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第4章 雨に濡れて
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5月の山の雨はまだ冷たい。ニコは冷え切った手の平をこすり合わせた。
濡れた服は肌に張りつき体温をじわじわと奪い去っていく。そのまま家に帰っていたら、先生の言う通り風邪でも引いていたことだろう。
なだらかな坂を登りきると、真新しい平屋建ての家が姿を現した。家のまわりは木々に囲まれていてひっそりと静かで、奥には砂利敷きの広い駐車スペースがあった。
「大家さんが息子夫婦のために建てた家なんだけど、1年も住まないうちに、息子夫婦は不便すぎるといって都会のマンションに引っ越しちゃったんだって。こんなにいい場所なのにね」
学校の近くに住むことを初めは躊躇していたと、先生は教えてくれた。だがひとりで住むにはもったいないくらい立派な造りで、家賃もアパート並でいいと言われ、断る理由がなかったという。
笹原は玄関の鍵を開け、扉を押さえてニコを招き入れた。
「どうしたの?」
「いえ、心の準備が……」
「なに言ってんの。早く入らないと締め出すよ」
ニコはおずおずと玄関に足を踏み入れた。先生からビニール袋を受け取り、濡れた合羽やズボンを詰めたあと、そのままお風呂場に連れて行かれた。
「シャンプーとかドライヤーとか好きに使っていいから」
熱いシャワーを浴びると生き返った心地がした。冷えきった体の末端まで血が巡っていく。シャワーを終えて扉を開けると、さっきまでなかったはずの着替えがきちんと畳まれて置かれていた。
ふんわりと柔らかな服から、せっけんみたいにやさしい香りがする。ちょっと大きめの先生の服に包まれるだけで、どきどきと胸が高鳴った。
「お風呂、ありがとうございました!」
促されるままにダイニングに案内され椅子に座る。先生は小鍋で淹れたココアを火から下ろし、ふたつのマグカップにたっぷりと注いだ。
ニコは目の前に出されたココアを口元に運び、ゆっくりとすする。細胞の隅々までココアの甘みと温もりが染み渡っていった。
「……おいしいです、ものすごく」
「そう、よかった」
「疲れた時に、甘いものってどうしてこんなに美味しく感じるんでしょう」
「疲れると脳や身体がエネルギーを欲するらしいからね。初めてひとりで山に登頂したんだ。気づかないうちに緊張してたんだよ」
おいしいけれど、すぐに飲み干すのはもったいない気がして、ニコはココアを一口だけ飲んでから答えた。
「山の中はいろんな木や植物が自然のままに生えてるし、見たことのない景色にもわくわくしました。こんな経験、初めてです」
「そう言ってくれると、連れて行った甲斐があるね」
雨に曇った山頂からの景色は、薄ぼんやりと陰っていたけれど、心の中は清々しかった。日頃のもやもやしたストレスがすーっと晴れていくみたいだった。
(山って、こんなに気持ちいいものなんだ――)
先生にもらったアーモンドチョコレートを山頂で食べているうちに、急激に空が暗くなり始め、下山する時にはもう雨が降り出していた。
「下山する時、途中にあった神社にお参りしたかったんですが、雨が激しくてとても寄れませんでした……それだけが心残りで」
「じゃあ今度、一緒に登ってお参りしよう。無事に下山できたお礼をしないと」
先生の何気ない口調に、ニコが手にしていたマグカップの中のココアが揺れた。もう一度登ろうと誘ってもらえるなんて夢にも思わなかったから。
「はい……また登りたいです!」
先生はうん、と小さく頷いてからココアを飲み干した。
「先生。今日のお礼に何かさせてください」
「お礼なんていいよ、今日のことは本当に気にしないで」
ニコはぶんぶんと頭を振った。それでは自分の気がすまないと。
「僕はたいしたことはできないですけど。人手が要るときは、いつでも呼んでください。力仕事とか、畑仕事とか、飛んでいきますから」
「いいの? そんなこと約束しちゃって」
「必ず行きます。何時でも――」
空いたマグカップを片付けながら、先生はひとつ頼み事をした。
濡れた服は肌に張りつき体温をじわじわと奪い去っていく。そのまま家に帰っていたら、先生の言う通り風邪でも引いていたことだろう。
なだらかな坂を登りきると、真新しい平屋建ての家が姿を現した。家のまわりは木々に囲まれていてひっそりと静かで、奥には砂利敷きの広い駐車スペースがあった。
「大家さんが息子夫婦のために建てた家なんだけど、1年も住まないうちに、息子夫婦は不便すぎるといって都会のマンションに引っ越しちゃったんだって。こんなにいい場所なのにね」
学校の近くに住むことを初めは躊躇していたと、先生は教えてくれた。だがひとりで住むにはもったいないくらい立派な造りで、家賃もアパート並でいいと言われ、断る理由がなかったという。
笹原は玄関の鍵を開け、扉を押さえてニコを招き入れた。
「どうしたの?」
「いえ、心の準備が……」
「なに言ってんの。早く入らないと締め出すよ」
ニコはおずおずと玄関に足を踏み入れた。先生からビニール袋を受け取り、濡れた合羽やズボンを詰めたあと、そのままお風呂場に連れて行かれた。
「シャンプーとかドライヤーとか好きに使っていいから」
熱いシャワーを浴びると生き返った心地がした。冷えきった体の末端まで血が巡っていく。シャワーを終えて扉を開けると、さっきまでなかったはずの着替えがきちんと畳まれて置かれていた。
ふんわりと柔らかな服から、せっけんみたいにやさしい香りがする。ちょっと大きめの先生の服に包まれるだけで、どきどきと胸が高鳴った。
「お風呂、ありがとうございました!」
促されるままにダイニングに案内され椅子に座る。先生は小鍋で淹れたココアを火から下ろし、ふたつのマグカップにたっぷりと注いだ。
ニコは目の前に出されたココアを口元に運び、ゆっくりとすする。細胞の隅々までココアの甘みと温もりが染み渡っていった。
「……おいしいです、ものすごく」
「そう、よかった」
「疲れた時に、甘いものってどうしてこんなに美味しく感じるんでしょう」
「疲れると脳や身体がエネルギーを欲するらしいからね。初めてひとりで山に登頂したんだ。気づかないうちに緊張してたんだよ」
おいしいけれど、すぐに飲み干すのはもったいない気がして、ニコはココアを一口だけ飲んでから答えた。
「山の中はいろんな木や植物が自然のままに生えてるし、見たことのない景色にもわくわくしました。こんな経験、初めてです」
「そう言ってくれると、連れて行った甲斐があるね」
雨に曇った山頂からの景色は、薄ぼんやりと陰っていたけれど、心の中は清々しかった。日頃のもやもやしたストレスがすーっと晴れていくみたいだった。
(山って、こんなに気持ちいいものなんだ――)
先生にもらったアーモンドチョコレートを山頂で食べているうちに、急激に空が暗くなり始め、下山する時にはもう雨が降り出していた。
「下山する時、途中にあった神社にお参りしたかったんですが、雨が激しくてとても寄れませんでした……それだけが心残りで」
「じゃあ今度、一緒に登ってお参りしよう。無事に下山できたお礼をしないと」
先生の何気ない口調に、ニコが手にしていたマグカップの中のココアが揺れた。もう一度登ろうと誘ってもらえるなんて夢にも思わなかったから。
「はい……また登りたいです!」
先生はうん、と小さく頷いてからココアを飲み干した。
「先生。今日のお礼に何かさせてください」
「お礼なんていいよ、今日のことは本当に気にしないで」
ニコはぶんぶんと頭を振った。それでは自分の気がすまないと。
「僕はたいしたことはできないですけど。人手が要るときは、いつでも呼んでください。力仕事とか、畑仕事とか、飛んでいきますから」
「いいの? そんなこと約束しちゃって」
「必ず行きます。何時でも――」
空いたマグカップを片付けながら、先生はひとつ頼み事をした。
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