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4.絵画モデル②

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 胸当てはそれなりに厚い。
 実際、表面を触られたところで、なんとなく触られているな、という感覚があるだけだ。
 だが、初対面の男に胸当ての上からとはいえ、胸を触られているという状況は、エリーゼの頬を染めるのには十分だった。

 ガゼルの手が及んだのは、胸当てだけではない。
 同じテーブルに上ると、頭の先からエリーゼの輪郭をなぞるように両手を動かした。

 絹のような、滑らかな黄金色の髪を、手で梳かすように撫でる。
 指の間をサラサラと流れていくそれは、薄暗い室内で輝いているようにみえた。

 ガゼルは掬うようにしてエリーゼの髪を持ち上げると、自身の鼻に近づけ大きく息を吸った。

「っ!」

 髪の匂いを嗅がれているという事態に、思わず動きそうになるのをグッとこらえる。
 
 シンも営みの際に、よくエリーゼの匂いを嗅ぐことがある。
 それは恥ずかしいような、くすぐったいような不思議な感じこそするが、決して嫌なものではなかった。
 実際、エリーゼもシンの匂いを嗅ぐのは好きだ。
 シンの匂いを嗅ぐと、不思議と心が安らぐのだ。
 恥ずかしいから、本人にはいわないが。

 だが、これは違う。
 相手はシンではなく、ガゼルだ。
 それも営みの最中ではない。

 シンにされるのとは違う、嫌悪と羞恥を混ぜたような感覚が、胸の中で渦巻く。

 満足するまで髪を堪能したガゼルが次に手を伸ばしたのは、エリーゼの顔だった。

 エルフ特有の笹穂耳、形のいい眉、切れ長の瞳を覆う目蓋、筋の通った鼻、ふっくらとした口唇。
 その全てをなぞるように、ガゼルの指が這い回る。

 一通り撫でた手は、ペチペチとエリーゼの頬を優しく叩いた。
 痛くはないが、他人に頬を叩かれるというのは、あまりいい気はしない。

 そして、匂いを嗅ぐために、ガゼルの顔が近づく。
 毛穴すら鮮明に見えてしまっているのではないだろうか。
 そんな距離に、ガゼルの顔がある。

 それは愛する人の距離。
 シンだけに許された領域。

 鼻先がふれ合いそうな所に、シン以外の顔がある。

 不意に、ガゼルに染み着いた油の臭いが鼻を突いた。
 それはつまり、エリーゼの匂いもガゼルに嗅がれているということだ。

 ペロッ

 突然、頬にザラリとした感触がした。
 エリーゼは一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 だが、もう一度同じ感触が襲ったことで、その正体がわかった。

「あっ……」

 鳥肌が立った。
 ガゼルがエリーゼの頬を舐めたのだ。
 エリーゼを味わうために。

 ガゼルの言葉は本当だった。
 見て、触って、嗅いで、味わって、聞く。
 全ての感覚を使って、エリーゼの本質に迫ろうとしている。

 いくら依頼とはいえ、ガゼルの行動は到底受け入れられるようなものではない。
 このまま突き飛ばして、屋敷を飛び出すのが正解だろう。

 しかし、ガゼルがエリーゼの本質に迫ろうとしているように、エリーゼもガゼルという男の本質を覗き見ていた。
 眼前にあるガゼルの瞳は、エリーゼを見ているというのに、エリーゼが映っていなかった。
 エリーゼというモデルを通して、自身の求める究極の一枚へと至ろうとする執念のみが燃えていた。

 ガゼルにとってエリーゼは、依頼を受けてやってきた、ただのモデルに過ぎない。
 そこに情欲はない。
 ならば、エリーゼも依頼通りモデルに徹しよう。
 ガゼルに画家としてのプライドがあるように、エリーゼにも冒険者としてのプライドがある。
 一度受けた依頼を投げ出すだなんて、自分が許さない。

 ガゼルの指先が止まることはない。
 細い首を通り、肩を、腕を、背中を、腹を余すところなく撫でていく。
 そしてその指を追うように、ガゼルの顔も移動する。
 鼻を近づけ、舌を伸ばし、エリーゼを知ろうとする。

 ショートパンツ越しの臀部に顔を埋め、股間の匂いを嗅ぎ、肉付きのいい大腿を撫で、足の先まで味わう。

 それはまさに蹂躙。
 エリーゼという未開の地を、隅々まで知ろうとする冒険者のごとき探求心。

「休憩だ」

 ガゼルからその言葉を聞いた途端、エリーゼはその場に崩れ落ちた。
 火照った体が熱い。
 うっすらと汗ばんだ体からは、すっかり雌の香りを放ってしまっている。

 こうしている間も、まだガゼルに撫で回されているような錯覚に陥る。
 体にはすっかりガゼルの臭いが染み着いてしまっていた。

 満身創痍といった様子でエリーゼが顔を上げると、そこにはキャンバスに向かって一心不乱に筆を動かすガゼルの姿があった。
 鬼気迫る表情。
 まるで、剣を片手に魔物と闘っているような。

 いや、ガゼルにとって、筆は剣なのだろう。
 理想の絵を描くために、キャンバスという敵と闘っているのだ。

 静寂の漂う室内に、ガゼルの筆を動かす微かな音だけが響く。
 エリーゼはテーブルから下りることすら忘れたまま、キャンバスに向かうガゼルへと視線を送り続けた。



 日は既に暮れていた。
 休憩を言い渡されてから、エリーゼがテーブルの上に立つことはなかった。

 ガゼルはただひたすらに、全身で感じ取ったエリーゼをキャンバスへと描き続けた。

 そして、ようやく筆を置いた。
 脱力したように、長く息を吐くガゼル。
 どうやら完成したようだ。

 エリーゼはテーブルから下りると、ガゼルの背後に回り込み、キャンバスを覗き込んだ。

 そこにはエリーゼがいた。
 凛とした佇まいで、遠くを見据えるようにして立つエリーゼ。
 女性としての柔らかさや、冒険者としての引き締まった肉体の張りが、まるで手に取るように伝わってくる。
 それに着なれた自分の衣類のような、心地よい匂いさえしてくる気がする。

 これが、ガゼルが全身で感じて描いた、エリーゼの本質。
 ガゼルの求めた究極の一枚。

 無意識に口が動いていた。
 この素晴らしい絵に対する感想を伝えようと。

「……足りないわ」

 だが、口からこぼれたのは、称賛の言葉ではなかった。

 ガゼルがエリーゼを睨み付ける。

 確かに、ガゼルの描いたエリーゼは素晴らしいと思う。
 称賛されるべき作品だ。

 しかし、これがエリーゼの本質を表しているとは思えなかった。
 エリーゼの表面を撫でているだけのような、そんな感覚。
 ガゼルの追い求める、本質には決して至っていない。
 根拠はないが、そんな確信がエリーゼの中にあった。

 こんなものではない。
 ガゼルなら、もっとエリーゼの本質に迫れるはずだ。

 沈黙が二人の間を流れる。
 だが、決して互いの目をそらすことはなかった。

「……お前のいう通りだ。
 この絵では、お前の本質に迫れていない。
 究極の一枚には程遠いだろう」

 消え入りそうな声でガゼルが呟いた。
 ガゼル自身もわかっていたのだ。
 この絵では足りないということくらい。
 だが、迫れなかった。
 手を抜いたわけではない。
 自分の持てるもの全てで挑んだ。
 その結果がこれだ。

 自分の限界。
 そんな言葉が、ガゼルの脳裏を過る。

「ガゼルさん。
 あなたはちゃんと私を見ていましたか?」

「なっ!?
 俺は見ていた!
 それでも描けなかったんだ……」

「いえ、あなたは私を見ていませんでした」

「そんなはず……」

「あなたが見ていたのは、究極の一枚という結果だけ。
 あなたの瞳は私を、エリーゼを見ていなかった。
 あなたにとって本質に迫るというのは、そんなに簡単なことなんですか。
 目の前のモデルから意識を逸らした状態でたどり着けるほど、私の本質は浅いものなんですか!」

「それは……」

 ガゼルは肩を落とし、項垂れた。
 多少の自覚はあったらしい。

「ガゼルさん。
 あなたに落ち込んでいる暇なんてないはずです。
 さあ、もう一度私を描いてください」

「……もう一度俺にチャンスをくれるのか?」

 驚きの色を浮かべながら、ガゼルは静かに問いかけた。

「何をいっているんですか。
 私はあなたの依頼を受けに来た冒険者ですよ。
 今の私はあなたのモデルです。
 少なくとも明日までは。
 それに私もガゼルさんが描く、私の本質というのを見てみたいですし。
 多少の延長交渉なら受けますよ。
 もちろん、追加報酬は頂きますけど」

 エリーゼは悪戯っぽく微笑んだ。

 その姿は、まるで後光が差しているかのように美しかった。
 今なら究極の一枚……、いや、エリーゼの本質に迫れる気がする。

「もう一度頼む」

 ガゼルの瞳には、エリーゼが映っていた。
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