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夢の終わりに月の砂漠で
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昨夜に見た夢と、明日へと見る夢の間に、違いはあるのだろうか。《夢の中、羽が生えていて、ふわふわ空を飛んでいた》は手前の方で、《僕の夢は、飛行士になって、空を自由に駆け回ることです》は後ろの方だね。
どちらも眩しく輝いている一粒の光だ。この世界をほんの少し照らしてくれている。だけど同時に、そのままでは決して手に入らないものでもあるんだ。
例えば、目覚めた瞬間に、世界の全てが分かったような素晴らしい夢も、書き留めようと鉛筆を手に取る前に、もう変わってしまっている。あんなにも楽しく笑いあった夢も、どうにか形にしようと歩んでいる内に、少し違ったものになってしまう。だから夢の話になると、聞いている側は退屈そうな顔をするのも、当然のことなのかもしれない。けれど、そんな時、がっかりしちゃいけないよ。夢は純粋な煌きで、それだけに、とても脆い。手に取って現実へと持ち帰ろうとする時、どんなに注意を凝らしても、その一番大切な部分が剥がれ落ちてしまうんだ。
ちょっと難しかったかな? え? そろそろオウチに帰りたい?
でも、おじさんにとって、とても大切な話なんだ。まだお日様も元気に頑張ってるじゃないか。もうちょっとだけ、付き合ってくれないかな。
で、夢ってのは、月の砂漠という所にある。
そこに夢が石や岩みたいに転がっているんだよ。ちかちか光っているかと思うと、時々、蜃気楼みたいに霞んだりする。
月の砂漠には、人の数だけ夢がある。途方も無く、どんどんと夢が生まれている。だけど、そのままじゃ、夢で砂漠が埋まってしまう。
そうした訳で、月の砂漠にはバクがいるんだ。散らかった夢の欠片や、崩れた夢の残骸を、食べ歩いているんだ。
夢ってのは、忘れやすいものでもあるだろう。あれほど大切に心の奥底へ閉じこめていた筈なのに、何時の間にか失くしてしまっている。それは、バクが食べてしまうせいだ。
月の砂漠のバク君が、夢を捌きに、夢をバクバクと食べ歩く。何だか、一辺に言うと舌を噛んでしまいそうだね。でも、おじさんは、何度だって間違えずに言えるよ。
ツキノサバクノバククンガユメヲサバキニユメヲバクバクトタベアルク。
何故なら、おじさんの夢は、月の砂漠のバク君と密接な関係にあるからなんだ。
それはね。そいつをやっつける事なんだよ。
◯ 〇 O o 。 .
いいかい。獲物を狩るには、昔から弓矢と相場が決まっている。ライオンだって追い付けないインパラでも、弓矢の前じゃ、たじたじさ。
インパラって? うーん。
シカの仲間なのだけど、比べようも無いくらい、とっても速く走るんだ。脚はすらりと伸びていて、二本の角は長く、風を切るように鋭く生えている。ジャンプが得意で、駆けっこしながら、岩山を飛び跳ねたりする。だいたい、そんな感じかな。
さて、そのインパラが木陰で寝そべっている。お日様に執拗に打たれて、参ってしまったみたいだね。
脚をぐてっと横にして、耳の痒みを取ろうと、木の幹に頭をこすりつけている。
《ああ、疲れた、疲れた。久し振りに遠出してしまったなあ。曇り空さん、今年はまだなのかな。大雨でも降らしてくれたら、ご近所にも沢山の草花が、ひょっこりと顔を出すのに》
それを一つ離れた木の影から、プスリ。
《やられた!》と思った時は、もう遅い。深く刺さった矢は、びっくりして、飛び起きることも許さない。呼吸さえ、ゆっくりと、掠れていく。ほら、とうとう止まってしまった。アーメン。
哀れインパラは、それから塩コショウと一緒にこねくり回され、夕飯のハンバーグになってしまったとさ。
ね、弓矢は、とても素晴らしいものだろう。猛毒を持つ蛇だって、牙を剥く前にプスリ。大空を舞う鳥だって、羽を広げる前にプスリ。
月の砂漠のバクだって、例外じゃない。あちらさんがこちらに気付く前に、勝負をつけてしまうんだ。
でも、一つだけ大きな問題がある。
相手は夢なんか食べて、生活している凄いバクだ。果たして、普通の矢で、やっつけられるだろうか。あんなのに、矢なんて突き刺さるのだろうか。
変哲もない木や鉄では、さすがに心許ない。
鍛えられた鋼でも、少し不安だ。ゾウやサイの皮膚にさえ、弾き返されてしまうもの。
では、銀はどうだろう。そりゃ、ちょっとは頑丈になるかもしれない。でも、なんと言っても、お金がかかり過ぎる。弓矢も銀となると、恐ろしく値が張るんだ。大豪邸の大広間で、偉そうに飾られているくらいだからね。何年も、朝、昼、晩と、ご馳走をたらふく食べ続けても、お釣りが返ってくるような値段になる。それこそ夢になってしまうよ。《神様、月の砂漠のバク様、どうか、銀の弓矢が手に入りますように》
金の弓矢は……。もう、よそう。だいたい見当は付いてるだろうし。
でも、大丈夫! 答えは簡単。
夢を矢にすればいいんだ。バク君をやっつけたいという夢を、そのまま弓矢にする。
そんなこと出来るのかって? 出来るさ!
だって、バクがいるのは、月の砂漠だよ。夢の故郷の、月の砂漠なのだよ。現実では、如何ともし難い夢も、そこならまだ何とかなる。その光を全く損なわずに、この手に掬える。月の砂漠で自分の夢を探し出して、それを、ちょちょいと弄るのさ。
いいかい、こうだ。
まず、《バク君をやっつけたい》という夢を用意する。それを砂漠の中から見つけ出す。そうしたら、手で夢を両側から掴み込んで、肘がぴんと張るまで両腕を真っ直ぐに前へと伸ばす。すると、神様に捧げ物をするかのような格好になる。
それから夢の片方を掴んだ左手を真っ直ぐに前へと張ったままに保つ。右手は反対側を握り締めながら、背中の方へと引っ張る。すると夢はゴムみたいに伸びて、左手と右手の間に一本の線が出来る。
ほら、弓を絞る姿勢に、自然となった。
仕上げに《バク君をやっつけたい》と強く念じれば、線は一筋の矢となる。
右拳で掴んでいる矢の根元を離せば、そのまま矢は、前に突き出した左拳が向かう先へと飛んでいく。そこにバク君がいれば、バク君にプスリ、って寸法さ。
えっ? わかりにくい? なんだかタイヘンそうだけど、ほんとうに出来るのかって?
しょうがないなぁ。特別だぞ。
実はおじさんは、昔、月の砂漠に行ったことがあるんだ。そこで実際に、夢の弓矢を作ったんだよ。勿論、月の砂漠のバク君にも会った。これは事実であり、きちんと体験によって証明されたことなんだ。
<l───────
おじさんは、月の砂漠に行きたい、行きたい、と毎晩お願いしていたら、ある日とうとうそこに行けた。行き方かい? 残念だけど、どうしたことか、良く覚えていないんだ。
それはともかく、そこは月の砂漠だった。
辺り一面の白い砂がきらきら光っていた。地面、全部がだよ。思わず手に取ってみたら、その訳が分かった。夢の細かい破片が、貝殻みたいに砂の中に混じっているんだ。手の平からさらさら流れると、そこに光の薄い幕がかかったかのようだった。空は星一つ無く真っ暗で、でも足元は仄かに明るい。遠くの方には、あちこちに石や岩が虹色に浮かんで見えた。急いで近付いてみると、それらは全て夢の固まりだった。一つ一つ、大きさも光彩の具合もまちまちで、ひと所に無数の夢がテントウムシの冬眠みたいに集まっているものや、ぽつんと離れて砂に埋もれているものもあった。
思わず助けてやりたくなるのもあったけど、他所様の夢だからね。おじさんが勝手に触ると、却って具合が悪いかもしれない。我慢しておいた。
それよりまずは、自分の夢だ。そう、夢の弓矢を作らないといけないからね。バク君をやっつける夢を叶える為に、わざわざ月の砂漠にやって来たんだ。
月に限らず、砂漠ってのは、ただっ広い。目印が無いから、見つけるのに随分と苦労すると思っていた。でも、ふらふらと三つ砂山を越えると、おじさんの夢はあった。本当に、あっさりと見つかったんだよ。
思っていたとおり、それは真珠のように滑らかで、光も目を覆ってしまうほど強かった。自慢したくなるくらいにね。光は一定のリズムで鈍くなったり、煌いたりした。何処かとても優しくて、懐かしくて心地よかった。今思うと、あれはおじさんの心臓のリズムに合わせて光っていたのかもしれない。そっと手にした時、一際、輝いていたからね。ポケットの中に入れても、光が零れるくらいだった。
さて、夢が手に入ったとなると、次はバクだ。だけど、こっちの方には手間が掛かった。探しても探しても、見つからない。もしかしたら、月の砂漠のバクはアリさんのようにちっぽけで、知らぬ間に踏んづけてしまったんじゃないか。そう思えてしまうくらい、探したんだよ。広大な砂漠全体からすると、ネコのひたい程の探検だったにしても。
砂の地面なのに、踏み出す度に足の裏が痛くなり、膝のバネが利かなくなって、がくがく笑い出しても、まだ見つからなかった。そこで、向こう側にある一番大きな砂山を目指すことにした。あそこなら、ずっと先まで周囲を一望できるからね。バク君も捉えられるかもしれない。ふもとまで来てみると、なるほど身体が傾くほどの急斜面で、掴めそうなでっぱりも何も無い砂山だ。何度も転げ落ちた。転げ落ちて、滑り落ちて、その内にコツをやっと掴んで、砂の中にぐいと足を突っ込んで、四つん這いになって、よじ登っていって。頑張って頑張って、ようやく、少し開けた頂上に着いた。
綺麗だった。月の砂漠で月並みな表現だけど、本当に綺麗だった。眼下には、ほの白い砂漠が淡く広がっていて、そこに夢の光が無造作に散りばめられている。それぞれの異なる夢の営みが、数え切れないほど集まって、一つの光景を作る。風は無く、深海の底にいるくらい静かだった。おじさんは、砂山のてっぺんにちょこんと座って、眼下をぼうっと見渡すしかなかった。でも、見渡している内に、湿った土で作られた山みたいなのが、もぞもぞと揺れているのが飛び込んできたんだ。
ごしごしと目を疑ったよ。バク君が幾ら大きかろうと、ゾウを二周り大きくした程度で済むと思っていたんだ。その程度でびっくら仰天して、ひっくりかえる準備をしていたんだよ。でも、どう少なく見積もっても、そいつは家くらいの大きさはある。それも大金持ちの三階建ての大屋敷くらいの大きさだ。アリは、おじさんの方だったんだ。
:.゜。 ゜・。゜゜. .゜。・。゜ ::.゜。・。゜.゜.
バク君。いや、もう、あんな凄いの見たら、バク君なんて呼べないよ。
バクは、豚みたいな土色の巨体を、のしのしと揺らしていた。胴回りに対してやけに短い四本の足が、ゆっくりと動いていた。
頭の手前に緩やかなコブがあって、そこからシャープな顔が突き出ていて、先っちょに、ぶつ切りのゴムホースみたいな鼻が伸びている。その鼻を《プルルルルル》と上唇を震わせるみたいに、しきりに上下させていた。時折、細くて長い舌をちょろりと出して、それが砂漠の白の中で遠くからでもはっきりと映えた。そうやって、何度も同じ場所をぐるぐると回っていた。おじさんはただ砂山のてっぺんにしゃがみ込んで、それを眺めることしか出来なかった。
そうこうしている内に、突然バクは立ち止まった。それから顔を地面に近づけたかと思うと、器用に鼻を使って、辺りを掃き回した。鼻がモップ糸の一本みたいだった。そうやって、きらきらと砂金のように光るものが、一辺に集まったかと思うと、バクはゾウのように鼻でそれらを周りの砂ごと口に運んだ。おじさんはもう呆然としてしまっていて、バクが口をもぐもぐとさせているのをじぃっと見て、それが夢を食べる動作だったのだと、ようやく理解した。
どれくらい、経ったのだろう。一時間かもしれないし、一日だったのかもしれない。月の砂漠には太陽も星も無いから朝も夜もわからないし、昔のことだったせいか良く覚えていないんだ。バクは足をネコみたいに畳んで、腹ばいになった。時折、耳をひくひくさせるくらいで、他は動かなくなった。寝てしまったんだ。それを見て、おじさんは、一気に砂山を滑り降りた。
チャンスだ!
おじさんはバクの方へと走った。一休憩したおかげか、足は驚くほど軽かった。それでも、土の山みたいなバクの寝姿が遠景に霞むまで随分とかかったし、それからがまた一大事だった。どんどんと近付けば近付くほど、バクはどんどんと大きく目に映っていく。まだ結構な距離があるのに、そこでおじさんは間違いを犯したことに気付いた。三階立ての大屋敷ほどだった筈のバクが、どう見ても五階分はある。あれは遠くの高い砂山からの、目算だったからね。少しの間違いは覚悟していたけど、ちょっと間違え過ぎだ。寄ってみるとずっとずっと大きい。まだ疲れてないのに、足はがくがく笑って、汗が背中から吹き出した。それでも、おじさんはやらなくちゃいけない。バクをやっつけなくちゃ。
少し前から、ズー、ズー、と音がしていて、何だと思っていたら、バクの寝息だった。バクは腹ばいになっているのだけど、それでもおじさんの頭のてっぺんよりも高い所から、それは響いていた。近付くごとに、音は大きくなっていく。怖かったけど、少しだけ安心した。砂を踏む足音が、それに紛れるからね。
バクが目の前で眠っている。とうとう運命の時がやって来た。小さな頃から、夢描いていた時だ。その夢をポケットから取り出すと、ぴかぴか光っていて頼もしかった。それを両手で掴んで、そのまま真っ直ぐに肘を伸ばして。神様に捧げ物をするようなポーズだね。夢を両手でしっかりと掴んだまま、左肘は真っ直ぐに保ち、右肘を後ろに引く。姿勢は弓を引くポーズとなり、夢はぐんと伸びて一本の線となる。あとは夢に願いを込めて、放つだけ。ここまで来たんだ。でも、ここまで来て、恐ろしいことに気付いてしまった。
失敗したら、どうしよう。
おじさんは自分の夢に自信はあったけど、バクがこれ程までに大きいとは、思ってもみなかった。想定外のケースだ。失敗するかもしれない。矢がバクを倒せればいいのだけど、逆にバクに矢が倒されてしまう危険性だってある。夢の矢はバクの皮膚に弾かれる。夢はバクの目の前で、砕け散ってしまう。バクは蚊にでもさされたかと目を覚ます。すると、どうなるだろう。最悪だ。バクは粉々になった夢の欠片を一つ残らず食べてしまう。おじさんの夢は、バクに食べられ、忘れられ、消えてしまう。
どんな失敗も、これより酷いことってあるだろうか。だって、どんな失敗をしたってその記憶は残るじゃないか。やり直すことだって、反省することだって、苦虫を噛むことだって、諦めることだって、出来る。
でも、この夢は失敗すると、それそのものが消えてしまうんだ。挑戦しようとした思い、ずっと遠い日の決意、叶えようと頑張った毎日、それ自体を全く忘れてしまうんだ。次の日の朝になっても、何事も無かったかのように生きていくんだ。とても大切なものが消えてしまったのに、それに気付かないで。
例えば十年後の別の場所にいるきみが、今ここにいるきみのことなんてすっかり忘れてしまって、それでも日々を何気なく過ごしているなんて、想像したら、悲しいだろう。きっと悲しいだろう。
おじさんは動けなかった。どうすればいいのか、ずっと、考えていた。頭の上から、ズゥーッ、ズゥーッ、とバクの寝息が轟いていた。
@ @ @ @ @
おじさんは走った。右手を前に戻して、夢を元の形に戻して、ポケットに入れて、走った。十歩もしない内に、まっ平らな砂漠なのに足がもつれて、派手に転んでしまった。柔らかい砂の上だったから全然痛くなかったけど、気が気ではなかった。音と振動で、バクが目を覚ましてしまうかもしれない。起き上がると、汗で湿った顔に砂がひっついていた。払う間も惜しんで、そのまま、よろよろと走り続けた。最後まで、怖くて、後ろを振り返れなかった。おじさんはバクから逃げ出したんだ。
失望しちゃったかい? でも、あそこで失敗して夢を食べられちゃったら、今ここでこんな話なんて出来ないだろう? それにただ逃げ出したんじゃない。秘策だってあるんだ。秘密の策戦だから、教えてあげられないけど、凄いんだぞ。次にバクに会ったら、もうびくびくすることなんて絶対に無い。自信たっぷりに、やっつけてやるさ。
「バククンがかわいそう……」
「え? 今、なんて?
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「バククン、かわいそう」
「どうして? バククンは夢を食べちゃうんだぞ」
「でも、わるい夢も、たべてくれてるんでしょ? やっつけなくちゃ、いけないの?」
「そりゃ、そうだけど。でも中にはいい夢だって混じっているかもしれない。何せいっぺんに食べてしまうんだから」
「でも」
「まだ、きみは知らないんだ。どんな夢でも、それを失くすことがどんなに怖いことか」
「でも、バククンはひとりぼっちだよ」
「ひとりぼっち?」
「あんなに広いさばくで、ひとりぼっち。ひとりぼっちで、頼まれてもないのに、おそうじしてくれてる。ぼくなんて、お母さんにあれだけお願いされても、お片づけをさぼっちゃうのに」
「けど」
「それに、バククンをやっつけて、何になるの?」
「みんな、喜ぶさ! 安心して夢を持ち続けてられるんだから」
「でも…… ぼくなら……」
「何をするってんだい!」
「……」
「ご、ごめん。ゆっくりで、いいよ。きみならどうするのか、言ってごらん。おじさん、もう怒ったりしないから」
「ぼくならね、つきのさばくにいって」
「月の砂漠に行って」
「バククンに、タマノリを教えてあげるの!」
「タマノリ? 玉乗りかい?」
「うん、サーカスの。バククンがタマのうえを、コロコロころがるの!」
「でも、ちょっと待てよ…… 玉は、どうするんだい?」
「えっ?」
「だって、バクはとっても大きいんだよ。乗ろうとしたら、ぺしゃんこになっちゃうよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。クマさんが乗る、大きな玉でも、無理だよ」
「じゃあ、タマを夢で作ってみるの」
「夢で?」
「だって、ユミヤだって作れたんでしょ」
「夢でかぁ。うーん…… ストローを夢の中にさして、ふうふう膨らませたら、出来るかなぁ。ゴム風船みたいな玉」
「うん! できるよ!」
「でも、けっこう、時間がかかりそうだよ。大きさが、大きさだから」
「ぼく、がんばる!」
「わかった。玉はちゃんと、出来たって事にしよう。それで?」
「タマノリを教えてあげるの。バククンがタマに乗ってコロコロころがるの」
「月の砂漠をバク君が、夢の玉に乗って、コロコロと転がる。なんだか楽しそうだね」
「うん、バククンはとても楽しいの。はなをプルプルさせてるの」
「イヌのしっぽみたいに? 退屈だったのかな。バクくんは」
「うん。だってさばくには、オモチャもコウエンもないんでしょ。すぐ、あきちゃうよ」
「そうかぁ。でも、やっぱり問題が残るよ、そのやり方じゃ」
「なんでー?」
「バクは玉乗りを覚えて、とっても楽しい。つまらない毎日が、ぱっと明るくなった。でも、それと夢を食べることは別々さ。ひょっとしたら玉乗りでお腹が空いて、もっと沢山の夢を食べてしまうかもしれないよ」
「でも、バククン。きっと、もう、おじさんの夢を食べたりなんかしなくなるよ」
「えっ?」
「だって、バククンにも夢ができるでしょ?」
「うーん」
「タマノリができるようになったら、もっと上手にタマノリしたい、って思うよ」
「そうかっ。そうだね。それこそサーカスみたいにお客さんに披露して、拍手を一杯貰いたいとか。ただ乗るだけじゃなく、玉の上で宙返りしたいとか。思うかもしれない」
「うん。バククンが夢を持つの」
「バク君の夢かぁ」
「そしたら、おじさんの夢をへいきで食べようとか、思わないよ」
「それってこういう事かい? 夢の大切さに気付いたバク君は、ご飯の時もっと慎重に夢を選り分けるようになる。シチューからニンジンを取り出すみたいに、ゆっくりと」
「バククン、ニンジンがきらいなの?」
「いやいや、その逆さ。そうやって選り分けて、本当に要らなくなった悪い夢だけを、申し分けなそうにして食べる。《ごめんなさい、いただきます》って」
「バククン、えらいね」
「うん、えらい。とってもえらい。さっきは怒ってごめんね。バク君に玉乗りを教えてあげるなんて、とても素敵なアイディアだと思うよ」
もう、お日様も、バイバイしている。大きく振る手が無いから、代わりにお空を真っ赤にして一生懸命、別れを惜しんでいるんだ。すっかりオウチに帰る時間に、なってしまったね。
おじさんのお話、楽しかったかい? おじさんは、楽しかった。
暗くなる前にオウチに帰るんだよ。寄り道なんかしちゃいけないよ。
じゃあね。どうか、よい夢を。うん、またね。
◯ ~
そこら中の田んぼから、蛙の合唱が、何時もより大きく夜空を行き交う。明日は雨になるのだろうか。毛布が臭って来ていて、そろそろ洗濯してやろうと思っていたのだけど、もうちょっとこいつと付き合わないといけなくなるかもしれない。軽く身体を傾けると、とっくにバネの潰れたベッドは、ギィギィと音を立てる。今日は月がやけに輝いていて、窓からその光が風と一緒に入り込んでくる。天井の木目がうっすらと見えるくらいに明るい。月がこんなに綺麗なんだから、明日はやっぱり晴れるのかな。
さて、考えなくちゃいけない。バクをやっつけた後、どうするのか。やっつけて、やっつけたきり、この夢は終るのだろうか。続きがあった気がしたのだけど、どうも思い出せない。
あの時、巨大なバクを目の前にして、随分とあれこれ考えた。夢を失ってしまったら、どうしよう。そうなったら、もう生きていけない。もし生きていても、それは生きていることを意味しなくなる。それくらい大事な夢だったんだ。
悩みに悩んで、そして閃いた。夢を他の子供たちに配ることを。
沢山の子に、この出来事を話してあげて、夢を分けてあげる。何百も話せば、その中の一人が、同じ夢を持ってくれるかもしれない。大切に育ててくれるかもしれない。そうすれば、もう一度バクと会った時、夢を全く失うかもしれないなんて震えなくて済む。誰かが、ほんの一欠けらでも、継いでくれているかもしれない。可能性だけでいい。それだけで心置きなく、夢を放てる。その筈だったんだ。
でも、この夢は、あの子の夢に肩を並べられるようなものだったのだろうか。いつか月の砂漠へとバクに玉乗りを教えにやって来たあの子に、《ごめんね。おじさん、バクをやっつけちゃったよ》って言い訳できるような夢なのだろうか。
ああ、どうしよう。一生懸命、考えないといけないのに、こんなに月夜が明るいのに、なんだか眠くなってきた。なんだか、あれだけうるさかった蛙の合唱も、なんだか、子守唄みたいに聞こえてきた。早く、思い出さないと。バクをやっつけ
。 :: ゜ o .. ○ 。 ゜ 。 ::. 。
一面の砂が淡く光り、視界一杯に広がっている。
背中の方のずっと高い所から、ズゥーッ、ズゥーッ、と風が鳴り響いている。
慌てて振り向くと、土の山みたいなバクが短い手足を畳んで、猫が座るようなポーズをとって、寝息をたてていた。
また、月の砂漠へと来てしまった。前に来た時は喜び勇んでバクをやっつけようとして、その余りの巨体にたじろいでしまった。だから、次来る時はもっと喜び勇んでバクをやっつけてやろうと思っていた。でも、よりによって今。何もこんなに悩んでいる時に。
バクを見上げると、五階建てだった筈が、八階建てになっていた。暫く見ない間に、一回りも二回りも、大きくなっていたのだ。ぞぅっと、悪寒が走る。バクは夢を食べて、大きくなっている。そんなこと、思いもしなかった。
震える指先でポケットを探る。そこに夢をしまっていたのだ。なのに、妙にごつごつとしている。手に取ってみると、あれだけ滑らかで強く輝いていた夢は、でこぼことしていて光も随分と弱々しいものになっていた。
夢はどうにか形にしようとしている内に、何処か違ったものになってしまう。どんなに注意を凝らしても、その大切な部分が、剥がれ落ちてしまう。心の奥底へ閉じこめていた筈なのに、何時の間にか、失くしてしまっている。だけど、この夢だけはそうではないと、信じていた。
沢山の人に分けようと、物語にして、現実へと無理して持ち込んだせいだろうか。肝心な部分を忘れてしまって、そのままにしてしまうくらい、ぞんざいに扱ったせいだろうか。あの時の夢とは、すっかり変わってしまっていた。
でも、あの時の夢って、どんな形だったのだろう。はっきりと思い出せない。忘れてしまっただけならいいが、もう戻ってこないかもしれない。でこぼこの鈍い光のこの夢が、今ここにある夢の全てなのかもしれない。
それでも、思い出さないと。バクをやっつけなくちゃ。でも、やっつけた後、どうするんだっけ?
バクの毛皮を部屋にでも、飾るのだろうか。
違う。こんな土色の毛皮を飾っても、ちっとも嬉しくないし、誰も喜ばない。
バクの肉でも、みんなで食べるのだろうか。
インパラみたいに、塩コショウと共にこねて、ハンバーグにでもして。
違う。違う! 夢を食べるバクを食べて、何になるのだろうか。それに、ちっとも美味しそうじゃないじゃないか。
ああ、くそっ。考えが纏まらない。
いや、待てよ?
ハンバーグみたいにミンチになったものをこねこねして、一つの形に纏める。あの大きなバクの中身は、そうなっているんじゃないか? 食べられてしまった沢山の夢があの中で、混ぜられ、捏ねられ、大きな一つの固まりになっているんじゃないか?
そうだ! きっと、それは太陽のように大きくて明るい宝石になっている!
月の砂漠に太陽が灯る。どうだろう。これなら、玉乗りの夢に負けないくらいに素晴らしい夢じゃないか。ずっと昔に夢の欠片を食べられた人だって報われるし、他のみんなも幸せにするくらいの大きな温かい光が、月の砂漠に浮かぶんだ。
夢をいっぱいに溜め込んでいると考えれば、バクの巨体だって、それが日に日に大きくなってることだって、何だか楽しく納得してしまう。この大きさの分だけ、月の砂漠の太陽がでっかいのだと思うと、却ってわくわくしてしまう。
《どうだい?》と首を一杯に上げて、バクに問いかけてみる。遥か上空で、耳をパタパタさせるのは、はたして《いいよ》のサインなのだろうか。そう思っていた矢先のことだった。
定期的に鳴り響いていた轟音が止んだ。バクの寝息が止まったのだ。すると、戸惑う間も無く、バクはその大きな口を開けた。真っ赤な舌と、その奥の真っ黒な闇が、目の前を覆う。瞬間、砂が舞い、足が浮いた。空間ごと、バクの口へと、吸い込まれる。思わず目をつむった。食べられる! おしまいだ!
次の瞬間、風は逆側へと吹いた。それに乗って、後ろに吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされながら、目をどうにか開けると、口をすぼめたバクの顔が映った。それも一瞬で、きりもみしながら、視界は一気に砂の海へと落っこちた。そのまま、したたかに身体を強く打った。月の砂漠の砂はとても柔らかかったけど、プールで飛び込みに失敗して、腹から水面にぶつかった時みたいに、痛くてヒリヒリした。ようやく顔を持ち上げると、吹き上げられた月の砂漠の砂が、きらきら舞っていた。
それは、バクのあくびだった。すやすやとしながらも、バクはあくびをしたのだ。それに。《ふあぁぁぁぁ》と大きく息を吸い込むのと《ふぅーっ》と大きく息を吐き出すのに、巻き込まれたのだ。
運が良かった。あとほんのちょっとでも近くに寄っていれば、吐き出す前にそのまま吸い込まれきってしまって、食べられていたかもしれない。
しかし、前に来た時はこんなあくびなどしなかったのに、どうしたことだろう。あの子の言うように、何にも無い月の砂漠の退屈にいよいよ耐えられなくなって、あくびをする癖でもついてしまったのだろうか。
しかし、あくび……。吐き出す……。
. 。 o O 〇 ◯
そうだ! 思いついたぞ!
魚の小骨が喉に引っかかった時、何とか《けほっ、けほっ》とそれを吐き出そうとする。気になって、夜も眠れなくなるからだ。大抵の場合、気が付くと何時の間にか無くなってしまっているものだけど、そうならないくらい深く突き刺さっていたとしたら、どうだろう。
ある日バクの喉元に、小骨が刺さる。あの長い舌でも、引っこ抜けない程しっかりと突き刺さっている。そうなったら、いよいよ事態は深刻だ。《けほっ、けほっ》は《うげー、うげー》となる。身体の中全部を捻るようにして、とらなくちゃいけない。その勢いにつられて、お腹の中の、夢の固まりも吐き出されるんだ。小骨と一緒にどすんと大きな夢の固まりが砂の上に、落っこちる。
可能性としてはそんなに高くないかもしれないが、こんなに大きなバクをやっつけるよりも、ずっと上手くいきそうだ。
バクの喉に小骨を突き刺す算段だって、たった今、出来た。
夢の弓矢だ。こいつをバクへとぶつける。タイミングはあくびの瞬間。寝息が止まった次の瞬間だ。バクは口を大きく開き、空気を一杯に吸い込む。それに合わせて、矢を放つ。すると、喉元に小さな矢がプスリ。
失敗したら、そのまま矢はごくりと飲み込まれてしまうけど、それはそれでしょうがない。成功してしまえば、これほど素晴らしい夢は、他に無いだろうから……
思わず、手に力が篭り、ぎゅっと握り拳を作ってしまった。すると、ごつごつと痛くなる筈なのに、妙にしっくりと馴染んで、手の平に心地良い感覚が返ってきた。目を落とすと、拳の隙間から光が溢れている。開くと、そこには滑らかに輝く、夢があった。何処か、懐かしい光だった。
それは、忘れてしまったあの日の夢の光なのだろうか。それとも、たった今、生まれたての光なのだろうか。どちらにせよ、とても頼もしく瞬いていた。
それを両手で掴んで、真っ直ぐに前へと伸ばす。神への捧げ物のようなポーズを取る。左肘はぴんと張ったまま、右肘を後ろへと引く。すると一本の線が出来る。想いを込めると、それは一筋の矢となった。右手には矢の根元が掴まれていて、それを離せば、左拳が向かう先へと放たれる。あとは、あくびをする時を待つだけだ。
前とは違って、どうしたことか、心は弾んでいた。
万が一失敗しても、もしかしたらあの子の玉乗りの夢が続くかもしれないからだろうか。
この巨体で、短い足で、器用に玉を転がしていく。
滑って、落っこちると、地震が起きたみたいに砂漠が揺れて、砂煙が辺りを跳ねる。
やっぱり、何だか楽しそうだ。
暢気そうに眠っているけど、そんなの聞いたら、びっくりして飛び起きるだろうな。
或いはあの子の方こそ、びっくりするかもしれないぞ。
ある日、月の砂漠に行ってみると、聞いていたより、ずっと小さなバクが一匹。
その代わり、太陽みたいに大きな夢の固まりが、月の砂漠を照らしている。
どんな顔をするだろう……うん。そうしてしまおう。
寝息をたてる轟音が止まった。大きな鼻がひくひくと震えて、口が開き始める。
貫いても、砕け散っても、これで終いだ。
いくぞ! バク君!
どちらも眩しく輝いている一粒の光だ。この世界をほんの少し照らしてくれている。だけど同時に、そのままでは決して手に入らないものでもあるんだ。
例えば、目覚めた瞬間に、世界の全てが分かったような素晴らしい夢も、書き留めようと鉛筆を手に取る前に、もう変わってしまっている。あんなにも楽しく笑いあった夢も、どうにか形にしようと歩んでいる内に、少し違ったものになってしまう。だから夢の話になると、聞いている側は退屈そうな顔をするのも、当然のことなのかもしれない。けれど、そんな時、がっかりしちゃいけないよ。夢は純粋な煌きで、それだけに、とても脆い。手に取って現実へと持ち帰ろうとする時、どんなに注意を凝らしても、その一番大切な部分が剥がれ落ちてしまうんだ。
ちょっと難しかったかな? え? そろそろオウチに帰りたい?
でも、おじさんにとって、とても大切な話なんだ。まだお日様も元気に頑張ってるじゃないか。もうちょっとだけ、付き合ってくれないかな。
で、夢ってのは、月の砂漠という所にある。
そこに夢が石や岩みたいに転がっているんだよ。ちかちか光っているかと思うと、時々、蜃気楼みたいに霞んだりする。
月の砂漠には、人の数だけ夢がある。途方も無く、どんどんと夢が生まれている。だけど、そのままじゃ、夢で砂漠が埋まってしまう。
そうした訳で、月の砂漠にはバクがいるんだ。散らかった夢の欠片や、崩れた夢の残骸を、食べ歩いているんだ。
夢ってのは、忘れやすいものでもあるだろう。あれほど大切に心の奥底へ閉じこめていた筈なのに、何時の間にか失くしてしまっている。それは、バクが食べてしまうせいだ。
月の砂漠のバク君が、夢を捌きに、夢をバクバクと食べ歩く。何だか、一辺に言うと舌を噛んでしまいそうだね。でも、おじさんは、何度だって間違えずに言えるよ。
ツキノサバクノバククンガユメヲサバキニユメヲバクバクトタベアルク。
何故なら、おじさんの夢は、月の砂漠のバク君と密接な関係にあるからなんだ。
それはね。そいつをやっつける事なんだよ。
◯ 〇 O o 。 .
いいかい。獲物を狩るには、昔から弓矢と相場が決まっている。ライオンだって追い付けないインパラでも、弓矢の前じゃ、たじたじさ。
インパラって? うーん。
シカの仲間なのだけど、比べようも無いくらい、とっても速く走るんだ。脚はすらりと伸びていて、二本の角は長く、風を切るように鋭く生えている。ジャンプが得意で、駆けっこしながら、岩山を飛び跳ねたりする。だいたい、そんな感じかな。
さて、そのインパラが木陰で寝そべっている。お日様に執拗に打たれて、参ってしまったみたいだね。
脚をぐてっと横にして、耳の痒みを取ろうと、木の幹に頭をこすりつけている。
《ああ、疲れた、疲れた。久し振りに遠出してしまったなあ。曇り空さん、今年はまだなのかな。大雨でも降らしてくれたら、ご近所にも沢山の草花が、ひょっこりと顔を出すのに》
それを一つ離れた木の影から、プスリ。
《やられた!》と思った時は、もう遅い。深く刺さった矢は、びっくりして、飛び起きることも許さない。呼吸さえ、ゆっくりと、掠れていく。ほら、とうとう止まってしまった。アーメン。
哀れインパラは、それから塩コショウと一緒にこねくり回され、夕飯のハンバーグになってしまったとさ。
ね、弓矢は、とても素晴らしいものだろう。猛毒を持つ蛇だって、牙を剥く前にプスリ。大空を舞う鳥だって、羽を広げる前にプスリ。
月の砂漠のバクだって、例外じゃない。あちらさんがこちらに気付く前に、勝負をつけてしまうんだ。
でも、一つだけ大きな問題がある。
相手は夢なんか食べて、生活している凄いバクだ。果たして、普通の矢で、やっつけられるだろうか。あんなのに、矢なんて突き刺さるのだろうか。
変哲もない木や鉄では、さすがに心許ない。
鍛えられた鋼でも、少し不安だ。ゾウやサイの皮膚にさえ、弾き返されてしまうもの。
では、銀はどうだろう。そりゃ、ちょっとは頑丈になるかもしれない。でも、なんと言っても、お金がかかり過ぎる。弓矢も銀となると、恐ろしく値が張るんだ。大豪邸の大広間で、偉そうに飾られているくらいだからね。何年も、朝、昼、晩と、ご馳走をたらふく食べ続けても、お釣りが返ってくるような値段になる。それこそ夢になってしまうよ。《神様、月の砂漠のバク様、どうか、銀の弓矢が手に入りますように》
金の弓矢は……。もう、よそう。だいたい見当は付いてるだろうし。
でも、大丈夫! 答えは簡単。
夢を矢にすればいいんだ。バク君をやっつけたいという夢を、そのまま弓矢にする。
そんなこと出来るのかって? 出来るさ!
だって、バクがいるのは、月の砂漠だよ。夢の故郷の、月の砂漠なのだよ。現実では、如何ともし難い夢も、そこならまだ何とかなる。その光を全く損なわずに、この手に掬える。月の砂漠で自分の夢を探し出して、それを、ちょちょいと弄るのさ。
いいかい、こうだ。
まず、《バク君をやっつけたい》という夢を用意する。それを砂漠の中から見つけ出す。そうしたら、手で夢を両側から掴み込んで、肘がぴんと張るまで両腕を真っ直ぐに前へと伸ばす。すると、神様に捧げ物をするかのような格好になる。
それから夢の片方を掴んだ左手を真っ直ぐに前へと張ったままに保つ。右手は反対側を握り締めながら、背中の方へと引っ張る。すると夢はゴムみたいに伸びて、左手と右手の間に一本の線が出来る。
ほら、弓を絞る姿勢に、自然となった。
仕上げに《バク君をやっつけたい》と強く念じれば、線は一筋の矢となる。
右拳で掴んでいる矢の根元を離せば、そのまま矢は、前に突き出した左拳が向かう先へと飛んでいく。そこにバク君がいれば、バク君にプスリ、って寸法さ。
えっ? わかりにくい? なんだかタイヘンそうだけど、ほんとうに出来るのかって?
しょうがないなぁ。特別だぞ。
実はおじさんは、昔、月の砂漠に行ったことがあるんだ。そこで実際に、夢の弓矢を作ったんだよ。勿論、月の砂漠のバク君にも会った。これは事実であり、きちんと体験によって証明されたことなんだ。
<l───────
おじさんは、月の砂漠に行きたい、行きたい、と毎晩お願いしていたら、ある日とうとうそこに行けた。行き方かい? 残念だけど、どうしたことか、良く覚えていないんだ。
それはともかく、そこは月の砂漠だった。
辺り一面の白い砂がきらきら光っていた。地面、全部がだよ。思わず手に取ってみたら、その訳が分かった。夢の細かい破片が、貝殻みたいに砂の中に混じっているんだ。手の平からさらさら流れると、そこに光の薄い幕がかかったかのようだった。空は星一つ無く真っ暗で、でも足元は仄かに明るい。遠くの方には、あちこちに石や岩が虹色に浮かんで見えた。急いで近付いてみると、それらは全て夢の固まりだった。一つ一つ、大きさも光彩の具合もまちまちで、ひと所に無数の夢がテントウムシの冬眠みたいに集まっているものや、ぽつんと離れて砂に埋もれているものもあった。
思わず助けてやりたくなるのもあったけど、他所様の夢だからね。おじさんが勝手に触ると、却って具合が悪いかもしれない。我慢しておいた。
それよりまずは、自分の夢だ。そう、夢の弓矢を作らないといけないからね。バク君をやっつける夢を叶える為に、わざわざ月の砂漠にやって来たんだ。
月に限らず、砂漠ってのは、ただっ広い。目印が無いから、見つけるのに随分と苦労すると思っていた。でも、ふらふらと三つ砂山を越えると、おじさんの夢はあった。本当に、あっさりと見つかったんだよ。
思っていたとおり、それは真珠のように滑らかで、光も目を覆ってしまうほど強かった。自慢したくなるくらいにね。光は一定のリズムで鈍くなったり、煌いたりした。何処かとても優しくて、懐かしくて心地よかった。今思うと、あれはおじさんの心臓のリズムに合わせて光っていたのかもしれない。そっと手にした時、一際、輝いていたからね。ポケットの中に入れても、光が零れるくらいだった。
さて、夢が手に入ったとなると、次はバクだ。だけど、こっちの方には手間が掛かった。探しても探しても、見つからない。もしかしたら、月の砂漠のバクはアリさんのようにちっぽけで、知らぬ間に踏んづけてしまったんじゃないか。そう思えてしまうくらい、探したんだよ。広大な砂漠全体からすると、ネコのひたい程の探検だったにしても。
砂の地面なのに、踏み出す度に足の裏が痛くなり、膝のバネが利かなくなって、がくがく笑い出しても、まだ見つからなかった。そこで、向こう側にある一番大きな砂山を目指すことにした。あそこなら、ずっと先まで周囲を一望できるからね。バク君も捉えられるかもしれない。ふもとまで来てみると、なるほど身体が傾くほどの急斜面で、掴めそうなでっぱりも何も無い砂山だ。何度も転げ落ちた。転げ落ちて、滑り落ちて、その内にコツをやっと掴んで、砂の中にぐいと足を突っ込んで、四つん這いになって、よじ登っていって。頑張って頑張って、ようやく、少し開けた頂上に着いた。
綺麗だった。月の砂漠で月並みな表現だけど、本当に綺麗だった。眼下には、ほの白い砂漠が淡く広がっていて、そこに夢の光が無造作に散りばめられている。それぞれの異なる夢の営みが、数え切れないほど集まって、一つの光景を作る。風は無く、深海の底にいるくらい静かだった。おじさんは、砂山のてっぺんにちょこんと座って、眼下をぼうっと見渡すしかなかった。でも、見渡している内に、湿った土で作られた山みたいなのが、もぞもぞと揺れているのが飛び込んできたんだ。
ごしごしと目を疑ったよ。バク君が幾ら大きかろうと、ゾウを二周り大きくした程度で済むと思っていたんだ。その程度でびっくら仰天して、ひっくりかえる準備をしていたんだよ。でも、どう少なく見積もっても、そいつは家くらいの大きさはある。それも大金持ちの三階建ての大屋敷くらいの大きさだ。アリは、おじさんの方だったんだ。
:.゜。 ゜・。゜゜. .゜。・。゜ ::.゜。・。゜.゜.
バク君。いや、もう、あんな凄いの見たら、バク君なんて呼べないよ。
バクは、豚みたいな土色の巨体を、のしのしと揺らしていた。胴回りに対してやけに短い四本の足が、ゆっくりと動いていた。
頭の手前に緩やかなコブがあって、そこからシャープな顔が突き出ていて、先っちょに、ぶつ切りのゴムホースみたいな鼻が伸びている。その鼻を《プルルルルル》と上唇を震わせるみたいに、しきりに上下させていた。時折、細くて長い舌をちょろりと出して、それが砂漠の白の中で遠くからでもはっきりと映えた。そうやって、何度も同じ場所をぐるぐると回っていた。おじさんはただ砂山のてっぺんにしゃがみ込んで、それを眺めることしか出来なかった。
そうこうしている内に、突然バクは立ち止まった。それから顔を地面に近づけたかと思うと、器用に鼻を使って、辺りを掃き回した。鼻がモップ糸の一本みたいだった。そうやって、きらきらと砂金のように光るものが、一辺に集まったかと思うと、バクはゾウのように鼻でそれらを周りの砂ごと口に運んだ。おじさんはもう呆然としてしまっていて、バクが口をもぐもぐとさせているのをじぃっと見て、それが夢を食べる動作だったのだと、ようやく理解した。
どれくらい、経ったのだろう。一時間かもしれないし、一日だったのかもしれない。月の砂漠には太陽も星も無いから朝も夜もわからないし、昔のことだったせいか良く覚えていないんだ。バクは足をネコみたいに畳んで、腹ばいになった。時折、耳をひくひくさせるくらいで、他は動かなくなった。寝てしまったんだ。それを見て、おじさんは、一気に砂山を滑り降りた。
チャンスだ!
おじさんはバクの方へと走った。一休憩したおかげか、足は驚くほど軽かった。それでも、土の山みたいなバクの寝姿が遠景に霞むまで随分とかかったし、それからがまた一大事だった。どんどんと近付けば近付くほど、バクはどんどんと大きく目に映っていく。まだ結構な距離があるのに、そこでおじさんは間違いを犯したことに気付いた。三階立ての大屋敷ほどだった筈のバクが、どう見ても五階分はある。あれは遠くの高い砂山からの、目算だったからね。少しの間違いは覚悟していたけど、ちょっと間違え過ぎだ。寄ってみるとずっとずっと大きい。まだ疲れてないのに、足はがくがく笑って、汗が背中から吹き出した。それでも、おじさんはやらなくちゃいけない。バクをやっつけなくちゃ。
少し前から、ズー、ズー、と音がしていて、何だと思っていたら、バクの寝息だった。バクは腹ばいになっているのだけど、それでもおじさんの頭のてっぺんよりも高い所から、それは響いていた。近付くごとに、音は大きくなっていく。怖かったけど、少しだけ安心した。砂を踏む足音が、それに紛れるからね。
バクが目の前で眠っている。とうとう運命の時がやって来た。小さな頃から、夢描いていた時だ。その夢をポケットから取り出すと、ぴかぴか光っていて頼もしかった。それを両手で掴んで、そのまま真っ直ぐに肘を伸ばして。神様に捧げ物をするようなポーズだね。夢を両手でしっかりと掴んだまま、左肘は真っ直ぐに保ち、右肘を後ろに引く。姿勢は弓を引くポーズとなり、夢はぐんと伸びて一本の線となる。あとは夢に願いを込めて、放つだけ。ここまで来たんだ。でも、ここまで来て、恐ろしいことに気付いてしまった。
失敗したら、どうしよう。
おじさんは自分の夢に自信はあったけど、バクがこれ程までに大きいとは、思ってもみなかった。想定外のケースだ。失敗するかもしれない。矢がバクを倒せればいいのだけど、逆にバクに矢が倒されてしまう危険性だってある。夢の矢はバクの皮膚に弾かれる。夢はバクの目の前で、砕け散ってしまう。バクは蚊にでもさされたかと目を覚ます。すると、どうなるだろう。最悪だ。バクは粉々になった夢の欠片を一つ残らず食べてしまう。おじさんの夢は、バクに食べられ、忘れられ、消えてしまう。
どんな失敗も、これより酷いことってあるだろうか。だって、どんな失敗をしたってその記憶は残るじゃないか。やり直すことだって、反省することだって、苦虫を噛むことだって、諦めることだって、出来る。
でも、この夢は失敗すると、それそのものが消えてしまうんだ。挑戦しようとした思い、ずっと遠い日の決意、叶えようと頑張った毎日、それ自体を全く忘れてしまうんだ。次の日の朝になっても、何事も無かったかのように生きていくんだ。とても大切なものが消えてしまったのに、それに気付かないで。
例えば十年後の別の場所にいるきみが、今ここにいるきみのことなんてすっかり忘れてしまって、それでも日々を何気なく過ごしているなんて、想像したら、悲しいだろう。きっと悲しいだろう。
おじさんは動けなかった。どうすればいいのか、ずっと、考えていた。頭の上から、ズゥーッ、ズゥーッ、とバクの寝息が轟いていた。
@ @ @ @ @
おじさんは走った。右手を前に戻して、夢を元の形に戻して、ポケットに入れて、走った。十歩もしない内に、まっ平らな砂漠なのに足がもつれて、派手に転んでしまった。柔らかい砂の上だったから全然痛くなかったけど、気が気ではなかった。音と振動で、バクが目を覚ましてしまうかもしれない。起き上がると、汗で湿った顔に砂がひっついていた。払う間も惜しんで、そのまま、よろよろと走り続けた。最後まで、怖くて、後ろを振り返れなかった。おじさんはバクから逃げ出したんだ。
失望しちゃったかい? でも、あそこで失敗して夢を食べられちゃったら、今ここでこんな話なんて出来ないだろう? それにただ逃げ出したんじゃない。秘策だってあるんだ。秘密の策戦だから、教えてあげられないけど、凄いんだぞ。次にバクに会ったら、もうびくびくすることなんて絶対に無い。自信たっぷりに、やっつけてやるさ。
「バククンがかわいそう……」
「え? 今、なんて?
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「バククン、かわいそう」
「どうして? バククンは夢を食べちゃうんだぞ」
「でも、わるい夢も、たべてくれてるんでしょ? やっつけなくちゃ、いけないの?」
「そりゃ、そうだけど。でも中にはいい夢だって混じっているかもしれない。何せいっぺんに食べてしまうんだから」
「でも」
「まだ、きみは知らないんだ。どんな夢でも、それを失くすことがどんなに怖いことか」
「でも、バククンはひとりぼっちだよ」
「ひとりぼっち?」
「あんなに広いさばくで、ひとりぼっち。ひとりぼっちで、頼まれてもないのに、おそうじしてくれてる。ぼくなんて、お母さんにあれだけお願いされても、お片づけをさぼっちゃうのに」
「けど」
「それに、バククンをやっつけて、何になるの?」
「みんな、喜ぶさ! 安心して夢を持ち続けてられるんだから」
「でも…… ぼくなら……」
「何をするってんだい!」
「……」
「ご、ごめん。ゆっくりで、いいよ。きみならどうするのか、言ってごらん。おじさん、もう怒ったりしないから」
「ぼくならね、つきのさばくにいって」
「月の砂漠に行って」
「バククンに、タマノリを教えてあげるの!」
「タマノリ? 玉乗りかい?」
「うん、サーカスの。バククンがタマのうえを、コロコロころがるの!」
「でも、ちょっと待てよ…… 玉は、どうするんだい?」
「えっ?」
「だって、バクはとっても大きいんだよ。乗ろうとしたら、ぺしゃんこになっちゃうよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。クマさんが乗る、大きな玉でも、無理だよ」
「じゃあ、タマを夢で作ってみるの」
「夢で?」
「だって、ユミヤだって作れたんでしょ」
「夢でかぁ。うーん…… ストローを夢の中にさして、ふうふう膨らませたら、出来るかなぁ。ゴム風船みたいな玉」
「うん! できるよ!」
「でも、けっこう、時間がかかりそうだよ。大きさが、大きさだから」
「ぼく、がんばる!」
「わかった。玉はちゃんと、出来たって事にしよう。それで?」
「タマノリを教えてあげるの。バククンがタマに乗ってコロコロころがるの」
「月の砂漠をバク君が、夢の玉に乗って、コロコロと転がる。なんだか楽しそうだね」
「うん、バククンはとても楽しいの。はなをプルプルさせてるの」
「イヌのしっぽみたいに? 退屈だったのかな。バクくんは」
「うん。だってさばくには、オモチャもコウエンもないんでしょ。すぐ、あきちゃうよ」
「そうかぁ。でも、やっぱり問題が残るよ、そのやり方じゃ」
「なんでー?」
「バクは玉乗りを覚えて、とっても楽しい。つまらない毎日が、ぱっと明るくなった。でも、それと夢を食べることは別々さ。ひょっとしたら玉乗りでお腹が空いて、もっと沢山の夢を食べてしまうかもしれないよ」
「でも、バククン。きっと、もう、おじさんの夢を食べたりなんかしなくなるよ」
「えっ?」
「だって、バククンにも夢ができるでしょ?」
「うーん」
「タマノリができるようになったら、もっと上手にタマノリしたい、って思うよ」
「そうかっ。そうだね。それこそサーカスみたいにお客さんに披露して、拍手を一杯貰いたいとか。ただ乗るだけじゃなく、玉の上で宙返りしたいとか。思うかもしれない」
「うん。バククンが夢を持つの」
「バク君の夢かぁ」
「そしたら、おじさんの夢をへいきで食べようとか、思わないよ」
「それってこういう事かい? 夢の大切さに気付いたバク君は、ご飯の時もっと慎重に夢を選り分けるようになる。シチューからニンジンを取り出すみたいに、ゆっくりと」
「バククン、ニンジンがきらいなの?」
「いやいや、その逆さ。そうやって選り分けて、本当に要らなくなった悪い夢だけを、申し分けなそうにして食べる。《ごめんなさい、いただきます》って」
「バククン、えらいね」
「うん、えらい。とってもえらい。さっきは怒ってごめんね。バク君に玉乗りを教えてあげるなんて、とても素敵なアイディアだと思うよ」
もう、お日様も、バイバイしている。大きく振る手が無いから、代わりにお空を真っ赤にして一生懸命、別れを惜しんでいるんだ。すっかりオウチに帰る時間に、なってしまったね。
おじさんのお話、楽しかったかい? おじさんは、楽しかった。
暗くなる前にオウチに帰るんだよ。寄り道なんかしちゃいけないよ。
じゃあね。どうか、よい夢を。うん、またね。
◯ ~
そこら中の田んぼから、蛙の合唱が、何時もより大きく夜空を行き交う。明日は雨になるのだろうか。毛布が臭って来ていて、そろそろ洗濯してやろうと思っていたのだけど、もうちょっとこいつと付き合わないといけなくなるかもしれない。軽く身体を傾けると、とっくにバネの潰れたベッドは、ギィギィと音を立てる。今日は月がやけに輝いていて、窓からその光が風と一緒に入り込んでくる。天井の木目がうっすらと見えるくらいに明るい。月がこんなに綺麗なんだから、明日はやっぱり晴れるのかな。
さて、考えなくちゃいけない。バクをやっつけた後、どうするのか。やっつけて、やっつけたきり、この夢は終るのだろうか。続きがあった気がしたのだけど、どうも思い出せない。
あの時、巨大なバクを目の前にして、随分とあれこれ考えた。夢を失ってしまったら、どうしよう。そうなったら、もう生きていけない。もし生きていても、それは生きていることを意味しなくなる。それくらい大事な夢だったんだ。
悩みに悩んで、そして閃いた。夢を他の子供たちに配ることを。
沢山の子に、この出来事を話してあげて、夢を分けてあげる。何百も話せば、その中の一人が、同じ夢を持ってくれるかもしれない。大切に育ててくれるかもしれない。そうすれば、もう一度バクと会った時、夢を全く失うかもしれないなんて震えなくて済む。誰かが、ほんの一欠けらでも、継いでくれているかもしれない。可能性だけでいい。それだけで心置きなく、夢を放てる。その筈だったんだ。
でも、この夢は、あの子の夢に肩を並べられるようなものだったのだろうか。いつか月の砂漠へとバクに玉乗りを教えにやって来たあの子に、《ごめんね。おじさん、バクをやっつけちゃったよ》って言い訳できるような夢なのだろうか。
ああ、どうしよう。一生懸命、考えないといけないのに、こんなに月夜が明るいのに、なんだか眠くなってきた。なんだか、あれだけうるさかった蛙の合唱も、なんだか、子守唄みたいに聞こえてきた。早く、思い出さないと。バクをやっつけ
。 :: ゜ o .. ○ 。 ゜ 。 ::. 。
一面の砂が淡く光り、視界一杯に広がっている。
背中の方のずっと高い所から、ズゥーッ、ズゥーッ、と風が鳴り響いている。
慌てて振り向くと、土の山みたいなバクが短い手足を畳んで、猫が座るようなポーズをとって、寝息をたてていた。
また、月の砂漠へと来てしまった。前に来た時は喜び勇んでバクをやっつけようとして、その余りの巨体にたじろいでしまった。だから、次来る時はもっと喜び勇んでバクをやっつけてやろうと思っていた。でも、よりによって今。何もこんなに悩んでいる時に。
バクを見上げると、五階建てだった筈が、八階建てになっていた。暫く見ない間に、一回りも二回りも、大きくなっていたのだ。ぞぅっと、悪寒が走る。バクは夢を食べて、大きくなっている。そんなこと、思いもしなかった。
震える指先でポケットを探る。そこに夢をしまっていたのだ。なのに、妙にごつごつとしている。手に取ってみると、あれだけ滑らかで強く輝いていた夢は、でこぼことしていて光も随分と弱々しいものになっていた。
夢はどうにか形にしようとしている内に、何処か違ったものになってしまう。どんなに注意を凝らしても、その大切な部分が、剥がれ落ちてしまう。心の奥底へ閉じこめていた筈なのに、何時の間にか、失くしてしまっている。だけど、この夢だけはそうではないと、信じていた。
沢山の人に分けようと、物語にして、現実へと無理して持ち込んだせいだろうか。肝心な部分を忘れてしまって、そのままにしてしまうくらい、ぞんざいに扱ったせいだろうか。あの時の夢とは、すっかり変わってしまっていた。
でも、あの時の夢って、どんな形だったのだろう。はっきりと思い出せない。忘れてしまっただけならいいが、もう戻ってこないかもしれない。でこぼこの鈍い光のこの夢が、今ここにある夢の全てなのかもしれない。
それでも、思い出さないと。バクをやっつけなくちゃ。でも、やっつけた後、どうするんだっけ?
バクの毛皮を部屋にでも、飾るのだろうか。
違う。こんな土色の毛皮を飾っても、ちっとも嬉しくないし、誰も喜ばない。
バクの肉でも、みんなで食べるのだろうか。
インパラみたいに、塩コショウと共にこねて、ハンバーグにでもして。
違う。違う! 夢を食べるバクを食べて、何になるのだろうか。それに、ちっとも美味しそうじゃないじゃないか。
ああ、くそっ。考えが纏まらない。
いや、待てよ?
ハンバーグみたいにミンチになったものをこねこねして、一つの形に纏める。あの大きなバクの中身は、そうなっているんじゃないか? 食べられてしまった沢山の夢があの中で、混ぜられ、捏ねられ、大きな一つの固まりになっているんじゃないか?
そうだ! きっと、それは太陽のように大きくて明るい宝石になっている!
月の砂漠に太陽が灯る。どうだろう。これなら、玉乗りの夢に負けないくらいに素晴らしい夢じゃないか。ずっと昔に夢の欠片を食べられた人だって報われるし、他のみんなも幸せにするくらいの大きな温かい光が、月の砂漠に浮かぶんだ。
夢をいっぱいに溜め込んでいると考えれば、バクの巨体だって、それが日に日に大きくなってることだって、何だか楽しく納得してしまう。この大きさの分だけ、月の砂漠の太陽がでっかいのだと思うと、却ってわくわくしてしまう。
《どうだい?》と首を一杯に上げて、バクに問いかけてみる。遥か上空で、耳をパタパタさせるのは、はたして《いいよ》のサインなのだろうか。そう思っていた矢先のことだった。
定期的に鳴り響いていた轟音が止んだ。バクの寝息が止まったのだ。すると、戸惑う間も無く、バクはその大きな口を開けた。真っ赤な舌と、その奥の真っ黒な闇が、目の前を覆う。瞬間、砂が舞い、足が浮いた。空間ごと、バクの口へと、吸い込まれる。思わず目をつむった。食べられる! おしまいだ!
次の瞬間、風は逆側へと吹いた。それに乗って、後ろに吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされながら、目をどうにか開けると、口をすぼめたバクの顔が映った。それも一瞬で、きりもみしながら、視界は一気に砂の海へと落っこちた。そのまま、したたかに身体を強く打った。月の砂漠の砂はとても柔らかかったけど、プールで飛び込みに失敗して、腹から水面にぶつかった時みたいに、痛くてヒリヒリした。ようやく顔を持ち上げると、吹き上げられた月の砂漠の砂が、きらきら舞っていた。
それは、バクのあくびだった。すやすやとしながらも、バクはあくびをしたのだ。それに。《ふあぁぁぁぁ》と大きく息を吸い込むのと《ふぅーっ》と大きく息を吐き出すのに、巻き込まれたのだ。
運が良かった。あとほんのちょっとでも近くに寄っていれば、吐き出す前にそのまま吸い込まれきってしまって、食べられていたかもしれない。
しかし、前に来た時はこんなあくびなどしなかったのに、どうしたことだろう。あの子の言うように、何にも無い月の砂漠の退屈にいよいよ耐えられなくなって、あくびをする癖でもついてしまったのだろうか。
しかし、あくび……。吐き出す……。
. 。 o O 〇 ◯
そうだ! 思いついたぞ!
魚の小骨が喉に引っかかった時、何とか《けほっ、けほっ》とそれを吐き出そうとする。気になって、夜も眠れなくなるからだ。大抵の場合、気が付くと何時の間にか無くなってしまっているものだけど、そうならないくらい深く突き刺さっていたとしたら、どうだろう。
ある日バクの喉元に、小骨が刺さる。あの長い舌でも、引っこ抜けない程しっかりと突き刺さっている。そうなったら、いよいよ事態は深刻だ。《けほっ、けほっ》は《うげー、うげー》となる。身体の中全部を捻るようにして、とらなくちゃいけない。その勢いにつられて、お腹の中の、夢の固まりも吐き出されるんだ。小骨と一緒にどすんと大きな夢の固まりが砂の上に、落っこちる。
可能性としてはそんなに高くないかもしれないが、こんなに大きなバクをやっつけるよりも、ずっと上手くいきそうだ。
バクの喉に小骨を突き刺す算段だって、たった今、出来た。
夢の弓矢だ。こいつをバクへとぶつける。タイミングはあくびの瞬間。寝息が止まった次の瞬間だ。バクは口を大きく開き、空気を一杯に吸い込む。それに合わせて、矢を放つ。すると、喉元に小さな矢がプスリ。
失敗したら、そのまま矢はごくりと飲み込まれてしまうけど、それはそれでしょうがない。成功してしまえば、これほど素晴らしい夢は、他に無いだろうから……
思わず、手に力が篭り、ぎゅっと握り拳を作ってしまった。すると、ごつごつと痛くなる筈なのに、妙にしっくりと馴染んで、手の平に心地良い感覚が返ってきた。目を落とすと、拳の隙間から光が溢れている。開くと、そこには滑らかに輝く、夢があった。何処か、懐かしい光だった。
それは、忘れてしまったあの日の夢の光なのだろうか。それとも、たった今、生まれたての光なのだろうか。どちらにせよ、とても頼もしく瞬いていた。
それを両手で掴んで、真っ直ぐに前へと伸ばす。神への捧げ物のようなポーズを取る。左肘はぴんと張ったまま、右肘を後ろへと引く。すると一本の線が出来る。想いを込めると、それは一筋の矢となった。右手には矢の根元が掴まれていて、それを離せば、左拳が向かう先へと放たれる。あとは、あくびをする時を待つだけだ。
前とは違って、どうしたことか、心は弾んでいた。
万が一失敗しても、もしかしたらあの子の玉乗りの夢が続くかもしれないからだろうか。
この巨体で、短い足で、器用に玉を転がしていく。
滑って、落っこちると、地震が起きたみたいに砂漠が揺れて、砂煙が辺りを跳ねる。
やっぱり、何だか楽しそうだ。
暢気そうに眠っているけど、そんなの聞いたら、びっくりして飛び起きるだろうな。
或いはあの子の方こそ、びっくりするかもしれないぞ。
ある日、月の砂漠に行ってみると、聞いていたより、ずっと小さなバクが一匹。
その代わり、太陽みたいに大きな夢の固まりが、月の砂漠を照らしている。
どんな顔をするだろう……うん。そうしてしまおう。
寝息をたてる轟音が止まった。大きな鼻がひくひくと震えて、口が開き始める。
貫いても、砕け散っても、これで終いだ。
いくぞ! バク君!
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