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噂と嘘
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噂があろうとなかろうと、彼女を傷つけたのは自分だ。それだけは間違いない。好意を持ってくれていたのをずっと知っていたのに……今さら他に大切な人ができたなどと告げたのだから。
「千秋先生、学校でふたりに会いたくなかったんですよ、きっと。笹原先生にもニコにも。だって笹原先生の相手は……あの子でしょ?」
藤堂と会ったあの店で、今度は千秋とカウンター席についた。それほど広くない店だし、他の客もそれとなく見回したが知った顔は誰もいなかったはずだ。
コートを脱いでカウンター席につき、とりあえず飲み物とつまみを何品か注文を済ませた。一体何から話そうかと頭を巡らせているうちにビールが運ばれてきた。乾杯をしてすぐに、千秋に開口一番に痛いところを突かれたんだ。
「この際はっきり聞きますけど、ニコと付き合うことになったんですか」
「ほんとにはっきり聞くんだね」
「だって……それ。私が気づかないとでも思った?」
グラスを持ったまま、千秋は人差し指を伸ばす。
笹原はあっと気づいて、首筋の赤く染まった痕跡を手で隠した。とっくに手遅れだったが。
仕事中はワイシャツの襟に隠れているからと油断していた。物憂げなニコの顔まで浮かんできて、たいして飲んでもいないのに顔が熱くなる。
「やっぱりね、ずっと怪しいと思ってた」
「まだしてないですよ、キスだけしか」
「そういうことは言わなくていいんです!」
苦し紛れの言い訳も、取り方によっては惚気にしか聞こえないことにも気付かなかった。今さらながら、自分がどれだけ浮かれていたかと思い起こして恥ずかしくなる。
でも正直、千秋がはっきり言ってくれて助かった。
酒が進むにつれ、彼女は少しずつ饒舌になっていった。ニコが、彼の弟の代わりに笹原と交換日記をしていたことも、それから何年も笹原を追いかけていたことも、ニコから聞いて知ったのだという。
「教師ってそんなに人の人生に影響を与えることがあるんだなぁって、ちょっと感動しちゃいました、柄にもなく」
「ニコは大げさなんだよ」
たしかに、と千秋は苦笑しながらグラスを口に運んだ。
「事故の日も、先生が死んだら自分も死ぬって……この世の終わりってくらい泣いてた。私が必死になだめたんだからね」
「色々迷惑かけて、悪かったね」
「お互い様ですよ。りのちゃんをピンチから救ってくれたのは笹原先生ですから。雪の中、担任の私はさっさと帰って何一つしなかったんだもの」
酒の力もあったのだろう、互いにすべて言い尽くしたかと思えるくらい話ができた。不思議だった、知り合ってから2年もたつのに、ニコとのことがあってからの方が千秋と親しくなれた気がする。
正直に心を開けばよかったんだ、自己開示こそが相手と深く理解し合う第一歩なのだと、そんな基本的なことすら自分の思考から抜け落ちていた。
千秋は人生の目標があるといって教えてくれた。
20代のうちに結婚して、遅くとも30過ぎるまでには2人産んで。子どもには英語とピアノと水泳を習わせて。都会の便利な場所に一軒家を建てて住むのだと。
微笑ましい夢でしょう、と千秋はちょっと照れたように口元を緩めた。
「……私は結局、笹原先生を損得勘定でしか見ていなかった。年齢も仕事も見た目も性格も合格な人。親に紹介したら手放しで喜ばれそうだなって、そんな妄想膨らませてたんです」
「みんな大人になれば多かれ少なかれ、そういう打算的な感情を持つものなんじゃないの」
「じゃあニコは? 笹原先生はなんでニコを選んだの? 損得で考えるなら、彼と付き合うメリットなんてどこにもない、しかも同性で……この先どうなるか分からないのに」
将来のことなんて考えようとも思わなかった。ただ今一緒にいられればそれでいいと。刹那的な恋愛などとたとえ誰かに責め立てられようと、彼との関係を手放す気にはなれない。少し前の自分なら恋愛の仕方すら忘れていたくらいなのに。
「正直言って自分でも分からない。ただニコは、もし僕が世界中の人から嫌われても、たとえ犯罪者になってもきっと受け入れてくれる。そんな人がそばにいるってことがどうしようもなく……嬉しかったんだと思う」
「それって純愛ってこと?」
え、と笹原が聞き返すと、千秋はあっさり負けを認めるように肩をすくめた。
「私はニコが羨ましいんです。あんな風に私も……命がけで誰かを好きになってみたい」
もっと早くこうして打ち明けていればよかったと、千秋は後悔を口にした。笹原がニコに出会う、ずっと前に好きだと言っておけばよかったと。そうすれば少しは私にも可能性があったのかな、と力なく微笑んだ。
自分はその言葉にに応えることはできなくて、ただ飲んだ分を奢ることくらいしかできなかった。謝ることすら失礼になる気がして。
ふたりでほどよく酔って店を出たのは12時近かった。そのあと一緒のタクシーに乗り込んで、彼女の家の近くで降ろした。
保健室を出てから千秋にメッセージを送った。体調を気遣う言葉だけでは足りない気がするけれど、ただ心配だったから。
彼女からはすぐに返事が来た。明日からは仕事に行くから心配しないで、とガッツポーズの絵文字を添えて。笹原は安堵の息を吐いた。
ニコにどうしても会いたくなった。
そういえば授業が始まってから一度もふたりで会えていない。スマホの画面を戻して、もう一度メッセージアプリを立ちあげた。
……千秋先生との噂の話もしておかないと。
ニコの耳に入る前に自分から伝えたかった。
噂なんて放っておけばいいと、安易な気持ちでいたのは確かで。それがニコにどんな影響を与えるかなんて気にもしていなかった。
結局、その日ニコからメッセージの返信が来ることはなかった。
「千秋先生、学校でふたりに会いたくなかったんですよ、きっと。笹原先生にもニコにも。だって笹原先生の相手は……あの子でしょ?」
藤堂と会ったあの店で、今度は千秋とカウンター席についた。それほど広くない店だし、他の客もそれとなく見回したが知った顔は誰もいなかったはずだ。
コートを脱いでカウンター席につき、とりあえず飲み物とつまみを何品か注文を済ませた。一体何から話そうかと頭を巡らせているうちにビールが運ばれてきた。乾杯をしてすぐに、千秋に開口一番に痛いところを突かれたんだ。
「この際はっきり聞きますけど、ニコと付き合うことになったんですか」
「ほんとにはっきり聞くんだね」
「だって……それ。私が気づかないとでも思った?」
グラスを持ったまま、千秋は人差し指を伸ばす。
笹原はあっと気づいて、首筋の赤く染まった痕跡を手で隠した。とっくに手遅れだったが。
仕事中はワイシャツの襟に隠れているからと油断していた。物憂げなニコの顔まで浮かんできて、たいして飲んでもいないのに顔が熱くなる。
「やっぱりね、ずっと怪しいと思ってた」
「まだしてないですよ、キスだけしか」
「そういうことは言わなくていいんです!」
苦し紛れの言い訳も、取り方によっては惚気にしか聞こえないことにも気付かなかった。今さらながら、自分がどれだけ浮かれていたかと思い起こして恥ずかしくなる。
でも正直、千秋がはっきり言ってくれて助かった。
酒が進むにつれ、彼女は少しずつ饒舌になっていった。ニコが、彼の弟の代わりに笹原と交換日記をしていたことも、それから何年も笹原を追いかけていたことも、ニコから聞いて知ったのだという。
「教師ってそんなに人の人生に影響を与えることがあるんだなぁって、ちょっと感動しちゃいました、柄にもなく」
「ニコは大げさなんだよ」
たしかに、と千秋は苦笑しながらグラスを口に運んだ。
「事故の日も、先生が死んだら自分も死ぬって……この世の終わりってくらい泣いてた。私が必死になだめたんだからね」
「色々迷惑かけて、悪かったね」
「お互い様ですよ。りのちゃんをピンチから救ってくれたのは笹原先生ですから。雪の中、担任の私はさっさと帰って何一つしなかったんだもの」
酒の力もあったのだろう、互いにすべて言い尽くしたかと思えるくらい話ができた。不思議だった、知り合ってから2年もたつのに、ニコとのことがあってからの方が千秋と親しくなれた気がする。
正直に心を開けばよかったんだ、自己開示こそが相手と深く理解し合う第一歩なのだと、そんな基本的なことすら自分の思考から抜け落ちていた。
千秋は人生の目標があるといって教えてくれた。
20代のうちに結婚して、遅くとも30過ぎるまでには2人産んで。子どもには英語とピアノと水泳を習わせて。都会の便利な場所に一軒家を建てて住むのだと。
微笑ましい夢でしょう、と千秋はちょっと照れたように口元を緩めた。
「……私は結局、笹原先生を損得勘定でしか見ていなかった。年齢も仕事も見た目も性格も合格な人。親に紹介したら手放しで喜ばれそうだなって、そんな妄想膨らませてたんです」
「みんな大人になれば多かれ少なかれ、そういう打算的な感情を持つものなんじゃないの」
「じゃあニコは? 笹原先生はなんでニコを選んだの? 損得で考えるなら、彼と付き合うメリットなんてどこにもない、しかも同性で……この先どうなるか分からないのに」
将来のことなんて考えようとも思わなかった。ただ今一緒にいられればそれでいいと。刹那的な恋愛などとたとえ誰かに責め立てられようと、彼との関係を手放す気にはなれない。少し前の自分なら恋愛の仕方すら忘れていたくらいなのに。
「正直言って自分でも分からない。ただニコは、もし僕が世界中の人から嫌われても、たとえ犯罪者になってもきっと受け入れてくれる。そんな人がそばにいるってことがどうしようもなく……嬉しかったんだと思う」
「それって純愛ってこと?」
え、と笹原が聞き返すと、千秋はあっさり負けを認めるように肩をすくめた。
「私はニコが羨ましいんです。あんな風に私も……命がけで誰かを好きになってみたい」
もっと早くこうして打ち明けていればよかったと、千秋は後悔を口にした。笹原がニコに出会う、ずっと前に好きだと言っておけばよかったと。そうすれば少しは私にも可能性があったのかな、と力なく微笑んだ。
自分はその言葉にに応えることはできなくて、ただ飲んだ分を奢ることくらいしかできなかった。謝ることすら失礼になる気がして。
ふたりでほどよく酔って店を出たのは12時近かった。そのあと一緒のタクシーに乗り込んで、彼女の家の近くで降ろした。
保健室を出てから千秋にメッセージを送った。体調を気遣う言葉だけでは足りない気がするけれど、ただ心配だったから。
彼女からはすぐに返事が来た。明日からは仕事に行くから心配しないで、とガッツポーズの絵文字を添えて。笹原は安堵の息を吐いた。
ニコにどうしても会いたくなった。
そういえば授業が始まってから一度もふたりで会えていない。スマホの画面を戻して、もう一度メッセージアプリを立ちあげた。
……千秋先生との噂の話もしておかないと。
ニコの耳に入る前に自分から伝えたかった。
噂なんて放っておけばいいと、安易な気持ちでいたのは確かで。それがニコにどんな影響を与えるかなんて気にもしていなかった。
結局、その日ニコからメッセージの返信が来ることはなかった。
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