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#3 真実の痛み

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 私は目をこすった。
 爽やかな風がそよそよと吹いてくる。
 その方に目をやれば、窓が半分ほど開いていた。
 ここは……私の部屋だ。
 こめかみに指を当てて、状況を整理する。私は確か、街に出て、そこのエスカレーターで、おそらく誰かに背中を押された。それで真下に倒れて、意識を失って……。
 病院のベッドにいてもおかしくないはずなのに、私がいるのは自室のベッドだった。
 誰かに運んでもらったんだろうか。
 けれど、その疑問はあっという間に消え去った。
 視線の先に、十月のカレンダーがあったからだ。年も、あれから一年が経ったと告げていた。
「戻っ……た?」
 戻った、んだろうか。でも、だとしたらおかしい点があった。現実の私は、あの階段から転げ落ちたはずだ。それなのに、私の体には外傷一つない。夢で初めて目を覚ました時みたく、ぴんぴんしている。
 これが現実という保証が今すぐに欲しくなった私は、階下に移動した。だけど案の定、家には誰もいなかった。いる方がおかしいけど、今だけはいてほしかった。
 私はさっきとは違う方のこめかみに手を当てた。頭痛の気配はない。
 ひとまずリビングのソファに腰を落ち着けた。背もたれに深くもたれかかると、時計に視線を動かした。時刻は、あの日、私が無事に帰れていたとしたら有り得そうなものだった。
 日付が違っているのかもしれない、と思った私は、手前のローテーブルの上にテレビのリモコンを見つけて、電源を入れた。番組表を表示すると、あれから一日たりとも経っていないのが分かった。
 整合性の取れないことが違和感でしかなかった。私があの変な夢を見たのは、階段から転げ落ちたからだ。それ自体は、現実で起こったことのはず。そうでないと、つじつまが合わない。それなのに、私はこうして無事な体で家に帰り着いている。
 一つの仮説が生まれた。
 これはまた、別の夢なんじゃ。
 夢の中で夢を見るというのは、既に過ごした一ヶ月の中で確かに経験してきた。最初の事故でそうだったように、また私は違う時間軸に飛ばされてしまったんじゃないだろうか。
 だとしたら、この世界もまた、私の知る現実とは何かが違っているんだろう。おそらくは、恋愛に関わる何かが。
 でもそれについては、すぐさま確かめる方法はなかった。日常を送る中で、違いに気付いていく以上のことはない。
 たった一つ、例外はあると分かっていたけど、私はそれについては無視することにした。
 番組表を閉じて、適当にパチ、パチとチャンネルを切り替えていく。どれも同じような話題ばかりだ。誰と誰が結婚したとか、ある発言をきっかけに非難を浴びてるとか、金銭問題で事件が起きたとか。一年前に同じことを言ってたかもしれないし、一年後に同じことを言ってるかもしれない。でも私は、そのどれをも、今日初めて知ったことのように感じるだろう。
 結局どれにも興味が惹かれなかった私は、溜め息混じりに赤いボタンを押した。
 なぜだか、夢はもう終わったような感覚があった。もとより、おかしな夢を見たこと自体、現実からはかけ離れた出来事だったのだ。戻ってくることにだって、整合性が取れていなくたって、何らおかしくはないだろう。
 でも、そもそもあれは、夢なんていう言葉で片付けてしまって良いものだったんだろうか?
 夢の中で見た夢は、確かに夢だと結論づけられるものだったけど、あの世界自体は、とても夢だとは言えないような現実味を帯びていた。私は本当に、この時間軸には繋がらない、別の過去にいたんじゃないだろうか。
 私はかぶりを振った。あまりそのことについて突き詰めたら、立脚すべき足場を失ってしまうような気がした。どこが現実で、どこが現実でないか、それが分からなくなってしまったら、自我を保てなくなってしまう、そんな恐れがあった。
 私は立ち上がって、二、三深呼吸をした。もしここが正しく帰ってこれた現実だというなら、私は第一志望がC判定の受験生なのだ。勉強しなきゃ。
 自室に戻って、パンパンになった鞄を開けた。そこには確かに、資料室で選んだ赤本が入っていた。校名をじっくり見つめてみても、違うということはなかった。
 一ヶ月ほど二年生の特定の範囲だけをやっていたせいか、頭からは他の内容が抜けていた。ただ、苦手だった部分についてはよく分かるようになっていた。要するに、プラマイゼロ、って感じだ。得をしたのか損をしたのか、怪しい。これで苦手だけを克服してたなら、単に好都合って話なのに、残念。
 シャーペンをさらさら動かしていれば、余計な考えはどこかへ去っていった。
 気が付けば、時計の針は世界が夜に突入したと告げていた。今日も両親は遅いんだろう。小腹が空いた私は、適当にキッチンで食べ物を探した。消費期限が今年のものなのを見て、やはり今が、さっきまでいた時間と違っていることを再認識した。
 レトルトの赤飯をレンジでチンして、付け添えもなく口にした。野菜ジュースを注いで、野菜を摂ったことにする。それで十分だった。
 お腹が満たされると、刺激された副交感神経が、くつろごうよと囁いてきた。誘惑に乗って、またリビングのソファに腰を下ろす。でも座っているのも億劫になって、そのまま横になった。食べてすぐ寝たら牛になるんだっけな、とか思いながら、口パクでモーと鳴いてみた。一人だと、虚しいだけだった。
 もう一度テレビを点けた。芸能人が旅先で郷土料理を食べる番組、クイズ対決をする番組、動物の赤ちゃん特集、驚愕のミステリー特集、アニメ、医学番組。夕方よりは色々な内容がやっていたけど、そのどれもじっくり見ていよう、という気にはさせてくれなかった。動物の赤ちゃん特集に戻して、でも消音にしてからリモコンをテーブルに置いた。
 心が穏やかなら、どのチャンネルを見ても笑えるんだろうな。楽しい日々を送っていた頃は、お笑いを見てお腹を抱えて笑っていたし、ドラマを見て俳優にときめいていたし、芸能人の恋愛事情にも関心を持って見ていられた。それが今は、映像を瞳に映すだけ。時たま、ライオンの赤ちゃんってこんなに愛らしいんだな、とか思うくらいだ。
 更けていく時間のことを思えば、明日、別れるって言うつもりだったんだっけ、と気付いた。もしここが現実なら、私と涼真の関係は冷えきっていて、そんな涼真に愛想を尽かしたことになっている。文化祭なんて楽しげなイベントもこの先には控えてなくて、特段何かしたいことがあるわけでもない、評判だけで決めた大学のために勉強を頑張らなければならない日々が待っている。そこで冷めてしまった涼真との関係を続けるのは、私にはとても無理だ。
 確かにそう決めたはずなのに、明日、別れようと切り出せる自信はなかった。
 過去の世界で、近くにいてくれた頃の涼真ともう一度会ってしまったから。
 今の涼真の中にも、あの頃の涼真が残っているんじゃないかって、変な期待をしてしまう。私が触れ方を変えれば、またやり直せるんじゃないか。そう思えば、決意はすっかり揺らいでいた。
 私はテレビを消すと、自室に戻った。勉強する気は湧かなくて、本棚から随分前に買った少女漫画を引き出した。
 熱心に読み耽っていたのは、涼真より付き合うよりずっと前のことだ。自分もいつかこんな恋をするんだ、なんて馬鹿なことを思っていた。
 今から思えば、私の部屋にある少女漫画は、どれも付き合うまでが大きな主題で、一度大きなすれ違いがあった後、結婚するエンディングを迎えるようなものばかりだった。別れるか迷うことなんてないし、疎遠になるようなことがあるにしても、何か明白に距離を置くよう出来事があってのことだ。私と涼真との間に横たわっているような、ぼんやりとした悲しみなんて、描かれることはない。
 まあ、そんなのドラマ性に欠けるし、書いても面白くないんだろうけどさ。
 じゃあ、そういうテーマを扱った大人の恋愛モノを読んでみれば良いんだろうか、とか思ってみるけど、それを読むくらいなら、この少女漫画たちで良いという思いがあった。
 結局、フィクションでまでリアルを感じたくはないのだ、私は。
 いつか愛していたはずの少女漫画を、心から愛することも出来ず、けれど卒業することも出来ない。脇に置くことも出来ずに、ページをめくる度、ストーリーに引き込まれていく。
 物語は嘘の塊だ。小さな悲しみがちりばめられていたとしても、トータルで見れば幸せへと駆け上っていく。物語は所詮物語と、きっちりと答えを出せる人だけが、現実での幸せを掴むことができる。
 分かってはいる。分かってはいるんだ。でも、心はありもしない夢の方にばかり意識を向ける。
 主人公が初めてカレのことを意識した瞬間、私はそれ以上前に進めなくなった。この先には、上手く行かない恋は描かれない。私の憧れた恋だけが、私の恋とは違う恋だけが、そこには待っている。
 私はきゅっと下唇を噛んだ。最早私には、少女漫画をぼんやりと楽しむ心さえ、残っていないらしい。
 そっと閉じると、本棚に戻した。
 こんなことをして自分を傷付けるくらいなら、いつか自分を助ける方に意識を向けよう。そう決めて、ノートと参考書を開けたままの机に向かった。
 きっと何も頭には入らないとは分かっていながら。

 世界は私の知っていた世界だった。
 倉谷君は内神田さん(彼女自体はいた。でも、私には縁の無い人だった)ではなく、沖本さんと付き合っていたし、藤原さんは凍てついた雰囲気を纏った孤高の元生徒会長でしかなかった。
「ねえ、みどり」
 みどりは麗音を特集した雑誌をまじまじと見つめていた。構わず尋ねてみる。
「みどりって、入院したことある?」
「入院? ないよ? なんで?」
 私の質問の唐突なことに疑問を感じたのか、みどりは雑誌を机に置いた。
「昨日、変な夢見たから。みどりが怪我して、入院してたの」
「何それ。私こう見えて、ちょっとやそっとじゃケガしないから!」
 ドン、と胸に手を当てて言い張る様は、それなりに頼もしく映ったけど、あんなことがあったらどのみちダメだと思う。あれで何ともないのは、霊長類最強とかその辺りの人くらいじゃないだろうか。そもそも、ちょっとやそっとのことで倒れたりしなさそうだけど。
「他にもね、色々変な夢だった」
「菜緒、受験勉強頑張りすぎてるんじゃない?」
 みどりは手のひらを私の額に当てると、熱はないねと言った。
「そんなにしてないよ。しなきゃいけないけど」
 やっぱり、これは現実で合ってるらしい。変な戻って来方をした気はするけど、何はともあれ、あの不可解な夢から脱出出来たことは恩の字だ。
「夢かあ。私はあんまり見ないからなー。一度くらいは、夢に麗音が出てきてくれたって良いもんなのにねー」
「枕の下に写真でも入れてみたら?」
「それはもう散々やったよー」
「やったんだ」
「麗音の歌かけながら寝てみたり、麗音が一人、二人、って唱えながら寝てみたこともあるけど、全然出てきてくれないんだよね」
 かえって寝にくいんじゃないだろうか、と思ったものの、突っ込まなかった。それにしても、羊の代わりに好きなアーティストを数えてみるなんて、なかなか大それたことをするもんだと思う。同じ顔の人が何人もいるのって、好きな人からしたら嬉しいものなんだろうか。
 一瞬、涼真が複数いる光景を想像して失笑してしまった。
「っていうかね、好きすぎて、麗音の声聞いてたら安眠しちゃうんだよね。もうぐっすり。確か夢って、浅い眠りの時に見てるんでしょ? だから見ようがないんだよねー」
 それが学説的に正しいのか分からなくて、とりあえず頷いておいた。見ていないというよりは、覚えていないだけ、という話を聞いたこともあるけど、反論しても特に良いことがないから放っておくに限る。
 視線の端に涼真が映った。友だちと話す姿は、夢の中と同じ感じだ。でも私との関係は、きっと違う。
「そう言えばさ、昨日ネット見てたら、不思議な夢を見たって、面白い話してたんだよね。何か、階段を踏み外して意識を失ったらしいんだけど、そしたら過去に飛んでた、って」
 私は耳を疑った。
「気になっちゃって、全部まとめてあるブログまで見に行ったの。何かね、自分の知ってる過去とは微妙に違う過去で、そこで別の人生を生きてみても良かったな、なんて思ったんだって」
「そ、その夢から、その人はどうやって帰ってきたの?」
 丸っきり私の見た夢と同じだ。もしこれが、私だけに起こったことじゃないなら、凄く安心出来る。
「どうしたの、凄い食いつきじゃん。ちゃんとオチがあるから、最後まで聞いてよ。そんな面白いこともあるんだなぁ、って関心してたんだけど、最後の最後で、これはフィクションです、なんて但し書きがあったの。結構ショックで。よく考えたら、文章も凄い上手かったし、あー、って感じはしたけどね?」
「そ、そっか……」
 舞い上がった分、落下の衝撃は大きかった。でも、そのことを間接的に聞けたのはかえって良かったのかもしれない。直接それを見ていたら、こんなショックでは済まなかったに違いない。
「何、菜緒は本当にそんな夢を見たりでもしたの?」
「まさか。私の脳じゃそんな話、思いつきもしないよ」
 そう。だから、私は困っているのだ。私にはそんな想像力も創造力もない。それが、あんな壮大な世界を形作ったなんて、とても信じるわけにはいかない。だからこそ、同じような体験をした人がいてくれたらありがたかったのに。
「良いよね、そんな想像力ある人。妄想も好きなだけ捗るんだろうなあ」
 みどりは指を絡めると、腕をぐっと前に突き出して伸びをした。
「でも、その分色々変なこと考えちゃったりして、大変そうじゃない?」
「それはあるかもね。一日体験コースくらいで良いかな」
 私は上手く笑えていただろうか。酷くぎこちなかったように思えて、不安になってしまった私は、すぐ後の授業はまるで集中して聴けなかった。

 元の世界での真っ当な感覚を取り戻すまでは誰とも会話しちゃいけない気がして、お昼休みになると私はすぐに教室を出た。別に行く宛があるわけでもなく、人がいない方、いない方へと目指すだけだった。
 夢の中では空いたはずのお腹もまるで空いてこなくて、私は図書館に身を寄せていた。
 どんな本の虫もまだ来てはいない。そういえば、夢でも一度だけ図書館に行ったっけ。みどりが倒れたのを見た場所だったから、それ以来足を踏み入れる気にはなれなかったのだ。あれを決して忘れたはずではないのに、大きなガラス戸を開けた瞬間でさえ、私の心には恐怖心はなかった。どんな生々しい精神の働きでさえ、いつか朧気になる日が来るのだとしたら、私が抱えているこの苦悩も、そんなことで悩んでたんだ、なんて言ってしまえるようになるんだろうか。
 苦手な古書の匂いに包まれているから、変な気分にもなるんだと言い聞かせる。それでも出ようとまでは思わなかった。
 日本人作家の棚の前に立って、何気なく背表紙の列を追う。この膨大な本たちの中から、読むべき本を見つけるなんて到底無理な気がした。だからといって、人のお薦めに頼ろうとも思えないのは、結局私が本が読みたい人間ではないからなんだろう。小学生の間くらいは、好きなことの欄に読書と書くことも出来たし、それに見合うぐらいの読書はしていた覚えもあった。でも、ある時からほとんど本を読まなくなった。そのある時が具体的にいつからかは、思い出せないけど。
 その感覚は、涼真との関係にも適用できるような気がした。嫌いになったわけではない。ただ、触れなくなってしまったのだ。
 私という人は、何事においてもそうなんじゃないだろうか。好きになったものを、気が付いたら失いかけている。
 取り戻そうとすれば、取り戻せるのかもしれない。でも、そうしようという確かな意志が、私の中にはない。
 無理にでも本を読んでみようとしたことだってあった。また読んでみれば、意外とすらすらと読めるかもしれないなんて、淡い期待を胸に抱いていた。でも、最後まで読めた本は一冊としてなかった。
 涼真とだってそうだ。距離を感じてすぐ、別れようだなんて思ったりはしなかった。自分なりに再び近づける方法を探した。でもそれは、無理をして一緒にいるのと、変わらなかった。
 無理をしてでも一緒にいたいという気持ちより、無理をしないで一緒にいた頃が良かったという気持ちの方がずっと大きくて、私は努力を続けられなかった。
 読書がそれほど好きでいられなくなった理由も、涼真と気持ちが通じ合わなくなった理由も、私には分からない。同じように日々を積み重ねていただけなのに、気が付けば、そうなっていた。
 私は本の背を中指で撫でた。エンボス加工のタイトルに触れる度、切なさが膨れ上がっていくのを覚えた。
 そうなってしまうような出来事なんて、なかったのに。時の移ろいと共に、私の中から愛情が抜けていってしまったというのなら、もう、どうしようもないことなんじゃないだろうか。
 認めたくなくて、私はその本を引き出した。そのまま借りようかとも思ったけど、きっとそうしたら、二週間机の中で眠るだけだろうから、私はまずその場で向き合ってみることにした。
 カバーがとうの昔に外されたザラザラの表紙は、ラミネートもされないせいで相当傷んでいる。開けると、黄ばんだ紙に、古いタイプの活字が印刷されていた。
 やはりこれも旧漢字が使われている。それでもへこたれず読んでみる。
 しばらくすれば、私は集中して読み進めていた。
 愛知の中学から出てきた秀才の主人公が、東京の高校で美しいヒロインと恋をする話のようだった。時代性を感じさせるような単語や、見慣れない熟語のせいで地の文は分かりにくいけど、会話文になると、普通に分かるのが面白かった。遠い昔に書かれたはずなのに、主人公の考え方には納得出来る部分も多かった。
 目が少しチカチカしてきて、私は本から顔を離した。何だ、普通に読めるじゃないか、なんて思う。でも、これが貸し出しを済ませて図書館を出てしまったら、挟み込んだひもが再び外気に触れることはないような気がする。
 そうして読まずに返してしまうのが凄く苦しいだろうと思ったから、私はぽっかり空いた空間にそれを戻した。
 これだから図書館の本は嫌なんだ、とか思ってしまう。買った本なら、自室の本棚でどれだけ眠らせようと、私の中からは手にしたという記憶そのものが消えてしまうから気にならない。だけど図書館で借りた本には、返却期限があるおかげで、読めなかったという事実がのしかかってくる。
 そうは言っても、今はもう、本屋で本を買うこともないけど。
 それなりの時間が経ったからか、昼食を終えた人たちがわらわらと図書室に入ってきた。ここにいるべき人たちのために場所を空けてあげよう、なんて適当な理屈を創り上げて、私はまた重いガラス戸を押した。もう帰ってしまうのかい? まだ何もしてないだろう? なんて言いたげなドアは、来た時よりずっと重く感じられた。
 人の少ない方を見繕って、まるで隠密行動をしてるみたいに教室への帰り道を辿る。
 そうして演習室の前を通りかかった時だった。
 ガチャリとドアの開く音がして、顔は自然とその方を向いてしまった。
 そして、完全に目を合わせてしまった。
 お互い、もう求め合っているようには見えなかった。
「何、してたの……?」
 それでも、ここで視線をそらして行ってしまったら、完全に終わりだと思った――私はそれを望んだはずなのに、なぜそうしなかったの?――から、何とか話をすることにした。もっとも、それは本能に近い理性の働きによるものだったと思う。
「物理で分からないところがあったから、先生に教えてもらってたんだ」
 教室じゃなく、わざわざ演習室で? と言いたげな顔を私がしたからだろうか、
「板野先生、神経質だからな。教室でやったら、生徒の昼飯にチョークの粉が入っていけない、とか言ってさ。演習室6なら空いてるからって」
 涼真は演習室6と書かれたプレートを軽く指差した。
「飯食ってくる」
 もう質問には答えた、とでも主張したげに、涼真は私の脇をすり抜けた。その程度で風なんて起きないはずなのに、涼真が行ってすぐ、ひゅう、と舞ったような気がした。
 戻る先は同じで、あたたかった頃ならそうでなくても一緒にいようとしたはずなのに、今の涼真には、私の行く先と合わせようなんて感じはまるで見受けられなかった。
 ぽつりと演習室の前で突っ立ってるのを、中から出てきた板野先生は一瞬だけ不思議そうに見つめて、でもすぐに興味を失ったように離れていった。
 もう、終わってしまってるんだ、私たちは。
 あんな夢を見たからこそ、余計にそう感じてしまう。何となく、そうじゃないかなって気持ちを積み重ねた結果、あの日、別れを切り出すという結論に辿り着いたけど、今はそれよりずっと生々しい終わりの予感がある。
 私自身、この状況を打開しようという熱い思いがあるわけでもなく、それはきっと、涼真にとっても同じなんだろう。
 だとしたら、私が出した答えは、間違ってないんだろうね。
 私は廊下の壁に左手をついて、俯いた。何か支えるものがなければ、心が落ち着かなかった。
 終わりにする。それこそが、私たちに出来る唯一の解決。もう、それ以外の選択肢は見えなかった。
 でも、私はその答えの伝え方を、以前想定していたものと少しだけ変えることにした。
 最後にもう一度だけ、涼真とデートする。きっと楽しくはならないだろうけど、明確に終わり、と自分に言い聞かせることが出来るだろう。
 そして別れ際に、きっぱり終わりにしようと伝える。
 それで、今度こそお終いにする。
 心を決めてしまったら、重かったはずの気持ちは幾らか軽くなって、ようやく教室に戻る気力を足に込められた。

 終礼の間中、私は胸元に手を当てて、過呼吸にならないよう努めていた。これからしようとすることの大事さを思えば、どれだけ覚悟を決めていたとしても、緊張は免れ得なかった。
 そんな時に限って、連絡事項は多い。美化委員会が今週は校内美化習慣だとか言って長ったらしい説明したり、推薦組が地域のお祭りのボランティア募集の話をしたり(普通の試験組の間にはラップ音が走ったような気がした)して、いつもより五分も伸びた。
 イライラのあまり、机を人差し指でとんとんとしていると、不思議と緊張はどこかに吹き飛んでしまった。
 机を後ろに下げると、私はいざ決行! と涼真の姿を探した。
 でも、もうその姿はなかった。
 一番後ろの席だから、席を下げるのも一瞬だとはいえ、このスピードで帰るなんて。
「あのバカ……」
 普段なら友だちとだらだら喋ってたりするくせに、なんでこういう時に限ってあっさり帰るんだ。
 私のプランは見事に瓦解した。
 すごく、すごく気持ちが入らないと実行に移せないものだったのだ。
 それが、こんなことになってしまっては、今さらもう一度やろう、というつもりになれるだろうか。
 私は溜め息を吐いた。溜め息大賞があったら、きっと今年の大賞は私で決まりだろう。
 ――その全てが、私には言い訳めいて聞こえた。
 鞄を肩にかけて教室を出ようとした私を、
「菜緒、この後暇?」
 とみどりが引き留めた。
「まあ、暇だけど」
「貴子とカラオケ行くんだけど、菜緒も来る?」
 そんな気分じゃないけど――そんな気分を晴らしたいな、って思って。
「うん」
 私は首を縦に振った。

 思い悩んでることを気取られないように、私はいつもみたいな顔をしてカラオケボックスにいた。
 一曲目から準備万端な貴子の歌声は、ここで聞くにはもったいないくらいで、私にもそんな才能が何か一つくらいあったらな、なんて思わせる。
 胸に軽く手を当てながら、時折目を瞑って口を開けば、うっとりするような歌声が広がりを持って生まれる。長い睫毛で流し目をしてみせれば、それをジャケットにカバーアルバムを売り出してほしいとさえ思った。
 きっと今一番人気の女性シンガーソングライターの歌を、本人と同じくらい上手く歌われたら、後に続く私たちはどうしたら良いんだろう。
 貴子に最初にマイクを持たせたのは間違いだった。
「菜緒も歌いたい曲入れなよ」
 みどりが渡してくれたタブレットを前にして、私は何を歌うか考えた。誘われでもしないとカラオケに来ない私には、この曲を歌いたい、なんて曲はない。
 好きで、私にも歌えそうで、それなりに歌詞を覚えている曲――ああ、と思いついて、アーティストの名前を入れた。二文字目を入力しただけで、候補に上がってきたのが嬉しかった。曲の一覧が出て、どれを歌うかスクロールしていく。ぴたり、手が止まった。やめようか、と思ったけど、私はそれを予約した。
 貴子の歌が終わって、今度はみどりのが流れはじめた。みどりのはやっぱり、麗音の歌だ。
 元々は歌い手として、動画投稿サイトで活動していたせいなのか、デビュー以後のオリジナルであっても、どこかテクノ調の斬新な気風を感じさせる曲だった。みどりの歌い方は決して上手くはないけど、音程はちゃんと合っているし、何より麗音への愛情みたいなものを感じる。ミュージックビデオを見れば、麗音は確かに誰もが認めるようなイケメンだった。
 みどりが歌い終わると、私の選んだ曲名が表示された。それだけで緊張が高まる。歌うことそのものは苦手じゃないけど、友だちの前であっても、人前で歌うのは凄くドキドキする。
 前奏と共に、ミュージックビデオが流れはじめた。これも本人の映像だ。ギターの切なげなメロディが、今の私の気持ちを語っているようだった。
 歌詞が表示されて、慌てた私は歌詞の色が変わりはじめるより先に声を出してしまった。物凄く恥ずかしいのを下手な笑いでごまかして、次の小節から入る。
 切ない片想いの歌。
 涼真に恋をしたと自覚した頃に知って、自分を重ね合わせて、涼真と付き合うことが決まった後も、ずっとずっと好きだった。
 どうして。
 どうして、こんな歌を歌ってるんだろう。
 今や女優としても活躍している彼女の、まだ歌だけを歌っていた頃の姿が映る。きっとこの歌詞は、その時胸に抱いていた本当の気持ちを、そのままに表したものなんだろう。文字として歌詞を追いかければ追いかけるほど、自分の気持ちを見つめていくように思う。
 伝えたい気持ちはどんどん募っていくのに、伝える術がわからなくて、ないように思えて、たまらなくなって。
 恋が終わる時は、恋が始まった時と同じなんじゃないかって、思ってしまう。
 伝えられていたはずのものが、最初みたいに伝えられなくなる。
 もう、ちゃんと歌えているかなんてことはどうだって良くて、自分の中に溜まっている感情を吐き出すために歌っていた。サビが来る度に、私は本気になった。
 今だって、涼真のことが好きなんだ、私は。
 正しい声の出し方なんて知らなくて、ただ、喉の奥から声を絞り出す。もし、私が自分の気持ちを歌に乗せられる人だったら、そんな手もあったんだろうか。
 涙腺が弛むのを感じて、必死に目元に力を入れる。こんなところで泣いてしまうほど、私は弱くないから、ただ悲しい曲を歌ってるだけの女子高生でいようとした。
 最後の一文字を吐き終えた時には、すっかり空っぽになった気がした。涙はひとしずく、こぼれるにはやや小さいものだけが溜まっていたから、見られないようにそっと袖ですくった。
 ダメ押しに二人の方に向かって、素人が自分なりに精一杯頑張って歌ってみたよ、なんて言いたげに照れ笑いをしてみせた。
 いくら仲が良くても、弱い自分は見せたくなくて、見られたくない。
 友だちには良くても、決して親しい友だちには向いてない人だな、私は。
 そこからは三人でぐるぐるローテーションしながら歌っていった。ランナーズハイの歌バージョンっていうのか、歌えば歌うほど悲しい気持ちはどこかに飛んでいって、カラッとした感覚だけが育っていった。私もよく知ってる曲が流れはじめた時には、私もマイクを持って下手なデュエットを晒してみせた。
 嫌なことを完全に忘れてしまえるなら、ずっとそうしていたかったけど、瞬間的な効能しかないことには薄々勘づいてしまった。確かに歌っている間は何もかも忘れられて、歌いきった刹那は仄かな多幸感に包まれるけど、落ち着いた気持ちで画面を見ていれば、やがて歌詞が心の隙間にするすると入り始める。そうすれば、またすぐに暗い感情が顔を出す。
 明るい曲も歌ってみたけど、悲しい曲ほど感情もこもらなければ、声も出なかった。
 次第に私は歌うのをパスするようになって、みどりも時々休むようになった。貴子だけが疲れを知らない感じに歌うのを、私たちは純粋に凄いと感じながら見つめていた。みどりに聞いた話によれば、カラオケに行こうと提案したのは、貴子らしかった。
「貴子ね、彼氏と別れたんだって」
 貴子がますます熱のこもった歌い上げをしだして、私たちのことを忘れてしまったようになった頃、みどりは私にだけ聞こえる声で言った。
「あんなに仲良かったのに?」
 私は自分の言葉のおかしさを噛み締めながら尋ねた。
 貴子と彼氏(中学の同級生らしくて、今は私たちとは違う高校に通っている)の関係は、ずっと良好だと聞いていた。LIMEのアイコンだって、ずっと二人のツーショットだった。
「通ってる学校の子に浮気したんだとか」
 浮気。ドキリとした。涼真も、そうなんだろうか。疎遠になった原因が、私と涼真との間にないというなら、それは二人の外側にあるんじゃないか。
 だけど私には、涼真はそうしない、と強く訴える自分がいた。
「でもそれ以上のことは喋りたがらないから、分からない。無理に聞き出すような真似はしたくないし」
 貴子の絶唱は、行き場のない感情の発散なんだ。
 身近なところで起きた破局が、私にはあまりに生々しく感じられた。これが、恋の終わり。思い悩んだ先に、決断を下した先にあるもの。
 その歌声の一つ一つが、貴子の涙。
 急に痛ましさを伴って、私の心に染みこんできた。
 そして、私を揺さぶる。
 果たして私たちの恋は、このまま終わらせて良いんだろうか?
 まだ何も、私たちの間の過ちを知らないのに。
 どこで間違えてこうなったのか、分かるより先に終わらせてしまって――
 私は首を横に振った。こうやって心を定めないから、いつまでも苦しむ。
 演習室から出てきた時のやり取りを思い出すんだ。あの時、私たちにこれ以上の未来があると思えた?
 どこで間違えてこうなったのか、分からなくても、私たちは確かにどこかで間違えた。元に戻るのは、もう無理だ。
 揺らぎそうになる決心を、必死に固定しようと努めた。
「菜緒は、柳君と上手くやってね。友だちが同じタイミングに失恋なんて、私には耐えられない気がするし」
「うん、私たちは、大丈夫」
 嘘をつくのに慣れることほど、悲しいことはないと思った。
 ごめん、みどり。私たちは終わらせてないだけで、もう終わってるんだよ。
 何もせずに仮面を被り続けるのは難しい気がして、私はタブレットを手に取った。とびきり明るいテンポの曲を選んで、予約した。
 効き目が薄くなってしまっていても、今の私に頼れるのは、それしかなかった。

 すっかり日の落ちた道を、一人とぼとぼ帰る。
 明日には、明日には必ず精算するんだ。
 痛みを厭って避け続けてきたから、今日もまた苦しんでる。痛みは刹那的なもの、と割り切って、立ち向かわなければ。
 もう戻らない、終わりにする、その決意をより確かなものにするために、私は鞄からスマホを出した。
 涼真とのLIMEのトークルームを開く。
 最後に話したのは、三週間も前だ。しかも、小テストの範囲なんて酷く事務的なもの。別に私にじゃなくていいもの。
 これを消してしまったら、いよいよ後戻りなんてしたくても出来なくなる。
 そう考えただけで手が震えた。
 歩速はさらに遅くなる。いけないと思っているのに、指先は上へ、上へと遡りはじめた。
 あの頃を取り戻したい、と無意識に願っているのが分かった。
 些細なことに愛を覚えて、好きだと言い合えることにこの上ない喜びを感じられた頃に。
 すっ、すっと上に送れば送るほど、涼真のくれる言葉は優しくなっていく。私の言葉にもパステルカラーが乗っているように見えた。顔文字や絵文字に溢れていて、スタンプも色んなものをその時々に合わせて使って。ちょっとしたことでも写真を送って共有しようとして、どんな反応をくれるか期待していた。
〝愛してる、おやすみ〟
 極めつけだった。
 ぽた、ぽたと画面に雨が降る。でも、今日は傘の要らない日。
 ようやく誰もいなくなったから、心おきなく流せる。
 人前で嘘はつけても、自分の心には嘘はつけない。
 漏れる嗚咽を押さえようと、口元に手を当てれば、その分だけ強く涙が溢れる。
 何がいけなかったの。何をどうしたら、こうならずに済んだの。
 幸せだった頃が、形として残っていることの残酷さ。見なければこれ以上苦しまずに済むはずなのに、私の心はそれが熱湯だと分かっていても潤いを求めていた。
 一日一日の間隔がどんどん長くなっていく。一分一分の間隔がどんどん長くなっていく。交わされる言葉の密度は低くなる一方なのに、込められた愛情の密度はどこまでも高くなっていく。
 戻りたい、この頃に。
 確かに涼真の恋人だった頃に。
 そう願ってしまえば、私の足は完全に止まった。
 消せるわけがない。それが私の答えだった。
 ここには、私の捨てられない幸せが詰まっているんだ。
 私は顔を上げた。ちょうど、あの階段の前だった。
 ふと、ここからもう一度滑り落ちたら、あの時間に戻れるだろうか、と思ってしまった。
 夢でも良い。涼真ともう一度恋人になって、絶対に間違えないように振る舞えたなら――
 でも、私の理性は踏み留まらせた。
 私がここに帰ってきた時、私の体には階段から落ちたような傷は何一つなかった。この階段から転げ落ちたからあの時間に行けたのだというのは、それこそ私の錯覚だった可能性が高い。間違った方法を実践して、何も得られず大怪我だけしようものなら、世紀の大バカだ。受験にも悪影響を与えるだろうし、私の人生に禍根しか残さないだろう。
 でもそんな建前以上に、私にはそんな恐ろしい真似は出来なかった。どれだけの苦痛が待ち受けていることか。
 結局私は、どんな痛みだって厭ってしまう。
 弱い弱い、私。
 諦めて帰ろう、この階段は使わずに遠回りしよう、そう思って背を向けた瞬間だった。
 ドン、と私にぶつかってくるものがあった。
 あ、落ちる、という感覚には幾らかの安堵が交じっていた。
 遠くに見えるランドセルを背負った男の子の顔は、悲痛に歪んでいた。ヤバいことをしてしまった、って思いでいるんだろう。すぐ後ろから友だちらしき子が現れて、二人して悲愴な顔をしていた。
 これからどうなるか見えないって言うのは、怖いな。
 だから私は目を瞑った。
 きっともう一度、あの時間に行ける。
 そんな確信があった。
 次に感じた衝撃は、私から意識を奪うのに十分だった。
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