金色のネコと初恋修行!

皐月もも

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Act.2-1 踊るネコ

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「痛い、痛い!」

 バラルディ診療所の研修室に、アリーチェの叫び声が響く。

「痛いってば!!」

 ドスッ、シャッ、ゴッ――

「ぐっ」

 痛みに耐えられなかったアリーチェに突き飛ばされ、ローラーのついた椅子は勢い良く走り出し、壁にぶつかって、その衝撃でルーチェは椅子から落ちた。
 綺麗な星が見える――雨の日の、昼間に。

「い、痛い……」
「にゃぅん」

 ルーチェは強打した頭を撫でてから、パントマイムみたいに壁に手をペタペタとついて立ち上がった。
 机の上で2人の様子を見ていたオロは、憐れみのこもった琥珀色の瞳でルーチェを映している。

「もう! 先週からちっとも進歩してないじゃない! こんなに痛いのを我慢して治療を受けるなら、いっそ安らかに眠りたくなるわよ!」

 アリーチェは両手を腰に当てて、大きな声を出した。診療所で発するには些か――いや、かなり――不適切な言葉だと思われる。
 ルーチェは妹のアリーチェに無理矢理頼み込み、鍛錬に付き合ってもらっているのだ。しかし、この通りうまくいっていない。

「もう、だから嫌だって言ったのよ! あぁ……こんなに赤くなっちゃった」

 アリーチェは先ほどまでルーチェが魔法を施していた部分をさすりつつ、文句を言っている。ルーチェは何も言えずにうなだれた。
 ルーチェが13回目の卒業試験に受かって2ヶ月ちょっと。自宅の1階にある診療所での研修を始めたはいいが、神様はそう簡単にルーチェをクラドールにはしてくれないらしい。
 研修は医療書類の整理など雑用から始まり、薬の調合、診察、魔法治療トラッタメントにアフターケア……やることはたくさんある。ルーチェは所謂デスクワークというもの――書類整理やカルテ作成――は得意だった。薬の調合も特に問題はない。
 だが……

「あのね、魔法治療をするときはチャクラの波長を弱めなきゃ痛いんだってば! 学校で習ったでしょ!?」
「わ、わかってるよ……」

 今日もまた、養成学校2年目の妹に同じ注意を受ける。
 人間は、魔法を使うときに“気”というものを使う。医療用語では“チャクラ”と呼ばれるそれを媒介として魔法治療が行われるのだが、その波長――振れ幅のようなもの――をできるだけ小さくしないと、刺激が強くなってしまって痛いのだ。
 元々チャクラの波長が弱くて、あまり意識せずに魔法治療をうまくこなせる者もいる。しかし、ルーチェはどうやら波長が強い方らしい。
 魔法治療習得に時間がかかったのもおそらくそのためだ。とにかく傷や病を“治す”ということに集中して、力任せに魔法を使っていたせいで、逆に傷口を広げる結果となっていた。
 とりあえず、傷が治せるまでには波長の調整ができるようになったらしいが、まだ人間には刺激が強過ぎるのだろう。

「全然わかってないわよ!」

 アリーチェは鼻息も荒く、怒鳴り散らす。その剣幕に、ルーチェはビクッと身体を跳ねさせた。

「もう! いくら学校では模型を使うからって、こんなのありえない!」

 学校と研修の最大の違いは、物から人間へと魔法を施す対象が変わること。物は痛いとは言わない。たとえ激痛だったとしても……

「お姉ちゃんの実験体になるのは、もう嫌よ! 今日のお給料は、来週1週間のお風呂掃除当番交代だからね!」
「そ、そんなぁ……」

 ルーチェの担当は診療所の清掃なのに。お風呂場だけのアリーチェよりも労働量は多いのに。更に増やすというのか。それも1週間も!

「にゃー」
「はい、決まり」
「うぅぅ」

 オロがアリーチェに賛成し、ルーチェの意に反して民主主義が成り立った。すっかりバラルディ家の一員となったオロは、むしろルーチェより決定権を持っているかもしれない。
 鶴の一声ならぬ、ネコの一鳴きである。キラキラ光って、もふもふ触り心地も良いオロに、家族はメロメロなのだ。
 ……理不尽極まりない。

「もう、またなの? 2人ともうるさいわよ。診療所では静かにしてちょうだい。アリーチェ、貴女は言葉にも気をつけなさい」

 騒ぎを聞きつけてやってきたブリジッタは、仁王立ちのアリーチェと壁際でシュンとしているルーチェを見て、ため息をついた。

「だって、見てよ! こんなに腫れちゃったのよ」
「あらあら……これじゃ、魔法治療の実習再開はまだまだ先になりそうね」

 アリーチェの真っ赤に腫れた腕を見て、ブリジッタはもう1度ため息をついた。彼女が呪文を唱えるとアリーチェの腕の赤みはすぐに引いて、元の白い肌に戻っていく。

「これじゃあ、学校の課外授業と変わらないよ……」

 ルーチェは肩を落として呟いた。
 養成学校では1週間ほど診療所の手伝いをするという実習があり、カルテの作り方などを現場で実際に学ぶことができる。もちろん、魔法治療はやらせてもらえない。
 対して、卒業試験合格は所謂“仮免許”である。クラドールの監督下であれば魔法治療も施すことができる。ルーチェも研修を始めてからすぐに実習をやっていた。
 ところが、最初の患者さん――階段から足を滑らせたという近所のおばさんだったのだけれど――に魔法治療をしたとき、あまりの痛みにおばさんが意識を飛ばすというありえない事態を引き起こしてしまった。
 それ以来、ルーチェには禁止令が出され、彼女の研修はほとんどがデスクワークである。

「さぁ、アリーチェ。これでいいでしょう? 貴女は宿題をしなさい。ルーチェは受付のお手伝い」

 アリーチェへの治療を終えて、ブリジッタが言う。

「はーい」

 2人は同じ返事をしたけれど、ルーチェの声は低く沈んでいた。

***

その日の夜。

「『魔法治療トラッタメントはとても繊細な技術です。集中力を切らすことのないように注意しましょう。チャクラは色を濃くするように練り、そして、静かにゆっくりと患者さんに流し込んでいきます――』うぅぅぅ」

 ルーチェは唸りながら枕に顔を埋めた。ベッドにうつ伏せになって読んでいた教科書を閉じて床に投げ捨てる。

「にゃぁ」

 オロがそれを見てルーチェを咎めるみたいな声を出したけれど、ルーチェは無視をした。
 “色を濃く”とか、“静かにゆっくり”なんて言うのは簡単だ。そんな曖昧な説明でわかる方がおかしいではないか。大体……

「色なんてみんな同じじゃないのっ――ぶっ!?」

 ルーチェはバッとベッドの上に座って枕を壁に投げつけた。そうしたら、すぐ目の前の壁に弾かれた枕が顔に直撃する。
 今日は踏んだり蹴ったりだ。

「もう、何よ!」
「にゃう!」

 ルーチェが枕に八つ当たりをしていると、オロがぴょんとベッドに飛び乗ってきて枕を庇うようにルーチェと向かい合った。

「にゃっ、にゃっ」

 オロは枕の上に転がって、しきりに4本の足を動かしている。

「ちょっと、オロ。今は貴方のダンスを見る気分じゃないの」
「にゃぁぁ」

 ルーチェの言葉にオロは怒って低く鳴いた。そして――ガプッ。

「痛い! ちょ、ちょっと離して! 痛い! ビリビリする!」

 オロがルーチェの人差し指に噛み付いてきて、ルーチェは叫んだ。電流が走るのに似た痛みが走って、涙目になる。

「わ、わかった! 踊ってたわけじゃないんでしょ!」
「にゃうん」

 オロは、そうだと言わんばかりにペロリと自分の噛み痕を舐めると、ベッド横の勉強机に乗り移った。

「もう……」

 ルーチェは血が滲んでいる右手の人差し指に左手を当てて魔法治療の呪文を唱えた。特に痛みもなく、傷が消えていく。自分の身体を流れる波長には慣れているからか、自分への治療は何も問題はない。
 むしろ、これが痛いなどと……信じられないとさえ思う。自分でわからない痛みを理解しろというのは、なかなか難しい。

「にゃう~! にゃっ」

 と、机の上でカリカリと音がしてルーチェは顔を上げた。

「あぁっ!? ダメ!」
「にゃぁ」

 机に並べてある本の中から、オロが前足で取り出そうとしていたのは、ルーチェのお気に入りの海の写真集。慌ててそれを取り上げて頭の上に乗せる。

「これは大切なものなの!」
「にゃー! にゃー!」

 これは、YESだと思われる鳴き方――それだと言わんばかりに鳴くオロは、前足を浮かせてバタバタさせた。
 写真集を見たいようだ。
 ルーチェはため息をついて、ベッドに腰掛けて膝の上でそれを広げた。視線で呼ぶと、オロは満足した様子で喉をゴロゴロ鳴らし、ルーチェの隣に座る。
 ルーチェはその頭をそっと撫でてから表紙をめくった。写真集には、マーレ王国の海の風景がたくさん載っている。去年の誕生日に買ってもらったものだ。

「これが見たかったの?」
「にゃー」
「そっか……」

 そういえば最近、研修と自主鍛錬でこの写真集を開いていなかった。
 オロの返事に、ルーチェは彼を抱き上げて自分の腿に乗せた。オロはルーチェを見上げ、その琥珀色の瞳にルーチェを写す。
 じっと見つめられると、なんだかくすぐったい。ルーチェは湧き上がった不思議な気持ちを誤魔化すため、オロの頭をぐりぐりと撫でて視線を写真集へ戻した。

「ほら、見るでしょ?」

 ルーチェはゆっくりとページを捲り、いろいろな表情の海を眺めた。オロも写真集に視線を戻し、熱心に写真を見始める。
 晴れの日の海、曇りの日の海、雨の日の海。
 朝の海、昼の海、夕方、夜……
 海の中の写真もあるし、海岸から撮った海、高台から撮った海、船の上、上空からの写真も――…

「これ、1番好きなの」

 ルーチェは上空から撮影された海の写真を指差した。

「にゃー」
「グラデーションが綺麗でしょ?」

 ルーチェがよく行く海岸から広がる、海の中が透けて見えるかのような水色。それが、少しずつ、少しずつ……沖へ向かって本当にわずかに色を変えていくのだ。 深い、青色へと。その中には緑色が混ざったような不思議で幻想的な色や太陽の光を浴びて白く光るところもあって……
 見たい、と思った。

「明日……海、行こっか?」
「にゃー!」

 オロの背中を撫でながら言うと、オロは嬉しそうに鳴く。

「じゃあ、明日のお昼休みにね?」
「にゃー」

 元気の良い返事。ルーチェはふふっと笑い、オロの温かい身体を抱いてベッドにもぐった。
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