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あなたのいない世界など
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市内唯一の大学病院は、駐車場だけでも迷子になりそうなほど広い。分厚いガラスの自動扉を抜け、病院に入った。午前中の診察が終わったあとだったからか受付に人はまばらだった。
終業式が終わって3日がたつ。子どもたちにとっては楽しい冬休みの始まりで、校内も仕事も落ち着いていたから、午後休を取らせてもらった。ここへ来るために。
総合受付で入院病棟への道のりを聞いて、案内された奥のエレベーターで7階に上がる。階層を示すランプが変わるのを目で追いかけた。
先生からメッセージで連絡があったのは、昨日の夕方のことだ。仕事そっちのけで何度も読み返して、そのまま長文の返事を書いたけど、ほとんど削除してしまった。
だって、先生に着替えを持ってきて欲しいと頼まれただけなのだから。なにを期待しているのだろう。ニコは片手に下げていた紙袋をぎゅっと胸の前で抱えた。
――神様は願いを聞き入れてくれた。それだけで充分なんだ……。
エレベーターの扉が開いた先は東西に分かれた病棟になっていて、とっさに迷ってから右に進む。面会は30分以内で、と看護師さんに念を押されてから病室を教えてもらった。
「……失礼します」
「どうぞ」
ベッドの上で青いパジャマを着た先生が笑っている。上半身を起こしてこちらを向いていた。いつも通りの、でも少しやつれた表情で迎えてくれて、やるせなさと切なさが心に満ちる。ニコは照れくさそうにちょこんと頭を下げた。
「先生……起きてていいんですか」
「うん、昨日からね。めまいも治まったし」
シャツの袖からは点滴の管がのびていて、スタンドの吊り下げられたバッグにつながっている。頭には包帯が巻かれ、手首には名札代わりのリストバンドがはめられていた。先生の痛々しい姿に、事故が現実のできごとなんだと改めて思い知らされる。
「頼まれた着替え、持ってきました」
「ごめんね、ニコしか頼める人いなくて。さっそくだけど着替えていい?」
「はい、もちろん。あの、手伝いましょうか」
「うん、お願い」
薄黄色のカーテンを閉めると、先生との距離も息がかかるほど近くなる。どきりと焦るニコとは裏腹に、先生はためらわずに服のボタンを上から順にはずしていく。あらわになっていく先生の胸元に、吸い込まれそうになって慌てて目線を外し、脱いだシャツを受け取った。
先生の指示通りに点滴を服に通している間も、先生の裸体が視界に入ってきてしまう。想像よりも厚い胸板と引き締まった肩のラインに、ニコは赤く染まった顔を逸らした、目に毒すぎて。
この胸に一度は抱きしめられたのかと思うと、平常心ではいられない。先生は病人なのに一体なにを考えてるの、不謹慎な。落ち着こうと点滴をスタンドに戻しながら自らをいさめた。
「りのちゃんとお母さんに謝られちゃってさ。余計な心配かけてしまって、かえって申し訳なかった」
先生は前のボタンを留めながら、ため息混じりにつぶやいた。
病院の診察の結果、りのちゃんは腰の打撲と足首の捻挫という診断だった。終業式には松葉杖で来ていたけど、様子を聞くともう腰は痛くないよと、りのちゃんは元気一杯に答えてくれた。
「先生は最善のことをしたんですから、罪悪感を感じる必要なんてないと思います。それに、りのちゃんの怪我が重くなくて、僕はすごくほっとしました。年末はちょっと不自由かもしれないけど……」
「ニコがそう言うなら、気にしなくていいのかな。正解なんてないんだね、こういうことって」
先生がそう答えながら、ズボンを手に取ってから掛け布団をめくった。上着の次は下だって着替えるのは当然で……でもさすがに直視できない。いやでも。
「て、手伝いますっ!」
「ほんとに?」
「当たり前じゃないですか」
「ひとりでできるからいいよ。残りの着替え、引き出しにしまっておいてくれる?」
「はっ、はいっ!」
先生はすべてを見透かしたように、くすっと笑っている。なんだかいたたまれなくなって、着替えが終わるまで薄黄色のカーテンの裏で突っ立っていた。
「あの、他に何か必要なものありませんか? ゼリーとかプリンとか、下のコンビニで買ってきますよ」
「ニコは? お昼食べたの?」
「いえ、まだ。あんまりお腹すいてなくて」
「じゃあ気を遣わなくていいよ。それよりもっと近くに来なよ、話しにくくてしょうがない」
先生の言われた通りに、スチールのイスをベッドの脇に置いて座った。ベッド越しに7階の窓から街並みが一望できる。手前に大きなため池があって、池の周りは葉を落とした寒々しい広葉樹の並木道に囲まれている。その奥は住宅街が広がっていた。
景色に見とれていると、先生がペットボトルのお茶を出してくれた。もうどっちが患者なんだか、分からなくなってしまう。一口飲んで、ニコはくすぶっていた疑問を口にする。
「先生の車、トラックとぶつかったっていうのは本当ですか?」
「正確には、向かってきたトラックを避けようとしたら、山の斜面に突っ込んだ、かな」
雪道にスリップしたトラックが、対向車線をはみ出して正面に迫ってきたという。雪の降る夜に恐怖以外の何ものでもない。自分ならパニックになって、そのままぶつかってしまっていたかもしれない。
「筑地さん達にさ、口酸っぱく忠告されれてたからね。県道の峠道を走る時は、何があっても谷に近づくな、落ちたら死ぬぞって。だからとっさに山側にハンドルを切ったんだ」
まるで今事故に遭ったばかりみたいに、先生はふうっと長く息を吐き出した。
「あの瞬間にさ、もうダメかもしれない、このまま死ぬんじゃないかって覚悟したよ。でもね、こうも思った。これで人生終わりなら、自分には何が残るんだろうってね。何かひとつでも残せたのかなって……その時、ニコのことが思い浮かんだんだ」
「えっ?」
突然名前を呼ばれて、ニコは弾かれたみたいに見上げた。
終業式が終わって3日がたつ。子どもたちにとっては楽しい冬休みの始まりで、校内も仕事も落ち着いていたから、午後休を取らせてもらった。ここへ来るために。
総合受付で入院病棟への道のりを聞いて、案内された奥のエレベーターで7階に上がる。階層を示すランプが変わるのを目で追いかけた。
先生からメッセージで連絡があったのは、昨日の夕方のことだ。仕事そっちのけで何度も読み返して、そのまま長文の返事を書いたけど、ほとんど削除してしまった。
だって、先生に着替えを持ってきて欲しいと頼まれただけなのだから。なにを期待しているのだろう。ニコは片手に下げていた紙袋をぎゅっと胸の前で抱えた。
――神様は願いを聞き入れてくれた。それだけで充分なんだ……。
エレベーターの扉が開いた先は東西に分かれた病棟になっていて、とっさに迷ってから右に進む。面会は30分以内で、と看護師さんに念を押されてから病室を教えてもらった。
「……失礼します」
「どうぞ」
ベッドの上で青いパジャマを着た先生が笑っている。上半身を起こしてこちらを向いていた。いつも通りの、でも少しやつれた表情で迎えてくれて、やるせなさと切なさが心に満ちる。ニコは照れくさそうにちょこんと頭を下げた。
「先生……起きてていいんですか」
「うん、昨日からね。めまいも治まったし」
シャツの袖からは点滴の管がのびていて、スタンドの吊り下げられたバッグにつながっている。頭には包帯が巻かれ、手首には名札代わりのリストバンドがはめられていた。先生の痛々しい姿に、事故が現実のできごとなんだと改めて思い知らされる。
「頼まれた着替え、持ってきました」
「ごめんね、ニコしか頼める人いなくて。さっそくだけど着替えていい?」
「はい、もちろん。あの、手伝いましょうか」
「うん、お願い」
薄黄色のカーテンを閉めると、先生との距離も息がかかるほど近くなる。どきりと焦るニコとは裏腹に、先生はためらわずに服のボタンを上から順にはずしていく。あらわになっていく先生の胸元に、吸い込まれそうになって慌てて目線を外し、脱いだシャツを受け取った。
先生の指示通りに点滴を服に通している間も、先生の裸体が視界に入ってきてしまう。想像よりも厚い胸板と引き締まった肩のラインに、ニコは赤く染まった顔を逸らした、目に毒すぎて。
この胸に一度は抱きしめられたのかと思うと、平常心ではいられない。先生は病人なのに一体なにを考えてるの、不謹慎な。落ち着こうと点滴をスタンドに戻しながら自らをいさめた。
「りのちゃんとお母さんに謝られちゃってさ。余計な心配かけてしまって、かえって申し訳なかった」
先生は前のボタンを留めながら、ため息混じりにつぶやいた。
病院の診察の結果、りのちゃんは腰の打撲と足首の捻挫という診断だった。終業式には松葉杖で来ていたけど、様子を聞くともう腰は痛くないよと、りのちゃんは元気一杯に答えてくれた。
「先生は最善のことをしたんですから、罪悪感を感じる必要なんてないと思います。それに、りのちゃんの怪我が重くなくて、僕はすごくほっとしました。年末はちょっと不自由かもしれないけど……」
「ニコがそう言うなら、気にしなくていいのかな。正解なんてないんだね、こういうことって」
先生がそう答えながら、ズボンを手に取ってから掛け布団をめくった。上着の次は下だって着替えるのは当然で……でもさすがに直視できない。いやでも。
「て、手伝いますっ!」
「ほんとに?」
「当たり前じゃないですか」
「ひとりでできるからいいよ。残りの着替え、引き出しにしまっておいてくれる?」
「はっ、はいっ!」
先生はすべてを見透かしたように、くすっと笑っている。なんだかいたたまれなくなって、着替えが終わるまで薄黄色のカーテンの裏で突っ立っていた。
「あの、他に何か必要なものありませんか? ゼリーとかプリンとか、下のコンビニで買ってきますよ」
「ニコは? お昼食べたの?」
「いえ、まだ。あんまりお腹すいてなくて」
「じゃあ気を遣わなくていいよ。それよりもっと近くに来なよ、話しにくくてしょうがない」
先生の言われた通りに、スチールのイスをベッドの脇に置いて座った。ベッド越しに7階の窓から街並みが一望できる。手前に大きなため池があって、池の周りは葉を落とした寒々しい広葉樹の並木道に囲まれている。その奥は住宅街が広がっていた。
景色に見とれていると、先生がペットボトルのお茶を出してくれた。もうどっちが患者なんだか、分からなくなってしまう。一口飲んで、ニコはくすぶっていた疑問を口にする。
「先生の車、トラックとぶつかったっていうのは本当ですか?」
「正確には、向かってきたトラックを避けようとしたら、山の斜面に突っ込んだ、かな」
雪道にスリップしたトラックが、対向車線をはみ出して正面に迫ってきたという。雪の降る夜に恐怖以外の何ものでもない。自分ならパニックになって、そのままぶつかってしまっていたかもしれない。
「筑地さん達にさ、口酸っぱく忠告されれてたからね。県道の峠道を走る時は、何があっても谷に近づくな、落ちたら死ぬぞって。だからとっさに山側にハンドルを切ったんだ」
まるで今事故に遭ったばかりみたいに、先生はふうっと長く息を吐き出した。
「あの瞬間にさ、もうダメかもしれない、このまま死ぬんじゃないかって覚悟したよ。でもね、こうも思った。これで人生終わりなら、自分には何が残るんだろうってね。何かひとつでも残せたのかなって……その時、ニコのことが思い浮かんだんだ」
「えっ?」
突然名前を呼ばれて、ニコは弾かれたみたいに見上げた。
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