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あなたのいない世界など
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「学校になじめなくて悩んでいた僕に、先生は飽きもせずに、何度も何度も丁寧に返事をくれました。教室だけが世界のすべてじゃないって教えてくれたんです」
長い沈黙の後、千秋はたずねた。
「先生は、交換日記の相手がニコだって知ってたの?」
「もちろん知ってました。僕が教え子の兄だってこと」
「それでも日記を続けてたってこと? ……あの人らしいわ」
「先生は学校以外で、誰でもいいから関わってみろってアドバイスしてくれました。だから思い切って、高一の夏休みに蕎麦屋でバイトしたんです。外の世界を知りたくて……」
さびれかけた街に似合わないほどおしゃれな蕎麦屋だった。大将は味はもちろん、盛り付けにもサービスにもこだわりがあって厳しかった。皿洗いから始めて、だんだん接客も任されるようになって。
毎日いらっしゃいませと声を張り上げているうちに、学校のことを忘れていた。教室の中では、一言も声が出せなくなっていたのに、お店だとすらすらと話せる。賄いで出してもらった掻き揚げが美味すぎて、結局シフトも関係なく毎日のように通ったっけ。お前いつもいるなって常連さんになじられて。大将は笑って、残った食材を調理して出してくれた。
ボサボサに目の前まで伸びていた髪は、短く刈った。自転車で通ううちに、真っ黒に日焼けした。
夏休みが明けたら、なんだか身体が軽かった。自分の中で教室の存在が小さくなっていた。なんだか自然に、声が出たんだ。
教室の中は変わっていない。
ただ自分が変わったんだ。
席替えをした二学期の始業式、後ろの席の男子に何気なく話しかけた。
「プリント……足りる? もらってこようか」
「ないない。サンキュ」
「うん」
プリントを渡すと、今度は話しかけられた。
「なんか、雰囲気、変わった?」
「日に焼けたからかな? バイト先に毎日自転車で30分走ってたからから」
「バイト? なんのバイト?」
「蕎麦屋だよ。皿洗いとか、慣れてきたらホールもちょっとやらせてもらった」
「そういうとこって、やっぱ賄いとか出るの」
「出るよ、毎日蕎麦だけどね。天ぷらなんて余ったの全部食べさせてもらえるんだ」
「やっぱいいよなー、食べ物屋のバイトって」
「おすすめだよ」
なんだ、しゃべれるじゃん、自分。頬を触ってみたが、いつもと同じで。でも固かった表情はあっけなくほどけていった。自分が変われば相手も変わるんだって、あの時に実感したんだ。
それに誰かと話すってこんなに嬉しいんだ。自分の存在が認めてもらえた気がした。
先生、生きててよかったって。大げさかもしれないけど、その時本当にそう思ったんです。
夏が過ぎたら、弟は急に日記を自分で書くと言い出して、交換日記は突然終わりを迎えたけれど、あの時先生にもらった日記の返事は……もう心に刻まれていた。
「……僕は、どうしようもなく先生が好きです。先生の後を追って僕も死んだら……ほんとだ、先生に怒られますね、きっとあの世で怒鳴られる……」
「そうよ。笹原先生に救われたっていうニコが、死にたいなんて言うのは間違ってる。大馬鹿者だって怒られるわよ!」
励ましてくれる千秋の声も、涙ぐんでいた。
山道を一歩づつ靴で踏み込むたびに、新雪が圧縮されて、きゅっと新鮮な音を立てた。
いつもは登山者が憩う、見晴らしのいい広場は一面銀世界だった。木々に積もった雪に、空も白く縁取られている。階段を登り切ってしばらく進むと、お社の屋根が見えてきた。先生とふたりで訪れたここで、祈るしかないんだ。
先生に借りた手袋をポケットにしまって、二回、手を打つ。人どころか、動物さえ一匹もいないような闇の中に柏手の音が吸い込まれていった。
願いを込めて手を合わせる。鳥居をくぐり、何度も繰り返し、お参りをする。
神様――先生を助けてください。
この先、何ひとつお願い事はしないから、先生を助けてください。自分の命と引き換えでもいい。地上の不幸を全部背負わせてください。
もう手は冷えきって感覚はなくなっていたし、何回お参りしたかも数えられなくなっていた。百回お参りすれば願いは叶うの? どうすればいいの。あぁ、もっと調べてから来ればよかった。
気がつけば雪はすっかり止んでいて、雪の結晶に光が当たってきらきらと輝いていた。夜でも朝でもない、現実とも思えない青白いまどろみが東の空から差してくる。
昨日の闇が終わり、今日の光が始まる。
「夜が明ける――」
ニコはただ吸い込まれるように空を見上げ、暁の薄明かりを眺めていた。
長い沈黙の後、千秋はたずねた。
「先生は、交換日記の相手がニコだって知ってたの?」
「もちろん知ってました。僕が教え子の兄だってこと」
「それでも日記を続けてたってこと? ……あの人らしいわ」
「先生は学校以外で、誰でもいいから関わってみろってアドバイスしてくれました。だから思い切って、高一の夏休みに蕎麦屋でバイトしたんです。外の世界を知りたくて……」
さびれかけた街に似合わないほどおしゃれな蕎麦屋だった。大将は味はもちろん、盛り付けにもサービスにもこだわりがあって厳しかった。皿洗いから始めて、だんだん接客も任されるようになって。
毎日いらっしゃいませと声を張り上げているうちに、学校のことを忘れていた。教室の中では、一言も声が出せなくなっていたのに、お店だとすらすらと話せる。賄いで出してもらった掻き揚げが美味すぎて、結局シフトも関係なく毎日のように通ったっけ。お前いつもいるなって常連さんになじられて。大将は笑って、残った食材を調理して出してくれた。
ボサボサに目の前まで伸びていた髪は、短く刈った。自転車で通ううちに、真っ黒に日焼けした。
夏休みが明けたら、なんだか身体が軽かった。自分の中で教室の存在が小さくなっていた。なんだか自然に、声が出たんだ。
教室の中は変わっていない。
ただ自分が変わったんだ。
席替えをした二学期の始業式、後ろの席の男子に何気なく話しかけた。
「プリント……足りる? もらってこようか」
「ないない。サンキュ」
「うん」
プリントを渡すと、今度は話しかけられた。
「なんか、雰囲気、変わった?」
「日に焼けたからかな? バイト先に毎日自転車で30分走ってたからから」
「バイト? なんのバイト?」
「蕎麦屋だよ。皿洗いとか、慣れてきたらホールもちょっとやらせてもらった」
「そういうとこって、やっぱ賄いとか出るの」
「出るよ、毎日蕎麦だけどね。天ぷらなんて余ったの全部食べさせてもらえるんだ」
「やっぱいいよなー、食べ物屋のバイトって」
「おすすめだよ」
なんだ、しゃべれるじゃん、自分。頬を触ってみたが、いつもと同じで。でも固かった表情はあっけなくほどけていった。自分が変われば相手も変わるんだって、あの時に実感したんだ。
それに誰かと話すってこんなに嬉しいんだ。自分の存在が認めてもらえた気がした。
先生、生きててよかったって。大げさかもしれないけど、その時本当にそう思ったんです。
夏が過ぎたら、弟は急に日記を自分で書くと言い出して、交換日記は突然終わりを迎えたけれど、あの時先生にもらった日記の返事は……もう心に刻まれていた。
「……僕は、どうしようもなく先生が好きです。先生の後を追って僕も死んだら……ほんとだ、先生に怒られますね、きっとあの世で怒鳴られる……」
「そうよ。笹原先生に救われたっていうニコが、死にたいなんて言うのは間違ってる。大馬鹿者だって怒られるわよ!」
励ましてくれる千秋の声も、涙ぐんでいた。
山道を一歩づつ靴で踏み込むたびに、新雪が圧縮されて、きゅっと新鮮な音を立てた。
いつもは登山者が憩う、見晴らしのいい広場は一面銀世界だった。木々に積もった雪に、空も白く縁取られている。階段を登り切ってしばらく進むと、お社の屋根が見えてきた。先生とふたりで訪れたここで、祈るしかないんだ。
先生に借りた手袋をポケットにしまって、二回、手を打つ。人どころか、動物さえ一匹もいないような闇の中に柏手の音が吸い込まれていった。
願いを込めて手を合わせる。鳥居をくぐり、何度も繰り返し、お参りをする。
神様――先生を助けてください。
この先、何ひとつお願い事はしないから、先生を助けてください。自分の命と引き換えでもいい。地上の不幸を全部背負わせてください。
もう手は冷えきって感覚はなくなっていたし、何回お参りしたかも数えられなくなっていた。百回お参りすれば願いは叶うの? どうすればいいの。あぁ、もっと調べてから来ればよかった。
気がつけば雪はすっかり止んでいて、雪の結晶に光が当たってきらきらと輝いていた。夜でも朝でもない、現実とも思えない青白いまどろみが東の空から差してくる。
昨日の闇が終わり、今日の光が始まる。
「夜が明ける――」
ニコはただ吸い込まれるように空を見上げ、暁の薄明かりを眺めていた。
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