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放課後の秘儀
副会長の野暮用
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「本日の授業はここまでです。次回の授業で詩の暗唱のテストを行いますから、皆さん覚えておきますよう」
白い髭をたっぷりたくわえたライヴォーネン教授は威厳高い声でそう言うと、分厚い本を閉じ、ドンという音を高い天井まで響かせた。毎度恒例、彼が授業を終える合図である。それを契機にして、女子生徒たちの頭が、静まっていた教室に雨後のキノコがごとくポコポコと立ち上がり、騒がしいさえずりをあちらこちらで始めるのもまた、恒例の光景であった。とはいえここは、高潔な血を引くうら若き子女たちが、それに相応しい教養を身につけるための寄宿制高等規範学校。読み書き計算を教えるだけの国民学校でも、身分の貴賤を問わず軍事教育を行う士官学校でもないし、出来の良い市民を啓蒙する基幹学校とも違う。聞こえてくるのは、やれ女がどうだとか、酒がどうだとか、あるいは、不況だ、不倫だ、失政だなんていう、誰もが喜ぶ下卑た話題ではなく、音楽、お花、恋愛小説、流行のドレスなど、毒にも薬にもならない話題ばかりである。そういえば先日、とある教会の高僧が新聞へ寄稿した――この学校で新聞を読んでいる生徒など僕ぐらいなものだろう――天国についての教育的論説を読んだ。なんで突然そんなことを思い出したのかというと、その中に書かれていた「永遠の春を謳歌する牧歌的な楽園」という文言が目の前の光景と重なったからである。その僧侶はたしか、「現世で犯した罪を教会で贖ったものにのみ死後の楽園への道が開かれる」だとかなんとか、けち臭い主張をまるで自分が神の代弁者であるかのように熱弁していたが、神のご意思を代弁しようなんて語り口はあまりにも自己陶酔が過ぎるし、そもそも楽園なんてものは、頭であれこれ想像しなくても、首府から一時間ばかり馬車を御した山村に築かれたこの女学院の中に既に存在しているのだから、あの僧侶の目もまだまだ暗いという訳だ。まったく聖職者っていうのは、死ぬことばかり考えているからいけない。
「ミーシェ、ちょっといいかしら?」
「ごきげんよう、シモーヌ。どうしたの?」
老教授の退屈な説法を聞き流しながら故郷の恋人リーゼのためにしたためていた恋文を四つ折りにしてノートに挟み、鞄の中へと仕舞いこんだとき、シモーヌ・ド・リンドー――生まれてこの方楽園の外を知らない女神――はウェーブがかったブリュネットの長髪と服の上からでもわかる豊満な胸を揺らしながら階段を上り、僕のところへとやって来た。
「今日の放課後、お時間はあるかしら?今度の会議の段取りについて相談したいことがあるのですけど……」
「ええ、もちろんいいわよ。なんせ交流会がらみだもんね、不安なのはわかるわ」
「ありがとうミーシェ、本当に、貴女だけが頼りですの」
僕より少し背の高い大貴族のご令嬢は、ライラックのような淑やかな笑みで僕を見た。けがれなき女神に笑顔を直接向けられてその虜にならずにいられるような男なんぞ、世界中探し回っても誰一人としていやしないだろう。僕だって、わざわざ女の恰好をして学校に侵入し、シモーヌと友愛関係を築いて、彼女とお兄様を結びつけるキューピットの使命に縛られないただ一人の男であったなら、許嫁のリーゼへの忠心とシモーヌの放つ光明の間に心を病み、結果、国王殺しを企てた不遜な男の末路がごとく、心が八つ裂きになっていたに違いない。しかし、僕が彼女に恋をすることはない。彼女と恋をしなければならないのは僕ではなくお兄様であるという堅い信念が、僕を思いとどまらせていたからである。
「ではいきましょう?ミーシェ」
「あ、ちょっと待って」
「?」
シモーヌが差し伸べた手を僕は取らずに、少し斜め上を向いた。
「その……ちょっと用を思い出したの。すぐに済ませるから、先に生徒会室に行って待っていてもらっていいかしら?」
「あら、そうでしたの」彼女は残念そうに眉頭を上げる。「分かりましたわ。先に生徒会室に行って、お茶を入れて待っていますわね」
彼女は両手でカバンの取っ手を大事そうに握り、小さな歩幅で講義室の階段を下りて行った。するとどうだろう、花に集まる蝶のように、彼女の周りへ一人、また一人と学友が近づき、教室を出る後姿を見送るときにはもう、十人ほどの生徒を引き連れる大所帯となっていた。シモーヌの人徳か、あるいは、単に彼女の貴い家柄がそうさせているのかは、さして問題ではない。重要なのは、彼女に引きつけられているあの有象無象の誰よりも、生徒会の側近として、彼女から相当の信頼を得ているのはこの僕であるという事実だ。シモーヌが戸口でこちらに視線を送り、ゆっくりと手を振った。僕もそれに応じる。こんな何気ないやり取りも僕だけに許された特権のような気がして、生ぬるい笑みが腹の底から湧いてくるのであった。
いやいや、悦に浸っている場合ではない。シモーヌが出て行ったことを確認すると、僕は扇形に広がる講義室を見回して、用のある人物を探した。が、見つからない。まだ講義が終わって間もなく、ライヴォーネン教授も教壇の上で、持ち込んだ鈍器のような本を片づけている最中だというのに、目当ての彼女は大多数の女生徒のようにだらだらと教室で歓談を続けるでもなく、既にここから消えていた。シモーヌの取り巻きに紛れていなかったことはもちろん確認済みだ。
(もう部屋に戻ったのか……?)
僕はカバンを片手に、もう一方でロングスカートの裾をつまみ上げて、トントントンと小走りで階段を下り、講義室から退出した。
「あのっ!ミーシェ様!」
廊下に出るとすぐに誰かに呼び止められた。出待ちでもしていたのだろうか、背の低い下級生の三人組が、頬を染めながら僕の顔をもじもじと見つめていた。こちらは急いでいるというのに、まったくタイミングが悪い。とはいえ彼女たちをぞんざいに扱ってしまっては、生徒会副会長としての威信にも関わってくる。それゆえ僕はにこやかなマスクを嵌めて焦りを隠匿し、おおらかな上級生の顔で彼女たちの呼びかけに応えた。
「こんにちは。えっと……君たちは?」
「あのっ……!」最初に僕に声をかけた黒髪の娘が一歩前に出た。「こ、これ、受け取ってください!その、お、お返事もらえると嬉しいです!」
彼女は封のされていない純白の便箋を僕に突き出した。
(うーむ、またコレか……)
僕が生徒会員として全生徒の注目を集めるようになって以来、頻繁に受け取るようになった私書だ。きっと今回も、僕のことを讃える頌詩か恋の散文がしたためられているに違いない。コイツの堪らないところは、子女たちのたくましい空想力によって肥大化した、僕が思う僕という存在からは似ても似つかない自分の姿を直視しなければならないことに尽きる。褒められることはもちろん嫌ではないけれど、胃がもたれてしまうほどの甘ったるい調で綴られる、僕ではない「ミーシェ・ラムズフィールド」の人物評を聞かされるのは、辱めというか、もう満腹だと言っているのに、かまわずどんどん料理が運ばれてきて、完食することを強要される責め苦を受けているかのようである。しかもこの種の手紙は返事をすることがマナーだ。読むに堪えない空想奇譚に、上級生として、生徒会副会長として、実直な言葉で感謝を述べつつ、やんわりとお断りをほのめかす返信を考えるというのは、相当に骨が折れる。長く外交に携わる経験豊富な高級文官でさえ辟易する作業に違いない。
「ふふふっ、ありがとう」そんな憂鬱をけしの実ほども出さずに、僕は便箋をつまみ上げ、胸ポケットにしまった。「ごめんなさい。今はちょっと急いでいるの。それじゃあ」
僕は彼女たちを軽くあしらい、その横を抜けていった。背後からはキャーキャーと甲高い声が聞こえてきた。君たちも上級生になって渡される身になったらわかるだろう、いかに思いを伝えることが楽で、むしろそれを受け止めることの方が何倍も大変だということを。とはいえ後輩たちの未来に思いを馳せている猶予はない。一刻も早く彼女を探さなければ……。
僕は校舎を出て、中庭を抜け、対面にある宿舎へと向かった。僕は腕をしっかりと振って、人目をはばからず大理石の階段をドタドタと駆け上り――淑女にあるまじき行為だ――三階にある自室へと急いだ。こんな姿を寮母に見られたら「恥ずかしくないのですか」とお説教を食らって大幅に時間を取られてしまうだろう。当然、他の生徒に見られるのも好ましいことではない。生まれてこの方、野を駆けることすらしたことのない細君がそこかしこにいるこの学園だ、大股で階段を駆け上っていく鬼気迫る表情の副会長の姿なんて見た日には卒倒してしまうかもしれないぞ。しかし今はそんな些細なことに構っている暇はなかった。危機が迫っているのだ。幸運なことに、寮で人に出くわすことはなかった。男勝りの(実際には男なのだけれど)全力疾走の末、自室の前に辿り着いた僕は、鍵を差し込み、真鍮のドアノブを乱暴に回して扉を開いた。
両脇にベッド、窓際には書き物机が二台置かれたほぼ正方形の間取りの僕と彼女の相部屋に、人の姿は無かった。清掃のメイドが開けていったのだろう、半分開いた窓から、カラりとした涼しげなそよ風が中に吹き込み、白のレースのカーテンが寒々しくひらひらと揺れていた。もぬけの殻を前にして、膝から崩れ落ちそうになる。しかし今この場でしゃがみこんでしまったら、これ以上動けなくなることは必至だ。僕はなんとか身体の要求に抗い、絶え絶えの呼吸の中、次に取るべき行動を必死に思索した。
(帰ってない……?じゃあ、どこに行ったんだ?)
部屋を出て戸を閉めた。風が力添えをして、バタンッ、と大きな音が石造りの高い廊下に響き渡った。階段の方で、ピクリと動く人影が見えた。どうやら帰宅した生徒が音に驚いたらしい。僕はバレエダンサーのつま先歩きを真似て、努めてしなやかに階段の方へと急ぎ、「ごきげんよう」と怪訝な顔をする生徒に微笑みかけた。
「ミーシェ様!ごきげんよう!」
僕の姿を見るやいなや、彼女の顔はランプのようにパッと明るくなった。顔が売れているというのは総じて面倒なことの方が多いけれども、こういう時には便利である。僕は彼女の親愛なる視線を背に受けながら、スカートの裾を持ち上げて軽やかに階段を下りていった。
(彼女が行きそうなところ……中庭は無いだろうし……図書館?いや、裏庭か?)
彼女のこれまでの行動パターンを鑑みて、今日みたいな気候の良い日は裏庭にいるだろうと僕は予想した。いや、正確に記すならば、賭けた。二か所以上の場所を見て回るだけの猶予は最早残されていないからである。とはいえ、ありとあらゆる西洋文明の粋を切って張ってをしたこの学園の裏庭は、広大なイギリス式の庭園になっていて――ちなみに正門から校舎にかけては幾何学模様のフランス式庭園が広がり、がっしりとしたルネサンス様式の校舎と宿舎に挟まれた中庭は、軒が張り出した回廊に囲まれ、中央に泉が湧いた古代ローマかギリシア風、校舎の隣にはバロック式の壮麗な図書館、ちょっと離れた小丘の上にはいかめしい尖塔が目を引くゴシック様式の教会がそびえ立つ、というくらいにこの学院の建築は節操がなく、建築家の設計意図というものをぜひとも伺いたいものである――その様式通りに芝と樹木がうっそうと茂り、遠く一マイル先でもまだ庭が続いているといった具合であった。
人工的自然風景を一番よく見渡せる、校舎裏の高台に僕は立った。延々と遥か先まで広がる青々とした芝生は波打ち、落葉樹と低木は点々と群れを成し、風に揺れてざわめいていた。遠くの池のほとりには数人の人影が視認でき、水面はやや傾き出した日差しを反射して、魔術的にきらめいていた。少し靄がかかり、緑と橙が調和する浩々とした景色は、風景画家の描く古典世界に入り込んだかのようだった。
こんな広い庭園で一人の女性を見つけ出せなんて言われたら、普通は途方に暮れてしまうだろう。しかし僕は彼女のお気に入りの指定席を知っていた。それはアフタヌーンティーを楽しむ女生徒が時折テーブルを広げる池のほとりや、校舎からほど近い丘に立つ眺めの良い東屋ではなく、庭園の端の端にある、野生化を始めた木々に囲まれて周囲から隔絶された、廃墟寸前の場所にあった。庭師の手を離れ、敷地の内なのか外なのか判然としないあんな場所を知っているのは、僕と彼女を除けば、犬を連れて学内を廻る番兵ぐらいではなかろうか。
僕はもじもじと体をよじらせ、時折木に手をついて止まりながらも、そこに彼女がいることを心から願いながら、広葉樹の葉が薄い影を落とす雑木林を抜けていった。だいたい、十分くらい進んだだろうか。突然、林が途切れて、パッと太陽が再び頭上に現れた。森の中にポッカリ空いたへそ――彼女の園に辿り着いたのだ。ここにはドーム屋根のついた石造りの小さな東屋と丸テーブル、それに四つのチェアが捨て置かれている。がらんとした景色に突如現れる不自然な人工物は、古代の史跡なのか、それとも生徒のために用意された休憩所なのか、その正体を知る由もない。なにはともあれ、彼女はそこに座っていた――古ぼけた茶色のハードカバーの本を机の上に広げて。彼女の視線は紙面に注がれていて、来訪者にはまだ気が付いていないようだった。
「探したよ……ハナ……」
息を荒げて近づいてくる僕を睥睨し、彼女はため息を一つついた。一人の読書時間を邪魔したことが癪に障ったのだろうけど、僕の緊急性に免じてどうか許してほしいものだ。
「なんの用よ」
「僕が大慌てでここに来たってことは……わかるでしょ……?」
「はっきり言ってくれないとわからないんだけど」
僕が何を求めているかわかっているくせに、彼女は頬に垂れるブロンドの髪をかき上げて、机に肘をついてとぼけてみせた。
「わざわざ言わなくてもわかるだろ!?いつものアレだよ!アレ!」
「だからそれじゃあわからないって」
彼女は気だるそうに立ち上がり、東屋の前で陳情する僕の前にやって来た。こじんまりとした体格の彼女は腰に手を当て、小さな胸を反らせて僕のことを見上げた。
「それで?何がしたいんだって?」
「だからっ……そのっ……!」
ハナの涼しげな灰色の瞳に嗜虐の笑みがにじんでいることに気が付いた。マズい――と思ったのもつかの間、彼女は細い人差し指で、僕の脇腹をツンと突っついた。
「ひゃぐっぃ!?!」
不意打ちは卑怯だぞ!僕は脚を交差し、体をよじらせ、全てを無に帰そうとする生理をなんとか耐え忍んだ。全身から冷や汗が吹き出た。呼吸が一気におぼつかなくなっていた。
「だか、らっ!お願い……!」
「何を?」
目の前のブロンド娘は余裕綽々な笑みを浮かべている。僕がおのずから頭を下げない限り、彼女は絵に描かれた貴婦人がごとき微笑を向けたままはぐらかし続けるに違いない。
ああ、なんたる辱か。生徒間の評判が芳しくない彼女へ副会長の僕が情けなく請願する姿を万が一他の生徒に盗み見られでもすれば、その噂は新聞に書かれたゴシップ記事がごとき速さで瞬く間に広まって、僕がこれまで積み上げた校内での評判は一瞬にして奈落の底まで堕ちるだろう。明日から表を歩けないどころか、学校にいることすらできなくなる。
――副会長は倒錯的異常者だって
高い場所にいるほど落ちたときの衝撃が強いのは自然科学の理だ。これまでコツコツと積み上げてきたシモーヌからの信頼もすべからくご破算となる。そんなのはいやだ。でも、その選択をしない――つまりハナに頭を下げない――ということは、人生最大の汚点を心と体に刻み付けてしまうこととなる。そんな日にはもう人間失格、生きていけないだろう。それなら、それならば、彼女に跪拝して希う方がましであることは火を見るよりも明らかであるし、そもそも誰にも見られなければ問題がないのだから……
(あれ?)
僕は気付いてしまった。ここに他の誰かが来ることなんてほぼほぼありえないことだ。つまり、他人の目を気にする必要なんてないのだ。問題は、僕の自意識における名誉と、ハナとの関係のみである。となれば答えは明白だ。
(ハナはここまで計算して……?)
なんだかよくわからなくなってきた。考えるのはもう止めだ。単純明快、僕はただ言えばいい。彼女に請い願えばいい。失禁という最悪の汚辱を被りたくないのであれば――
「……お、おしっこさせて……下さい……」
白い髭をたっぷりたくわえたライヴォーネン教授は威厳高い声でそう言うと、分厚い本を閉じ、ドンという音を高い天井まで響かせた。毎度恒例、彼が授業を終える合図である。それを契機にして、女子生徒たちの頭が、静まっていた教室に雨後のキノコがごとくポコポコと立ち上がり、騒がしいさえずりをあちらこちらで始めるのもまた、恒例の光景であった。とはいえここは、高潔な血を引くうら若き子女たちが、それに相応しい教養を身につけるための寄宿制高等規範学校。読み書き計算を教えるだけの国民学校でも、身分の貴賤を問わず軍事教育を行う士官学校でもないし、出来の良い市民を啓蒙する基幹学校とも違う。聞こえてくるのは、やれ女がどうだとか、酒がどうだとか、あるいは、不況だ、不倫だ、失政だなんていう、誰もが喜ぶ下卑た話題ではなく、音楽、お花、恋愛小説、流行のドレスなど、毒にも薬にもならない話題ばかりである。そういえば先日、とある教会の高僧が新聞へ寄稿した――この学校で新聞を読んでいる生徒など僕ぐらいなものだろう――天国についての教育的論説を読んだ。なんで突然そんなことを思い出したのかというと、その中に書かれていた「永遠の春を謳歌する牧歌的な楽園」という文言が目の前の光景と重なったからである。その僧侶はたしか、「現世で犯した罪を教会で贖ったものにのみ死後の楽園への道が開かれる」だとかなんとか、けち臭い主張をまるで自分が神の代弁者であるかのように熱弁していたが、神のご意思を代弁しようなんて語り口はあまりにも自己陶酔が過ぎるし、そもそも楽園なんてものは、頭であれこれ想像しなくても、首府から一時間ばかり馬車を御した山村に築かれたこの女学院の中に既に存在しているのだから、あの僧侶の目もまだまだ暗いという訳だ。まったく聖職者っていうのは、死ぬことばかり考えているからいけない。
「ミーシェ、ちょっといいかしら?」
「ごきげんよう、シモーヌ。どうしたの?」
老教授の退屈な説法を聞き流しながら故郷の恋人リーゼのためにしたためていた恋文を四つ折りにしてノートに挟み、鞄の中へと仕舞いこんだとき、シモーヌ・ド・リンドー――生まれてこの方楽園の外を知らない女神――はウェーブがかったブリュネットの長髪と服の上からでもわかる豊満な胸を揺らしながら階段を上り、僕のところへとやって来た。
「今日の放課後、お時間はあるかしら?今度の会議の段取りについて相談したいことがあるのですけど……」
「ええ、もちろんいいわよ。なんせ交流会がらみだもんね、不安なのはわかるわ」
「ありがとうミーシェ、本当に、貴女だけが頼りですの」
僕より少し背の高い大貴族のご令嬢は、ライラックのような淑やかな笑みで僕を見た。けがれなき女神に笑顔を直接向けられてその虜にならずにいられるような男なんぞ、世界中探し回っても誰一人としていやしないだろう。僕だって、わざわざ女の恰好をして学校に侵入し、シモーヌと友愛関係を築いて、彼女とお兄様を結びつけるキューピットの使命に縛られないただ一人の男であったなら、許嫁のリーゼへの忠心とシモーヌの放つ光明の間に心を病み、結果、国王殺しを企てた不遜な男の末路がごとく、心が八つ裂きになっていたに違いない。しかし、僕が彼女に恋をすることはない。彼女と恋をしなければならないのは僕ではなくお兄様であるという堅い信念が、僕を思いとどまらせていたからである。
「ではいきましょう?ミーシェ」
「あ、ちょっと待って」
「?」
シモーヌが差し伸べた手を僕は取らずに、少し斜め上を向いた。
「その……ちょっと用を思い出したの。すぐに済ませるから、先に生徒会室に行って待っていてもらっていいかしら?」
「あら、そうでしたの」彼女は残念そうに眉頭を上げる。「分かりましたわ。先に生徒会室に行って、お茶を入れて待っていますわね」
彼女は両手でカバンの取っ手を大事そうに握り、小さな歩幅で講義室の階段を下りて行った。するとどうだろう、花に集まる蝶のように、彼女の周りへ一人、また一人と学友が近づき、教室を出る後姿を見送るときにはもう、十人ほどの生徒を引き連れる大所帯となっていた。シモーヌの人徳か、あるいは、単に彼女の貴い家柄がそうさせているのかは、さして問題ではない。重要なのは、彼女に引きつけられているあの有象無象の誰よりも、生徒会の側近として、彼女から相当の信頼を得ているのはこの僕であるという事実だ。シモーヌが戸口でこちらに視線を送り、ゆっくりと手を振った。僕もそれに応じる。こんな何気ないやり取りも僕だけに許された特権のような気がして、生ぬるい笑みが腹の底から湧いてくるのであった。
いやいや、悦に浸っている場合ではない。シモーヌが出て行ったことを確認すると、僕は扇形に広がる講義室を見回して、用のある人物を探した。が、見つからない。まだ講義が終わって間もなく、ライヴォーネン教授も教壇の上で、持ち込んだ鈍器のような本を片づけている最中だというのに、目当ての彼女は大多数の女生徒のようにだらだらと教室で歓談を続けるでもなく、既にここから消えていた。シモーヌの取り巻きに紛れていなかったことはもちろん確認済みだ。
(もう部屋に戻ったのか……?)
僕はカバンを片手に、もう一方でロングスカートの裾をつまみ上げて、トントントンと小走りで階段を下り、講義室から退出した。
「あのっ!ミーシェ様!」
廊下に出るとすぐに誰かに呼び止められた。出待ちでもしていたのだろうか、背の低い下級生の三人組が、頬を染めながら僕の顔をもじもじと見つめていた。こちらは急いでいるというのに、まったくタイミングが悪い。とはいえ彼女たちをぞんざいに扱ってしまっては、生徒会副会長としての威信にも関わってくる。それゆえ僕はにこやかなマスクを嵌めて焦りを隠匿し、おおらかな上級生の顔で彼女たちの呼びかけに応えた。
「こんにちは。えっと……君たちは?」
「あのっ……!」最初に僕に声をかけた黒髪の娘が一歩前に出た。「こ、これ、受け取ってください!その、お、お返事もらえると嬉しいです!」
彼女は封のされていない純白の便箋を僕に突き出した。
(うーむ、またコレか……)
僕が生徒会員として全生徒の注目を集めるようになって以来、頻繁に受け取るようになった私書だ。きっと今回も、僕のことを讃える頌詩か恋の散文がしたためられているに違いない。コイツの堪らないところは、子女たちのたくましい空想力によって肥大化した、僕が思う僕という存在からは似ても似つかない自分の姿を直視しなければならないことに尽きる。褒められることはもちろん嫌ではないけれど、胃がもたれてしまうほどの甘ったるい調で綴られる、僕ではない「ミーシェ・ラムズフィールド」の人物評を聞かされるのは、辱めというか、もう満腹だと言っているのに、かまわずどんどん料理が運ばれてきて、完食することを強要される責め苦を受けているかのようである。しかもこの種の手紙は返事をすることがマナーだ。読むに堪えない空想奇譚に、上級生として、生徒会副会長として、実直な言葉で感謝を述べつつ、やんわりとお断りをほのめかす返信を考えるというのは、相当に骨が折れる。長く外交に携わる経験豊富な高級文官でさえ辟易する作業に違いない。
「ふふふっ、ありがとう」そんな憂鬱をけしの実ほども出さずに、僕は便箋をつまみ上げ、胸ポケットにしまった。「ごめんなさい。今はちょっと急いでいるの。それじゃあ」
僕は彼女たちを軽くあしらい、その横を抜けていった。背後からはキャーキャーと甲高い声が聞こえてきた。君たちも上級生になって渡される身になったらわかるだろう、いかに思いを伝えることが楽で、むしろそれを受け止めることの方が何倍も大変だということを。とはいえ後輩たちの未来に思いを馳せている猶予はない。一刻も早く彼女を探さなければ……。
僕は校舎を出て、中庭を抜け、対面にある宿舎へと向かった。僕は腕をしっかりと振って、人目をはばからず大理石の階段をドタドタと駆け上り――淑女にあるまじき行為だ――三階にある自室へと急いだ。こんな姿を寮母に見られたら「恥ずかしくないのですか」とお説教を食らって大幅に時間を取られてしまうだろう。当然、他の生徒に見られるのも好ましいことではない。生まれてこの方、野を駆けることすらしたことのない細君がそこかしこにいるこの学園だ、大股で階段を駆け上っていく鬼気迫る表情の副会長の姿なんて見た日には卒倒してしまうかもしれないぞ。しかし今はそんな些細なことに構っている暇はなかった。危機が迫っているのだ。幸運なことに、寮で人に出くわすことはなかった。男勝りの(実際には男なのだけれど)全力疾走の末、自室の前に辿り着いた僕は、鍵を差し込み、真鍮のドアノブを乱暴に回して扉を開いた。
両脇にベッド、窓際には書き物机が二台置かれたほぼ正方形の間取りの僕と彼女の相部屋に、人の姿は無かった。清掃のメイドが開けていったのだろう、半分開いた窓から、カラりとした涼しげなそよ風が中に吹き込み、白のレースのカーテンが寒々しくひらひらと揺れていた。もぬけの殻を前にして、膝から崩れ落ちそうになる。しかし今この場でしゃがみこんでしまったら、これ以上動けなくなることは必至だ。僕はなんとか身体の要求に抗い、絶え絶えの呼吸の中、次に取るべき行動を必死に思索した。
(帰ってない……?じゃあ、どこに行ったんだ?)
部屋を出て戸を閉めた。風が力添えをして、バタンッ、と大きな音が石造りの高い廊下に響き渡った。階段の方で、ピクリと動く人影が見えた。どうやら帰宅した生徒が音に驚いたらしい。僕はバレエダンサーのつま先歩きを真似て、努めてしなやかに階段の方へと急ぎ、「ごきげんよう」と怪訝な顔をする生徒に微笑みかけた。
「ミーシェ様!ごきげんよう!」
僕の姿を見るやいなや、彼女の顔はランプのようにパッと明るくなった。顔が売れているというのは総じて面倒なことの方が多いけれども、こういう時には便利である。僕は彼女の親愛なる視線を背に受けながら、スカートの裾を持ち上げて軽やかに階段を下りていった。
(彼女が行きそうなところ……中庭は無いだろうし……図書館?いや、裏庭か?)
彼女のこれまでの行動パターンを鑑みて、今日みたいな気候の良い日は裏庭にいるだろうと僕は予想した。いや、正確に記すならば、賭けた。二か所以上の場所を見て回るだけの猶予は最早残されていないからである。とはいえ、ありとあらゆる西洋文明の粋を切って張ってをしたこの学園の裏庭は、広大なイギリス式の庭園になっていて――ちなみに正門から校舎にかけては幾何学模様のフランス式庭園が広がり、がっしりとしたルネサンス様式の校舎と宿舎に挟まれた中庭は、軒が張り出した回廊に囲まれ、中央に泉が湧いた古代ローマかギリシア風、校舎の隣にはバロック式の壮麗な図書館、ちょっと離れた小丘の上にはいかめしい尖塔が目を引くゴシック様式の教会がそびえ立つ、というくらいにこの学院の建築は節操がなく、建築家の設計意図というものをぜひとも伺いたいものである――その様式通りに芝と樹木がうっそうと茂り、遠く一マイル先でもまだ庭が続いているといった具合であった。
人工的自然風景を一番よく見渡せる、校舎裏の高台に僕は立った。延々と遥か先まで広がる青々とした芝生は波打ち、落葉樹と低木は点々と群れを成し、風に揺れてざわめいていた。遠くの池のほとりには数人の人影が視認でき、水面はやや傾き出した日差しを反射して、魔術的にきらめいていた。少し靄がかかり、緑と橙が調和する浩々とした景色は、風景画家の描く古典世界に入り込んだかのようだった。
こんな広い庭園で一人の女性を見つけ出せなんて言われたら、普通は途方に暮れてしまうだろう。しかし僕は彼女のお気に入りの指定席を知っていた。それはアフタヌーンティーを楽しむ女生徒が時折テーブルを広げる池のほとりや、校舎からほど近い丘に立つ眺めの良い東屋ではなく、庭園の端の端にある、野生化を始めた木々に囲まれて周囲から隔絶された、廃墟寸前の場所にあった。庭師の手を離れ、敷地の内なのか外なのか判然としないあんな場所を知っているのは、僕と彼女を除けば、犬を連れて学内を廻る番兵ぐらいではなかろうか。
僕はもじもじと体をよじらせ、時折木に手をついて止まりながらも、そこに彼女がいることを心から願いながら、広葉樹の葉が薄い影を落とす雑木林を抜けていった。だいたい、十分くらい進んだだろうか。突然、林が途切れて、パッと太陽が再び頭上に現れた。森の中にポッカリ空いたへそ――彼女の園に辿り着いたのだ。ここにはドーム屋根のついた石造りの小さな東屋と丸テーブル、それに四つのチェアが捨て置かれている。がらんとした景色に突如現れる不自然な人工物は、古代の史跡なのか、それとも生徒のために用意された休憩所なのか、その正体を知る由もない。なにはともあれ、彼女はそこに座っていた――古ぼけた茶色のハードカバーの本を机の上に広げて。彼女の視線は紙面に注がれていて、来訪者にはまだ気が付いていないようだった。
「探したよ……ハナ……」
息を荒げて近づいてくる僕を睥睨し、彼女はため息を一つついた。一人の読書時間を邪魔したことが癪に障ったのだろうけど、僕の緊急性に免じてどうか許してほしいものだ。
「なんの用よ」
「僕が大慌てでここに来たってことは……わかるでしょ……?」
「はっきり言ってくれないとわからないんだけど」
僕が何を求めているかわかっているくせに、彼女は頬に垂れるブロンドの髪をかき上げて、机に肘をついてとぼけてみせた。
「わざわざ言わなくてもわかるだろ!?いつものアレだよ!アレ!」
「だからそれじゃあわからないって」
彼女は気だるそうに立ち上がり、東屋の前で陳情する僕の前にやって来た。こじんまりとした体格の彼女は腰に手を当て、小さな胸を反らせて僕のことを見上げた。
「それで?何がしたいんだって?」
「だからっ……そのっ……!」
ハナの涼しげな灰色の瞳に嗜虐の笑みがにじんでいることに気が付いた。マズい――と思ったのもつかの間、彼女は細い人差し指で、僕の脇腹をツンと突っついた。
「ひゃぐっぃ!?!」
不意打ちは卑怯だぞ!僕は脚を交差し、体をよじらせ、全てを無に帰そうとする生理をなんとか耐え忍んだ。全身から冷や汗が吹き出た。呼吸が一気におぼつかなくなっていた。
「だか、らっ!お願い……!」
「何を?」
目の前のブロンド娘は余裕綽々な笑みを浮かべている。僕がおのずから頭を下げない限り、彼女は絵に描かれた貴婦人がごとき微笑を向けたままはぐらかし続けるに違いない。
ああ、なんたる辱か。生徒間の評判が芳しくない彼女へ副会長の僕が情けなく請願する姿を万が一他の生徒に盗み見られでもすれば、その噂は新聞に書かれたゴシップ記事がごとき速さで瞬く間に広まって、僕がこれまで積み上げた校内での評判は一瞬にして奈落の底まで堕ちるだろう。明日から表を歩けないどころか、学校にいることすらできなくなる。
――副会長は倒錯的異常者だって
高い場所にいるほど落ちたときの衝撃が強いのは自然科学の理だ。これまでコツコツと積み上げてきたシモーヌからの信頼もすべからくご破算となる。そんなのはいやだ。でも、その選択をしない――つまりハナに頭を下げない――ということは、人生最大の汚点を心と体に刻み付けてしまうこととなる。そんな日にはもう人間失格、生きていけないだろう。それなら、それならば、彼女に跪拝して希う方がましであることは火を見るよりも明らかであるし、そもそも誰にも見られなければ問題がないのだから……
(あれ?)
僕は気付いてしまった。ここに他の誰かが来ることなんてほぼほぼありえないことだ。つまり、他人の目を気にする必要なんてないのだ。問題は、僕の自意識における名誉と、ハナとの関係のみである。となれば答えは明白だ。
(ハナはここまで計算して……?)
なんだかよくわからなくなってきた。考えるのはもう止めだ。単純明快、僕はただ言えばいい。彼女に請い願えばいい。失禁という最悪の汚辱を被りたくないのであれば――
「……お、おしっこさせて……下さい……」
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