徒花の先に

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第十五話 新しい朝

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 灼熱に焼かれ、釘が頭を突き刺し、苦しみが身の内で暴れ回る。
 全ての痛苦を浴びながら冷たい暗い闇の中を揺蕩う。だけど俺は一人ではなかった。

 濡れたタオルを額に置かれ、灼熱に悶える身体を癒しに導く。温めばタオルを変えてくれるおかげで額はいつもひんやりと冷たく心地良かった。
 気付けば水が喉を通り、温かな食事を一口一口丁寧に口に運ばれる。

 熱や頭痛に苛まれ、視界がぼやける。だけどその人が誰だかはすぐ分かった。その人は兄だった。

 兄はずっと俺のそばにいてくれた。

 吐き気に催されれば、えずく俺の背を優しく撫でさすり、苦しくて力む俺の手を握る。理性が外れて力一杯握りきっと痛いはずなのにその手は決して離されなかった。

 冷たい闇の中で苦しみに耐え続けても俺は温もりに包まれていた。兄の懐かしい温かさに安心する。

 兄はずっとそばにいてくれた。
 俺はもう一人ではなかった。
 もう一人で苦しまなくていいんだ。

 そう思うとなんだか身体が軽くなった。

 また吐き気が襲う。せっかく食べさせてくれたのにすぐ戻してしまったのが申し訳なかった。だけど謝る余裕は俺にはなかった。

 一度起きてもすぐ意識が沈んでしまう。

 次に瞼を閉じればもう目が覚めない気がした。

 最期にもう一度兄の顔をちゃんと見たかった。兄の笑顔を見て眠りたかった。

 だけど視界は戻ることなく暗がるばかりで……。


 暗闇には抗えず俺は瞳を閉じた。


 海に溺れていくように闇の奥へと沈んでいく。

 だがそこへ一筋の光が差し込む。
 俺を明るく照らし包む光は温かく、どこか懐かしかった。
 昔のあの頃を思い出す。
 遊び疲れて眠ってしまった俺をおんぶする兄の背中、寝込んでいる俺が心細くないようにと握る兄の手。
 光は温かさと優しさに満ちていて、心が救われていくようだった。
 光が強まり、闇が消えていく。思わず眩しさに俺は瞳を閉じた。


 目を開ければ光は既に消えていた。
 だけど温かな日差しを背負った兄がずっと待っていたとでも言うような面持ちで俺を見つめていた。
「……あにうえ?」
 思うように声が出ず、舌足らずにそう首を傾げる。眩しい陽の光に目を細めるが、そこから覗く兄の顔は涙を堪えながら、でも嬉しそうに微笑んでいた。
「おはよう、イライアス」


 状況を理解する暇もなく真っ先に兄は医者を呼んだ。
 医者は俺を診ると驚きを隠せない様子でこう言った。
「全て治っております。こんなことが起ころうとは……まさに奇跡だ」
 どうやら俺は今まで死の淵に立っていたらしい。それはなんとなく分かっていたが、そこから奇跡の回復を果たしたなんて言われても実感は湧かなかった。
 それより仰々しく俺を診ているあたり、もう俺の身体のことは完全にバレてしまっているのだろう。
 外へ出た後の記憶は曖昧だが、もしかしたら兄が俺を運んでくれたのだろうか。だとしたらしくじり方としては最悪だ。
 俺はどこまで不出来なんだ。
 だいぶ落ち込んではいたが、もうこれで無理に隠さなくていいんだという変な安堵感が胸に広がる。

 多分俺の身体のことがバレるのは時間の問題だったのだろう。仕方がないように思えたが、やはりもっとうまくやれたのではと考えてしまう。
 そしてこの俺の扱いよう。くしゃみ一つでもしたら急患と判断されそうな勢いに、もう今まで通りにはいかないのだと実感する。
 医者からは念のため数日は安静にしているように言われ、身体も衰弱しきっているから元の状態に戻せるようにリハビリをしていくとのことだった。

「少し食べれそうか?」
 ベッド際に屈み、俺の具合を窺うように訊ねる兄に声があまり出ない代わりにこくんと頷くと兄は温かなスープを持ってきてくれた。
 掬ったスープをそのまま俺の口元へ近付ける。
 これは飲ませてくれようとしているのだろうか。
 そう感じてぎこちなくスープを飲み込む。
 身体に染み渡るそれは優しい温かな味がした。
 俺の予想は当たっていたようで兄は俺が飲み込んだのを確認するとまた口元へ匙を近付ける。
 気遣いと優しさに満ちたその手つきに本当に兄かと疑ってしまう。だけどどう見たって彼は兄に間違いなくて、その普段とは全く違う様子に終始俺は困惑気味だった。

 でもまるで夢のようだった。
 あの突き放すような冷たい視線ではなく昔のように俺を見てくれる。
 だけどどうしてこんなに俺によくしてくれるのか分からない。
 だって俺はもう兄にとっていらない人間ではないのか。
 兄が俺の看病を朝から晩まで休まずしてくれたことは夢現ながらも憶えている。しかしこの兄の変わりようを肌で感じるとどうしても困惑した。

 兄から手渡された薬を水で流し込むと、髪をくしゃりと撫でられる。
「よく飲めたな。えらい、えらい」
 子どもみたいな扱いに悪い気はしなかった。逆に懐かしさが込み上げてくる。
 小さい頃の俺は薬が苦手で飲むのも一苦労だった。だけどそんな時兄がこうして頭を撫でて毎回褒めてくれたのだ。それが嬉しくて俺は褒めてもらおうと薬が苦くても我慢して飲んだものだ。
 頭から離れていく手が寂しい。
 もっと撫でて欲しかったのに。

 兄は俺のことどう思っているのだろう。俺をいらない人間だと思っているのだろうか。
 頭を撫でられた感触を思い出す。
 でもだとしたらこんなことしないよな……。

「どうした? 眠れないのか??」
 兄が寝かせて布団をかける。だけど一向に眠ろうとせず書類を片手にベッド際の椅子に腰掛けている兄を凝視する俺に兄が首を傾げる。
「っいや……」
「どこか具合が悪いのか? もしかして頭が痛いのか?」
 そう心配そうに額と額をくっつける兄。至近距離で見つめられ、俺の心臓はバクバクと音を立てて今にも口から飛び出しそうだった。
「少し熱いな。待ってろ、今医者を呼んでくる」
「あ、兄上!! だっ大丈夫です。ちょっと布団が多くて熱がこもって暑いなぁって思っていただけなのでっっ」
「……そうだったのか。気付いてやれなくてすまなかったな。しかし万が一ということもあるからやはり医者は呼ぼう」
「ほっ本当に俺は大丈夫です!! もう俺元気いっぱいですから!! ほら見ててください」
 兄を安心させようとベッドから立ち上がるが、瞬間勝手に脚の力が抜ける。
「わっ──!?」
「っっイライアス!!」
 倒れ込む俺を兄が咄嗟に支える。
「大丈夫か? 怪我はないか??」
「……すみません」
 俺をベッドに腰掛けさせると兄は怪我がないかとぐるりと俺を見る。
「寝込んでいたから足の力が弱まったんだろう。しばらくは車椅子だな。明日には届くようあとで頼んでおこう」
 ぶら下がる脚に全く力が入らない。まるで自分のものではないようだった。
「俺……」
 情けなくて顔を上げれなかった。
 一人で立つことも出来ないなんて俺はどれだけ貧弱なんだ。
 俺は狂犬として在らなければいけないのに今の俺は弱った野良犬みたいじゃないか。
 こうして兄を安心させることもできないなんて……。
 現状を受け止めきれず、俯いていると兄が肩に手をそっと置く。
「イライアスこっちを向いてくれないか?」
「……っっ」
「イライアス、もう隠さなくていいんだ。お前のことだ。きっと軍のこととか自分が無力なのは嫌だからとか色々考えてそうしたんだろうが、もう気丈に振る舞わなくたっていいんだ。これからは俺がいる。だからお前が全てを背負う必要はないんだ」
 その囁きは全てを包み込むような優しさに満ちていた。苦痛も苦悩も何もかも全てを兄に委ねてしまいたくなる。
「すまなかった。お前を今まで一人にして。お前のそばにいると誓ったのに俺はそれを守れなかった。逆に俺は自分から遠ざけようと冷たくして、お前を心身共に傷つけた。っっ……俺は本当に最低な兄だ。今更お前に許してもらおうとは思っていない。だけどイライアス、これだけは信じて欲しい。俺はもうお前から離れたりなんかしない。何があっても俺がそばにいる。俺がお前を守る」
 兄が頭を下げて謝っている。
 それだけでなくまるで騎士が主君に跪き忠誠を誓うかのように兄が決意を表す。
 今までの兄とのギャップがありすぎて混乱してしまう。
 意志の強い眼差しに見つめられるもなんて返せばいいか分からず無言でいると、そんな俺を見て兄は苦しむような悲痛な顔つきになる。だけど芯の通った眼差しは変わることがなかった。
「……俺が憎いよな。当然だ。あんな酷いことをお前にしたのだからな。そばにいるなんて言っても逆に迷惑だよな。分かってる、俺がこんなこと言うなんて図々しいにも程がある。だけどどうかお前に尽くすことを許してはくれないだろうか」
「…………」
 その願いを叫ぶような物言いにどれだけ兄が後悔しているのか肌で感じる。俺は兄にこんな顔をさせたいわけじゃない。
 ギャップがありすぎて兄になんて返せばいいか分からないものの、一秒でもこんな顔させたくなかった。
「……俺は……俺は今まで一度も兄上を憎く思ったことなどありません。ですから謝罪なんて俺にはいりません。……だけど兄上がそう仰るのなら俺は全てを許します。だからどうかそんな顔しないでください。俺は兄上には笑っていて欲しいのです」
 言葉に詰まりながらもそう言い切る。
 俺は兄が幸せで笑っていられるならそれだけでいい。俺の願いは変わらずそれだけだ。
 だから兄が許しを請うならそれがなんであれ兄の気持ちが軽くなるよう俺は全てを受け入れる。
「……っっ」
 兄がぐっと何かを呑み込むように笑う。
 その笑みは俺の願いとは程遠い笑みだったが、重い顔つきが軽くなって良かったと安心する。



 結局あの後俺は医者に一度診てもらった。兄は言葉通り決してそばを離れることはなかった。しかし第一皇子としての務めは膨大なようで椅子に腰掛け書類と睨めっこをしていた。
 俺はというと医者から言われた通りベッドで安静にしていたのだが、頭の中はどうしようと焦りでいっぱいだった。

 トイレに行きたい。

 だけど今の俺では一人でなどこの脚では到底無理だ。
 それに多分この俺の状態じゃあ下の世話をさせることになる。そう考えただけで恥ずかしさで死にそうだった。

 幸いにも皇族には野晒しではなく仮設トイレというものがあるのだが、誰かの手助けなしにそこへは辿り着けない。
 そして手助けを求めることが出来る人物と言ったらここには兄しかいない。

 人にましてや兄に連れて行ってと頼むことなんて出来なかった。なによりも兄の手を煩わせてしまうことに俺は耐えれなかった。

 なんとか意識を紛らわせようと脚をもぞもぞさせていると、兄がその物音に気付いて俺に近寄り膝を屈める。
「どうした?」
「いやっっその……」
 心配そうに俺の様子を窺うが、トイレに行きたいなんてやっぱり言えなかった。口籠る俺に心情を知らない兄は更に心配そうに言葉を連ねる。
「やっぱり熱があるんじゃないのか? イライアス我慢しなくていい。どこか辛いとこはあるか?」
「いや……っっえっとその……」
「もしかして頭が痛いのか?? イライアス、無理しなくていい。吐き気はあるか? 話すのが辛いなら頷くか首を振るだけで大丈夫だからな」
「兄上っっその違くて……あの俺、トイレに……!!」
 あまりにも早い兄の看病への切り替えにまた今にも医者を呼ばれそうで口籠もりながらも慌てて俺はそう伝える。
 広がる沈黙。
 物凄い速さで羞恥に顔が真っ赤になる。
 やっぱり無理!!
「すみませんっっ、やっぱなんでもないですっっ」
 そう言って俺は一か八かで一人で立ち上がろうと試みる。
 だけどやはり思い通りにはいかなくて結局兄に支えられてしまった。
「っっイライアス、大丈夫か!?」
「……ごめんなさい」
 もうなんだか泣きたくなってきた。
 こんな歩くなんて簡単なこともできずにこうして兄に頼ることしかできないなんて憤りさえ感じてきた。
 兄の手を煩わせたくないのに。
「なぜ謝る? 謝らなければならないのは俺の方だ。気付いてやれなくてすまなかったな。今連れていくからそれまで少し我慢できるか?」
「……っっえ!?」
 気づくや否や俺はいつの間にか兄に抱き抱えられてしまった。
 眼前に近づいた兄の美しい相貌に胸がドキリとする。
「これからは行きたい時は俺に言ってくれ。今のお前は一人では危ないんだ。だから遠慮せずに俺を頼れ」
 そう真剣に間近で言われれば俺は「はい」と頷くしかなかった。
 俺を抱える兄の表情からは面倒臭さや憂鬱さが全く感じられない。
 その様子に本当に以前の兄とは違うのだなと実感する。
 もしかしたら俺は兄にとっていらない存在ではないのかもしれない。
 兄に愛情を求めてはいけないのにそう期待せずにはいられなかった。


「っっありがとうございます。あとはもう大丈夫ですのでっっ!!」
 有無を言わせないように兄が俺を便座に座らせた途端にそう声を張り上げて半ば強引に追い出そうとしたのに、兄は出て行く素振りを見せない。
「いや一人では無理だろ。ほら掴まってろ」
「あ、兄上っっ!?」
 脱がしにかかる兄の腕を払おうと抵抗しようとするが、衰弱した身体ではやはり無理で、逆に立たされたことで姿勢を崩さないように兄の言う通りギュッと掴んでしまっていた。

 ふと思い出す。
 下腹部に紫色の曲線美で描かれた蝶の術式。
 朧げながらも頭には、術式を見られないようにと着替えさせようとする兄をなんとか遠ざけた記憶が残っている。
 だが今、脱がされてしまえばあれを見られてしまうのではないか!?


「っっ兄上!! ちょっ待って──」
 そう焦って手を止めようとするが、瞬間陽に当たっていない白い肌が直に晒される。
 幸い術式は裾が長かったおかげで見えることはなかった。だが下を兄の前で全て晒してしまったことに羞恥で顔が赤くなる。
「……うっ……っっ」
 恥ずかしさで泣き出しそうになる俺とは裏腹に兄はなんでもなさそうに再び便座に俺を座らせる。
 なぜそんな平気なのだろうかと思ったが、俺をずっと看病してくれていた兄は俺の排泄の度にこうしてくれていたのだから今更なんとも思っていないのかもしれない。
 俺だけが羞恥を感じている状況に更に恥ずかしさが増す。
 しかも兄は出て行こうとはせず俺が終わるのを目の前で待つつもりのようだった。
「兄上……その、手間をかけさせてしまって申し訳ないのですが……で、出て行ってもらえると……」
「イライアス、すまないがそれはできそうにない。今のお前は一人では危ないからな。目を離さない方がいいんだ」
 せめてもと思い切って兄にお願いするが、そう言い切られてしまえば俺はこれ以上何も言えなかった。
 だからと言って簡単に出せるわけもなく兄に見られてしまうのが嫌で俺は悶々と我慢していた。
「どうした? うまく出ないのか?」
 そうこうしているうちに兄が近寄り、顔を覗き込まれてしまう。兄はなんとも思っていないのに兄上がいるから出せないんだと、俺だけが意識しているようで恥ずかしくて言えるはずがなく、じっと俯き黙ったままでいると兄が何か考え込むような表情を浮かべふと兄の手が裾から中に入り込む。
 びくりと身体を震わす俺を余所に兄はへその下を優しく摩る。
「っっえ……」
「どうだ? 出そうにないか?」
 どうやら兄は俺のためにマッサージをしてくれているらしかった。だけど先程より距離が格段と近くなってしまって更に恥じらいを感じる。到底出すことは無理だった。
 そんな俺を見て兄はやり方を変えて、ぐっぐっとお腹を押してきた。今にも出したいのにその刺激は俺にとって毒だった。
「兄上っっ……おねがっ、やめっっ……!!」
「ゆっくりでいい。ほらしーってしてごらん」
 兄にとって俺は幼子のままなのかそう耳元で囁かれれば、限界はもう目前に迫っていた。
 最後に強めにぐっとお腹を押されてしまい、俺の我慢が決壊する。
「あっ…………」
 チョロチョロと液体がゆっくりと先っぽから流れ出る。なんとか止めようと踏ん張るが、どうしてたって無理で無情にも零れ落ちる音だけが室内を響かせる。
 その様子を静かに見守る兄に俺は早く終われと願うばかりだったが、兄の前で失態をしでかすわけにもいかず飛び散らないように苦労するはめになり量も多いために終わるまでに相当時間をかけてしまった。
「上手にできたな。えらい、えらい」
 そう言って兄が俺の頭をポンポンと撫でる。
 俺は子どもじゃないのにと思いながらも褒められて嬉しく思ってしまったのは否めない。
 だけど甲斐甲斐しくトイレットペーパーで拭かれそうになった際には「っっ自分で出来ます!」と奪うように兄の手からぶん取った。
 大丈夫かと不安そうに見守る兄だったが、ポタポタと垂れる雫を拭う状況に俺は兄の前でしてしまったのだと改めて実感して顔が真っ赤に染まる。
 毎度これを経験することになるのかと考えていると気が遠くなりそうだった。
 兄の変わりようと昔よりかなり増した過保護さに俺は未だ混乱しっぱなしだった。

 だけど兄がそばにいてくれていることに俺の心は満たされていた。
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