【完結】暁のひかり

ななしま

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第8章 さよならが言えなくて

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 全身から力が抜けて、せんせい、と、夢中で叫んでいた。

 後のことはもう一瞬で――。互いに触れた瞬間にどちらともなく砕けるほど強く抱き合った。

 床に落ちた鍵の金属音が部屋に響いた。ふたたび静寂が戻った頃に聞こえてくるのは、先生の吐息と鼓動だけ。

「ニコ――好きだ」

 その言葉が胸に落ちる。

「好きだよ……」

 想いがほとばしるような告白に、ようやくこれが現実なのだと、夢じゃないんだと自覚する。先生の腕に抱かれたまま、彼の胸に頬をすりつけた。

 ごめんなさいも、本当にいいんですかも、なんの言葉も必要なかった。溢れてくる愛情にただ身を任せていたい。

「ニコが好き」
「せんせ……」

 先生のしなやかな指先が、耳朶や頬骨の輪郭を確かめるようになぞっていった。両方の手の平にすっぽりと包まれた頬は、綿でくるまれたみたいにやさしくて。

 高いところから低いところに流れるみたいに、ニコは迷うことなく自然にその想いに応えていた。

 先生の長い前髪が額に落ちてきて、つづけてとろりとした感触が唇へと下りてくる。研ぎ澄まされた感覚に身体が震えた。

 なんてあったかいの――。
 初めてしたときみたいな、熱くて柔らかなキス。

 ふたりは甘い交わりを飽きることなく求め続けた。長い間じゃれあうみたいに啄んでいた唇は、もうひとつになりそうなほど気持ちを確かめ合っている。

 先生の舌先がニコの上唇をぺろりと濡らす。

「あっ……」
「入れていい?」
「ください、先生」

 差し込まれた厚く滑らかな舌は、ゆっくりと歯列に這わせてから、ねだるようにニコの細い舌を絡め取っていく。そのとろけるような恍惚感に頭の芯が甘く痺れた。

 もうすっかり日は沈み、あたりは人影も霞むほど暗くなっていた。その暗闇の中にふたりの吐息と水音だけがこだまする。

「はぁっ」

 腰が……立っていられない。
 どんどん深くなっていく口づけに、身体の奥が熱い悲鳴をあげている。グランドピアノに響くような音を立てながら、ふたりはずるずると床に座り込んだ。

 背中にあたる壁は固くて、リノリウム敷きの床は凍えるほど冷たい。ニコの思いを察したのか、先生はおいでと言って彼の腰を掴み、向かい合ったまま自らの膝の上にまたがらせた。

 長い腕はニコの身体をすっぽりと包み込み、大切なものを愛でるかのように背中と腰の間をさすり続けている。

 声を漏らしてしまいそうな腰の疼きに酔いしれながら、さらに近づいたふたりは溶け合うようなキスを繰り返した。

 混ざり合った唾液が溢れニコがごくんと喉を鳴らした時、口惜しそうに糸を引きながら唇が離された。

「……ニコ、一緒に帰ろう」

 ニコは顎を引いてこくりとうなずいた。
 そして少しだけ心に余裕ができた気がして、顔をずらして先生を見上げた。

「先生。さっきの、朝焼けの話ですけど」

「なあに?」

 目の前にある先生の瞳は、ぼんやりと潤んでいた。

「先生が事故に遭った次の日、暁の空を見たんです。先生と登った、あの山の神社で……」

 しばらく返事がなかった。
 ハッと目覚めたようにニコの顔をのぞき込んで、声を張った。

「え、あんな大雪の日に何しに行ったの?  しかも夜明け前に?  そんな危ないこと……」

「先生の意識がないって千秋先生に聞いて……お参りに行ったんです。何かしてないとおかしくなりそうで」

「ニコは……僕のために祈ってくれたの?  なんでそこまで……」

 ニコはくすっと笑みを浮かべた。
 だってあまりにも分かりきった質問だったから。

「当たり前じゃないですか。先生は僕にとって、世界で一番大切な人なんですから」

「そう……そっか」

 先生は泣き笑いみたいに目じりを下げた。笑った時にだけ見える白い歯が、暗闇に浮かび上がった。

 その笑顔は少年みたいに幼くて、子どもたちには見せない表情だった。すごく可愛い。

「ありがとう、ニコ。君のおかげで僕は生きられたんだ」

 互いの額を合わせてぬくもりを感じながら、ふたりは照れたように笑い合った。


 それは一瞬にも永遠にも感じられて、今まで生きてきた中で一番、幸せな時間だった。


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