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夏の夕暮れ、秋の終わり
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登山口へと戻り、先生はリュックをトランクに片付けながらたずねる。
「ここから少し車で走った先に、市内で一番大きな銀杏の木があるんだ。紅葉が見頃かもね、寄ってみる?」
「あ……はい!」
ニコは二つ返事をして車に乗り込んだ。
その銀杏の木は、こんもりと茂った森の中心に伸びていた。3階建ての学校の校舎と同じくらいあるんじゃないかな。ぶわっと風が吹くと、黄金色の木の葉が金箔の雨ようにはらはらと舞った。
ニコはしばらくその壮大な景色に見とれてぼんやりしていた。
「……こんなにきれいな銀杏の木、初めて見ます」
「樹齢200年は超えるらしいよ」
歩くたびに金色の絨毯はカサカサと心地いい音を立てている。もし庭にこんなに落ち葉があったら、大仕事だ。一日掃いても終わらないかもしれない。ニコは木の葉に埋まったスニーカーの先に目を落とした。
「植木の剪定が終わった庭は、枯葉が一枚でも落ちてたら駄目なんです。しゃがんで拾うのも駄目。見つかったら師匠に怒鳴られて。でも、ここでは落ち葉は木のお布団になって、朽ちていって、いつかは木や花の栄養になるんですよね」
思わず葉っぱをすくって散らして遊んだ。あまりにはしゃぐニコの姿に、先生は呆れもせずに付き合ってくれる。
「ニコの師匠って、どんな人だったの」
「僕が入社した時、師匠はすでに80歳を超えていましたから、まあ職人気質な人でしたね。自分にも厳しく他人にも厳しい、そんな人でした」
師匠は造園会社の2代目で、戦後すぐ生まれの庭師だった。ニコは彼に挨拶やマナー、職人として基本、縄の縛り方から道具の手入れやまで厳しく教え込まれた。
「箸の持ち方も間違ってるから直せと言われて、しばらくは弁当を食べるのも緊張しました」
「ニコに会った時、やけに礼儀正しい青年だと思ったけど……師匠の躾が厳しかったってことか」
師匠の指示するまま素直に従って仕事をしていたら、いつのまにか助手として社内で定着していた。経営方針の合わない3代目の実の息子より、一緒に過ごす時間は長くなっていった。
「……でも、師匠は交通事故で亡くなりました。朝、現場に向かう途中で」
交差点で右折してきた大型トラックと衝突。運転していた軽トラックは大破して原型を留めていなかったという。家族ではない自分が、最後に会えたのはお通夜の時だけだった。
部屋を整理していたら見つけたと、3代目から化粧箱に入れられた鋏を受け取った。鍛冶師が作る、昔ながらの鋼製の植木鋏だった。
「仁科 光」と自分の名が刻印されていた。
『鋏もまともに使えんのか』
指を怪我をした時、そうやって叱られたっけ。どんな気持ちで師匠が鋏を誂えてくれたのか、今となっては分からない。自分の指が治ったら、あるいは一人前になったと認めてくれたら鋏を譲る気持ちでいてくれたのだろうか。そんな風に考えると、急に涙が止まらなくなった。
「師匠がいなくなったら、心にぽっかり穴が空いたみたいでした」
「大事な人を亡くしたんだね」
ニコは言葉を選ぶように口をつぐんで、鼻をすすり上げた。
「師匠に教わったことひとつも無駄にはしたくないんです。突然いなくなってしまったことは寂しいけど……感謝してるんです。お客さんからお金を戴いて仕事するってことが、どういうことなのかを叩き込まれましたから」
あんな風に、昨日まで元気だった人が消えてしまうなんてことがあるんだ。突然の別れがあるんだってことを、苦い思い出とともに心に刻んだ。どんな言葉も今となっては伝えることすらできない。
だから先生に初めて出会えたあの日、生きているうちに何か伝えなきゃって、感謝でも謝罪でも、愛情でも。けれどなぜか口から出た言葉は「好きです」だったけど……でもそれは本心で。
「最近は、庭どころか木も植えてない家が増えましたからね、これから庭師の仕事がどう変化するか分かりません……でも、僕は好きですこの仕事が」
ニコは決意を込めた、たっぷりの笑顔を向けた。
その日も結局、先生の家でお風呂に入らせてもらった。一応着替えは持っていったけど。夕飯は余っている野菜と鶏肉を投入し、鍋にしてつついた。先生の家にお邪魔するのは、もう何度目だろう。キッチンの調味料の置き場も、タオルや着替えがどこに置いてあるかもだいたい把握してしまった。
先生はよく笑うようになった。心を許してくれているような、そんな気がした。居心地の良すぎる先生の家で、キョーを抱いたまま寝てしまっていたこともある。先生にやさしく肩を揺り動かされると、幸せな夢の続きみたいだった。
でも先生と親しくなったと感じても、どんなに距離を縮めようとも、先生の心の奥には触れられない。本当の芯の部分までは辿り着けない。近づくほどに遠ざかる、先生との距離がもどかしい。
学校で笹原先生と並ぶ千秋先生を見る度に、胸が焼き付くように痛んだ。もしかしたら千秋先生と外で会っているのかも、と妄想して自己嫌悪に陥ったりして。
報われない思いを焦がし続けるのは苦しい。伸ばせば手が届くほど近くにいるからこそ。いつか、ただの「先生」として付き合わなければいけない時が来るのだろうか。諦めの悪い自分には、まだとてもできそうにない。
先生、もう少しだけ好きでいてもいいですか。
冬が訪れようとしていた。寒くなれば山に登る機会も減ってしまう。
それだけが寂しかった。
「ここから少し車で走った先に、市内で一番大きな銀杏の木があるんだ。紅葉が見頃かもね、寄ってみる?」
「あ……はい!」
ニコは二つ返事をして車に乗り込んだ。
その銀杏の木は、こんもりと茂った森の中心に伸びていた。3階建ての学校の校舎と同じくらいあるんじゃないかな。ぶわっと風が吹くと、黄金色の木の葉が金箔の雨ようにはらはらと舞った。
ニコはしばらくその壮大な景色に見とれてぼんやりしていた。
「……こんなにきれいな銀杏の木、初めて見ます」
「樹齢200年は超えるらしいよ」
歩くたびに金色の絨毯はカサカサと心地いい音を立てている。もし庭にこんなに落ち葉があったら、大仕事だ。一日掃いても終わらないかもしれない。ニコは木の葉に埋まったスニーカーの先に目を落とした。
「植木の剪定が終わった庭は、枯葉が一枚でも落ちてたら駄目なんです。しゃがんで拾うのも駄目。見つかったら師匠に怒鳴られて。でも、ここでは落ち葉は木のお布団になって、朽ちていって、いつかは木や花の栄養になるんですよね」
思わず葉っぱをすくって散らして遊んだ。あまりにはしゃぐニコの姿に、先生は呆れもせずに付き合ってくれる。
「ニコの師匠って、どんな人だったの」
「僕が入社した時、師匠はすでに80歳を超えていましたから、まあ職人気質な人でしたね。自分にも厳しく他人にも厳しい、そんな人でした」
師匠は造園会社の2代目で、戦後すぐ生まれの庭師だった。ニコは彼に挨拶やマナー、職人として基本、縄の縛り方から道具の手入れやまで厳しく教え込まれた。
「箸の持ち方も間違ってるから直せと言われて、しばらくは弁当を食べるのも緊張しました」
「ニコに会った時、やけに礼儀正しい青年だと思ったけど……師匠の躾が厳しかったってことか」
師匠の指示するまま素直に従って仕事をしていたら、いつのまにか助手として社内で定着していた。経営方針の合わない3代目の実の息子より、一緒に過ごす時間は長くなっていった。
「……でも、師匠は交通事故で亡くなりました。朝、現場に向かう途中で」
交差点で右折してきた大型トラックと衝突。運転していた軽トラックは大破して原型を留めていなかったという。家族ではない自分が、最後に会えたのはお通夜の時だけだった。
部屋を整理していたら見つけたと、3代目から化粧箱に入れられた鋏を受け取った。鍛冶師が作る、昔ながらの鋼製の植木鋏だった。
「仁科 光」と自分の名が刻印されていた。
『鋏もまともに使えんのか』
指を怪我をした時、そうやって叱られたっけ。どんな気持ちで師匠が鋏を誂えてくれたのか、今となっては分からない。自分の指が治ったら、あるいは一人前になったと認めてくれたら鋏を譲る気持ちでいてくれたのだろうか。そんな風に考えると、急に涙が止まらなくなった。
「師匠がいなくなったら、心にぽっかり穴が空いたみたいでした」
「大事な人を亡くしたんだね」
ニコは言葉を選ぶように口をつぐんで、鼻をすすり上げた。
「師匠に教わったことひとつも無駄にはしたくないんです。突然いなくなってしまったことは寂しいけど……感謝してるんです。お客さんからお金を戴いて仕事するってことが、どういうことなのかを叩き込まれましたから」
あんな風に、昨日まで元気だった人が消えてしまうなんてことがあるんだ。突然の別れがあるんだってことを、苦い思い出とともに心に刻んだ。どんな言葉も今となっては伝えることすらできない。
だから先生に初めて出会えたあの日、生きているうちに何か伝えなきゃって、感謝でも謝罪でも、愛情でも。けれどなぜか口から出た言葉は「好きです」だったけど……でもそれは本心で。
「最近は、庭どころか木も植えてない家が増えましたからね、これから庭師の仕事がどう変化するか分かりません……でも、僕は好きですこの仕事が」
ニコは決意を込めた、たっぷりの笑顔を向けた。
その日も結局、先生の家でお風呂に入らせてもらった。一応着替えは持っていったけど。夕飯は余っている野菜と鶏肉を投入し、鍋にしてつついた。先生の家にお邪魔するのは、もう何度目だろう。キッチンの調味料の置き場も、タオルや着替えがどこに置いてあるかもだいたい把握してしまった。
先生はよく笑うようになった。心を許してくれているような、そんな気がした。居心地の良すぎる先生の家で、キョーを抱いたまま寝てしまっていたこともある。先生にやさしく肩を揺り動かされると、幸せな夢の続きみたいだった。
でも先生と親しくなったと感じても、どんなに距離を縮めようとも、先生の心の奥には触れられない。本当の芯の部分までは辿り着けない。近づくほどに遠ざかる、先生との距離がもどかしい。
学校で笹原先生と並ぶ千秋先生を見る度に、胸が焼き付くように痛んだ。もしかしたら千秋先生と外で会っているのかも、と妄想して自己嫌悪に陥ったりして。
報われない思いを焦がし続けるのは苦しい。伸ばせば手が届くほど近くにいるからこそ。いつか、ただの「先生」として付き合わなければいけない時が来るのだろうか。諦めの悪い自分には、まだとてもできそうにない。
先生、もう少しだけ好きでいてもいいですか。
冬が訪れようとしていた。寒くなれば山に登る機会も減ってしまう。
それだけが寂しかった。
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