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びちょびちょおじさん
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びちょびちょおじさん。
俺はその男のことをそう心の中で呼んでいた。
いつからだろうか。
部活帰りにその男を見かけるようになった。
その男はいつも池にでも落ちたのではというほどびしょ濡れだった。
彼の歩いた後には滴る水が尾を引いていた。
最初の印象は気味が悪いというものだった。
それはそうだろう。
毎日、毎日ずぶ濡れの男が歩いているのだから。
だが人間未知のものに惹かれるのが性であろう。
その印象自体は変わらないものの、どうしていつも濡れているのか気にならないわけではなかった。
そんなある日のこと。
珍しく部活が早あがりだった。
この後体育館の利用予定があるらしい。
いつもより早い時間に帰路に着いた俺は目を見張った。
びちょびちょおじさんがいたのだ。
それもまだ濡れていない状態でだ。
これはいつも濡れている理由を突き止めるチャンスなのでは?
幸い今日は時間に余裕がある。
いつも部活帰りに濡れている姿を見かけるということは、特定するのにそれほど時間もかからないだろう。
好奇心に突き動かされた俺は、びちょびちょおじさんを尾行することにした。
◇
尾行を開始してから数分後。
辿り着いたのは一軒の平屋だった。
その家の第一印象は廃屋だった。
外壁には所々ひび割れが見えるし、窓越しに見える障子は穴だらけだ。
狭い庭は雑草に覆われており、手入れしているようにはみえない。
びちょびちょおじさんは玄関の前で立ち止まるとインターフォンを押した。
だが一分ほどしても誰かが出てくることはなかった。
留守だろうか。
俺はそう思ったのだが、びちょびちょおじさんはそれがいつものことだとでもいうように玄関の前に座り込むと一人話し始めた。
「おーい、後藤。
今日も来たぞ」
突然の奇行に驚く。
もしかして扉の向こうに誰かいるのだろうか。
「今日はな久しぶりに学校の図書館に行ってみたんだ。
毎日学校に行っているが、教師になると図書館に行く機会なんて全然ないからな。
もしかしたら学生の頃以来だったかもしれん。
授業中だったから生徒は誰もいなくて凄く静かだった。
あそこなら誰にも邪魔されずに昼寝を堪能できそうだったぞ。
そういえばあの本があったぞ。
ほらあの映画にもなった魔法使いのやつ。
あれって原作なかなかのボリュームだよな。
先生あまり本読むの得意じゃないから、あんな分厚い本読める気がしないけどな」
びちょびちょおじさんは語り続けた。
職員室のお茶の賞味期限が切れていたこと。
体育館のバスケットボールが、新しいものに買い替えられたこと。
昼飯に買った弁当に箸がついてなくて困ったこと。
話の内容はどれもありふれた、下らない話ばかりだった。
そんな話をびちょびちょおじさんはときにおどけたように、ときに身振り手振りを交えながら楽しそうに話していた。
そしてついにそのときが訪れた。
唐突に玄関の扉が開いたかと思うとバケツ一杯の水を浴びせかけたのだ。
そして言葉をかけることもなく、再び扉は閉じられた。
後に残されたのはびちょびちょおじさんただ一人。
少しの間、地蔵のようにピクリとも動かなかったびちょびちょおじさんだが、すっと立ち上がると「じゃあ後藤、また明日な」と一言声をかけ立ち去った。
物陰からチラッと盗み見たその顔はやつれていて、それでもどこか満足げな笑みを浮かべていた。
◇
あの日からもかわらず帰りにびちょびちょおじさんを見かけた。
ただ、見かける位置が日を追うごとにあの家に近づいていった。
そしてとうとうびちょびちょおじさんを見かけることはなくなった。
「なあ後藤、この後うちに来てゲームしようぜ」
誰かも知らない人たちの会話が、俺は堪らなく嬉しかった。
俺はその男のことをそう心の中で呼んでいた。
いつからだろうか。
部活帰りにその男を見かけるようになった。
その男はいつも池にでも落ちたのではというほどびしょ濡れだった。
彼の歩いた後には滴る水が尾を引いていた。
最初の印象は気味が悪いというものだった。
それはそうだろう。
毎日、毎日ずぶ濡れの男が歩いているのだから。
だが人間未知のものに惹かれるのが性であろう。
その印象自体は変わらないものの、どうしていつも濡れているのか気にならないわけではなかった。
そんなある日のこと。
珍しく部活が早あがりだった。
この後体育館の利用予定があるらしい。
いつもより早い時間に帰路に着いた俺は目を見張った。
びちょびちょおじさんがいたのだ。
それもまだ濡れていない状態でだ。
これはいつも濡れている理由を突き止めるチャンスなのでは?
幸い今日は時間に余裕がある。
いつも部活帰りに濡れている姿を見かけるということは、特定するのにそれほど時間もかからないだろう。
好奇心に突き動かされた俺は、びちょびちょおじさんを尾行することにした。
◇
尾行を開始してから数分後。
辿り着いたのは一軒の平屋だった。
その家の第一印象は廃屋だった。
外壁には所々ひび割れが見えるし、窓越しに見える障子は穴だらけだ。
狭い庭は雑草に覆われており、手入れしているようにはみえない。
びちょびちょおじさんは玄関の前で立ち止まるとインターフォンを押した。
だが一分ほどしても誰かが出てくることはなかった。
留守だろうか。
俺はそう思ったのだが、びちょびちょおじさんはそれがいつものことだとでもいうように玄関の前に座り込むと一人話し始めた。
「おーい、後藤。
今日も来たぞ」
突然の奇行に驚く。
もしかして扉の向こうに誰かいるのだろうか。
「今日はな久しぶりに学校の図書館に行ってみたんだ。
毎日学校に行っているが、教師になると図書館に行く機会なんて全然ないからな。
もしかしたら学生の頃以来だったかもしれん。
授業中だったから生徒は誰もいなくて凄く静かだった。
あそこなら誰にも邪魔されずに昼寝を堪能できそうだったぞ。
そういえばあの本があったぞ。
ほらあの映画にもなった魔法使いのやつ。
あれって原作なかなかのボリュームだよな。
先生あまり本読むの得意じゃないから、あんな分厚い本読める気がしないけどな」
びちょびちょおじさんは語り続けた。
職員室のお茶の賞味期限が切れていたこと。
体育館のバスケットボールが、新しいものに買い替えられたこと。
昼飯に買った弁当に箸がついてなくて困ったこと。
話の内容はどれもありふれた、下らない話ばかりだった。
そんな話をびちょびちょおじさんはときにおどけたように、ときに身振り手振りを交えながら楽しそうに話していた。
そしてついにそのときが訪れた。
唐突に玄関の扉が開いたかと思うとバケツ一杯の水を浴びせかけたのだ。
そして言葉をかけることもなく、再び扉は閉じられた。
後に残されたのはびちょびちょおじさんただ一人。
少しの間、地蔵のようにピクリとも動かなかったびちょびちょおじさんだが、すっと立ち上がると「じゃあ後藤、また明日な」と一言声をかけ立ち去った。
物陰からチラッと盗み見たその顔はやつれていて、それでもどこか満足げな笑みを浮かべていた。
◇
あの日からもかわらず帰りにびちょびちょおじさんを見かけた。
ただ、見かける位置が日を追うごとにあの家に近づいていった。
そしてとうとうびちょびちょおじさんを見かけることはなくなった。
「なあ後藤、この後うちに来てゲームしようぜ」
誰かも知らない人たちの会話が、俺は堪らなく嬉しかった。
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