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夏の夕暮れ、秋の終わり
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先生は持っていたスプーンをナプキンの上に置いた。カタンと金属の乾いた音が鳴る。
ニコはビクリと肩を押し上げた。
「そこまで知ってるなら簡単な話だよ。彼女は僕と別れてから、僕の兄と結婚した。僕は、彼らの結婚式に出席したんだ。その時、胃の調子が悪くなってさ。それから結婚式に出るのがどうにも苦痛でね」
「え…………」
ニコは絶句した。
頭の中で理解が追いつかない。先生とお兄さんとは、数年間会話もないほど疎遠だとは聞いていた。でもそんな理由だなんて。
「あの女の人は、先生の恋人だったんでしょう?」
「大昔にね」
「なのに、なんでお兄さんと結婚したの?」
「さぁ、敢えて言うなら僕のせいかもね」
先生は彼女を兄に紹介したことがあったと教えてくれた。恋人とは言わず、進路に悩む受験生として。お兄さんはその頃医大に通っていて、色々と相談に乗ってくれていたのだという。
「僕が教師になって何年か経った頃、兄が実家に彼女を連れて来た時は驚いたよ」
「お兄さんは知らないんですか、先生と自分の奥さんが昔付き合ってたってこと……」
「知らない方が幸せなこともあるでしょ。現に姪っ子はもうすぐ3歳だよ? これ以上の幸せがある?」
ニコは顔をしかめたまま俯いた。
もしも弟の婚約者が、自分の元恋人だったらどうするだろう? 隠しきれずに、耐えきれずに弟に告げるかもしれない。弟の婚約者と自分は昔付き合っていたと。それでもいいのかって。恐らく婚約は破棄されてしまうだろう。
それじゃあ誰も……幸せにはならない。
先生はそんなことしない。気にしない振りをして涼しい顔でふたりの幸せを祝うんだ。自分の気持ちを犠牲にしても。だって……先生はそういう人だもの。
想像するだけで、心の奥がぎゅっと圧縮されたみたいに息苦しくなる。喉の奥がつんと痛んだ。
先生はフォークでケーキを突き刺した。一口食べて見上げると、いぶかしげに眉を寄せた。
「……どうしてニコが泣くの?」
「え?」
気づけば涙が頬を伝っていた。瞬きをすると、目の下にたまっていた涙がまたひとつこぼれた。
「そんなに悲しい話だった?」
「先生は辛くないんですか。我慢なんてしないでください」
「もう終わった話だよ」
ニコは口元をきゅっと結んで、涙をこらえた。
「何年経ったっても傷跡は残ったまま治らないこともあるんです。ずーっと心の中で悲鳴をあげてるんです。僕の前では平気なフリなんてしないでください」
「ニコは……僕の代わりに泣いてくれてるんだね。僕も一度でいいから泣けば良かった。泣いて叫んだらすっきりしたのに。もう、涙は出ないんだ」
言い終えると同時に、先生は腕を伸ばしてニコの頬に触れた。そして胸に刺していたポケットチーフでニコの涙を拭った。
頬に伝わる先生の指先の温かさに、とけてしまいそうになる。堪えた涙がまたひとつ溢れた。
「先生、チーフが汚れちゃいます」
「今使わなくて、いつ使うの」
「だって…………」
「本当は今日も少し不安だったんだ、また気分が悪くなるんじゃないかって。でも平気だった。ニコがすぐそばで待っててくれるって分かってたから」
「そんなこと……」
「ありがとう、ニコ」
先生が一切れだけ食べたケーキの残りをくれる。ごめんね食べかけで、という先生はいつもの柔らかい笑顔に戻っていた。
じゅわっと甘いデニッシュケーキは泣きっ面のささくれだった心に、じんわりとやさしく染み渡る。大口を開けてケーキを頬張るニコに、先生は眩しそうに目を細めていた。
木枠の窓から西陽が差し込んでくる。店員が窓のブラインドを下げて回っていた。夏の夕暮れがずっと続けばいいのに。まだまだ一緒にいたいけれど、時間の流れは残酷だ。
「そろそろ帰ろうか」
伝票を掴んで立ち上がる先生の背中を追った。少しは払いますと言っても、先生は聞いてくれない。
自分は役に立てたのだろうか。慰めになっただろうか。ほんの少しでも力になれたんじゃないかな、そう、信じていたい。
ニコはビクリと肩を押し上げた。
「そこまで知ってるなら簡単な話だよ。彼女は僕と別れてから、僕の兄と結婚した。僕は、彼らの結婚式に出席したんだ。その時、胃の調子が悪くなってさ。それから結婚式に出るのがどうにも苦痛でね」
「え…………」
ニコは絶句した。
頭の中で理解が追いつかない。先生とお兄さんとは、数年間会話もないほど疎遠だとは聞いていた。でもそんな理由だなんて。
「あの女の人は、先生の恋人だったんでしょう?」
「大昔にね」
「なのに、なんでお兄さんと結婚したの?」
「さぁ、敢えて言うなら僕のせいかもね」
先生は彼女を兄に紹介したことがあったと教えてくれた。恋人とは言わず、進路に悩む受験生として。お兄さんはその頃医大に通っていて、色々と相談に乗ってくれていたのだという。
「僕が教師になって何年か経った頃、兄が実家に彼女を連れて来た時は驚いたよ」
「お兄さんは知らないんですか、先生と自分の奥さんが昔付き合ってたってこと……」
「知らない方が幸せなこともあるでしょ。現に姪っ子はもうすぐ3歳だよ? これ以上の幸せがある?」
ニコは顔をしかめたまま俯いた。
もしも弟の婚約者が、自分の元恋人だったらどうするだろう? 隠しきれずに、耐えきれずに弟に告げるかもしれない。弟の婚約者と自分は昔付き合っていたと。それでもいいのかって。恐らく婚約は破棄されてしまうだろう。
それじゃあ誰も……幸せにはならない。
先生はそんなことしない。気にしない振りをして涼しい顔でふたりの幸せを祝うんだ。自分の気持ちを犠牲にしても。だって……先生はそういう人だもの。
想像するだけで、心の奥がぎゅっと圧縮されたみたいに息苦しくなる。喉の奥がつんと痛んだ。
先生はフォークでケーキを突き刺した。一口食べて見上げると、いぶかしげに眉を寄せた。
「……どうしてニコが泣くの?」
「え?」
気づけば涙が頬を伝っていた。瞬きをすると、目の下にたまっていた涙がまたひとつこぼれた。
「そんなに悲しい話だった?」
「先生は辛くないんですか。我慢なんてしないでください」
「もう終わった話だよ」
ニコは口元をきゅっと結んで、涙をこらえた。
「何年経ったっても傷跡は残ったまま治らないこともあるんです。ずーっと心の中で悲鳴をあげてるんです。僕の前では平気なフリなんてしないでください」
「ニコは……僕の代わりに泣いてくれてるんだね。僕も一度でいいから泣けば良かった。泣いて叫んだらすっきりしたのに。もう、涙は出ないんだ」
言い終えると同時に、先生は腕を伸ばしてニコの頬に触れた。そして胸に刺していたポケットチーフでニコの涙を拭った。
頬に伝わる先生の指先の温かさに、とけてしまいそうになる。堪えた涙がまたひとつ溢れた。
「先生、チーフが汚れちゃいます」
「今使わなくて、いつ使うの」
「だって…………」
「本当は今日も少し不安だったんだ、また気分が悪くなるんじゃないかって。でも平気だった。ニコがすぐそばで待っててくれるって分かってたから」
「そんなこと……」
「ありがとう、ニコ」
先生が一切れだけ食べたケーキの残りをくれる。ごめんね食べかけで、という先生はいつもの柔らかい笑顔に戻っていた。
じゅわっと甘いデニッシュケーキは泣きっ面のささくれだった心に、じんわりとやさしく染み渡る。大口を開けてケーキを頬張るニコに、先生は眩しそうに目を細めていた。
木枠の窓から西陽が差し込んでくる。店員が窓のブラインドを下げて回っていた。夏の夕暮れがずっと続けばいいのに。まだまだ一緒にいたいけれど、時間の流れは残酷だ。
「そろそろ帰ろうか」
伝票を掴んで立ち上がる先生の背中を追った。少しは払いますと言っても、先生は聞いてくれない。
自分は役に立てたのだろうか。慰めになっただろうか。ほんの少しでも力になれたんじゃないかな、そう、信じていたい。
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