溺愛処方にご用心

皐月もも

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1巻

1-1

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 ――どうしてこんなことになっているのだろう?
 エミリアのそんな疑問は、次々と生み出される快楽に流されてしまう。愛しい夫の指先に肌をなぞられ、口付けを落される度に「ダメ」という二文字が薄れていく。
 頭の天辺てっぺんから足の先まで、すべてが性感帯になり、空気さえいやらしくまとわりつくように感じた。
 ふと、テーブルに置かれた小瓶が視界に入り、この行為の始まりを思い出す。
 エミリアは夫が試作した薬を飲んで、その効果を確かめる手伝いをするはずだった。
 熱心な頼みを断りきれず、紅茶に入れて飲んだところ……身体がじわじわと火照ほてり、触れられた箇所からしびれにも似た甘い刺激が生まれ、鼻にかかった嬌声きょうせいれてしまったのだ。
 エミリアにみだらな反応が出たことで、この薬は失敗作と判明した。本来なら、すぐに中和して改善策を講じなければならない。
 ――それなのに、なぜ?

「こんなにれるのは初めてじゃない? ああ、またこぼれてきた」
「あ! ん……っ」

 大きく開いた足の間で卑猥ひわいな言葉を口にされ、エミリアの身体はふるっと震えた。
 恥ずかしくて身をよじったつもりだったのに、彼にその先をねだるように腰を揺らしてしまう。
 そんな反応を楽しんでいるらしい夫は、クスッと笑って蜜がこぼれる泉に口付ける。ぬるりと生温かい感触が秘所をい回り、エミリアはった。

「はぁ……っ、あ、ああ……」

 跳ねる腰を押さえつける強引な手とは対照的に、優しく舌でなぶられ、愉悦ゆえつを追うことしか考えられなくなっていく。
 気持ちよくて、どうにかなってしまいそうだった。

「ああ、あっ――」

 一瞬、頭の中が真っ白になると、すぐに身体が痙攣けいれんし、汗が噴き出す。
 ズボンをくつろげる音が、遠くで聞こえた。

「……もう少し、いろいろしたかったけど……我慢出来なくなっちゃった……」

 かすれた声が耳に届くと同時に、エミリアにおおいかぶさる大きな身体。

「や、待って……今、だめぇ……」

 あっと思ったときには、遅かった。
 いつもは優しくエミリアを求める夫が、性急に彼女の中へたかぶりを沈めた。快楽に染まる思考の片隅で、エミリアは再び誰にともなく問う。
 どうしてこうなったのだろう、と。
 そして、激しくみだらな情事のきっかけとなった、薬の小瓶を視界の端に映した。
 ああ、そうだ。これは、あの惚れ薬を作る依頼が舞い込んだせいだ。あれから夫は研究に夢中になり、このみだらな薬を作り出した。
 その発端ほったんは、領主の娘が診療所を訪れた、一週間ほど前のこと――


   ***


 まぶしく降りそそぐ太陽の光、暖かな風とそれに揺られる小さな花たち、小鳥のさえずり……窓から吹き込む春の匂いに、エミリア・ファネリは頬をゆるめ、大きく息を吸い込んだ。
 この町に引っ越してきた頃は、まだ肌寒い日が多かったのに、風は思ったより早く春を運んできてくれた。そんな風に感じるのは、きっと生活が充実しているからだろう。
 エミリアは鼻歌を歌いながら、手にしていたほうきを掃除道具入れへ片付けた。それから階段を上がり、生活スペースにしている二階へ向かう。

「アルー? そろそろ診察の時間だよ」
「うん。今、行くよ」

 エミリアがリビングに顔を出すと、アルベルトがちょうど白衣を手に取るところだった。彼は、穏やかな微笑みが素敵なエミリアの夫である。
 柔らかなダークブラウンの髪はきっちり整えられていて、清潔感がただよう。似合いの黒縁くろぶち眼鏡めがねは彼の知性を表しているようで、エミリアはとても好きだ。
 彼女がアルベルトと、ラーゴという小さな田舎町いなかまちへ引っ越してきたのは、一ヶ月ほど前のこと。
 結婚を機にここへやって来た二人は、ファネリ診療所を開業し、クラドールとして働いている。
 クラドールとは、魔法で病気や怪我を治す職業だ。
 このマーレ王国が位置する大陸には、他に三つの国が存在し、それぞれ違う種類の魔法を使う人々が住んでいる。
 マーレ王国は水属性をあやつる民の国で、その魔法の性質は繊細せんさいな医療行為に向いており、優秀なクラドールが育つことで有名だ。
 彼らの治癒ちゆ魔法は他国でも重宝されている。
 そのおかげで、マーレ王国は大陸で一番小さな国ではあるものの、優秀なクラドールを派遣出来るという利点を活かし、他国と良好な関係を築いていた。
 アルベルトとエミリアは、マーレ王国の中心地で最先端の魔法治療を学び、クラドールとなった。

「エミリア、どうしたの?」

 アルベルトは、ぼうっと自分を見つめたまま動かないエミリアに気づき、首を傾げる。

「え! あ、ううん……その……」

 彼はエミリアの一つ年上で、彼女より早く正規のクラドールとして働いていた。その上、エミリアが研修を終えてすぐに結婚したので、恋人だった期間は長かったけれど、エミリアが彼の働く姿を間近で見られるようになったのは、新婚生活が始まってからなのだ。
 そのせいか、クラドールとして働くアルベルトは新鮮で、いまだにドキドキしてしまう。毎日会っている夫に見蕩みとれていたなんて恥ずかしくて、エミリアは慌てて首を横に振る。

「な、何でもないの……」

 エミリアがもじもじしつつ視線を上げると、彼はクスッと笑って近づいてきた。

「また恥ずかしがってるの?」
「だって……そ、それは……やっぱり、アルのクラドール姿はかっこいいなって……白衣も似合ってるから」

 今日のアルベルトのよそおいは、洗い立ての真っ白なシャツに、グレーのズボンとベスト。そこに白衣を羽織はおれば、完璧なクラドールである。
 朝からさわやかなアルベルト……本当に、ため息が出るくらいかっこいい。
 ただでさえエミリアは、落ち着きがあって優しく頼れるアルベルトが大好きだというのに。

「それは嬉しいな。エミリアも似合ってるよ。可愛いクラドールさん」
「も、もう……!」

 アルベルトのからかい交じりの言葉に、エミリアは彼の腕を軽く叩いた。それが照れ隠しだとわかっている彼は、クスクス笑って彼女の手を取る。
 彼はそのまま階下の診療所へ向かおうとしたが、何か思い出したらしく、立ち止まった。

「どうしたの、アル?」
「ハンドクリームが出来たんだよ」

 アルベルトはそう言いつつ、握っていた妻の手を口元に持っていき、ちゅっと甲にキスをする。
 そして手を離して、ダイニングルームのテーブルに置いてあった小さなかごを持って戻ってきた。
 エミリアの手荒れに夫が気づいたのは一週間ほど前だったろうか。よく彼女の手に触れる彼は、妻の肌の感触がほんの少し違うだけで心配してくれる。
 エミリアが自分で作ったハンドクリームを愛用していることは、アルベルトも知っていた。だが、最近は治りが遅いのではないかと、ハンドクリームの処方までしてくれたというわけだ。

「はい、これ。使ってみて。保湿力を重視して作ったんだ」
「ありがとう!」

 アルベルトの薬はよく効く。学生時代からずっと彼と一緒にいたエミリアはそのことを十分理解していた。これで、乾燥肌の悩みは解消されそうだ。

「あと、こっちは香りをつけてみたよ。エミリアが育てているハーブを少しもらったけどね」

 エミリアの手にクリームの入った小瓶を置き、アルベルトはかごから違う小瓶を取り出す。彼女に見せたそれをかごに戻すと、また違う小瓶を手にした。

「香りは何種類か作ってみたから、お気に入りを教えて。今度、それをたくさん作ってあげる。あ、こっちは防水タイプ。汗にも強いし、食器を洗うときでも使えるよ。あと――」
「ア、アル、ちょっと待って。一体、いくつ作ったの?」

 次から次へとかごの中から小瓶を取り出す夫に、苦笑いがれる。

「ん? 十種類くらいかなぁ。香りをつけるのが楽しくて、思ったより増えちゃった」

 そう言った本人は楽しそうにかごを傾けて、中身をエミリアに見せてくれた。小さなかごはたくさんの小瓶でぎゅうぎゅう詰めだ。
 おそらく、薬としての効果とエミリアの好みや生活を考えて作ってくれたのだろうけれど、それにしても作りすぎだ。一つずつの量は少ないが、すぐに使いきれる量ではない。
 ハンドクリームを作ってもらえることになったとき、エミリアは彼の作るものなら間違いないと楽しみにしていた。それに、彼が研究室にもるのは日常茶飯事なので、あまり気に留めていなかったが……
 熱中するとどこまでも突き詰めていく夫の研究だましいには、危うさを覚えてしまう。複雑な気持ちだった。
 とはいえ、自分のことを気遣ってくれるのが嬉しいのは本当だ。

「あ、ありがとう」

 エミリアはフッと肩の力を抜いて笑う。
 頼れる夫の、子供のような探究心。結局、エミリアはそんなところも含めて彼が大好きなのだ。

「どういたしまして。それじゃあ、もう行こう。診療時間に遅れてしまうよ」

 アルベルトも目を細めて微笑み、かごを元の場所へ戻すと、再びエミリアの手を取った。

「うん。えっと、今日はマルコくんが再診に来ているよ。初診の患者さんは二人……だから、今のところ診察希望は三人。お薬の追加をもらいに来る人がいたら私が対応するね」

 二人で階段を下りながら、エミリアが今日のスケジュールを伝える。

「うちに来てくれる患者さんも増えたし、この町の人は皆、親切でよかったね」

 診療所に来る人がいるというのは、それだけ怪我や病気をする人がいるということなので、素直に喜びづらい。
 けれど、困ったときにエミリアやアルベルトを訪ねてくれるということは、つまり、町の人々が二人を信頼してくれているということだ。エミリアはそれがとても嬉しかった。

「そうだね。エミリアが気に入ってよかったよ」

 最初、エミリアは生活に少々不便な田舎町いなかまちへの引っ越しに不安を抱いていた。アルベルトと一緒とはいえ、知り合いも全くいなかったからだ。
 しかし、クラドール養成学校のあった王都でせわしない日々を送っていた二人にとって、のんびりとした生活は憧れでもあった。何より、人々の役に立ちたいという思いはアルベルトもエミリアも同じ。
 まだ診療所がない町でクラドールとして医療行為に従事しようということで、二人の意見はまとまった。
 そして、エミリアがクラドールの国家試験に合格してすぐ結婚し、ラーゴでの新婚生活をスタートさせたのだ。つまり、エミリアにとってラーゴでの生活は、妻としてもクラドールとしても初めてのことばかりの新生活だった。
 しかし、エミリアの不安を余所よそに、町の人々は二人を歓迎してくれて、とても平穏な日々を送っている。
 普段の生活は都会に比べたら不便だけれど、時間がゆっくり流れ心に余裕が出来た。市場は少し遠いが、野菜や果物は新鮮だし、味も文句ない。自然もいっぱいで、診療所の近くに綺麗な湖があるのも、エミリアのお気に入りだった。

「それじゃあ、マルコくんを呼ぶね」

 診察室へ入り、アルベルトが机のカルテにザッと目を通したのを確認してから、エミリアは声をかける。

「うん、よろしく」

 アルベルトが頷いたので、エミリアは仕切りのカーテンを開け、待合室へ出た。

「皆さん、おはようございます。今から診察を始めます。順番に名前を呼びますので、もう少し待っていてくださいね。最初はマルコくん、どうぞ」
「わぁ! 僕、一番だ!」

 呼ばれた少年がパッと立ち上がって、笑顔でエミリアの方へ小走りに近づいてくる。

「エミリアせんせー! 僕ね、もうね、元気なんだよ。だから、今日はアルベルト先生にお礼を言いに来たんだ!」
「マルコくん、元気になってよかったね。でも、診療所では走っちゃダメだよ。他の患者さんもいるからね」

 エミリアはしゃがんでマルコと視線の高さを合わせ、彼の頭をでて言い聞かせた。
 マルコはくすぐったそうに笑い、「はい」と素直に返事をする。

「エミリア先生、すみません……何だか風邪を引く前よりも元気になってしまったようで」

 マルコの母親が困り笑いでエミリアに頭を下げた。

「いいえ、元気なのはいいことですから! さぁ、中へどうぞ」

 エミリアは仕切りのカーテンを片手で持ち上げ、二人を診察室へうながした。

「やぁ、マルコ。もう熱は下がったかな? 少しお腹を触らせてね」
「はーい」

 アルベルトが眼鏡めがねの奥の目を細め、椅子に座ったマルコに微笑む。マルコは彼の指示に従って、服の裾をまくってお腹を見せた。

「ちょっと冷たいよ」

 そう前置きして、アルベルトは優しくお腹に触れ始める。魔法を使って炎症などの異変を察知する診察だ。手のひらから微弱な水の波動を出すため、触れられるとひんやりする。

「よし、大丈夫だね。熱もないし……薬もちゃんと全部飲んだ?」
「うん、全部飲んだ! あのね、あのね! アルベルト先生の薬、甘くて美味しかったよ!」

 クラドールは診察や治療の他に薬の調合もする。基本的な薬にはマニュアルがあるが、正規のクラドールならば、手を加えることも可能だった。
 もちろん、患者さんへ処方する前にはきちんと治験ちけんを行うし、クラドール協会――国内の診療所を管轄かんかつしている機関への申請が必要だ。
 ただ、マニュアル通りに作っても、そのクラドールの技術によっては、効果の高い薬になったりする。薬を混ぜるときの魔法コントロールが、成分の分泌ぶんぴつを左右するためだ。だから、薬の効果が診療所の評判に直結する。
 今のところ、ファネリ診療所は町民の評価も上々といったところだ。

「この子ったら、時間でもないのに薬を飲みたがって大変だったんですよ。前は飲ませるのにとても苦労したのに」

 マルコの母親が、息子の頭をでながらクスクスと笑う。

「だって、グイド先生のはまずかったもん……」

 グイドとは隣町でスペルティ診療所をいとなむクラドールだ。エミリアたちが引っ越してくる前は、ラーゴには診療所がなかったため、住民はわざわざ隣町まで行かなければならなかった。
 しかし、アルベルトとエミリアがこの町へ来てからは、人々はファネリ診療所を利用するようになっている。

「でも、苦い薬はよく効くよ。マルコだって、苦くてもちゃんと飲んだから元気になったんだよね?」
「うーん……そうだけど、お母さんがね、お薬飲まないと湖の魔女が来て僕を食べちゃうって言ったんだよ。だから無理に飲んでたの」

 それを聞いて、マルコの母親が苦笑する。

「ラーゴの湖にまつわる言い伝えなんです」

 ラーゴにはとても綺麗な湖があって、そこに関係する昔からの言い伝えがある。魔女というのは、子供に言うことをきかせたいときに使うにはちょうどいい伝説のようだ。

「魔女はとっても怖いんだ! 人間を湖の中に連れて行って食べちゃうんだって。長い髪と目の色が青で、それから手のひらに……えーっと、黒い点々がついてるの」

 マルコが母親から聞いたらしい魔女の特徴を説明してくれる。彼はエミリアを見て、あっと声を上げた。

「エミリア先生も、手のひらに黒い点々あったよね」

 以前、マルコを診察したときに見ていたのだろう。確かに、エミリアは左手の小指の付け根辺りに二つ、黒子ほくろがあった。髪も、色は黒に近いが青みを含んでいるし、瞳の色も青だ。髪色はマーレ王国でも珍しい色なので、少し目立つ。
 エミリアはクスッと笑って、左手をマルコに見せた。

「そうだよ、ほら。マルコくんが悪い子だと、私が魔女みたいに怒っちゃうかも」
「えーでも、僕、エミリア先生は怖くないよ! だって、僕を元気にする魔法が使えるもん。あ、そしたら、エミリア先生はいい魔女なんだねぇ」

 口元に手を当てて笑った彼は、すぐにキュッと眉根を寄せた。表情をコロコロ変えて、まるで百面相だ。

「マルコくん、どうしたの?」

 急に不安そうな様子になったマルコに首を傾げ、エミリアは問いかける。

「あのね、魔女がエミリア先生を仲間だと思って連れて行こうとしたらどうしようって、心配になったの」
「大丈夫だよ。エミリアのことは、僕が守るからね」

 アルベルトがふふっと笑って、マルコの肩をポンと叩く。

「そっか! 僕も、魔女が来ないようにいい子にする!」
「そうしてくれると、僕たちもお母さんも嬉しいよ」

 そう言って、アルベルトは「薬をちゃんと飲めてえらかったな」とマルコをめた。

「えへへ……」

 すると、マルコは頬を染めて照れる。

「僕ね、アルベルト先生が好きだよ! 優しいし、お薬も美味しいし。アルベルト先生、僕を元気にしてくれてありがとう!」
「どういたしまして。でも、これからは風邪を引かないように気をつけることも大事だよ。外で遊んだら、ちゃんと手を洗ってうがいをすること」
「うん、わかった!」
「いい返事だね。それじゃあ、今日の診察はおしまい」

 アルベルトはマルコに笑いかけ、カルテに短いメモを書き込む。

「どうもありがとうございました」
「アルベルト先生、エミリア先生、バイバイ!」

 マルコは母親に連れられて、診察室を出て行く。後ろを向いて手を振ってくれるマルコを、エミリアも手を振って見送った。

「マルコくん、すっかり元気だね」
「男の子は元気が一番だよ。元気な女の子もいいけど、女の子ならエミリアみたいに恥ずかしがり屋さんなのも可愛いかもね。ちょっと人見知りで、いつもお兄ちゃんの背中に隠れているとか……」

 ほわんとした表情になって、未来の家族を想像しているらしいアルベルトに、エミリアの頬がポッと赤く染まった。

「も、もう……気が早いよ。アル」
「ふふ、また照れてる」
「ほら! 次の患者さん呼ぶからね」
「うん、お願いします」

 エミリアは火照ほてる頬を手で包み込み、アルベルトに背を向ける。それから恥ずかしさを誤魔化すために、コホンと咳払いをしてカーテンを開けた――


   ***


 午後は多くの患者さんが来たので、アルベルトはエミリアに薬の処方に回ってもらうことにした。診察室では、彼が一人で診察を続けている。

「こんにちは、イラーリオさん。今日はどうされましたか?」

 中年の男性、イラーリオが座ったところでアルベルトが尋ねると、イラーリオは腕の傷を見せた。
 応急処置はしてあるが、少々深く切ってしまっているようだ。

「いやぁ、今朝の漁のときにね。こんなドジ踏むなんて歳かなぁ」

 怪我をしていない方の手で頭をき、イラーリオは苦笑いをする。
 彼は腕がいいと評判の漁師だ。早朝漁に出て、れた魚を奥さんと一緒に市場で売っている。

「歳だなんてことはないですよ。そういうこともあります。魔法を使いながらの漁は大変でしょう」

 アルベルトは彼の腕の傷に治癒ちゆ魔法をほどこしつつ答えた。
 マーレ人は魔法で魚の群れを探知して漁をするため、釣りや捕獲の技術だけで漁の巧拙こうせつは語れない。魔法の能力も収穫量に影響するのだ。
 魔法で魚群探知をしながらの漁――つまり、精神力を使いつつの体力勝負である。他国にも漁師はいるが、マーレ人ほど卓越たくえつした探知能力を持つ者はほとんどいない。それだけ、マーレ人が海の加護を受けているということだ。

「そんなこともないよ。物忘れも始まったみたいでな。やっぱり歳には勝てないもんだと実感しているさ。ああ、でも、最近はそれも落ち着いているかなぁ」

 今はまだムラがあるが、だんだんとひどくなるものなのだろう。そう言って、イラーリオは「参った」とカラカラ笑った。

「物忘れですか。あまり無理しないでくださいね。ひどいようなら一度きちんと検査をしましょう。イラーリオさんの年齢では、さすがにまだ早いですよ」

 本人は歳だと言うが、彼はまだ五十になったばかりの現役漁師。引退してぼんやりしているわけでもないし、普段の様子を考えても、いからくる症状は比較的軽いはずだ。
 体力もあるし、力仕事のため身体も引き締まっており、肥満などの心配もない。食生活もバランスのよい奥さんの手料理中心だと、初診時の問診で確認済みだ。
 心配そうなアルベルトに、イラーリオは笑って答える。

「はは、そうだね。でも、忘れるといっても、本当に些細ささいなことなんだよ。買い物に行ったことを忘れて同じものを買ってきてしまうとか……ああ、グイド先生のところに二日続けて行ってしまったこともあるなあ」
「そうなんですか? でも、グイド先生が気づきそうなものですよね?」

 すっかり治った腕に、皮膚ひふの代謝をうなが軟膏なんこうを塗り込みつつ尋ねたアルベルトは、カルテに今日の治療について記す。

「いやぁ、あそこはグイド先生が一人で切り盛りしていて、いつも忙しそうだったから。そのときはたまたまそのまま診察してくれたみたいだ。それか、物忘れだなんて年寄りに喧嘩けんかを売らない方がいいって判断かもしれんな」

 イラーリオは冗談めかしてそんなことを言い、盛大に笑った。

「まぁ、二回薬をもらっても、保存がきくから困らないよ。この前もちょっと風邪を引いたときに役に立ったさ。あ……でも、あの後も結局アルベルト先生にてもらったよなぁ。二回も同じことを忘れたのか……」

 確かに、一週間ほど前にイラーリオを診た記憶がある。アルベルトは「そうですね」と答えつつ、念のためカルテを戻ってみた。

「風邪薬を処方していますね。グイド先生のものが効かなかったのですか?」
「そんなことはないよ。あの人の薬はちょっと高いけど、よく効く」

 同じ薬でも、診療所によって価格が違うことがある。
 なぜなら、地区やクラドール個人の薬草栽培技量によって、薬草を自給出来るか仕入れるかはそれぞれだから。多くの薬草を栽培出来るクラドールなら価格は安く出来るが、仕入れている場合は元値をまかなう必要があるのだ。
 また、クラドール協会が定める利益率の範囲内での販売が義務付けられているので、その設定値にもよる。
 つまり、同じ利益率でも原価の値段が違えば、定価が高くなったり安くなったりする。原価を下げられればそれだけ利益に繋がるということだ。
 マーレ王国はクラドールが多いため、市場独占状態になることはほとんどない。価格を上げてしまえば、患者さんは他のクラドールを頼り、結局自分への打撃になるからだ。
 それに人の命を救う職業柄、人々をだまそうというクラドールは少ないと、アルベルトは感じていた。
 お金もうけをしたい者は、大抵が他国へ出稼ぎに行く。他国ではクラドールの需要の割に供給が少ないため、優遇されることも多いとか。

「まぁ、市場でもそういう物忘れをする奴が多くて、皆で歳にはかなわないって話をするのさ。養鶏場ようけいじょうのところなんか、何度も同じ客に卵を配達したって笑い話になってな」

 それを聞いて、アルベルトは少し考え込む。
 年寄りとは言うが、市場の店を切り盛りする人々は皆、そこまでいているわけではない。
 少なくとも、診察に来たことがある人々は、総じて普段の健康状態は良好だった。

「ああ、でも皆ちょっと風邪気味だったからぼうっとしてたのもあるかもな! ほら、ちょうどアルベルト先生たちが引っ越してくる少し前だよ。寒くて、風邪が流行はやったんだ。グイド先生のところも、いつ行っても人が多かったよ」
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