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第8章 さよならが言えなくて
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「見つけた、やっぱりここにいたんだね」
「……笹原、先生」
正面の生垣の前に立っていたのは笹原先生だった。卒業式の時の服装とは違い、ジャケットもネクタイもなくて、いつもみたいにシャツの袖を捲っている。もしかして走って来たのだろうか、肩で荒く息をしていた。
「山桜、もうすぐ咲くね。今年は病気にもかからなかった」
「お別れをしてたんです。この桜を見られるのも、今日で最後だから」
「次の仕事は……決まったの?」
先生はどこかかしこまった態度で、その質問を口にした。
「藤堂先生が結婚式をした、大きな庭園があったじゃないですか。そこを運営している造園会社で働くことになったんです」
先生にすべてを伝えた。
藤堂先生の結婚式の日に、偶然その会社の2代目であるガーデンデザイナーに出会ったこと。その後ずいぶん経ってから、もらった名刺に載っていた会社のホームページをのぞいてみると、庭師として働く社員を募集していた。
応募してもいいか電話をしてみたら、向こうから面接したいと返事をもらえた。会社へと出向くと、彼女は自分のことをしっかりと覚えてくれていて、あっという間に採用が決まったんだ。
「藤堂先生の結婚式がきっかけで、まさか仕事が決まるなんて思ってもみませんでした」
「おめでとう、良かったね」
あの日のことはまだ鮮明に覚えている。ホワイトガーデンの中に建てられたチャペル。その神聖な空気に包まれながら、先生の隣で結婚式に参加したんだ。
先生が結婚式に誘ってくれなかったら新しい仕事に就くこともなかった。世の中ってなんて不思議な巡り合わせでできているのだろう。
……先生、お世話になりました。お元気で。
口に出せば一瞬なのに、どうしても言葉が出てこない。もう少しだけ一緒にいたいと心が打ち震える。
「戸締りするんだけど、一緒に廻る? 今日で学校も見納めでしょ」
「……でも」
「お願い、ついてきて」
小さくうなずくのが精一杯で。
こんな風に言葉を交わしたのは何日ぶりだろう。先生の声は胸にまで直接届いてきて、じんわりあったかくなる。
戸締りが終わったら、さよならって言わなきゃ。
ニコは、先生の高い背中を追いかけた。
背中越しに見える空は夕焼けがあますところなく広がっていた。夕日の緋色と青色がパレットで隣同士に置かれたみたいに混ざりあって、額に入れて飾っておきたいくらい美しかった。
「空がきれいだね」
先生が顔を見上げながらぽつりと呟く。自分が思っていたのと同じタイミングでいうから、まさか心の声が漏れてるんじゃないかと、どきりとする。
この空とよく似た景色を見たことがある。先生が交通事故で怪我をした雪の日のこと。いてもたってもいられなくて、次の日の明け方、先生と登った山の上の神社にお参りに行ったんだ。
あの日の朝焼けは、火が燃えうつったみたいに空を赤く照らしていた。先生の存在みたいに明るくて眩しかった。
「……先生は、朝焼けを見たことがありますか」
「早朝出勤した日に、たまに車の中から見るくらいかな」
体育館の戸締まりを終え、校舎の裏手を歩きながら先生は思い出したように口を開いた。
「知ってる? 日が昇る前の一時を、暁っていうんだ」
「朝焼けとは違うんですか」
「暁は、日が昇り始めるよりももう少し前、まだほの暗い空模様の頃をいうんだよ」
「知りませんでした」
「僕もじっくりとは見たことないよ。自分の名前の一部なのにね」
笹原 暁人。
先生の名前。一度も呼んだことはないけれど、一度も忘れたことはない。そっか、あの日見た夜明け前の空は、暁っていうんだ。
「ニコは、暁の空を見たことある?」
「多分、一度だけあります」
「どこで見たの?」
「それは……その」
「言いたくなければ言わなくてもいいよ」
先生の言い方はずいぶんやさしくて、なのにどうしても、あの日のことは言い出せなかった。
「……笹原、先生」
正面の生垣の前に立っていたのは笹原先生だった。卒業式の時の服装とは違い、ジャケットもネクタイもなくて、いつもみたいにシャツの袖を捲っている。もしかして走って来たのだろうか、肩で荒く息をしていた。
「山桜、もうすぐ咲くね。今年は病気にもかからなかった」
「お別れをしてたんです。この桜を見られるのも、今日で最後だから」
「次の仕事は……決まったの?」
先生はどこかかしこまった態度で、その質問を口にした。
「藤堂先生が結婚式をした、大きな庭園があったじゃないですか。そこを運営している造園会社で働くことになったんです」
先生にすべてを伝えた。
藤堂先生の結婚式の日に、偶然その会社の2代目であるガーデンデザイナーに出会ったこと。その後ずいぶん経ってから、もらった名刺に載っていた会社のホームページをのぞいてみると、庭師として働く社員を募集していた。
応募してもいいか電話をしてみたら、向こうから面接したいと返事をもらえた。会社へと出向くと、彼女は自分のことをしっかりと覚えてくれていて、あっという間に採用が決まったんだ。
「藤堂先生の結婚式がきっかけで、まさか仕事が決まるなんて思ってもみませんでした」
「おめでとう、良かったね」
あの日のことはまだ鮮明に覚えている。ホワイトガーデンの中に建てられたチャペル。その神聖な空気に包まれながら、先生の隣で結婚式に参加したんだ。
先生が結婚式に誘ってくれなかったら新しい仕事に就くこともなかった。世の中ってなんて不思議な巡り合わせでできているのだろう。
……先生、お世話になりました。お元気で。
口に出せば一瞬なのに、どうしても言葉が出てこない。もう少しだけ一緒にいたいと心が打ち震える。
「戸締りするんだけど、一緒に廻る? 今日で学校も見納めでしょ」
「……でも」
「お願い、ついてきて」
小さくうなずくのが精一杯で。
こんな風に言葉を交わしたのは何日ぶりだろう。先生の声は胸にまで直接届いてきて、じんわりあったかくなる。
戸締りが終わったら、さよならって言わなきゃ。
ニコは、先生の高い背中を追いかけた。
背中越しに見える空は夕焼けがあますところなく広がっていた。夕日の緋色と青色がパレットで隣同士に置かれたみたいに混ざりあって、額に入れて飾っておきたいくらい美しかった。
「空がきれいだね」
先生が顔を見上げながらぽつりと呟く。自分が思っていたのと同じタイミングでいうから、まさか心の声が漏れてるんじゃないかと、どきりとする。
この空とよく似た景色を見たことがある。先生が交通事故で怪我をした雪の日のこと。いてもたってもいられなくて、次の日の明け方、先生と登った山の上の神社にお参りに行ったんだ。
あの日の朝焼けは、火が燃えうつったみたいに空を赤く照らしていた。先生の存在みたいに明るくて眩しかった。
「……先生は、朝焼けを見たことがありますか」
「早朝出勤した日に、たまに車の中から見るくらいかな」
体育館の戸締まりを終え、校舎の裏手を歩きながら先生は思い出したように口を開いた。
「知ってる? 日が昇る前の一時を、暁っていうんだ」
「朝焼けとは違うんですか」
「暁は、日が昇り始めるよりももう少し前、まだほの暗い空模様の頃をいうんだよ」
「知りませんでした」
「僕もじっくりとは見たことないよ。自分の名前の一部なのにね」
笹原 暁人。
先生の名前。一度も呼んだことはないけれど、一度も忘れたことはない。そっか、あの日見た夜明け前の空は、暁っていうんだ。
「ニコは、暁の空を見たことある?」
「多分、一度だけあります」
「どこで見たの?」
「それは……その」
「言いたくなければ言わなくてもいいよ」
先生の言い方はずいぶんやさしくて、なのにどうしても、あの日のことは言い出せなかった。
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