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噂と嘘
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1月の初旬、3学期が始まった。
始業式が終わったあとの教室は、子ども達のはしゃぎ声で騒がしい。笹原は黒板前のいつもの位置から5年生全員の顔をぐるりと見渡した。みんなの調子をその目で確かめるように。なんだかこの光景ずいぶん久しぶりな気がする。
「みんな、元気だった?」
先生こそーと男子が声をあげ、つられてどっと笑い声が起こる。学校からは何も伝えてないはずなのに、子ども達は自分が交通事故に遭ったということを知っていた。まったく、この学校の保護者ネットワークは光通信より速くて広い。
事故の日のことをあれこれ質問攻めにされたり、怪我を心配してくれたりする子もいて、事故や雪の話をしているうちに下校時間を過ぎてしまっていた。
さらに10日ほどが過ぎた。教室を包む空気はようやく平常時の落ち着きを取り戻しつつある。なのになぜだろう、もう春が来たみたいに心も身体も軽く浮き立っていた。
月曜の朝、全校朝礼が終わって体育館から教室に戻る途中、大勢の子ども達の隙間からニコの姿を見つけた。
彼は身長を超える大きな段ボールの塊を抱えながら向かって来て、互いに無言ですれ違う。笹原は気づかれないようにそっと振り返り、廊下を曲がっていく彼の後ろ姿を見届けた。
以前なら声を掛けていたかもしれない。でも、全快祝いをしてもらったあの日から、仕事中に話すのはやめようと決めたんだ。職場で話さなくたっていつでも家で会えるし、ニコは特に他の人に見られることを気にしているようだったから。それならそれでいい、ふたり平穏に過ごせるなら。
放課後、職員室に戻った笹原は椅子に腰掛け、隣の席の閉じたままのノートパソコンに目をやった。そういえば千秋先生は体調不良でお休みだと教頭が言っていた。1週間前に千秋と飲みに行った日も、その翌週も調子が悪いようには見えなかったが。
ニコと話していて気づいたんだ。
千秋先生にも伝えておかないとって。ずいぶん時間が経ってしまったけれど、告白されて曖昧なまま返事もしていない。ニコとのことが心に決まった以上、ちゃんと報告しないとと、そう考えていた。
さすがに学校でできる話じゃない。以前藤堂と飲んだ居酒屋に、飲みに行かないかと自分から誘ったのだ。奢るからと冗談交じりに告げて。千秋先生はあっさり承諾してくれた。
――それなのに、どうしてこんなことに。
「笹原先生、ちょっとお時間いいですか」
夕方職員会議が終わった後すぐに、養護教諭の早川先生に呼び止められた。保健室へと向かう間、何の用事なのだろうと頭の中を探ってみたが見当もつかない。ただ職員室じゃできない話だということだけは確かだった。
校庭に面した保健室は消毒みたいな薬の匂いとかび臭い湿っぽさが漂っている。白衣姿の早川先生は西陽が差し込む窓のカーテンを閉め、丸椅子に座るよう笹原に勧めた。
千秋先生がなぜ休んでいるか知っているかと聞くので、知らないと正直に答えた。どうかしたんですかと逆にたずねたが、早川は腕を組んだまま質問を重ねた。
「一週間くらい前に笹原先生と千秋先生、外で会いましたよね?」
「飲みには行きましたけど、それが何か?」
千秋と早川がこの学校の中で一番親しくしているのは知っている。他に若い女性の先生はいないのだから自然なことかもしれない。千秋が早川に何か告げたのだろうか。どこまで、何を?
「笹原先生、噂……聞いてます?」
「噂? いえ、何の話ですか」
一瞬ぎくりとした。もしかしてニコとのことがバレたのかと。でもそんなはずはないと思い直して、彼女の言葉を待つ。
「笹原先生と千秋先生が付き合っていると噂になってるんです、保護者の間で。結婚も間近だって」
「は? そんなの……全部嘘ですよ」
笹原は思わず感情的な口調になっていた。
早川は在籍5年目のベテランで、養護教諭という立場上相談事も多く、保護者とのつながりも強い。変な噂が出回っていると親しくしている保護者から教えてもらったというのだ。他の保護者にも、噂は本当なんですかってこっそり聞いてくる人もいて、話が広まっていることに気づいたらしい。
彼女とふたりでいる所を保護者か卒業生にでも見られ、それが一週間の間に広まったのだろうか。誰かが故意に噂を流したのではない限り、出処はそれくらいしか思い当たらない。
たとえふたりで飲みに行ったというのが事実だとしても、結婚するだなんて尾ひれがつくのだけは勘弁してほしい。もし教頭にでも噂が伝わったら、あの人のことだから、本当なのかと事実確認をされそうだ。否定する理由を考えただけで頭が痛くなる。
「私はむしろ歓迎してたんですよ、ふたりの噂。笹原先生と千秋先生はお似合いだって、陰ながらずっと応援してたから。でも噂は嘘だった。だって笹原先生は千秋先生を振った……そうですよね?」
不満げに早川からとがった視線を向けられ、笹原はうなずくことしかできなかった。
「私、千秋先生にたずねたんです。笹原先生と結婚間近だとか噂になってるけど本当なのって。そしたら急に黙っちゃって……そんなの嘘だって、私は振られたんだからって言ったまま、泣いてましたよ彼女」
早川も泣き出しそうに声を震わせた。
始業式が終わったあとの教室は、子ども達のはしゃぎ声で騒がしい。笹原は黒板前のいつもの位置から5年生全員の顔をぐるりと見渡した。みんなの調子をその目で確かめるように。なんだかこの光景ずいぶん久しぶりな気がする。
「みんな、元気だった?」
先生こそーと男子が声をあげ、つられてどっと笑い声が起こる。学校からは何も伝えてないはずなのに、子ども達は自分が交通事故に遭ったということを知っていた。まったく、この学校の保護者ネットワークは光通信より速くて広い。
事故の日のことをあれこれ質問攻めにされたり、怪我を心配してくれたりする子もいて、事故や雪の話をしているうちに下校時間を過ぎてしまっていた。
さらに10日ほどが過ぎた。教室を包む空気はようやく平常時の落ち着きを取り戻しつつある。なのになぜだろう、もう春が来たみたいに心も身体も軽く浮き立っていた。
月曜の朝、全校朝礼が終わって体育館から教室に戻る途中、大勢の子ども達の隙間からニコの姿を見つけた。
彼は身長を超える大きな段ボールの塊を抱えながら向かって来て、互いに無言ですれ違う。笹原は気づかれないようにそっと振り返り、廊下を曲がっていく彼の後ろ姿を見届けた。
以前なら声を掛けていたかもしれない。でも、全快祝いをしてもらったあの日から、仕事中に話すのはやめようと決めたんだ。職場で話さなくたっていつでも家で会えるし、ニコは特に他の人に見られることを気にしているようだったから。それならそれでいい、ふたり平穏に過ごせるなら。
放課後、職員室に戻った笹原は椅子に腰掛け、隣の席の閉じたままのノートパソコンに目をやった。そういえば千秋先生は体調不良でお休みだと教頭が言っていた。1週間前に千秋と飲みに行った日も、その翌週も調子が悪いようには見えなかったが。
ニコと話していて気づいたんだ。
千秋先生にも伝えておかないとって。ずいぶん時間が経ってしまったけれど、告白されて曖昧なまま返事もしていない。ニコとのことが心に決まった以上、ちゃんと報告しないとと、そう考えていた。
さすがに学校でできる話じゃない。以前藤堂と飲んだ居酒屋に、飲みに行かないかと自分から誘ったのだ。奢るからと冗談交じりに告げて。千秋先生はあっさり承諾してくれた。
――それなのに、どうしてこんなことに。
「笹原先生、ちょっとお時間いいですか」
夕方職員会議が終わった後すぐに、養護教諭の早川先生に呼び止められた。保健室へと向かう間、何の用事なのだろうと頭の中を探ってみたが見当もつかない。ただ職員室じゃできない話だということだけは確かだった。
校庭に面した保健室は消毒みたいな薬の匂いとかび臭い湿っぽさが漂っている。白衣姿の早川先生は西陽が差し込む窓のカーテンを閉め、丸椅子に座るよう笹原に勧めた。
千秋先生がなぜ休んでいるか知っているかと聞くので、知らないと正直に答えた。どうかしたんですかと逆にたずねたが、早川は腕を組んだまま質問を重ねた。
「一週間くらい前に笹原先生と千秋先生、外で会いましたよね?」
「飲みには行きましたけど、それが何か?」
千秋と早川がこの学校の中で一番親しくしているのは知っている。他に若い女性の先生はいないのだから自然なことかもしれない。千秋が早川に何か告げたのだろうか。どこまで、何を?
「笹原先生、噂……聞いてます?」
「噂? いえ、何の話ですか」
一瞬ぎくりとした。もしかしてニコとのことがバレたのかと。でもそんなはずはないと思い直して、彼女の言葉を待つ。
「笹原先生と千秋先生が付き合っていると噂になってるんです、保護者の間で。結婚も間近だって」
「は? そんなの……全部嘘ですよ」
笹原は思わず感情的な口調になっていた。
早川は在籍5年目のベテランで、養護教諭という立場上相談事も多く、保護者とのつながりも強い。変な噂が出回っていると親しくしている保護者から教えてもらったというのだ。他の保護者にも、噂は本当なんですかってこっそり聞いてくる人もいて、話が広まっていることに気づいたらしい。
彼女とふたりでいる所を保護者か卒業生にでも見られ、それが一週間の間に広まったのだろうか。誰かが故意に噂を流したのではない限り、出処はそれくらいしか思い当たらない。
たとえふたりで飲みに行ったというのが事実だとしても、結婚するだなんて尾ひれがつくのだけは勘弁してほしい。もし教頭にでも噂が伝わったら、あの人のことだから、本当なのかと事実確認をされそうだ。否定する理由を考えただけで頭が痛くなる。
「私はむしろ歓迎してたんですよ、ふたりの噂。笹原先生と千秋先生はお似合いだって、陰ながらずっと応援してたから。でも噂は嘘だった。だって笹原先生は千秋先生を振った……そうですよね?」
不満げに早川からとがった視線を向けられ、笹原はうなずくことしかできなかった。
「私、千秋先生にたずねたんです。笹原先生と結婚間近だとか噂になってるけど本当なのって。そしたら急に黙っちゃって……そんなの嘘だって、私は振られたんだからって言ったまま、泣いてましたよ彼女」
早川も泣き出しそうに声を震わせた。
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