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第5章 兄の結婚
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夏期講習の初回、授業が始まる30分前。まだ施錠されていた教室の廊下に立っていたのは、制服姿の彼女だった。夢中で本を読んでいるようでこちらには気づいていなかった。笹原は気安く声をかけた。
「何、読んでるの?」
ハッと見上げた彼女と目が合ったとき、なんだか仲良くなれそうな気がした。
「夏目漱石の『こころ』です」
「それ難しくない?」
「うん、難しい。でも読み始めると止まらないの」
「わかる」
彼女の曇りのない笑顔を今でもはっきりと覚えている。
それから学校の授業が済むと、急いで予備校の近くのカフェに向かった。
彼女はいつも小説を片手に暑い日はアイスココアを、寒い日には蜂蜜入りのカフェラテを飲んでいた。
予備校の授業が始まるまで勉強を教え合ったり、互いの学校でのできごとを報告し合ったり。いつの間にか時が過ぎ、授業に遅刻して怒られたこともあった。たとえなにも話さなくても、肩を寄せて一緒にいられるだけで楽しかった。
いつしか予備校で勉強するよりも彼女に会うことが目的になっていた。休みの日に外で会うことも増えていき、優先順位は彼女が一番になった。
でも彼女にとって一番大事なものは受験だったし、その先にある将来進むべき道だった。今から考えればそれは当たり前のことで。
「彼女が進路に迷ってるっていうから、兄を紹介した。兄に相談に乗ってもらううちに、教師を目指していた彼女は進路を変えた」
本当にやりたい事が見つかったのと、目を輝かせて語る彼女に、「よかったね」と声をかけた。彼女はもう小説は読まなくなった。持っているのは過去問と参考書だけ。
「彼女に一緒に行こうと誘われてた兄の医大の学祭を、断ったのは自分の意思だ――」
彼女と兄が、将来についてふたりが楽しそうに会話をする光景を目の当たりにした瞬間、何かが壊れた。ふたりと自分の間に線が引かれ、亀裂が入り、裂け目に落ちたんだ。
二度とふたりのいる場所へはもう這い上がれない、そんな真っ暗闇だった。
「……テーブルにつくんじゃないかってくらい頭を下げてたよ。僕と付き合ってたことは、兄に内緒にしてくれって。そんな昔の話、蒸し返すわけないのにね」
テーブルには口をつけていないコーヒーカップの表面が揺れていた。そういえば彼女はいつのまにブラックコーヒーが飲めるようになっていたのだろう。それがいつからだったのか、想像する自分に嫌気がさした。
「なるほどね。結婚式に出てこない義理の弟は実は元彼で、何考えてるか分からなくて不安だったわけだ。その花嫁は」
「約束して欲しいって懇願されたとき思い知ったよ。彼女の人生にとって、僕とのことは消し去りたい過去なんだってね」
出席します、とその場で返事をした。
当日は挙式でも披露宴でも、笑顔で拍手した。
式も終盤にさしかかり、花嫁が両親への手紙を読んでいる時だった。
会場の扉の前には、彼女と兄、新郎新婦の両親が立っている。泣きながら手紙をよむ新婦の声が響き、会場は感動的な空気が漂っていた。
今日から一生、あの人が義姉になるんだ。
親族として死ぬまで顔を合わせるのだ。
自分だけが冷酷な感情を抱いていることを自覚した途端、潮が引くようにじわじわと体から血の気が引いていった。喉の奥から胃が丸ごとせりあがってくるみたいだった。新郎新婦に輝かしくスポットライトが当たる暗い会場を抜け出し、式場のトイレで胃の中の物をすべて吐いた。
タクシーに乗って、かろうじて帰宅したあとも、吐き気と震えが止まらなかった。ソファーに突っ伏したまま、体を動かせずにいた。
次の日も、藤堂が自宅に現れるまで――――。
「自分だけ、僕だけが何か悪いものに当たったんだ......たまにはそういうこともあるんじゃない?」
笹原は他人事みたいにせせら笑った。
「それだけのこと」
「……お前さ、もう忘れろよ」
「もうどうでもいいんだよ。どうでもいいはずなのに、なぜか結婚式って苦手なんだよね」
「自分で自分を縛り付けるようなことは、今すぐ辞めろ」
笹原は深くうなずいてから、飲みかけのビールを呷った。
「何、読んでるの?」
ハッと見上げた彼女と目が合ったとき、なんだか仲良くなれそうな気がした。
「夏目漱石の『こころ』です」
「それ難しくない?」
「うん、難しい。でも読み始めると止まらないの」
「わかる」
彼女の曇りのない笑顔を今でもはっきりと覚えている。
それから学校の授業が済むと、急いで予備校の近くのカフェに向かった。
彼女はいつも小説を片手に暑い日はアイスココアを、寒い日には蜂蜜入りのカフェラテを飲んでいた。
予備校の授業が始まるまで勉強を教え合ったり、互いの学校でのできごとを報告し合ったり。いつの間にか時が過ぎ、授業に遅刻して怒られたこともあった。たとえなにも話さなくても、肩を寄せて一緒にいられるだけで楽しかった。
いつしか予備校で勉強するよりも彼女に会うことが目的になっていた。休みの日に外で会うことも増えていき、優先順位は彼女が一番になった。
でも彼女にとって一番大事なものは受験だったし、その先にある将来進むべき道だった。今から考えればそれは当たり前のことで。
「彼女が進路に迷ってるっていうから、兄を紹介した。兄に相談に乗ってもらううちに、教師を目指していた彼女は進路を変えた」
本当にやりたい事が見つかったのと、目を輝かせて語る彼女に、「よかったね」と声をかけた。彼女はもう小説は読まなくなった。持っているのは過去問と参考書だけ。
「彼女に一緒に行こうと誘われてた兄の医大の学祭を、断ったのは自分の意思だ――」
彼女と兄が、将来についてふたりが楽しそうに会話をする光景を目の当たりにした瞬間、何かが壊れた。ふたりと自分の間に線が引かれ、亀裂が入り、裂け目に落ちたんだ。
二度とふたりのいる場所へはもう這い上がれない、そんな真っ暗闇だった。
「……テーブルにつくんじゃないかってくらい頭を下げてたよ。僕と付き合ってたことは、兄に内緒にしてくれって。そんな昔の話、蒸し返すわけないのにね」
テーブルには口をつけていないコーヒーカップの表面が揺れていた。そういえば彼女はいつのまにブラックコーヒーが飲めるようになっていたのだろう。それがいつからだったのか、想像する自分に嫌気がさした。
「なるほどね。結婚式に出てこない義理の弟は実は元彼で、何考えてるか分からなくて不安だったわけだ。その花嫁は」
「約束して欲しいって懇願されたとき思い知ったよ。彼女の人生にとって、僕とのことは消し去りたい過去なんだってね」
出席します、とその場で返事をした。
当日は挙式でも披露宴でも、笑顔で拍手した。
式も終盤にさしかかり、花嫁が両親への手紙を読んでいる時だった。
会場の扉の前には、彼女と兄、新郎新婦の両親が立っている。泣きながら手紙をよむ新婦の声が響き、会場は感動的な空気が漂っていた。
今日から一生、あの人が義姉になるんだ。
親族として死ぬまで顔を合わせるのだ。
自分だけが冷酷な感情を抱いていることを自覚した途端、潮が引くようにじわじわと体から血の気が引いていった。喉の奥から胃が丸ごとせりあがってくるみたいだった。新郎新婦に輝かしくスポットライトが当たる暗い会場を抜け出し、式場のトイレで胃の中の物をすべて吐いた。
タクシーに乗って、かろうじて帰宅したあとも、吐き気と震えが止まらなかった。ソファーに突っ伏したまま、体を動かせずにいた。
次の日も、藤堂が自宅に現れるまで――――。
「自分だけ、僕だけが何か悪いものに当たったんだ......たまにはそういうこともあるんじゃない?」
笹原は他人事みたいにせせら笑った。
「それだけのこと」
「……お前さ、もう忘れろよ」
「もうどうでもいいんだよ。どうでもいいはずなのに、なぜか結婚式って苦手なんだよね」
「自分で自分を縛り付けるようなことは、今すぐ辞めろ」
笹原は深くうなずいてから、飲みかけのビールを呷った。
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