燃えるような愛を

皐月もも

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1巻

1-2

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 この世界には、数多くの魔法が存在する。彼が今使用している、特定の人物と炎を介して会話ができる魔法は、ヴォルフたち上流階級の人間にとって基本だ。これはお互いの気――精神力のようなもの――を認識してつながることができる。

「城下町のピアノ講師、フローラ・ハルツェンの今日のレッスンがすべてキャンセルになるよう、根回しをしろ」
『は……?』

 炎がパチッとはじけて、イェニーのほうけた声が聞こえた。

「いいな。城へは夕方の会議までに戻る」

 ヴォルフはイェニーの返事を聞かずに炎を吹き消す。そしてユッテに向き直り、口を開いた。

「悪いが、俺は昨夜の〝ユッテ〟を迎えに来た。こんなに簡単に見つかるとは思わなかったが」
「おっしゃっている意味がわかりませんわ。ユッテは私です」

 ユッテはよどみない口調で言いつつも、フローラをにらみつけている。

「昨夜、俺が気に入った女は、間違いなくこのフローラ・ハルツェンだ」

 ヴォルフが言い切ると、ユッテは嫌な顔をしながら反論してきた。

「一体、何を根拠にそんなことをおっしゃるのです?」
「演技をさせるなら、役者を雇うべきだったな。仮面マスクかぶるからと適当に衣装を着せたのだろうが、俺の目は誤魔化せない」

 ――この心臓も。
 フローラの姿を見たときからずっと、ヴォルフの胸は〝彼女〟だと訴えるように高鳴っている。

「これ以上茶番を続けると言うのなら、こちらもそれなりの対応をさせてもらう。俺は穏健派にこびを売るつもりはない」

 ユッテの父親ヨーゼフを中心とする穏健派は、フラメ王国の国教であるシュトルツ教に信仰が深く、教会との結びつきが強い保守的な派閥はばつだ。彼らはフラメ王国民特有の炎属性に誇りを持ち、それを与えてくれた神と、守ってきた先祖に敬意を示している。
 一方、強硬派は誇り高きフラメ王国民の中でも特にプライドの高い人間の集まりだ。主にフラメ王国の軍部の者が属し、武力派とも呼ばれる。軍部は陸軍と海軍に分かれていて、この二つも対立している。
 両派とも、王家とのつながりを持った方が政治的に有利になれると考えていた。そのため、若い娘のいる家は競って、娘をヴォルフの婚約者候補にしている。議会でめることは日常茶飯事にちじょうさはんじだ。
 ヴォルフは、その中から妃を選ぶつもりは毛頭なかった。彼自身も、王家も、どちらの勢力にも属さない方針なのだ。

「フン。ユッテはこれ以上策がないようだが、お前は?」

 唇をみ締めて黙り込んだユッテを一瞥いちべつし、ヴォルフはフローラに問いかける。彼女はビクッと顔を上げた。
 彼女は色素の薄い瞳をうるませ、昨夜ヴォルフをがした柔らかな唇を震わせている。

「私、仮面舞踏会なんて出ていません……」
「ほう? 俺は〝昨夜〟とは言ったが、仮面舞踏会とは言っていない。よくわかったな?」

 ヴォルフはフローラのあごに手をかけ、親指で赤く色づいた唇をなぞった。自分の失言に気づいたらしいフローラが息を呑む。

「それに、この手の感触を覚えている」

 そう呟いたヴォルフは、もう片方の手でフローラの小さな手を掴み、口元へ近づけた。唇が触れると彼女は思いきり手を引こうとしたが、昨夜と同じく、彼の大きな手はフローラのそれを握ったまま放さない。

「お、おたわむれはおやめくださいっ」
「それは俺の台詞せりふだ。いい加減にしろ。仮面舞踏会に来たのはお前だろう、フローラ」

 フローラは、必死にもがきながら首を横に振った。

「違います!」

 ヴォルフはため息をついてフローラの手を放す。直後、彼女が一歩後ろへ下がって彼と距離を取る。

「お前はさっき『次はいつもの時間に来る』と言った。つまり、今日のこの時間がいつもとは違うということだろ?」

 畳み掛けると、フローラの視線がかすかに泳ぐ。ヴォルフはその動きを見逃みのがさなかった。

「いつもの時間は夕方か夜か? 使用人の様子からして、昨日はレッスンをしなかったようだな。レッスンに来たところで、ユッテの身代わりを頼まれでもしたんだろう」

 ヴォルフはユッテを振り返り、続ける。

「ヨーゼフのたくらみか、お前の企みか、どちらでもいいが……良かったな? お前たちの望み通り、俺は〝ユッテ〟を見初みそめた」

 そんな皮肉を口にして、ヴォルフはフローラに視線を戻す。彼女は真っ青な顔をして震えていた。一国の王子に見初められてこんな顔をする女を、彼は初めて知った。

「フローラ」
「――っ」

 今にも泣きそうなフローラは、ビクッと視線を上げる。

「俺は言ったはずだ。必ずお前を手に入れる、と」
「ご、ご冗談を――」

 フローラは震えながら部屋の扉まで後退し、ヴォルフにくるりと背を向けた。膝丈のスカートがふわりとひるがえる。

「城に招いてやると言ったことも忘れるな」

 ヴォルフはフローラを追わず、その背中に声を掛けるにとどめた。彼女は振り返ることなく走っていく。クリーム色のスカートがなびくのを眺め、彼はフッと笑った。

「ユッテ。お前のピアノのレッスンは今日で終わりだ。続けたければ他の講師を探せ。俺は帰る」

 それだけ言い残し、ヴォルフはアイブリンガー邸を後にした。
  

   * * *
  

 アイブリンガー邸から逃げるように出ていった翌朝。一睡もできないまま夜を明かしたフローラは、自室のベッドでのろのろと身体を起こした。
 背後から聞こえた、威厳いげんを含んだバリトンの声が、まだ耳に残っている。
 ――城に招いてやると言ったことも忘れるな。
 そんなことはありえない。フローラはただのピアノ講師だ。自分自身に一晩中そう言い聞かせながらも、怖くて仕方がなかった。……ヴォルフなら、何でも可能にしてしまう気がしたから。
 すべてが強引で、それでも人を従わせる強いものを持った、炎に似た人。第一王子であるヴォルフは、このフラメ王国初代国王の直系だ。
 昨日、彼に鋭い目つきで観察され、首筋がチリチリとしたのを、今でもハッキリと思い出せる。
 一体、何がどうなって、自分のようなピアノしかとりえのない娘が、一国の王子に迫られることになってしまったのだろう。
 フローラはベッドを降りてコップに水をそそぎ、のどうるおした。シンクにコップを置くと、ため息がれる。
 仮面舞踏会に行くことになったのは、本当に予想外だった。
 ユッテのレッスンは、週に一度決まった日に行っている。教会での演奏がきっかけで、彼女の父ヨーゼフから直々じきじきに頼まれたのだ。
 フラメ王国指折りの名家のお嬢様にレッスンなんて、正直に言っておそれ多かった。しかし、両親へ仕送りをしているフローラにとって、収入が増えることは単純に喜ばしい。
 両親はまだ現役で音楽学校の講師をしている。特別貧しい家庭ではないが、今まで彼らには苦労をかけてきた。
 フローラを育ててくれたことや、音楽学校に通わせてくれたこと、無事に卒業させてくれたこと……これらは両親の力があったからこそだ。
 お金だけが方法ではないのは重々承知だが、仕送りはフローラにとって、一つのけじめのようなものだった。
 何より、自分は大丈夫、一人でも生きていけるのだ、と伝えたい気持ちもあってのことだ。
 結局ヨーゼフの申し出を受けたフローラだったが、彼女のうれいは少し違った形で当たることとなる。ユッテはどんなに贔屓目ひいきめに見ても、〝わがまま〟な娘だった。
 練習曲をほとんど完成させないまま、「飽きた」という理由で新しい曲を弾きたがる。ピアノを弾くために爪を短く整えることを嫌がるし、指遣いや演奏の注意をすれば、あからさまに不機嫌になる。レッスンをしていても、全く教えている実感がない。
 二日前の仮面舞踏会の日に至っては、アイブリンガー邸を訪れたフローラの前に姿を見せすらしなかった。夜にもよおされる仮面舞踏会のために新調したドレスが気に入らなくて、部屋に閉じこもってしまったのだ。
 当然、レッスンはキャンセルになるはずだった。ところが、ヨーゼフはフローラに娘の代わりに仮面舞踏会へ出席することを頼んできたのだ。そして、フローラはヴォルフと出会った。

(どうしたら……)

 フローラは今朝のレッスンへ向かう準備をしながら、寝不足でぼんやりする頭を回転させる。顔を洗ってみたが、ちっともスッキリした気分になれない。
 ヴォルフはなぜかフローラを気に入って、城に招いてやるとまで言った。彼の言動には、全く迷いなど感じられなかった。きっと、いずれ実行するだろう。
 フローラは嘆息してレッスン用のかばんを手に取る。今朝の生徒のための楽譜を入れようとしたとき、鞄の中に封筒が入れっぱなしだったことに気づいた。
 その中身は、昨日アイブリンガー家の執事から受け取ったレッスン代だ。仮面舞踏会の日の、キャンセルしたはずのレッスンの分と、昨日の振り替えレッスンの分――ヴォルフとの出会いと再会をもたらした、二日間の対価。

(家に送らなきゃ)

 とにかく、実家への仕送りは今回も済ませられる。フローラは気を取り直し、鞄から封筒を取り出してベッド横の小さな机の引き出しに入れた。
 鞄を玄関先に置き、朝食の準備をするため簡易キッチンへ向かおうとしたとき、軽くドアベルが鳴る。朝早くの客人――それだけで、フローラの心臓の鼓動が痛いほど激しくなった。

「は、い?」
「……朝早くから申し訳ございません。こちらはフローラ・ハルツェン様のお宅でよろしいですか?」

 玄関に近づき震える声で答えると、ややもしてから、聞き覚えがある少し低めの女性の声が響いた。

「フラメ王国第一王子の側近を務めております、イェニー・ルセックと申します」
「――!」

 そう、仮面舞踏会のときヴォルフを呼んだ声だ。
 フローラは思わず後ずさった。すぐに声が響いてくる。

「フローラ様にフラメ城へお越し願いたく、お迎えに上がりました」

 フローラは震える指先を隠すようにこぶしを握り、両手をギュッと胸に押し付けた。

「フローラ様?」

 イェニーは、先ほどから答えないフローラをいぶかしげに呼んでいる。フローラはゴクリと唾を呑み、息を吸い込んだ。

「私……今日はレッスンがありますので」

 フローラが少し厳しい声を出すと、イェニーは黙り込んでから、申し訳なさそうに続けた。

「あの、レッスンについてなのですが、すべてキャンセルにさせていただきました」
「なっ!?」

 キャンセル――それは、フローラの収入がなくなるということだ。いくら王子とて、一国民の生活をおびやかす真似が許されるはずがない。

「そんなの横暴です!」

 フローラは早朝だということも忘れて叫んでしまい、ハッとして口をつぐんだ。

「申し訳ございません、ですが――お待ち――でも、そ――」

 不意に、イェニーの声が途絶とだえる。フローラに話し掛けているのではなく、誰か他の者と話している様子だが、声が小さくて聞き取れない。
 先ほど大声を出したせいで、近所の人が出てきたのだろうか。
 このアパートメントは、部屋は狭いけれど、城下町の物件とは思えないほど安い。管理人も人が良く、市場も近くて助かっている。他の住民とトラブルになって追い出されては困るのだ。
 フローラは慌てて鍵を開けて、ドアを開いた。

「ちょっ、ヴォルフ様、また勝手に――!」
「あのっ、ごめんなさい。大声を出したのは――っ」

 イェニーの焦ったような声と、フローラの謝罪の言葉が同時に途切れる。ボッという音の直後、玄関前に大きな炎が上がった。
 その炎の中から姿を現したのは、ヴォルフだ。
 彼が使用したのは、炎に身を包み瞬間移動する高度な移動魔法。普通は、あらかじめ魔法をかけた特定のポイントのみにしか移動できない。使いこなせるのは特別な訓練を受けた者だけであり、今回のように何もない場所へと移動できる者は、その中でも少数だ。
 ヴォルフは不機嫌そうにイェニーを見た後、フローラを見た。フローラは咄嗟とっさにドアを閉めようとしたが、たくましい腕が伸びてきてグイッと力強く引き寄せられる。彼女の身体はすっぽりと彼の腕の中に収まった。

「イェニー、後はわかっているな?」

 低い声がフローラの頭上から聞こえる。ヴォルフの声にあわせて、厚く逞しい胸板からかすかに振動が伝わってきた。

「はい。ですが、フローラ様の許可をいただいておりません」
「許可は俺が出す。フローラは城へ連れて行く。すべて伝えてあるんだろ?」
「途中でヴォルフ様がいらっしゃったため、まだレッスンの件しか申し上げておりません」

 フローラが離れようともがいても、ヴォルフはびくともせずにイェニーと会話を続ける。
 フローラは腕を突っ張って彼を見上げた。

「あのっ! は、放して……くださ、い……」

 最初こそ勢いよく言葉が出たものの、見下ろす赤色の目の鋭さに、尻すぼみになってしまう。

「きょ、今日の、レッスンはまだ間に合うと思いますから……もう、キャンセルはしないでください。わ、私にも、生活があります」

 フローラはヴォルフの真っ直ぐな視線を避けるため、イェニーの方へ顔を向けた。
 だが、大きな手がフローラの頬に添えられて、彼の方を向かされる。

「全然伝わっていないぞ、イェニー」

 ヴォルフはフローラをじっと見つめたまま、イェニーに呆れたような声を掛けた。

「ですから……それは、私が説得する前に、ヴォルフ様がこちらへ来られたからなのですが?」
「お前がもたもたしているからだ。――フローラ」

 苛立いらだった声で言ってから、ヴォルフはフローラの頬に添えた親指をツッと滑らせる。
 正統な炎の血を受け継ぐ彼の炎の力が強いからか、触れられると、身体の中が沸き立つような感覚が生まれる。また、彼の強い視線の前では、すべてを見透かされている気分になるのだ。
 怖い――これが、フローラの正直な感想だった。ヴォルフの大きな体躯たいくや鋭い目つきもそうだけれど、彼女は自分自身の変化を怖がっている。あの仮面舞踏会の夜、彼の唇でともされた火が、いまだに内側でくすぶっていた。

「お、お引き取りください。私、お城へはっ……行きません」
「行かないと困るのはお前だ」

 ヴォルフはフローラの髪をくように指を滑らせて一房耳にかけ、彼女の耳のふちをゆっくりとなぞる。

「フローラ様、申し訳ございません。レッスンをすべてキャンセルさせていただいたというのは、その……貴女あなたは昨夜、アレンス音楽教室を退職したことになっております」
「え……」

 心底申し訳なさそうな声色でつむがれたイェニーの言葉に、フローラは固まった。アレンス音楽教室は、フローラが城下町に移住してからずっと世話になっている勤め先だ。雇い主のアレンスはとても温和な老人で、年を取ってたくさんの生徒を教えることが大変だからと、フローラを雇ってくれた恩人だった。
 彼女の戸惑う様子を見て、イェニーが言葉を続ける。

「ミスター・アレンスには、きちんと許可をいただきました。今日、私がお迎えに上がったのは、貴女を宮廷ピアニストとしてフラメ城へとお招きするためです」

 呆然としたままのフローラを眺めて、ヴォルフも口を開いた。

「この部屋も引き払う。というより、もう出て行くと管理人には伝えてある。そうだな、イェニー?」
「はい」
「なっ――!」

 本人の意向を無視して勝手に仕事を辞めさせたあげく、部屋も引き払うなんて。いくら王族とはいえ、こんな勝手なことが許されていいのだろうか。
 怒るべき場面なのだが、困惑が大きくて声にならない。
 これからどうすればいいのか、フローラは必死に考える。今からでも、退職は自分の意思ではないとアレンスに話さなくてはならない。また、管理人にも事情を説明して、引き続きこの部屋に住まわせてもらえるように――

「宮廷ピアニストの職を断れば、お前の信用はガタ落ちだ」

 だが、ヴォルフは先回りして追い討ちをかけ始めた。

「アレンスは熱心なシュトルツ教の崇拝者だな。お前を宮廷ピアニストとしてフラメ城へ迎えたいと言ったら、それは喜んでいた。娘同然に思っていたお前が、そのような名誉めいよを受けて嬉しいと」

 シュトルツ教は、フラメ王国で最も信者の多い宗教だ。フラメ王国民として炎の血を受け継ぐことを誇りとし、それを継承していく大切さをく教えは、フラメ国民の矜持きょうじいしずえとも言える。
 信心深いアレンスはシュトルツ教会に頻繁ひんぱんに通っており、フローラはその縁で、教会で演奏をさせてもらっていたのだ。

「第一王子である俺、つまり王家直々じきじきの申し出を断るということが、アレンスにとってどういう意味か、わかるだろ?」

 炎属性に誇りを持つシュトルツ教は、自分たちの先祖、そしてこの国の炎の血を守ってきた王家を崇拝している。
 彼らの申し出を断るなど、アレンスが許すはずがない。つまり、フローラがここでアレンスのもとへ戻ったとしても、復職できる可能性は低い。
 フローラはギュッと唇をんだ。それをとがめるように、ヴォルフは彼女の耳をもてあそんでいた指先をスルリと唇へ滑らせる。

「それに、このアパートメントは人気の好物件だ。お前が出て行くと伝えた時点で、もう次の入居者も決まっている」

 ゆっくりとらすみたいに唇をなぞられて、フローラの身体が震えた。離れたいのに、体格差と力の差をどうすることもできず、逃げられない。

「言っただろう。お前を城に招く、と」

 確かにヴォルフはそう言った。けれど、こんな強引な手段を取られるなんて……
 もはや何も言えなくなるフローラに、イェニーがおずおずと声をかけた。

「フローラ様。すべての手続きを行った私が申し上げるのもおかしい話ですが、今、貴女あなたには城に上がられる以外の方法はございません」

 本当に、こんなおかしいことは今までの人生で初めてだ。突然すぎて、どう対処したらいいのかわからない。

「宮廷ピアニストは長い間不在でして、貴女のことをお話ししたら、国王様も演奏を聴いてみたいとおっしゃいました。ですから、一度城できちんとお話をして、それでも納得していただけなかった場合には、私が責任を持って貴女の新しい職と住居を手配いたします」

 新しい職と住居というところで、ヴォルフの腕に力がもった。彼はどうしてもフローラを城へ引き入れるつもりらしい。
 フローラも、職がないと困る。短い間を食いつなぐくらいのたくわえはあるが、住む場所をすぐには準備できないのだ。新しく住居を探すにせよ、あまり高い家賃は払えない。かと言って、安いだけの変な物件には住みたくなかった。

「来るな?」

 フローラの頭の中を読んだかのように、ヴォルフが聞く。
 フローラは、彼の指先の熱を感じながら小さく頷いた。どちらにしろ、頷かざるを得ない状況だ。
 ヴォルフは満足そうに口角を上げる。イェニーがホッと息を吐いたのが聞こえた。
 フローラを更にきつく抱きしめたヴォルフが呪文を呟く。すると、フローラは浮遊感と共に熱に包まれた――
  

   * * *
  

 突然、ヴォルフに移動魔法で城に連れてこられてから数時間後。
 フローラは、客室の鏡台の前に座って鏡面を見つめた。そこには、きらびやかに変わってしまった自分の姿が映っている。
 彼女が着ているドレスは、白い生地きじに赤い糸で花柄が刺繍ししゅうされた、長い丈のシンプルなベアトップ。ハイウエストの切り替え部分は、赤いリボンがアクセントになって可愛らしい。
 髪もすっきりとまとめられ、メイクはナチュラル。キラキラと光るピアスとネックレスまでつけていて、まるで御伽噺おとぎばなしのお姫様のようだ。

「さぁ、フローラ様。謁見えっけんの間へご案内いたします」

 フローラの支度を整えてくれた侍女の一人が、白のハイヒールを床に置きうやうやしく礼をする。フローラは慌てて自分も頭を下げ、靴に足を入れると導かれるまま部屋を出た。
 城の天井は、空を見上げているのではないかと思うほど高い。そこに見える天井画は、神が炎の力を人間にさずける様子が描かれたもので、炎が燃えるさまをモチーフにした彫刻ちょうこくで囲まれている。
 広いエントランスの先には、赤い絨毯じゅうたんが敷かれた廊下がずっと続いている。
 先ほど、ヴォルフの移動魔法の炎に包まれて降り立ったのは、このエントランスだった。左右に分かれた廊下を、客室とは反対側へ進む。
 奥にある重々しい扉の前に立つと足が震えた。今から国王に会うのだ。
 国王には、ヴォルフから約束を取り付けてあるらしい。
 やがて扉が開き、フローラは恐る恐る足を踏み出した。謁見の間には、すでにヴォルフが立っている。彼はフローラの方を向いて、鋭い眼差しで彼女を射抜いぬく。その迫力に、思わず肩が跳ねたフローラは足を止めた。
 すると、奥から気遣うような声をかけられる。

「フローラ、だったな? そんなに硬くならなくてよろしい。さぁ、こちらへ」
「は、はい……」

 ヴォルフの立つ位置よりも数段高い場所に置かれた玉座に、フラメ国王バルトルトが座っている。彼の隣に座る女性は、王妃のレーネだろう。彼女は優雅に微笑み、フローラを見つめている。
 温かな二人の表情にホッと息を吐いて、フローラは歩を進めた。
 ヴォルフより数歩離れた場所で足を止めると、彼はキュッと眉根を寄せてフローラの腕を掴み、自分の隣に立たせた。

「ヴォルフ、そんな乱暴にしないでちょうだい。女性の扱いがなっていないわ。フローラはピアノを弾くのでしょう? 手を痛めでもしたらどうするの」

 レーネの厳しい指摘に、ヴォルフは舌打ちをして手を放した。解放されたフローラは、改めて彼と距離を取る。
 それを見たバルトルトがクッと笑ったところ、ヴォルフの眉間のしわが深くなった。フローラはうつむいて冷や汗をかく。

「フローラ」
「は、い」

 バルトルトの呼びかけに顔を上げると、にっこりと笑った彼はパチンと指を鳴らした。すると、部屋の横の壁が開き、大きなグランドピアノが運び込まれてくる。

「一曲、弾いてみてくれないか」

 ピアノがセットされ、バルトルトが言う。
 宮廷ピアニストとして雇うというのは本当らしい。正確には、雇うかどうかをフローラの演奏で決めるのだろうけれど。

「曲は何でも構わない。得意な曲でも、一番好きな曲でも」
「はい……」

 ピアノが出てきたことで少し落ち着きを取り戻したフローラは、頷いてピアノの椅子に座った。
 そっと鍵盤けんばんに手を置けば、乱れていた鼓動が、テンポを取り始めるように規則正しくなっていく。
 フローラは大きく息を吸い込んで、力強く鍵盤を弾いた。
 選曲は迷わなかった。炎の血を祝福するピアノ曲――長年続く王家の中で、唯一作曲家として活動したミュラー・ブレネンの〝炎の栄光〟。
 城のエントランスを見た瞬間、フローラの頭の中に、この曲のメロディが流れたのだ。誇り高き炎属性の、荒々しくも力強い調べ。時折まじる不協和音すらも計算され尽くした、洗練された曲である。渦巻うずまく炎を表現した主題の展開は大胆で、しかし、統一性を失うことなく、聴く者の心を最後まで捕らえて放さない。
 フローラは演奏しながら、ミュラーと同じ気持ちで弾いているような感覚に酔いしれる。熱く巡る、音楽への情熱――
 最後の一音の響きが途切れ、それが空気に溶け込んでからも、しばらく静寂せいじゃくが続いた。やがて、その場にいた皆の口からため息がれ、少し遅れて拍手が響く。

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