわんさかあるから、最後まで読める自信無くて、やめちゃったんだけど」
 言いながら、なかなか恥ずかしいことを口にしてるな、なんて思った。でも、涼真の前でかっこつけたくなるほど、私の心は初々しくもなかった。
「そもそも私、本を読むのが苦手っていうか、最後までちゃんと読めたこと、小さい頃はともかく、最近じゃ滅多に無くて」
 私の口は勝手に動き続けた。止めようかとも思ったけど、私はそのまま任せることにした。
「昔は好きだったんだ。だから、今でも時々、読めたら良いな、って思うことはあって、たまに頑張って読んでみるんだけど、大体ダメになっちゃう。……ごめん、何が言いたいんだろうね、私」
 でも、成り行きに任せて放った言葉は、着地点を見出せなくて、やっぱり話しはじめたことを後悔した。
 だけど、涼真が私に向けた顔は、嫌そうなそれには見えなかった。
「俺も別に、こんな分厚くて難解で面倒くさいのばっかり読んでたら嫌になるよ。作家が何ヶ月とか何年とかかけて書いた奴を、短い時間で読もうとしてるようなもんだし、リタイアしたくなるのも変じゃない気がするな。俺もさ、本読みたいけど長いのは読めそうにないな、って気持ちの時はあるから。そういう時は、短編集とかを読むようにしてる」
「短編集?」
「そうそう。題名に短編集とか書いてなくても、複数タイトル書かれてる薄い文庫本とかなら、短編をまとめてる奴だから、そういうのを読むんだよ。それも、丸々一冊じゃなくて、その内の一個を」
「それでも、私、その一冊さえ読み切れないかもしれない」
 なんて脆弱な奴だ、と自分でも言ってて思ったけど、ここで見栄を張って「やってみるね」なんて言って、結局ダメだったらもっと自分のことを嫌いになってしまいそうな気がしたから、私は素直な気持ちを口にした。
「良いんだよ、丸々一冊とか読まなくて。その内の一個、気になるタイトルだけ選んで読むとかで。短編集って、作家じゃなくて出版社とか別の作家が適当に選んで編集してる時もあるから、作品としては、一個読んだらちゃんと読んだことになるからさ。ちょっともったいないかもしれないけど、読めたって達成感を味わいたい時は、そういう読み方するんだよ」
 それくらいなら、きっとお前でも出来るだろ? なんて言いたげな優しい顔を向けられたら、弱々しい私の自信だって、少しくらいは火の勢いが強まったように感じた。
「お、お勧めの作家とかいる?」
 それでもまだ、私は首を縦に振らなかった。まだ力強く頷けるほど、私が本を避けてきた年月は短くなかったから。
「お勧めかあ……。それ、結構難しい話なんだよな」
「え、なんで?」
「お勧めって、普通相手に合いそうなのを考えてするもんだろ。自分の好きなものを押し付けるのは、お勧めって言わないと思うんだよ。俺、桜木がどういうの好きか知らないからな」
 その言葉は、一年以上付き合った涼真でさえ、全く同じように口にするように思った。
 ――私たちは、本当に恋人だったんだろうか?
 私は、涼真の何を知ってあげただろう。涼真に、私の何を教えてあげただろう。
 一緒にしたこと、一緒に行ったところ、一緒に見たもの、思い出せるのに、隣にいた涼真が何を思っていたのか、どうやって涼真になったのか、私はまるで知らない。
「柳君って……」
「何だよ」
「生真面目だよね」
「はあ?」
「適当に答えたって、私怒らないのに」
 どうして、こんな会話の一つさえしなかったんだろう。
「俺が嫌なんだよ。けど、まああれだ。お前が何でも良いから、って言うなら、適当に答えるけど」
 口には出さないけど、多少顰められた眉からは、少し機嫌が悪くなってるのが分かる。
「じゃ、じゃあ、爽やかなのが良いかな。後味が良くて、スッキリしてるような奴」
 涼真はこくこくと軽く頷くと、脇にあった鞄から薄い文庫本を取り出した。
 目次のページを開くと、その内の一つを指さした。
「なら、これだな。よくまとまってて、読んだ感想はスッキリしてる、だったから。読みたかったら他のも読んでみたら良いけど、割と重たい印象のもあるから、俺はこれだけ読むので十分だと思う」
「でも、良いの? 読んでるんじゃないの?」
「良いよ。これ、お守りみたいなもんだから」
「お守り……?」
 本がお守り……。私にはちょっと想像がつかない。
「暇になった時、持ってたらとりあえず読めるだろ?」
「あー。私すぐスマホ出しちゃう」
「俺もスマホ見ちゃうけどな。でもたまに目が疲れてる時とか、本の方が目に優しいからな」
 それで、よく待ち時間に本を読んでたんだ、と納得した。あれはその時読み進めたい本があるんだと思ってたけど、どうやら涼真なりの時間の潰し方だったらしい。
 ガラガラ、という音と共に、担任が入ってきた。
「返すのはいつでも良いから」
 涼真が差し出した本を、私は「ありがと」と添えて丁寧に受け取った。

 この世界でも、確実に涼真との距離は近付いている。そんな感覚は生まれつつあった。倒れたみどりを助けた時には、この世界で涼真と付き合うのはみどりなんじゃないか、と思うこともあったけど、やっぱりあれ以来、二人の間にはそういった兆候は見られない。
 だとしたらここでも、私は涼真と付き合えるんじゃないだろうか。このまま何もしないで付き合えるほど、運命めいたものがあるとは思えないものの、かつて私のしたようなやり方で距離を埋めていけば、付き合うというゴールには持っていけるような気がしていた。
 恋愛に関わることだけが違っている世界線というルールも、私の推測に過ぎないわけだし。
 でも、好きという気持ちが徐々に募って、それに純粋に突き動かされていた頃のようには、中々振る舞えなかった。どうしても、涼真は涼真だという思いが先行する。仲が深まれば深まるほど、付き合えた以降の気の緩みみたいなものが出てしまって、馴れ馴れしいやつだという印象を与えかねなかった。
 とか思って萎縮するせいで、涼真と関わる頻度はそれほど高まらなかった。
 今の私は、私から近付くというより、涼真を私に引き寄せるようなことを目的としている。結果的には前と変わらない目標を掲げているはずだけど、どうやってそこまでたどり着けば良いかがハッキリしない。
 思えば、涼真は私と一緒にいるために、友だち付き合いをかなり減らしてたんだろう。毎日のように友だちと一緒にいるし、交友関係の広さがよく分かる。
 同じ小道具班とはいえ、二人で作業をするわけでもなく、買い出しの時には積極的じゃなかった子たちも、クラス内に団結の気運が高まってきた今では参加するようになって、涼真は友だちと一緒にいることの方が圧倒的に多い。
「はぁーーー……」
 段ボールで作った剣にアルミホイルを巻いていた私の傍で、露骨な溜め息が聞こえた。
「ど、どうしたの貴子」
 美人の溜め息は様になる。なんで美人は振る舞いの全てが芸術的に映るんだろう。私も貴子みたいな見た目をしてたら、涼真を振り向かせるのに苦労しないに違いない。その場合、涼真が私を好きになったのか、そういう見た目を好きになったのかは怪しいけど。
「あたしって、魅力無いのかな」
 一瞬、喧嘩を売られてるのかと思った。
「な、何言ってるの。貴子みたいに綺麗な子が、魅力無いわけないじゃん。誰かに言われたの?」
「いや、誰かに言われたわけじゃないけど……」
 貴子はまた溜め息をついた。私の眼には、妖艶なオーラが溶け出しているように見えた。集めて飲めば、私ももう少しはマシになるだろうか。
「実は、部活の先輩を好きになったんだけど、全然意識してもらえないんだよね」
 なるほど、この世界では貴子の恋の相手も違うらしい。
「年下には興味ない、ってわけじゃないみたいなんだよね。前に付き合ってたのは一年生だったらしいし。ってことはやっぱり、私に魅力がないってことだと思わない?」
 よく見てみれば、心なしか貴子はやつれていた。いつものさらさらした髪の毛もどこか整っていないようだし、目元には疲れの色が見えた。
「ど、どういう人なの? その先輩」
「どこか寂しげで、色白で、色んな所作が色っぽくて、流し目が特にエロくて、あ、後、手がめちゃくちゃ良いの。でも一番なのは、見た目に反した広すぎる声域、かな」
 う、うわ、ロックバンドの男だ……。付き合うと後悔する、別れたら歌詞にされると専ら噂のタイプだ……。でも女子なら一度はそういうのにときめいちゃうのも分かる。私の場合、相手は漫画の中だったけど。
「た、貴子にはどんなふうに接してくれるの」
「別に、嫌われてるとかそういう感じはなくて、軽音部の他の子と同じ感じ……」
「その前に付き合ってた一年生の子っていうのは、どんな感じの子なのか知ってる? 貴子とはタイプが違ったりしないの?」
 貴子は露骨に視線を下げた。
「――んちょう」
 ボソッとこぼしたせいで、上手く聞き取れなかった。
「え、何て?」
「身長。その子は150センチくらいしかないから、そうなんじゃないか、って」
 ああ、そういう趣味なのね、なんて言いかけて思いとどまった。確かに貴子はモデルみたいにスラッとしたスタイルで、女子の中でも背が高い方だ。
「でも、身長だけで好みがハッキリ分かれるわけじゃないだろうし、ね?」
「先輩、あたしと同じくらいだから、そういうところ、こだわったりするかもしんないんだよね……。ほら、男子って、自分より高かったりするの嫌がるじゃん……」
 私は言葉に詰まった。個人の好みに関わる問題なんて、私にどうやったって解決しようがない。
「なーにサボってんの」
 どんよりとした空気が流れた刹那、板橋さんがぺしっと貴子の頭に丸めた台本を叩きつけた。
「いったいなー凛夏! あたしは今、菜緒に大事な恋愛相談してもらってんのー!」
 ギャース、みたいなオノマトペを貼り付けたくなるような感じに板橋さんに向かって吠える貴子。
「別に恋愛相談するのは構わないけど、手、動かしてくれる? 間に合わないから深夜まで居残りとか出来ないんだからね?」
 それに、と怒り気味の板橋さんの視線は私の方にも向いた。
「桜木さんも、手が止まってたらちゃんと動かすように言ったりして。こっちの不手際でスケジュールが押してるのは申し訳ないけど、みんなの頑張り次第でまだ巻き返せるんだから」
「ご、ごめんね」
「見た? あの真っ当な対応。貴子も桜木さん見習って、ちょっとは気合入れて取り掛かってくれる?」
「ちぇー、分かりましたよーだ」
 貴子はむくれながら一応手に持っていた筆を動かして、段ボールに緑色を塗りはじめた。
 でも、板橋さんが離れていったのを確認したやいなや、すぐに手を止めた。
「本当は――身長のことは関係ないだろうな、って分かってるんだ」
 貴子の声は沈んでいた。ムラの激しい塗り跡が、今の貴子の心理の姿なんだろうと思わずにいられない。
「多分、先輩はあたしの気持ちに気付いてる。その上で、何も知らないフリをしてる。あたしの気持ちが冷めるのを待ってるんだよ。きっと、先輩を好きになった人たちの多くがそうだったみたいに」
 そう言うと、貴子は儚げに笑った。
「あの子は、ちゃんと先輩の気持ちに寄り添えたんだろうね。あたしには無理だって、きっと分かってるんだよ、先輩は」
「そんな。貴子は優しいし、ちゃんと相手の気持ちを考えられるじゃん」
「ありがと、菜緒。でも、恋のことになったらあたし、自分勝手でわがままだから。先輩はそんなあたしのダメなところを、見抜いちゃってるんだ」
 貴子はまた手を動かしはじめた。
「ごめん、菜緒。あたしから相談持ちかけたのに、自分で勝手に結論出しちゃって。こういう身勝手なところあるから、先輩はあたしのことを好きになってくれないんだね」
 身勝手――その言葉が、私にそれ以上何も言わせてくれなかった。
 私が涼真にしたこと、しようとしてること、それだってそうだから。
 それからは、私たちはほとんど口をきかずに作業の終わりを迎えた。

 世界は広い。
 偶然どこかでばったり合うなんてのは、ドラマや漫画の世界でだけ。
 ずっとそう思ってたし、ずっとそうだった。
「よっ」
 だからこそ油断は出来るものだし、己の世界に浸れるのだ。
 それが、その法則が無視されてしまったら、致命的なダメージを負うことになる。
 今まで絶対会わなかったのに、なんで会うんだろう。
 私は口元をひくつかせながら、軽く手を挙げた。
 家にいるのも退屈だからと、近くの本屋で立ち読みをしようと適当な格好で出かけた私。ちょうど店を出たところに、涼真はいた。
 もちろん、適当な格好と言っても、常識的な範囲ではある。だけど、これから振り向かせようとする相手を前にして、見せて良い格好ではないのだ。
「七月なのにこの暑さって、来月とかどうなるんだろうな」
 涼真は目的地を言わない。じゃあね、と退散するわけにもいかず、成り行きで一緒に行動することになったものの、今だけはこの偶然に感謝は出来なかった。
「テレビじゃ記録的な暑さになりそうだ、って言ってたよ」
 それは嘘だ。いくらテレビでも、一ヶ月先に記録的な何かが来るかまでは報道したりしないだろう。テレビ、ほとんど見ないから、実際はそう言ってるかもしれないけど。未来の確定情報を伝えるには、それくらいしか良い考えが思いつかなかった。
「え、マジか……。夏だけは北海道にでも引っ越したいところだな」
「そこまで行かなくても、標高高いところとかで十分涼しいよ。おばあちゃんの家が長野にあるんだけど、夏でも涼しかったし」
「うちの実家はどっちも、毎年テレビで日本トップクラスの暑さだって言われてるところだからな……。何か、わざとそういうとこ選んで住んでるんじゃねえかって思う」
 道路には全く影がなくて、アスファルトの照り返しもキツくなってきた。それは涼真も同じだったらしくて、
「入るか?」
 とすぐ近くにあった喫茶店を指さして言った。
 このまま首を横に振って、恥ずかしい格好を見せ続けないようにする、って選択肢もあるにはあったけど、今後涼真が誘ってくれる機会があるかは分からないと考えて、しぶしぶ了承した。
 店内は快適な空気に満ち満ちていて、そこから見れば、あんなに嫌で仕方なかった夏の景色が、美しいとただ一言で言えてしまうのがどこか不思議だった。
「柳君はどこに行くつもりだったの」
 注文を終えた私は、気になっていたことについて尋ねた。手に何も持ってなかったし、これからどこかに行くんだろう、とは感じていた。
「友だちと遊んでた帰り。午後からデートだって追っ払われたんだけど、だったら呼ぶなよな。二時間ぽっち遊ぶのに呼びつけられて良い迷惑だった」
 そう言う涼真の顔は、決して良い迷惑してるようには見えなかった。
「何してたの?」
「ダーツとか、ビリヤードとか」
「え、何かお洒落……」
 デートで色んなところに行ったけど、その二つが出来るような場所には足を運んだことはなかった。
「ちゃんと出来ればかっこいいだろうけどな。ダーツはともかく、ビリヤードはルールもほとんど知らないからほとんど適当にやってた」
「それって、柳君からやろうって言い出すの?」
「いや、相手の趣味だな。俺はあいつに誘われるまで、やろうとも思ったことないし」
「そうなんだ。何か、私もやってみたいなあ」
 少しだけジャブを入れてみることにした。私を連れていってくれないか、と暗に伝えてみる。
「ダーツなら基本は的に当てるだけだから簡単だしな、桜木でも楽しめるだろ」
 作戦失敗。私の欲しかった、「なら今度連れてってやろうか?」は引き出せなかった。
「そう? じゃあ今度やってみようかな。でも、そういうの出来るところって、雰囲気的にちょっと怖そうっていうか、入りづらい感じがするんだよね」
 もう少し攻めてみる。
「まあ、確かに、俺も最初はちょっと緊張してたな。店にもよるんだろうけど、俺の行ってるところはそういう雰囲気は薄いし、行ってみたらそこまでじゃないって分かると思うな」
 ぐぬぬ、手強い。時々鋭いかと思えば、鈍いこともあって、今回は後者が発動されてる感じだ。でもここで直接連れてって欲しいって頼むのは、あからさまな誘いすぎる気がして、違う気がした。
 でも、そもそもどうやって最初涼真との距離を詰めたんだっけ、と考えてみても上手く思い出せなかった。
 助けてくれたことをきっかけに繋がった私たちは、自然と近付いていった、そんな感じだった。いきなりどちらかが惚れ込んだ覚えもないし、確かに、好きだと自覚してからはある程度積極的になった記憶はあるけど、その頃には涼真も私のことをそれなりに意識してくれていたように思う。
 つまるところ、私たちはなるようになった、みたいな間柄だった。
 頼んだ飲み物が運ばれてきた。涼真の前に置かれたアメリカンコーヒーを見て、私は酷い違和感を感じた。
 涼真はブラックは好まなかったはず――
 もしかして、という思いが一気に押し寄せる。
 この世界は私の知る世界と、恋愛に関わることだけが違っていて、それ以外の要素は同じだとずっと思っていた。
 でも人を好きになるにしたって、モノを好きになるにしたって、ちょっとしたことが明暗を分けるんじゃないだろうか。
 きっかけさえ違ってしまえば、それから辿る道筋は全く違うことになる。
 この世界に初めて飛ばされた時、保健室に涼真はいなかった。
 もし、涼真がブラックを好むようになったように、私以外の誰かを好きになる世界だったとしたら。
 ここで私が為そうとしてることは、叶わないんじゃないか。この世界では、私は涼真と付き合うことすらないんじゃないか。
 その可能性に思い至った私は、何気なくそのことについて聞き出すべく、言葉を探した。
「文化祭シーズンだし、またカップルが増えそうだね。この前も貴子に恋愛相談されたし、みんな意識しだしてるみたい。柳君は、そういう気配感じてる?」
「どうだろう、今年はまだ見聞きした覚えないな。去年はこの時期に付き合いだした奴ら何組かいたけど」
 若干無理のある走り出しだとも思ったけど、上手く会話は続くように思えた。
「柳君は気になる子、いないの?」
 この感じなら、唐突にそう尋ねるよりは、一般論として聞いてる感じは出る。自分に言い聞かせた。
 涼真はコーヒーを少し啜ってから、頬杖をついた。
「いないな」
 あっさりとした返答で、深読みさせる要素なんてなかったのに、私は何かに胸を締めつけられるような感覚を覚えた。
 もし、同じ質問をあの時の涼真にしたとしたら、涼真は何と答えただろうか。
 そう考えて、ふと、私はこの涼真とあの涼真とが同じなのか、疑問に思ってしまった。
 今までも幾度かは感じていたけど、これはかつてないほどハッキリした疑問だった。
 分岐点で違う道を選んだ人たちは、果たして同じ一人の人間なんだろうか?
 アスリートになるはずだった人が医者になるとか、そういう分かりやすい変化ならともかく、貴子みたいに中学の同級生を好きになるはずが、部活の先輩を好きになったり、ブラックを好まなかった涼真が、わざわざそれを頼んだりしてるのは、誤差の範囲だと認めて良いんだろうか。
 目の前にいるのは、確かに涼真だと思う。見た目は間違いなくそうだ。でも話し方や性格、趣味や好みといった部分まで、本当にそうだと言えるんだろうか。私がそう見出したいだけで、ここにいる涼真は、あの涼真とは違うんじゃ。
「そう言う桜木は?」
 尋ね方は、すっきりして聞こえた。少しの緊張だってないように思えた。私の不安がそう思わせるだけだと、言ってしまうのは容易い。でも。
「どう、かな」
 私の知る涼真も優しかった。でもそれが、ここにいる「柳君」と同じ優しさだったのか、思い出せない。
「私からこの話にしておいてあれなんだけど、話題、変えても良い?」



 ふと、思い出した。
 小学生の時、学校に行くのが嫌になった時期があった。きっかけは、ほんの些細なやり取りから、仲間外れにされたことだった。
 女子にありがちな、グループ内での微妙な人間関係の崩れが、私を瞬く間にのけ者にした。
 体調が悪いと伝えただけで、お母さんはすぐに学校に休みの連絡を入れた。次の日も、そのまた次の日も、お母さんは私が仮病なんじゃないか、と疑うことはなかった。
 今でもそうだけど、お母さんはとにかく仕事に一途な人で、私に構ってくれるようなことはほとんどなかった。
 ただ、どうしてかある日の夜、お母さんは漫画のセットを買って帰ってきた。毎日つまらないでしょ、とだけ言うと、ベッドの脇に紙袋を置いていった。
 その漫画は、人の姿で現代を生きる妖怪のお話だった。命が尽きると転生して、また同じような容姿・似たような境遇を辿る。
 無限に繰り返される命のあり方を見つめながら、主人公たちが自分とは何なのかを考えていく、そんな物語。
 当時の私には、そのストーリーは幾分難しくて、それよりも絵のタッチや、登場人物の美しさに関心を寄せていた。
 漫画に元気をもらった私は、頑張って学校に行ってみることにした。またのけ者にされるんじゃないか、という不安は杞憂に終わった。私の知っていたグループはさらに姿を変えていて、私とは違う子が、次のターゲットになっていた。
 その時勇気をくれた漫画のことは、ずっと忘れていた。今でも本棚にはあるはずだけど、それがどこかは、よく思い出せない。
 それなのに、そのお話自体は、何故かハッキリと、ありありと頭の中に浮かんでくる。当時はあまり理解出来なかった部分が、今の私には、確かな意味を伴って理解された。
 前世の記憶を持った主人公は、同じく転生したかつての恋人を前にして、同じ彼なのかと戸惑う。全く同じ見た目、全く同じ嗜好をしているはずなのに、どこかで激しい違和感を感じずにいられない。その理由は、彼が前世の記憶を持たないことにあった。彼は業によって同じような道筋を歩んできたものの、記憶を持っていた主人公とは違って、人生の焼き直しをしてはいなかった。
 主人公は今の彼の中に、昔の彼を見出すことをやめて、彼から離れる道を選んだ。
 物語にはまだ続きがあるものの、私にはその部分が特に強く灼きついていた。

「あなたはあなたの人生を生きてほしい」
「私という過去にどうか縛られないで」

 主人公が彼に送った手紙に記されていた言葉が、一言一句思い返される。
 あの漫画は、あの時の私に力をくれただけではなく、今また、私の過ちを糺そうと蘇ってきたんだろうか。



「最近、不思議な映画を見たの。階段を踏み外して、頭を強く打って意識を失ったかと思ったら、過去に飛んでる、っていう」
 私が何の脈絡もない「映画」の話を始めても、涼真は柔らかな面持ちで私を見てくれていた。
 いつもそうだ。私がどんなことを言っても、涼真は聞いてくれる。でもそれは、涼真がそうなのか、この「柳君」がそうなだけなのか。私には、分からなかった。
「主人公には前に付き合ってた人がいたんだけど、飛ばされた過去では二人は付き合ってなくて。でも、それ以外の要素は主人公には同じに見えて、どうせなら、もう一度付き合えたら良いな、なんて考えるの」
 ぼかして伝えるために、付き合ってた、と過去形に語ってみたものの、胸はそれほど痛まなかった。そのことこそに痛みを感じた。
「でも、現実で一緒にいた人と、微妙に違う過去で出会ったその人とは、同じなんだろうか、って主人公は思い悩むの。柳君は、どう思う? その二人って、一緒だと思う? それとも、違うと思う?」
 私の拙い説明じゃよく伝わらなかったのか、涼真は考え込む素振りをみせた。
「単純に付き合ってたか、付き合ってなかったか、ってだけの違いとは違うんだろ?」
「う、うん。見た目とか声とかは同じなんだけど、物の好みとか、少しずつ違うの」
 涼真は目線を斜め上にした。
「たまに、昨日の俺は今日の俺の続きなのか、考えたりするんだよ。三秒前の俺は今の俺と同じだと思えるけど、一年前の俺は今の俺に続いてるのか不思議に感じたりする。十年とか前になったら、もっと怪しい。もし、俺がパラレルワールドじゃない過去に飛んだとして、かつての自分を見たら、本当に自分なのか疑問に思うこともある気がする。でも、見た目とか声じゃない部分に、きっと揺らがない何かがあるから、ちゃんと自分だって感じると思う。って、答えになってない気がするけど」
「きっと揺らがない何か、って、私もあるように思うけど、でも、それってそう思いたいだけなんじゃないか、とも思う」
「かもな。けど、きっとある。俺はそう思うよ。業って言うの? 一見全然違うことしてたって、突き詰めてみたら、同じようなことしてたりするんじゃないか、同じ一人なら」
 そう言うと、涼真は例の笑い方をした。私の見ていたそれは、これと本当に同じだっただろうか?
「ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いや、たまにはこういう小難しい話をしてみるのも面白いから、悪くなかったよ。そうだ、さっきの映画、結末はどうだったんだ?」
 結末――私が涼真とどうしたいのか。
 分からなかった。
「あ、それが、その……途中で寝ちゃって、結末がどうなったかは、知らない、んだよね……」
 優しく細められていた目は、途端にジト目に変わっていた。
「なら、自分で見るから、タイトル教えてくれよ」
 うっ、映画とか言わず、夢とか言っとけば良かったかな。でも、まだ小説とかじゃなくてマシだったかも。
「は、半年くらい前には上映も終わっちゃってるから、見にいこうとしても見られないよ」
「何だよ……スッキリしなくて嫌だな」
 手札はもうゼロだったけど、涼真がここで諦めてくれたおかげで、何とか事無きを得た。
 それからは、一先ず涼真と二人きりで過ごせる貴重な時間だと思って、比較的楽しいと思えるような話題ばかりをチョイスした。
 でもその間中、頭の中ではたった一つのことだけを考えていた。
 きっと揺らがない何か。
 もし、本当にそんなものがあるとしたら、私は目の前にいる涼真を同じ涼真だと認めて、願いを叶えたく思う。
 今度こそ、間違えないように付き合う――
 でも、でも――
 だとしたら、ここはなぜ単なる過去ではないのだろう。
 涼真が私の欲しい言葉ばかりをくれるのは、その先に大きな罠が待っていると思わせてならなかった。
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