燃えるような愛を

皐月もも

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1巻

1-1

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 豪奢ごうしゃな邸宅の広間は、夜更よふけだというのに人々の笑い声と音楽に満ちている。
 真っ白な壁には炎をかたどった金色の装飾がなされていた。天井や壁の至る所に宗教画が飾られ、赤い薔薇ばらした花瓶がアクセントを加える。
 まばゆい光を放つシャンデリアの下で踊る人々は、一様に派手な衣装をまとい、流れる優雅な音楽に身をゆだねていた。
 この大きな広間で行われているのは、人々が〝非日常〟を楽しむ仮面舞踏会マスカレード。誰もが仮面をかぶり、素性を隠して、時にはスリルをも楽しむ場だ。
 多くの者が夜の駆け引きをきょうがる中、フローラは壁に背を預けて息をひそめていた。彼女にとってもこの空間は非日常だが、それを素直に楽しめるほどの余裕を持ち合わせていなかったのだ。
 フローラはここフラメ王国の庶民。国の中でも保守的な田舎いなかの西地区で育ち、音楽学校を卒業後、城下町でピアノ講師として働いている。

(やっぱり、きちんと断れば良かった……)

 フローラはため息をつく。今日のこの時間は、本来ならば貴族の一人娘へのレッスンを終えて、とっくに帰宅しているはずだった。だが、ドレスが気に入らなくて部屋から一歩も出てこない彼女の代わりに、仮面舞踏会に参加することになってしまったのである。
 不参加だと、主催者の顔に泥を塗ることになる。そのため、娘に背格好が似ているフローラに白羽の矢が立った。貴族の家の当主に頭を下げられたら断れるはずもなく、彼女は今まで全く縁のなかった仮面舞踏会の会場へとやってきたのだ。
 彼女がまとうのは、レースをふんだんに使った、ワインレッドのプリンセスラインのドレス。首元を真っ白なレースで縁取ふちどったスクエアネックで、スカートはドレープでボリュームを出している。胴の辺りにゴールドの刺繍ししゅうが施され、袖にはフリルが揺れていた。
 デコルテを飾るのはダイヤのネックレス。柔らかな茶髪はドレスと同じワインレッドのリボンで纏められ、耳にも、ダイヤのピアスが飾られている。娘は気に入らなかったようだが、誰よりも派手で豪華なドレスだ。
 フローラはひっきりなしに男たちから声を掛けられたものの、かたくなに首を横に振り続けた。
 仮面舞踏会は、地位にも財産にも恵まれた貴族たちのたわむれだ。フローラには敷居が高すぎる。
 誰の誘いにも乗らないフローラに声を掛ける者がいなくなり、ようやく壁の花となれたとき、どんなに安堵あんどしたことか。
 目元を隠す仮面と、相手の名や家柄を聞かないという仮面舞踏会の暗黙のルールに感謝しながら、フローラはそっと目を閉じる。
 この会場において、フローラがただ一つ楽しめること……それは、絶えず聴こえてくる、一流の演奏家がかなでるワルツだ。彼女の予想をはるかに超えるメロディの運びは、人々のダンスにスパイスを加え、弦楽器のハーモニーは、かろやかなステップを支えるごとく重厚に響く。
 フローラは、久しぶりに聴く洗練されたオーケストラの生演奏に耳を傾けて、時が過ぎるのをじっと待っていた。
 ――どれくらいそうしていたのだろう。
 今まで全く乱れなかった演奏がわずかに揺れ、フローラは目を開けた。
 踊る人々がこそこそと話し始め――特に女性たちのざわめきが大きくなっている。
 そのきっかけは、広間に入ってきた一人の男の存在。彼はフリルのついた白いシャツに、シンプルな黒いタキシードを纏っていた。華美な衣装が多いこの会場では、逆にとても目立つ。
 目元をきらびやかな仮面でおおっているが、瞳の輝きは隠しきれていない。にじみ出る気高いオーラは他の者と一線をかくしている。髪は燃えるような赤で、体格も良かった。
 あの人も、フローラにとっては雲の上の人だろう。
 女性たちが男に熱い視線を送るのをぼんやりと見ながら、フローラは早く帰りたいと願った。
 しかし、迎えが来るのはまだ先である。仕方なくフローラが視線を床に落とし、再び音楽に耳を傾けるため目を閉じかけたとき――視界に、綺麗に磨かれた革靴のつま先が映った。

「踊らないのか?」
「きゃ――」

 思わず小さく叫んでしまったフローラは、パッと顔を上げて声を掛けてきた人物を見た。先ほどの男性ひとが目の前に立ち、こちらを見下ろしている。
 男はフローラと目が合うと、目を見開いて黙り込んだ。赤みがかった瞳はしっかりと彼女を映している。答えを待っているのだろう。
 ほんの少し見つめ合って、フローラは震える唇を開いた。急に声を掛けられたせいか、心臓がドキドキと脈打つ。

「い、いえ……あの、ダンスは苦手で……」
「食事は?」
「食欲がなくて……」

 再び投げかけられた質問に、フローラはうつむいて首を横に振る。会場に用意されていた軽食は、色鮮やかでどれも美味しそうだったけれど、食べる気にはなれなかった。

「飲み物は?」
「……お、お酒は、飲めないんです」

 矢継やつぎばやに問われ、フローラは困惑しながらもか細い声で答える。
 壁際でどんなに小さくなっていても、今の自分のようにやけに着飾った人物がいれば、興味の対象になってしまうのだろう。しかし、きっと他の者と同じで、すぐに反応の薄いフローラに飽きてどこかへ行くに違いない。
 そう思っていたのに、彼はフローラの受け答えを聞いて目を細めると、急に彼女の手首を掴んだ。

「行くぞ」
「え、あ、あのっ――」

 戸惑うフローラの手を、彼は力強く引いて歩き出す。
 会場を出て庭に出ると、彼は歩く速度を緩めた。だが、止まることはなく、花壇で縁取ふちどられた道を進む。彼に手を引かれるまま、フローラは何も言えずについていく。

「名前は?」
「え? あ……ユッテ・アイブリンガーと申します」

 歩きながら問われて、つい答えてしまった。
 本来なら仮面舞踏会で名を聞いたり、名乗ったりするのはタブーだ。幸いなのは、フローラがきちんと〝名前〟を言えたことだろう。
 ユッテ・アイブリンガー――フラメ王国で、一、二を争う名家の一人娘であり、今夜フローラがレッスンをするはずだった生徒の名である。

「仮面だけでなく猫もかぶるのか? それとも、俺の興味を引くための演技か?」
「え?」

 予想もしていなかった言葉に、フローラはうろたえた。彼は、口を引き結び、彼女を観察するように見据える。
 気づかないうちに何か粗相そそうをしたのだろうか。迷わずに名乗ったことがいけなかったのかもしれない。フローラには貴族社会のルールなどわからないし、彼の思惑が全く読めない。
 それとも、この男は元々ユッテの知り合いで、いつもと違う態度に疑問を抱いたのだろうか。
 いや、そんなはずはない。十八歳のユッテは成人したばかりで、仮面舞踏会も初めて参加する予定だったと聞いている。そもそも男性と知り合う機会などほとんどなかったはずだ。
 何にせよ、このままこの男といるのはまずい。
 ユッテを名乗ってしまった以上、フローラの行動は今後のユッテの評判に響いてしまう。

「……あの、わ、私……」

 フローラは一歩後ずさり、彼に掴まれていた手を引いた。しかし、彼は彼女の手を放さず、じっと探るような視線をそそぐ。
 フローラはその視線の強さに身震いした。いけない、と本能的に感じる。彼はフッと息を吐くと「まぁ、いい」と呟き、彼女を自らの方へと引き寄せた。

「きゃ――あ、いやっ」

 突然抱き上げられて、フローラは身体をよじって抵抗する。だが、彼はお構いなしに庭の奥へと進んで行く。やがて、小さな広場らしき場所に出ると、そこにあったベンチにフローラを降ろし、彼も隣に座った。
 フローラが警戒して離れようとすると、彼がクッと笑いをらして口を開く。

「そんなにおびえるな。少し付き合え」

 先ほどより幾分か穏やかな声色に、フローラは胸をで下ろした。そんな彼女を見て、彼は小さくため息を漏らしたが、何も言わずに黙り込んだ。沈黙が二人を包み込む。
 付き合えと言われたものの、一体何を話せばいいのかわからない。この男の興味を引くような話ができるとも思えないし、余計なことまでしゃべってしまったら、取り返しがつかなくなる。
 結局、ぼんやりと月を見上げることしかできないまま、静かに時が過ぎていった。綺麗な月明かりは、広間のシャンデリアとは違って優しく二人を照らしている。

「綺麗、だな」

 ポツリと男が呟く。

「……月の欠片かけら
「ピアノを弾けるのか?」

 男の呟きに促されるように口をついて出たのは、月を見て思い出した曲のタイトルだった。それを聞いただけで、すぐにピアノと結び付けた男に、フローラは驚きつつ慌てて「少し」と付け足す。ユッテはピアノを習ってはいるものの、あまり技量がないのだ。
〝月の欠片〟はフラメ王国出身の作曲家が作ったピアノ曲で、美しい高音域の旋律せんりつが月の輝きを表現している。曲名はそれなりに有名だが、難易度が高いためか、耳にすることは少ない。

「そうか」

 彼は頷きながら、フローラの手を取った。大きな手のひらは簡単に彼女の手を包み込み、彼の高めの体温を伝えてくる。
 フローラが手を引こうとした途端、彼は力を込めた。
 まるでらすように、親指でゆっくりと手の甲を撫でる。彼女が小さく声を上げると、彼はかすかに息を呑み、今度は強くフローラの手を引いた。

「ゃ、あ、あのっ!」

 指先が彼の口元に導かれる。フローラが驚いて逃げ出そうとするのを察知した彼は、空いている方の手で彼女の腰を抱き寄せる。同時に、フローラは指先に温かな吐息と柔らかい唇の感触を覚えた。

「――っ」

 フローラはギュッと目をつむり、初めて感じる刺激に身体を震わせた。自由な左手を口に当て、れそうになる声を抑える。
 指先から手の甲へ、じわりと熱を与えられていく。時折かかる吐息と、湿った唇の感触が、フローラの肌を粟立あわだたせた。
 やがて、手首まで丁寧にキスを落としていた男の唇が指先へ戻ってくる。

「ぁ……」

 短く切りそろえた爪の先を舌でなぞられ、フローラののどの奥から小さく声が漏れた。すると、彼は彼女の人差し指の先を口に含み、舌をわせてくる。

「や、何――あ……」

 思わず目を開いたフローラは、自分を真っ直ぐ見つめる熱っぽい目に息を呑んだ。男は視線を逸らさないまま、彼女の手のひらへ唇を移動させ、その中心に、官能的な音を立ててキスをした。
 すると、満足したのか、彼はフローラの手を解放する。だが、今度は彼女の身体を引き寄せて仮面に手を伸ばしてきた。フローラは咄嗟とっさに彼の手首を掴む。

「な、何をなさるおつもりですか……?」
「顔を見せろ」

 彼の言葉に、駆け引きの色はなかった。

「な、なぜ、ですか? 今日は、仮面舞踏会です。顔をさらしては――」
「お前は本名を名乗った。それに、ここには俺しかいない。隠す必要はないだろう? 今、お前の顔を見ても何も変わらない。俺はお前を気に入った。近い内に城へ招いてやる」

 城へ招くという言葉に、フローラは青ざめた。反射的に大きく首を横に振る。
 この男は城に住む者――フラメ王国の王族だ。ならば、尚更自分の素顔を晒すわけにはいかない。フローラは、本来ならこの場にはいなかったはずの人間で、ユッテの仮面をかぶり続けなければならないのだ。

「それでも、今日は――っ」

 フローラが身をよじって男から離れようとすると、彼はチッと舌打ちをして、少し乱暴に彼女の顔を自分に向けさせた。

「ん――!」

 ――熱い。
 先ほどまでフローラの手に触れていた唇が、彼女のそれに重なっている。
 彼のれた舌が唇をなぞり、口内に入り込もうとうごめくのを、フローラは唇を固く引き結んでこばむ。同時に、彼の胸を押し返そうと必死に両腕を突っ張る。しかし、彼は彼女の抵抗を簡単に押さえ込み、大きな手でフローラの後頭部を抱えた。


「……っ、はぁっ……ゃ、んん」

 息苦しさに唇を開いてしまった隙をついて、彼の熱い舌が入り込んでくる。歯列や上顎うわあごをなぞったり、舌を捕らえて吸ったりと、いやらしく彼女を攻め立てた。
 くちゅりと音を立てられると、ぞくぞくと震えが背筋を駆け上がる。

「は……ぅん、ン……」

 唇の隙間かられる声が、自分のものではないような気がした。
 フローラを抱きしめる腕の強さとは対照的に、彼の唇やぬるりと口内をい回る舌の感触は、柔らかくて生々しい。

「ん――っ、ぁっ、んぅ」

 自分が自分ではなくなりそうなあやしい空気に耐えられず、フローラは身をよじる。

「もっとだ……声を聞かせろ」
「ゃ……っ、はっ」

 腰に添えられていた彼の手がゆるりと背筋を辿り、首筋をでる。フローラはビクッと身体を震わせた。

「んぁ……や、め……っ」

 やめてと言いたいのに、こばむ言葉は荒い呼吸と共に彼に呑み込まれてしまう。彼は熱のもった息を吐きつつ、フローラの唇をむさぼっていく。
 ちゅく……と水音が激しくなって、口の端からこぼれ落ちる唾液。どちらのものともわからないそれを、彼の指先がすくい取った。

「……ふ、ン」

 大きな手がフローラの頭を支えるように添えられ、親指で耳のふちをなぞられながらキスが続く。壊れ物に触れるみたいな指の動きがじれったい。
 離れなくてはいけないのに、彼の体温がどんどん近づいてくる。

「いい表情だ……」

 あわい月明かりの下、フローラの反応に満足したのか、彼はそう呟いて笑った。
 ようやく唇を解放されて、空気を取り込もうと大きく息を吸う。冷たい夜風が火照ほてった身体に染み込むのが、今までのキスの熱さを知らしめるかのようで恥ずかしい。

「俺の体温が移ったな」

 フローラの頬にちゅっ、ちゅっと何度もキスをしつつ、彼は彼女の唇に指を滑らせる。

「このまま、今夜は俺と過ごせ」
「嫌です! 私――ン」

 フローラの拒絶が気に入らなかったのか、彼は再び彼女の唇を荒々しくふさいだ。ほんの少しめた体温は、またすぐに熱くなる。

「はっ……や……ッ、んぅ」

 苦しくて熱くて、情熱的なんて言葉では足りないくらいの熱にどうにかなってしまいそうだ。

「もう、やめ――」

 唇が離れる度に訴えるものの、すぐに重なるそれに、フローラは息をすることもままならない。

「んん――ッ」

 逃げられない。フローラの思考が彼の熱に溶けていき、抵抗が弱くなる。その隙をのがさず、彼は彼女の目元をおおう仮面に触れ、上へと引いた――

「やっ――」
「ヴォルフ様」

 突然響いたりんとした女性の声に、彼の動きが止まった。すかさず、フローラは両手で顔をおおって立ち上がり、身体を反転させる。

「お前か」

 彼が、大きなため息をついて立ち上がる気配がした。

「ヴォルフ様、バルトルト様がお呼びです」

 バルトルト様という名前に、フローラの肩が跳ねる。それは、フラメ王国の現国王の名前だ。

「父上には黙っておけと言っただろうが」
「私は何も。バルトルト様の方でお調べになったのではないでしょうか」

 彼は女性がしゃべる度に舌打ちをして、苛立いらだちを表した。
 フローラは震える手で顔を押さえたまま、どうしていいかわからず立ちすくんでいる。

「ユッテ」

 それがフローラに対しての呼びかけだということすら、今の彼女には考える余裕がなかった。とにかく、この場を離れなければならない。フローラがユッテでないと知られてはいけない。頭を駆け巡るのは、そんなことばかり。
 幸い、彼はもう帰らなければならないようだ。このまま、フローラと彼の縁は燃え尽きる――そう安心していると、彼に急に身体を引き寄せられた。

「覚えておけ。俺は、必ずお前を手に入れる」

 フローラをたくましい両腕でふわりと包み込んだ彼は、耳元でささやいてから彼女を解放した。鼓膜こまくを揺らす低い声と「お前を手に入れる」という言葉に、フローラの心がざわめく。
 違う。これはユッテに対しての言葉だ。そう思うのに、彼の言葉が頭の中でリフレインする。
 二人の足音が遠ざかっていく。やがて気配が消えると、フローラはその場に座り込んで、震える指先で唇をなぞった。

「ヴォルフ、様……」

 ヴォルフ・ブレネン――この国に住む誰もが知る、フラメ王国の第一王子。普通なら、フローラのような庶民は、彼に認識すらされないはずだった。
 それなのに、ヴォルフはフローラに火をつけていった。不安という名の小さなともしびを――


   * * *
  

 仮面舞踏会の翌日。ヴォルフはある貴族の邸宅を訪れていた。

「ヴォルフ様がいらっしゃるなんて、私、とても嬉しいですわ」

 彼は、隣に座り猫で声を出しながら腕を絡ませてくるユッテを冷ややかに一瞥いちべつし、彼女の手を払いけた。この手の反応には慣れているものの、不快な気分になることには変わりない。
 彼女たちが自分にびる理由はただ一つ――ヴォルフがフラメ王国の第一王子、つまり次期国王だからである。皆、王妃の座を手に入れるために猫をかぶるのだ。
 フラメ王国は大陸で二番目に大きく、天候も比較的穏やかで豊かな国。ブレネン家という王室はあるが、国政は議会が中心となって動かしていた。議会には穏健派タオブン強硬派ファルケンという二大勢力が存在する。
 ヴォルフがやって来たのは、その穏健派筆頭であるアイブリンガー家。目的は、昨夜、仮面舞踏会で彼に火をつけた〝ユッテ・アイブリンガー〟を見つけること。
 そう、ヴォルフは彼女を気に入ったのだ。
 誰よりも着飾っていながら、壁際で息をひそめる彼女に興味が湧いて近づいてみた。すると、仮面から覗く色素の薄い茶の瞳に魅入みいられてしまったのだ。そして、澄んだソプラノの声に、鼓動が高鳴った。
 消極的な彼女がもどかしくて、なかば強引に外へ連れ出してキスをした。吐息の合間にれる彼女の声は、ヴォルフを甘美にいざない、彼のなけなしの理性を簡単に燃やしてしまった。
 残念ながら、昨夜はヴォルフの不在をぎ付けた側近イェニーにはばまれたが、ヴォルフは彼女を諦めるつもりはない。
 そこで、唯一の手がかりであるアイブリンガー家を訪れたものの……昨夜、ユッテ・アイブリンガーと名乗った女は、このうるさい娘ではない。

「ヴォルフ様、ツレないですわね。今日はお迎えに来てくださったのだと思っていましたのに」

 そう言って、ユッテはまたヴォルフの腕に触れ、上目遣いで見つめてきた。
 あぁ、やはり彼女の瞳とは違う。ユッテの瞳は、色素は薄めだが、どちらかといえば黒い。指先も、爪が長すぎてピアノを弾けるとは思えない有り様だ。

「迎えに、か。それに間違いはない……が」

 ヴォルフが迎えに来たのはユッテであり、ユッテではない。面倒なことになった。
 しかし、ユッテが昨夜の身代わりについて話すとも思えない。どうやって彼女に辿り着けば良いのか、少しでも手がかりがないだろうか。
 ヴォルフが考え込んでいると、不意に軽く扉を叩く音がした。どうやら、来客を知らせにきたようである。彼は視線を窓の外に向けてすぐ、花に囲まれた道を歩いてくる女に気づいた。
 貴族の家を訪れるには少々質素なよそおいの、小柄な女だ。背丈はユッテと同じくらいで、肩より少し長い茶髪は緩くカールしている。ヴォルフは、すぐに〝彼女〟だと直感した。
 ややあってから扉が開き、使用人がユッテに声をかける。

「ユッテ様、ミス・ハルツェンがお見えになりました」
「ヴォルフ様がいらっしゃっているのに、ピアノのレッスンなんかするわけないじゃない! 帰ってもらってちょうだい!」
「ですが、昨日も――」

 ユッテのわがままに、使用人は困ったようにオドオドしている。

(ピアノ? なるほどな)

 どうやら、ヴォルフは運に恵まれているらしい。

「もう! 昨日は昨日、今日は今日なのよ! 大体、ピアノなんて――」
「ユッテ」

 ヴォルフが声を荒らげるユッテを呼ぶと、彼女はくるりと笑顔で振り返った。
 これだけ態度を使い分けることができる娘も、そういないだろう。ヴォルフは内心呆れながらも、昨夜の女に会うためには仕方がないと、フッと口元を緩めてみせる。

「お前のピアノを聴いていこう」

 ユッテの返事は、当然イエスだった。


 ユッテのピアノは、聴くに耐えないものだった。ミスタッチが多くて、何の曲を弾いているのかもわからなくなるほどのレベルだ。
 ピアノの置かれた部屋には、他にもヴァイオリンやフルート、ハープなどの楽器が綺麗に飾られていた。きっと、本当に飾られているだけなのだろう。
 棚には、たくさんの楽譜が並んでいる。特に宗教歌の楽譜が多かった。
 だが、それらがヴォルフの気を引いたのはほんの僅かな時間のみ。彼はユッテのピアノ講師が部屋に入ってきてからずっと、彼女を見つめている。
 フローラ・ハルツェン――彼女は震える声でそう名乗った。昨夜と同じ、澄んだソプラノで。
 昨夜は仮面で目元が隠れていたが、今はハッキリと見える。大きすぎない目や、スッと鼻が高い顔立ちは、可愛いというよりは綺麗と言われる部類だ。
 過度な装飾で昨晩はよくわからなかったが、シンプルな丸襟のワンピースに包まれた彼女の身体は、女性らしい曲線を描いている。
 ユッテの指遣いを直したり、楽譜に注意事項を書き込んだりする度に揺れる茶髪はとても柔らかそうで、触れたいという欲求が湧き上がった。
 観察されているのがわかっているのか、それともヴォルフがこの国の王子だからなのか……フローラは彼の視線におびえているようだ。
 ヴォルフは思わず笑みを浮かべ、ソファから立ち上がった。

「ユッテ、月の欠片かけらを弾いてみろ」

 彼がグランドピアノの屋根に軽く手を添えて言うと、ユッテは一瞬眉をひそめ、フローラは肩をピクリと揺らした。これほどわかりやすい反応をしながら、この二人はまだヴォルフをはかるつもりなのだろうか。

「私、ピアノは始めたばかりですから……ねぇ、先生?」
「え、えぇ……ユッテ様には少し難しい曲ですね」

 フローラはヴォルフから距離を取るかのように、震える足を引いた。

「でも、ヴォルフ様のお好きな曲でしたら、私、頑張って練習いたしますわ。先生、次のレッスン曲は月の欠片にしてちょうだい」

 どちらが先生なのかわからない口調でユッテが言い、フローラが「はい」と返事をする。

「いや、今聴きたい。〝先生〟は弾けるんだろ?」
「い、いえ……あの、私はこれから、すぐに次のレッスンがありますので……」

 ヴォルフが逃げ道をふさごうと畳み掛けると、フローラは慌てて窓際へ駆けて、荷物を手に取った。

「今日はここまでにしましょう。次はいつもの時間に参ります」

 そう早口で言って、フローラは扉へ向かおうとする。ヴォルフは彼女の細い腕を掴んで止めた。

「そのレッスン、俺がキャンセルさせる」
「な、何を――そんなことはできません」

 フローラは目を見開いて首を横に振る。だが、ヴォルフはそれに構わず、側近のイェニーを呼び出すため、人差し指に炎をともす。


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