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第十二話 頼み
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※アラン視点
イライアスには戦場に出て欲しくない。
それが俺の想いだった。
剣術だけは優れていた弟は戦場で名を揚げ、国はその別格の強さに頼らざるを得なくなった。だから父にイライアスから軍の指揮権を取り上げさせるように言っても無駄だった。
イライアスに任せればどんな戦にも勝てる。
父は弟を信頼していた。俺も国を守る騎士として信頼してはいたが、命の奪い合いをする戦場には出したくはなかった。
しかもイライアスはしょっちゅう戦争を帝国に持ち込んだ。それ故に戦場に出られないよう画策しようにもその本人が遠方に行っているわけだから機会はなく、毎度成果をあげるものだからたとえ何かしらの罪を負わせて指揮権を奪おうとしても国はそれだけでは手放さなくなってしまった。
俺が戦場へ赴き、弟以上の結果を出せば指揮権を奪えたかもしれないが、次の皇帝が俺である以上戦場に出ること自体許されなかった。
だからこの頃妙にイライアスが落ち着いているのは好都合だった。機会はもう十分にあった。
これでやっとイライアスを戦場から遠ざけることができる。
戦場に出られないようにするといってもイライアスを慕う仲間たちの前で憧憬を曇らせるほどの惨敗を見せつけるだけのつもりだった。そうして仲間の信頼を失わせ立場を揺るがし俺が代わりに指揮権を握る。
それにそうすることでイライアスも無理をして戦場に出ることはないだろうと考えた。
イライアスは軍の者から頼られ、その期待に応えなければならない。だから戦場へ出るのだと以前そう言っていた。
だが信頼を失えば誰もイライアスを頼ろうとも期待を寄せようともしない。
手荒だがイライアスの肩の荷も下りる。
そういう手筈だった。アイツが現れるまでは。
馴れ馴れしく肩を組み、あろうことか「イーライ」と愛称で呼ぶ。
心がどす黒く染まっていく。
しかもイライアスは俺の言いつけを無視し、アイツと戯れる始末。しかしじゃれあいにしてはあれは行き過ぎていた。
赤髪に殺意が湧く。
イライアスは鬱陶しそうにイェルクをあしらってはいたが、俺には決して見せないその砕けた振る舞いに心はどんどん蝕まれていった。
イライアスが遠くに行ってしまうような気がした。
ここで徹底的に潰さなければと思った。
イェルクは力の強い者に目をつける。他国から逃げ出した奴隷の剣闘士をその剣術の高さを買って囲ったこともあった。
イェルクの関心を失えばイライアスを失うこともなくなる。
惨敗どころでは生温い。イェルクが失望するくらい圧倒的な力の差を見せつける必要があった。
だから骨を折った。
何度も蹴り上げ、傷つけた。
目的遂行のため感情は消した。後悔はしていない。だけど──。
『…………にいちゃっ』
弟の縋るような声が頭から離れない。
なにか取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという感覚に襲われる。
頭に同じ光景が何回も浮かび上がる。
縋る弟の手、悲痛な叫び。
演習に参加するため大方の務めは終えてきたが、それでもやるべきことは残っている。時間は有限だというに、机に盛り沢山置かれた書類は未だ手つかずのままだった。何回か書類に向き合うがそれでも集中できそうになかった。
ペンを置き、気分転換でもと外へ出る。
基地に広がる白いテント群には明かりが灯り、ひんやりとした空気に指先が冷たくなる。
突然、ボフンと何かが俺に飛びついてきた。
「アラン兄様!!」
星のように瞬く金の髪。空を閉じこめたような碧眼。見上げてふわりと微笑むその顔はとてもかわいらしく溶けてしまいそうだった。
俺の弟、ノエル。
もう一つのイライアスの魂を宿す大切なかわいい弟。
愛おしくて仕方がない。
だが今は癒しより心配が優った。
「ノエル、どうしたんだ!? なぜこんなところにいる??」
「アラン兄様が演習で宮廷からいなくなっちゃったでしょ? それで寂しくなって来ちゃった! 大丈夫、お父様から外出の許可はもらってるよ!」
「そういうことじゃないだろう! 父上が了承したからといってこんな夜更けに来てはいけないだろう。外には魔物や盗賊もいるんだぞ!?」
ノエルの身に何かあってはたまらない。
思わず声を荒げると、ノエルは小さく縮こまり「ご、ごめんなさい……」と慌てて謝る。
「……でもどうしても兄様に会いたくて」
そう上目遣いで吐露するノエルに俺の心は安らぎを取り戻していく。こんな風に見つめられてはもう怒りようもない。
「はぁ、次からは気をつけるんだぞ。原則移動は昼のみだ。夜は危ないからな。分かったか??」
「うん! 分かった!」
そう元気いっぱいにノエルは返事するがここへ来るのに数日はかかる。きっと疲れているだろう。
「ずっと移動しっぱなしで疲れたろう? だからノエル、今日はもうおやすみしようか」
「えっやだやだ。だって僕、いっぱい兄様とお話したいのに!」
「大丈夫、目が覚めたって俺はどこにもいなくなりはしないさ。だから明日たくさんお話しよう?」
そう宥めると、ノエルは不服そうではあったが「……うん」と返事をしてくれた。小さな手を取りノエルを寝かせに行く。
ベッドに入って「何かお話をして」と強請るノエルにおとぎ話を一つすると、すぅすぅと穏やかな寝息を立ててあの子は眠ってしまった。
目に入れても痛くないとはこういうことなんだと実感する。できるならずっとここで寝顔を見ていたい。
もう一つのイライアスの魂を宿す弟、ノエル。
ノエルはよく笑い、いつも元気だ。熱に浮かされることも病気に罹ったりもしない。
朝になっても目を覚さないなんてことは決して起きない。
ノエルの寝顔を目に焼き付け、外に出る。
すると待ち伏せしていたのか、いけ好かないあの赤髪が怒りの色を静かに帯びた瞳でこちらを睨んでいた。無視して通り過ぎようとするとイェルクが一方的に話しかけてきた。
「なぁ? なぜここまで扱いが違うんだ?? お前ら兄弟だろう?」
どうやらイェルクはノエルと俺が話していたところを見ていたらしい。ノエルを見られたことに苛立ちが募る。
それにこの物言い。まるでイライアスのためを思って言っているようだった。イライアスが俺に見るも無残に負けたことをイェルクも既に知っているはずだ。なのに興味は失ってはいないようだった。思いがけない誤算に更に苛立ちは増す。
「それはイライアスとノエルのことを指して言っているのか?」
「ったりめぇだろうが。アイツのことあんなに痛めつけやがって。胸糞悪りぃ。継承権争いかは知らねぇがお前アイツのことそこまで憎いのか??」
見当違いな問いかけに思わず笑いが漏れる。
「憎い? そんなわけないだろう。イライアスは俺の弟だ。憎悪なんて抱くわけない。それに継承権争いなど弟となんてしないさ」
「ならなぜあそこまでした!?」
「弟のためだ」
そうはっきり断言する。だがイェルクは納得していないようだった。
「……俺はそれだけとは思えないがな」
その言葉にイェルクとイライアスが戯れているのを見た時のような黒い感情を思い出す。その感情に揺られ徹底的に潰すと判断したことは否めない。
イェルクの言うように弟のためだけでなく動いたのは確かだ。
だが何のためだと言葉にすることも出来なかった。
俺を突き動かす黒い感情。それさえも俺には分からなかったのだ。
「たとえそうだとしても辻褄が合わねぇ。聞くところによるとお前、末っ子には甘くてイーライにはキツい態度らしいじゃねぇか。俺の目から見てもお前らの仲が良いとは思えねぇ。お前アイツのこと憎くはなくとも嫌いなんじゃないのか? なのに弟のためだとか言ってよ。言葉と行動がちぐはぐなんだよ」
そう言われて初めて振り返る。
確かに日々イライアスを避けていたと思う。
ひどい言葉を幾度も浴びせもした。
「そうなのか? 俺は……」
俺はイライアスのことが嫌い。
憎いだなんて思ったことはない。しかしだからって嫌いだというのもしっくりこない。
ただ俺はイライアスを見たくはなかった。あの子を瞳に映すと俺は暗い何かに覆われて壊れてしまいそうだった。会う度に磔刑でもされているかのような痛みが心を支配する。
だからなるべく視界に入れないようにした。
冷たくしたのも罵倒を浴びせたのもそうすれば弟が俺から離れてくれると思ったからだった。
だが弟はそれでも俺を「兄上」と慕ってくれた。
でもそれは俺にとって苦痛でしかなかった。
漠然とした俺の様子にイェルクはしびれを切らしたようでチッと舌打ちをする。
「俺はお前みたいな奴が一番嫌いだ。自分のこともよく分からねぇ。だが人を傷つけるのだけはいっぱしか? そんな信念も何もないような奴が兄だなんてイーライが浮かばれねぇ」
人を傷つける。
それはイライアスのことだ。
イライアスが暴力を振るわれ、罵倒を浴びせられ傷つかないはずはない。
そう考えたところで俺はどうしようもない罪の意識と逃げ出したくなる衝動に襲われる。
そんな俺にイェルクはもう何も言うことはないとばかりに背を向け歩き出す。
離れる背に激情と衝動は収まっていく。
だがその背を見て俺の求めていた人物がイェルクのような気がした。
イェルクはいけ好かないが、あくまで第一皇子である俺にはっきりと物を言うあたり信用できる奴のように思えた。それにイェルクは魔術大国の現皇帝。魔法には詳しいはずだ。
イェルクにならあのことを頼める、そう思った。
「おい!」
そう呼び止めると嫌な顔をしてイェルクが振り返る。
「中で少し呑んでいかないか?」
「……なんでアンタなんかと。それに俺には用事があって──」
「君に頼みたいことがあるんだ。だからお願いだ」
そう強く言えばイェルクは訝しげな表情をする。そうして返ってきたのはノーだった。
「嫌だね。ダチの頼みなら快く受けるが、アンタはダチでもなんでもねぇ。他をあたりな」
「タダで頼むわけじゃない。見返りはするさ」
「見返り?」
「君の要望を一つ叶えよう。国に関することでも私的なことでも。もちろん俺の出来うる限りでだがな」
「…………」
すかさず提案するとイェルクは考え込むように押し黙る。その様子に次はイェスだと確信する。
「いいだろう。ただ約束は守れよ」
イェルクはそう言うと「さっさと済ませようぜ」と先にテントの中へと入って行った。
談話室として使われるそこには様々な酒が棚にずらりと置いてある。適当にその中から一つ取り出しグラスに注ぎ、それをイェルクにやろうとすれば彼はというと思うままに酒を注ぎソファの肘置きに軽く腰掛け先に呑んでいた。
「で? 頼みってなんだ??」
早く済ませたいとばかりにイェルクが訊ねる。
「君は魔法には詳しいだろう?」
「ああ。一通りはできるが、なんだ? それと何か関係があるのか?」
「単刀直入に言う。分裂した魂を一つにすることはできるか?」
「…………は?」
思いもよらない切り出しにイェルクが目を丸くし唖然とする。話を飲み込めないのだろう。戸惑ったような面持ちで首を傾げる。
「……それって魔法の実験の話か何かか?」
「違う。これはノエルとイライアスのことだ」
「ノエルってあの末っ子のことだよな。はっ? いや全然意味分かんねぇ。分裂した魂? なんでそれに二人が関わってくるんだ??」
「驚くかもしれないが、ノエルはイライアスの魂を生まれついて宿していたんだ。気付いたのはノエルが正式に宮廷へと入ってしばらく経ってからだった。他の者は気付かなかったが、普段イライアスを目にしている俺には分かった。ノエルはイライアスそのものだったんだ」
衝撃のあまりイェルクは言葉を失っているようだった。
「なぜイライアスの魂が分裂したのか、それは俺にもよく分からない。だが今は原因究明などどうでもいい。即急に分裂した魂をノエルの身体で一つにする必要がある。だから君の手を借りたい」
そう頼むも、まだイェルクは話を理解していないようだった。
なぜ分裂した魂をノエルの方へと一つにするのか分かっていないのだろうか。
そう思い説明を加える。
「今はなんともないがイライアスは以前病弱だった。だがいつかまた身体が弱るのかは分からない。再び昔のように身体が戻ればいつ危篤になってもおかしくない状態になってしまう。だからそうなる前にノエルの身体に魂を移しておきたいんだ」
イライアスの身体のことを知らなかったのだろうか。イェルクがショックを受けたように顔を歪める。
グラスをテーブルに置き、俺はまっすぐイェルクと向き合う。
「この話は今まで誰にも言ったことはない。我が帝国は魔法には疎いからな。話してしまえば俺は頭がおかしいと思われかねない。それにこの類の話は頼む相手を間違えるとまずいどころでは済まないからな。俺の弟の魂に関わることだ。だから信用できる相手に頼みたかった。君は見るところ信用は出来そうだし、魔法にも詳しい。故に君に話した。だからどうか君の力を貸してくれないか?」
嘘偽りなく誠心誠意全てを話した。だから返事には期待していた。だが──。
「…………狂ってる」
そう一言イェルクは呟くように言った。
俺が狂ってる??
なぜそんなことを言うのかさっぱり分からなかった。
「っアラン殿下!!」
突然騎士が談話室に入り込み、焦ったように俺の名を呼ぶ。
「どうした??」
その慌てように俺も身構える。
「イライアス殿下が……」
続く言葉に俺の平常心は鈍い音を立てて簡単に崩れ落ちた。
イライアスには戦場に出て欲しくない。
それが俺の想いだった。
剣術だけは優れていた弟は戦場で名を揚げ、国はその別格の強さに頼らざるを得なくなった。だから父にイライアスから軍の指揮権を取り上げさせるように言っても無駄だった。
イライアスに任せればどんな戦にも勝てる。
父は弟を信頼していた。俺も国を守る騎士として信頼してはいたが、命の奪い合いをする戦場には出したくはなかった。
しかもイライアスはしょっちゅう戦争を帝国に持ち込んだ。それ故に戦場に出られないよう画策しようにもその本人が遠方に行っているわけだから機会はなく、毎度成果をあげるものだからたとえ何かしらの罪を負わせて指揮権を奪おうとしても国はそれだけでは手放さなくなってしまった。
俺が戦場へ赴き、弟以上の結果を出せば指揮権を奪えたかもしれないが、次の皇帝が俺である以上戦場に出ること自体許されなかった。
だからこの頃妙にイライアスが落ち着いているのは好都合だった。機会はもう十分にあった。
これでやっとイライアスを戦場から遠ざけることができる。
戦場に出られないようにするといってもイライアスを慕う仲間たちの前で憧憬を曇らせるほどの惨敗を見せつけるだけのつもりだった。そうして仲間の信頼を失わせ立場を揺るがし俺が代わりに指揮権を握る。
それにそうすることでイライアスも無理をして戦場に出ることはないだろうと考えた。
イライアスは軍の者から頼られ、その期待に応えなければならない。だから戦場へ出るのだと以前そう言っていた。
だが信頼を失えば誰もイライアスを頼ろうとも期待を寄せようともしない。
手荒だがイライアスの肩の荷も下りる。
そういう手筈だった。アイツが現れるまでは。
馴れ馴れしく肩を組み、あろうことか「イーライ」と愛称で呼ぶ。
心がどす黒く染まっていく。
しかもイライアスは俺の言いつけを無視し、アイツと戯れる始末。しかしじゃれあいにしてはあれは行き過ぎていた。
赤髪に殺意が湧く。
イライアスは鬱陶しそうにイェルクをあしらってはいたが、俺には決して見せないその砕けた振る舞いに心はどんどん蝕まれていった。
イライアスが遠くに行ってしまうような気がした。
ここで徹底的に潰さなければと思った。
イェルクは力の強い者に目をつける。他国から逃げ出した奴隷の剣闘士をその剣術の高さを買って囲ったこともあった。
イェルクの関心を失えばイライアスを失うこともなくなる。
惨敗どころでは生温い。イェルクが失望するくらい圧倒的な力の差を見せつける必要があった。
だから骨を折った。
何度も蹴り上げ、傷つけた。
目的遂行のため感情は消した。後悔はしていない。だけど──。
『…………にいちゃっ』
弟の縋るような声が頭から離れない。
なにか取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという感覚に襲われる。
頭に同じ光景が何回も浮かび上がる。
縋る弟の手、悲痛な叫び。
演習に参加するため大方の務めは終えてきたが、それでもやるべきことは残っている。時間は有限だというに、机に盛り沢山置かれた書類は未だ手つかずのままだった。何回か書類に向き合うがそれでも集中できそうになかった。
ペンを置き、気分転換でもと外へ出る。
基地に広がる白いテント群には明かりが灯り、ひんやりとした空気に指先が冷たくなる。
突然、ボフンと何かが俺に飛びついてきた。
「アラン兄様!!」
星のように瞬く金の髪。空を閉じこめたような碧眼。見上げてふわりと微笑むその顔はとてもかわいらしく溶けてしまいそうだった。
俺の弟、ノエル。
もう一つのイライアスの魂を宿す大切なかわいい弟。
愛おしくて仕方がない。
だが今は癒しより心配が優った。
「ノエル、どうしたんだ!? なぜこんなところにいる??」
「アラン兄様が演習で宮廷からいなくなっちゃったでしょ? それで寂しくなって来ちゃった! 大丈夫、お父様から外出の許可はもらってるよ!」
「そういうことじゃないだろう! 父上が了承したからといってこんな夜更けに来てはいけないだろう。外には魔物や盗賊もいるんだぞ!?」
ノエルの身に何かあってはたまらない。
思わず声を荒げると、ノエルは小さく縮こまり「ご、ごめんなさい……」と慌てて謝る。
「……でもどうしても兄様に会いたくて」
そう上目遣いで吐露するノエルに俺の心は安らぎを取り戻していく。こんな風に見つめられてはもう怒りようもない。
「はぁ、次からは気をつけるんだぞ。原則移動は昼のみだ。夜は危ないからな。分かったか??」
「うん! 分かった!」
そう元気いっぱいにノエルは返事するがここへ来るのに数日はかかる。きっと疲れているだろう。
「ずっと移動しっぱなしで疲れたろう? だからノエル、今日はもうおやすみしようか」
「えっやだやだ。だって僕、いっぱい兄様とお話したいのに!」
「大丈夫、目が覚めたって俺はどこにもいなくなりはしないさ。だから明日たくさんお話しよう?」
そう宥めると、ノエルは不服そうではあったが「……うん」と返事をしてくれた。小さな手を取りノエルを寝かせに行く。
ベッドに入って「何かお話をして」と強請るノエルにおとぎ話を一つすると、すぅすぅと穏やかな寝息を立ててあの子は眠ってしまった。
目に入れても痛くないとはこういうことなんだと実感する。できるならずっとここで寝顔を見ていたい。
もう一つのイライアスの魂を宿す弟、ノエル。
ノエルはよく笑い、いつも元気だ。熱に浮かされることも病気に罹ったりもしない。
朝になっても目を覚さないなんてことは決して起きない。
ノエルの寝顔を目に焼き付け、外に出る。
すると待ち伏せしていたのか、いけ好かないあの赤髪が怒りの色を静かに帯びた瞳でこちらを睨んでいた。無視して通り過ぎようとするとイェルクが一方的に話しかけてきた。
「なぁ? なぜここまで扱いが違うんだ?? お前ら兄弟だろう?」
どうやらイェルクはノエルと俺が話していたところを見ていたらしい。ノエルを見られたことに苛立ちが募る。
それにこの物言い。まるでイライアスのためを思って言っているようだった。イライアスが俺に見るも無残に負けたことをイェルクも既に知っているはずだ。なのに興味は失ってはいないようだった。思いがけない誤算に更に苛立ちは増す。
「それはイライアスとノエルのことを指して言っているのか?」
「ったりめぇだろうが。アイツのことあんなに痛めつけやがって。胸糞悪りぃ。継承権争いかは知らねぇがお前アイツのことそこまで憎いのか??」
見当違いな問いかけに思わず笑いが漏れる。
「憎い? そんなわけないだろう。イライアスは俺の弟だ。憎悪なんて抱くわけない。それに継承権争いなど弟となんてしないさ」
「ならなぜあそこまでした!?」
「弟のためだ」
そうはっきり断言する。だがイェルクは納得していないようだった。
「……俺はそれだけとは思えないがな」
その言葉にイェルクとイライアスが戯れているのを見た時のような黒い感情を思い出す。その感情に揺られ徹底的に潰すと判断したことは否めない。
イェルクの言うように弟のためだけでなく動いたのは確かだ。
だが何のためだと言葉にすることも出来なかった。
俺を突き動かす黒い感情。それさえも俺には分からなかったのだ。
「たとえそうだとしても辻褄が合わねぇ。聞くところによるとお前、末っ子には甘くてイーライにはキツい態度らしいじゃねぇか。俺の目から見てもお前らの仲が良いとは思えねぇ。お前アイツのこと憎くはなくとも嫌いなんじゃないのか? なのに弟のためだとか言ってよ。言葉と行動がちぐはぐなんだよ」
そう言われて初めて振り返る。
確かに日々イライアスを避けていたと思う。
ひどい言葉を幾度も浴びせもした。
「そうなのか? 俺は……」
俺はイライアスのことが嫌い。
憎いだなんて思ったことはない。しかしだからって嫌いだというのもしっくりこない。
ただ俺はイライアスを見たくはなかった。あの子を瞳に映すと俺は暗い何かに覆われて壊れてしまいそうだった。会う度に磔刑でもされているかのような痛みが心を支配する。
だからなるべく視界に入れないようにした。
冷たくしたのも罵倒を浴びせたのもそうすれば弟が俺から離れてくれると思ったからだった。
だが弟はそれでも俺を「兄上」と慕ってくれた。
でもそれは俺にとって苦痛でしかなかった。
漠然とした俺の様子にイェルクはしびれを切らしたようでチッと舌打ちをする。
「俺はお前みたいな奴が一番嫌いだ。自分のこともよく分からねぇ。だが人を傷つけるのだけはいっぱしか? そんな信念も何もないような奴が兄だなんてイーライが浮かばれねぇ」
人を傷つける。
それはイライアスのことだ。
イライアスが暴力を振るわれ、罵倒を浴びせられ傷つかないはずはない。
そう考えたところで俺はどうしようもない罪の意識と逃げ出したくなる衝動に襲われる。
そんな俺にイェルクはもう何も言うことはないとばかりに背を向け歩き出す。
離れる背に激情と衝動は収まっていく。
だがその背を見て俺の求めていた人物がイェルクのような気がした。
イェルクはいけ好かないが、あくまで第一皇子である俺にはっきりと物を言うあたり信用できる奴のように思えた。それにイェルクは魔術大国の現皇帝。魔法には詳しいはずだ。
イェルクにならあのことを頼める、そう思った。
「おい!」
そう呼び止めると嫌な顔をしてイェルクが振り返る。
「中で少し呑んでいかないか?」
「……なんでアンタなんかと。それに俺には用事があって──」
「君に頼みたいことがあるんだ。だからお願いだ」
そう強く言えばイェルクは訝しげな表情をする。そうして返ってきたのはノーだった。
「嫌だね。ダチの頼みなら快く受けるが、アンタはダチでもなんでもねぇ。他をあたりな」
「タダで頼むわけじゃない。見返りはするさ」
「見返り?」
「君の要望を一つ叶えよう。国に関することでも私的なことでも。もちろん俺の出来うる限りでだがな」
「…………」
すかさず提案するとイェルクは考え込むように押し黙る。その様子に次はイェスだと確信する。
「いいだろう。ただ約束は守れよ」
イェルクはそう言うと「さっさと済ませようぜ」と先にテントの中へと入って行った。
談話室として使われるそこには様々な酒が棚にずらりと置いてある。適当にその中から一つ取り出しグラスに注ぎ、それをイェルクにやろうとすれば彼はというと思うままに酒を注ぎソファの肘置きに軽く腰掛け先に呑んでいた。
「で? 頼みってなんだ??」
早く済ませたいとばかりにイェルクが訊ねる。
「君は魔法には詳しいだろう?」
「ああ。一通りはできるが、なんだ? それと何か関係があるのか?」
「単刀直入に言う。分裂した魂を一つにすることはできるか?」
「…………は?」
思いもよらない切り出しにイェルクが目を丸くし唖然とする。話を飲み込めないのだろう。戸惑ったような面持ちで首を傾げる。
「……それって魔法の実験の話か何かか?」
「違う。これはノエルとイライアスのことだ」
「ノエルってあの末っ子のことだよな。はっ? いや全然意味分かんねぇ。分裂した魂? なんでそれに二人が関わってくるんだ??」
「驚くかもしれないが、ノエルはイライアスの魂を生まれついて宿していたんだ。気付いたのはノエルが正式に宮廷へと入ってしばらく経ってからだった。他の者は気付かなかったが、普段イライアスを目にしている俺には分かった。ノエルはイライアスそのものだったんだ」
衝撃のあまりイェルクは言葉を失っているようだった。
「なぜイライアスの魂が分裂したのか、それは俺にもよく分からない。だが今は原因究明などどうでもいい。即急に分裂した魂をノエルの身体で一つにする必要がある。だから君の手を借りたい」
そう頼むも、まだイェルクは話を理解していないようだった。
なぜ分裂した魂をノエルの方へと一つにするのか分かっていないのだろうか。
そう思い説明を加える。
「今はなんともないがイライアスは以前病弱だった。だがいつかまた身体が弱るのかは分からない。再び昔のように身体が戻ればいつ危篤になってもおかしくない状態になってしまう。だからそうなる前にノエルの身体に魂を移しておきたいんだ」
イライアスの身体のことを知らなかったのだろうか。イェルクがショックを受けたように顔を歪める。
グラスをテーブルに置き、俺はまっすぐイェルクと向き合う。
「この話は今まで誰にも言ったことはない。我が帝国は魔法には疎いからな。話してしまえば俺は頭がおかしいと思われかねない。それにこの類の話は頼む相手を間違えるとまずいどころでは済まないからな。俺の弟の魂に関わることだ。だから信用できる相手に頼みたかった。君は見るところ信用は出来そうだし、魔法にも詳しい。故に君に話した。だからどうか君の力を貸してくれないか?」
嘘偽りなく誠心誠意全てを話した。だから返事には期待していた。だが──。
「…………狂ってる」
そう一言イェルクは呟くように言った。
俺が狂ってる??
なぜそんなことを言うのかさっぱり分からなかった。
「っアラン殿下!!」
突然騎士が談話室に入り込み、焦ったように俺の名を呼ぶ。
「どうした??」
その慌てように俺も身構える。
「イライアス殿下が……」
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