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第十話 変動
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後から兄に訊いたところ、自身が演習に出ることは既に決まっていたものの、執務で忙しく出る見込みが完全には取れないことから他国には軍事演習にはいない者として扱ってくれと言っていたらしい。だから俺も知らなかったと。
だけど兄は全てを終わらせ急遽演習に参加している。それによる計画変更も兄が事前に用意していたらしく演習は滞りなく行われた。俺にとってその一連の流れは兄が必ず演習に参加できると確信していたように思えた。
兄が馬に跨り軍を指揮している。
未来が大きく変わった。
その姿を見た俺はそう強く実感した。
そして不安が俺の心を覆い尽くす。演習になんて出たことのない兄が参加している。戦場だなんて滅多に出ない。その事実は俺にとって大きなことだった。
何の心変わりだろうか。演習にも出たということは戦場にもこれから積極的に出るということだろうか。
戦争なんて俺がいれば充分なのに。
もし戦争で兄が傷ついてでもしたら俺は……。
そうして不安で押し潰されそうになったところで俺は考えを振り払った。
兄を想ってはいけないのに第一に考えてしまう。それは駄目なんだ。想ってしまえば兄を不幸にしてしまう。
だけどそう分かっていてもどうしても考えてしまう。
戦争で兄が傷ついたらと。そして最悪の事態も。その未来が視えたところで俺は正気を保つのにやっとだった。
もし最悪の未来になれば俺はもう人ではなくなる。全てを壊し尽くすまで暴れ回る。そんな気がした。
そもそも俺と兄は家族なんだ。だから兄の身を案じるのは普通だ。そう俺は半ば強引に納得する。この想いは家族へ向けるには重すぎることをどこかで理解しながら。
四六時中兄のことを考えてしまう。こんな状態の俺がまともに演習を行えていたかといえば否だ。軍への指揮は劣らずしてはいたが、俺自身の動きが悪く、それに応じて軍全体の動きも悪くなっていた。幾たびの戦争を乗り越えてきた経験の多さ故、今のところ大きなミスはないのが幸いか。
少しばかりのテントが広がった草原。演習を終えて騎士が各々休み、同じく俺も休憩していると早速イェルクが俺に近付いてきた。イェルクは戦士として名高く、騎士として名を揚げている俺に興味があるのだろう。
だけど俺はイェルクには関わるなという兄からの言いつけがある。それを破るわけにはいかない。
イェルクが「お疲れさん」と水を差し出してくるが、顔を背け布で汗を拭う。
「イーライ?」
「…………」
「イーライどうしたんだ?」
イェルクが心配そうに首を傾げる。だけどずっと無言のままの俺に無視されていると気付いたらしい。にししと悪戯っぽい笑みをちらっと浮かべ、俺に迫ってきた。
「イーライ、イーライ、イーライ、イーライ」
「…………」
「イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ」
イェルクが呪文のように俺の名を馬鹿みたいに呼び続ける。
うっっっっざ。
返事しなければその苦痛と言うべき雑音が永遠に続きそうで俺はもう耐えられなかった。
「……なんだ?」
兄のことで頭がいっぱいなのにこの面倒臭さ。声を荒げない俺はすごいと思う。
「やっと返事してくれた」
鬱陶しいと言わんばかりの視線を投げてもイェルクは嬉しそうにニコリと人懐っこい笑みを浮かべるだけ。
本当に変な奴。
だけどその笑顔を見るとなんだか心が落ち着く。
本当に変だな……。
「水! 喉乾いたろ?」
「あ? ああ、ありがとな」
受け取った水をゴクゴクと飲み干す。
「疲れたのか?」
「いや」
「んじゃあ余裕って感じか??」
「そう見えるか?」
「見えねぇな。なんか動き悪いもんな」
そこはイェルク。戦士として名高いあってちゃんと分かってるらしい。騎士らは軍の動きが悪くとも俺の調子が悪いとまでは気付いていなかった。
「悩み事か? 俺が聞いてやろうか?」
ピタリと的を射ていて少し驚く。他人から見て分かるほど俺はそんなに思い詰めていた顔をしていたのだろうか。
イェルクには人を惹きつける人懐っこさがある。だから気楽に悩みを打ち明けたくもなるし、実際親身になって聞いてくれるだろうが、俺たちはまだそんな関係ではないだろう。
「俺たちもうそんな仲になった憶えはないが」
「いや俺らもう親友レベルで仲良いだろ」
「んなわけないだろ。言ったってまだ知人、良くて同僚みたいな立ち位置だろ」
「同僚ってことは仲間とは思ってくれてるわけだ」
「あくまで俺らは盟友だからな。当たり前だろ」
敵になってもらっては困る。時を遡る前は、結局グランツォレ帝国との戦争は終わることがなく、双方大きな損害に苦労したのだから。
「盟友ってことはやっぱり友達じゃん。それにタメきく仲なんだからやっぱり俺ら親友だな」
「屁理屈っぽいぞそれ」
そう言えばイェルクは「そうか?」と言ってうーんと唸り出した。俺たちが親友だと納得する理由でも考えているのだろう。
「だけど俺はお前のこと好きだぞ」
そうぽっと呟くようにイェルクが真顔で俺を見る。ダイレクト過ぎて一瞬何を言ってるのか分からなかった。周りからそんな言葉を向けられたことがないからどんな表情すればいいのか分からない。
「お? 照れてんのか?」
「照れてねぇよ。大体俺たち会ったのなんて数日前じゃねぇか」
「俺、人の顔見ればそいつがどんな奴か大体分かるんだけど、お前はいい奴だよ。だから俺は好きだ」
そんなに好意を全面に出されたらなんて返せばいいか分からない。
「あっそ」
そう言って目を背ければ、イェルクが口元を手で隠し、笑いを堪えるような仕草をする。
「お前かわいいとこあるよな」
「は?」
「ごめんって。そんな露骨に嫌そうな顔すんなよ」
そりゃあ男ならかわいいよりかっこいいって言われたい。しかも時を遡る前は結婚を何度も俺に申し込んだ相手だ。かわいいと言われて身構えるのも当然だろう。
視線を感じれば休憩をしていた騎士たちが恐怖なのか驚愕なのか目を見開いてこちらを凝視していた。
砕けた口調の俺が珍しいのか、はたまた馴れ馴れしいイェルクに俺がキレて手を上げることを恐れているのか。いまいち分からないが、部下がいる手前言動は気をつけよう。
「で? 次は兄貴と対決というわけか。アラン殿の戦に関する噂は全く聞かないが、実際どうなんだ?」
今回は特別に俺と兄とで別々の軍を受け持ち、それぞれ独立した軍として演習に参加している。そして午後からは敵軍から市街地を占領されたことを想定しての奪還訓練なのだが、その占領軍は兄が指揮している。つまり俺はこれから兄と戦うはめになるということだ。
「知らない。兄上と稽古をしたこともないから俺も全く分からない」
「へぇ。んじゃ初めて兄貴と剣を交えるかもしれないんだな。楽しみだな!」
楽しみとは言い難い。だって戦場で戦うのは俺の役目。俺が犬なら兄は手綱を握る飼い主のようなものだ。だから演習を機にそのバランスが崩れて戦場に出てもらいたくはない。兄が傷付くのは御免だ。それになにより兄と戦いたくはない。兄の幸せを守るために国を平和にすべく剣を振るっているのになぜ兄と戦うのか分からない。演習だとしても戦いたくはない。
顔を曇らせた俺を見てイェルクがもどかしいような表情を浮かべる。
「やっぱりお前なんか悩んでるんだろ」
「だったら何だ? お前には関係ないだろ」
「……じゃあさ、仲良くなれば悩み打ち明けてくれんのか?」
「ん? ああ」
兄のことで頭がいっぱいで思わず曖昧に頷いてしまう。するとイェルクが突然俺の耳元に寄ってきた。端正な顔立ちが目の前に迫り思わずビクリと驚く。
「じゃあさ、やっぱり街行って酒呑みに行こうぜ。二人で抜け出してさ。大勢で抜け出すと目立つし、人少ない方がお前も気楽だろ?」
内緒話をするようにイェルクが耳元で囁く。
「抜け出すのか?」
真っ先に思い浮かんだのは兄だった。そんな勝手なことして兄が許すはずがないし、罵倒は慣れっこだが、かと言って怒られたくもない。
「何をそれぐらいで迷ってんだ坊ちゃん。まさか怒られるのが怖いのか??」
イェルクが馬鹿にしたように笑う。
「そんなこと思ってねぇよ! もちろん行くさ」
煽り耐性などない俺はそう即答すると、イェルクが「声が大きい」と注意する。だけど肩を組み、「じゃあ今日の夜な」と笑う顔はとても嬉しそうだった。にしても抜け出すのが今晩だなんて即決、即行動もいいところだな。イェルクらしいが。
突然イェルクがどこかへと視線を向けると、何やら悪戯めいた笑みを浮かべる。勘が働く。なんか碌なことにならない気がする。面倒事に巻き込まれる前に早いとこ離れよう。
そう思うや否や頬に柔らかい感触が当たる。目の前には端正な顔と髪と同じ赤い睫。
ドクリと胸が高鳴る。
イェルクが俺の頬にキスをした。一瞬何が起こったか分からなかったが、そう気付き力一杯肩を押す。だけど俺を離さないとばかりに肩を掴まれ身動きが取れない。
「おい何すんだよ!?」
そう声を荒げても「ん? 仲良くなってる最中」と意味の分からないことを言って何度も頬や首元にキスをする。
本当に何やってんだこいつ!!
「っやめろよ!!」
どんなに力を入れて押してもびくともしない。こいつ力強すぎだろ。部下も見てるってのに。
暴れる俺を宥めるようにイェルクが囁く。
「分かったからさ。ちょっと付き合ってよ」
「これで仲良くなってるつもりかよ。だとしたら逆効果だぞ。だからやめろっ──ぁっ……」
耳を舐められ、思わず声が漏れる。
「ぷはは。気持ちよくなってんじゃん」
公衆の面前で問答無用でキスされ、しかもその軽々しい物言いに俺の怒りは沸点にまで達していた。
「……てめぇ」
拳の制裁を加えようとしたところで俺とイェルクを包む雰囲気が凍るように冷たくなっていることに気付く。周りを見渡せばその空気の中心には兄が立っていた。
演習から戻ってきたのだろうが、兄は無表情でこちらに冷たい視線を送っていた。殺気まで放っているようで思わず足が竦む。
それは周りも同じようで皆巻き込まれまいと視線を逸らしている。唯一その凍った空気で異質なのは「ぷははは」と呑気に笑ってるこのアホくらいだ。イェルクがなんとか笑いを堪えると、震えた声で小さく俺に言う。
「すっげぇ顔だな、お前の兄貴」
「てめぇのせいじゃねぇか!」
「それはすまん。だけど分かったろ? お前の兄貴やっぱりおかしいぜ。兄弟ならあそこまで怒るか普通?」
普通も何も俺がイェルクと関わるなという言いつけを破ったから怒っているのだろう。にしても怒りすぎではあるけれど。怖くてまともに兄の目を見れない。
「イーライ、お前兄貴には気をつけた方がいいぜ」
面白がるような、しかし真剣味の増した声色でイェルクが言う。
言葉の意味がよく分からない。なぜ俺が兄に気をつけなければいけないのか。だがそう訊ねる前にイェルクは「じゃあな」と言い残して去ってしまった。
あいつ逃げやがったな。
その場に残るのは怯える騎士らと冷たく無表情を貫く兄だけ。
その凍った空気にイェルクに憤慨するどころではなかった。
なんと言えば弁明できるだろうか。アイツが無理に話しかけてきたと言えば分かってくれるだろうか。
俺は必死な思いで「兄上!」と名を叫ぶが、兄は応じることもせず踵を返して離れて行ってしまう。追いかけてなんとか話を聞いてもらおうと兄上と呼び続ければ、ピタリと兄が止まってくれた。
「あ、兄上──」
「何も言わなくていい」
「ですが──」
そう言った途端兄の刺すような冷たい視線が俺に向けられる。
これ以上その口を開くなと暗に言われているようだった。
「言いつけを言ったそばから破るとはな。お前は全く俺の期待を裏切らないな」
「……っ」
「だがこれでお前がそういうつもりなのはよく分かった。……なら俺は徹底的に潰すだけだ」
そう言い放って兄は背を向けて去って行ってしまった。その断言に近い冷たい響きに言いようもない恐怖が俺の心を覆い尽くす。
その時兄が何のつもりで言ったのか全く分からなかった。だけど俺は知らなかった。その言葉の意味を近いうちに非情にも突きつけられることを。
だけど兄は全てを終わらせ急遽演習に参加している。それによる計画変更も兄が事前に用意していたらしく演習は滞りなく行われた。俺にとってその一連の流れは兄が必ず演習に参加できると確信していたように思えた。
兄が馬に跨り軍を指揮している。
未来が大きく変わった。
その姿を見た俺はそう強く実感した。
そして不安が俺の心を覆い尽くす。演習になんて出たことのない兄が参加している。戦場だなんて滅多に出ない。その事実は俺にとって大きなことだった。
何の心変わりだろうか。演習にも出たということは戦場にもこれから積極的に出るということだろうか。
戦争なんて俺がいれば充分なのに。
もし戦争で兄が傷ついてでもしたら俺は……。
そうして不安で押し潰されそうになったところで俺は考えを振り払った。
兄を想ってはいけないのに第一に考えてしまう。それは駄目なんだ。想ってしまえば兄を不幸にしてしまう。
だけどそう分かっていてもどうしても考えてしまう。
戦争で兄が傷ついたらと。そして最悪の事態も。その未来が視えたところで俺は正気を保つのにやっとだった。
もし最悪の未来になれば俺はもう人ではなくなる。全てを壊し尽くすまで暴れ回る。そんな気がした。
そもそも俺と兄は家族なんだ。だから兄の身を案じるのは普通だ。そう俺は半ば強引に納得する。この想いは家族へ向けるには重すぎることをどこかで理解しながら。
四六時中兄のことを考えてしまう。こんな状態の俺がまともに演習を行えていたかといえば否だ。軍への指揮は劣らずしてはいたが、俺自身の動きが悪く、それに応じて軍全体の動きも悪くなっていた。幾たびの戦争を乗り越えてきた経験の多さ故、今のところ大きなミスはないのが幸いか。
少しばかりのテントが広がった草原。演習を終えて騎士が各々休み、同じく俺も休憩していると早速イェルクが俺に近付いてきた。イェルクは戦士として名高く、騎士として名を揚げている俺に興味があるのだろう。
だけど俺はイェルクには関わるなという兄からの言いつけがある。それを破るわけにはいかない。
イェルクが「お疲れさん」と水を差し出してくるが、顔を背け布で汗を拭う。
「イーライ?」
「…………」
「イーライどうしたんだ?」
イェルクが心配そうに首を傾げる。だけどずっと無言のままの俺に無視されていると気付いたらしい。にししと悪戯っぽい笑みをちらっと浮かべ、俺に迫ってきた。
「イーライ、イーライ、イーライ、イーライ」
「…………」
「イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ、イーライ」
イェルクが呪文のように俺の名を馬鹿みたいに呼び続ける。
うっっっっざ。
返事しなければその苦痛と言うべき雑音が永遠に続きそうで俺はもう耐えられなかった。
「……なんだ?」
兄のことで頭がいっぱいなのにこの面倒臭さ。声を荒げない俺はすごいと思う。
「やっと返事してくれた」
鬱陶しいと言わんばかりの視線を投げてもイェルクは嬉しそうにニコリと人懐っこい笑みを浮かべるだけ。
本当に変な奴。
だけどその笑顔を見るとなんだか心が落ち着く。
本当に変だな……。
「水! 喉乾いたろ?」
「あ? ああ、ありがとな」
受け取った水をゴクゴクと飲み干す。
「疲れたのか?」
「いや」
「んじゃあ余裕って感じか??」
「そう見えるか?」
「見えねぇな。なんか動き悪いもんな」
そこはイェルク。戦士として名高いあってちゃんと分かってるらしい。騎士らは軍の動きが悪くとも俺の調子が悪いとまでは気付いていなかった。
「悩み事か? 俺が聞いてやろうか?」
ピタリと的を射ていて少し驚く。他人から見て分かるほど俺はそんなに思い詰めていた顔をしていたのだろうか。
イェルクには人を惹きつける人懐っこさがある。だから気楽に悩みを打ち明けたくもなるし、実際親身になって聞いてくれるだろうが、俺たちはまだそんな関係ではないだろう。
「俺たちもうそんな仲になった憶えはないが」
「いや俺らもう親友レベルで仲良いだろ」
「んなわけないだろ。言ったってまだ知人、良くて同僚みたいな立ち位置だろ」
「同僚ってことは仲間とは思ってくれてるわけだ」
「あくまで俺らは盟友だからな。当たり前だろ」
敵になってもらっては困る。時を遡る前は、結局グランツォレ帝国との戦争は終わることがなく、双方大きな損害に苦労したのだから。
「盟友ってことはやっぱり友達じゃん。それにタメきく仲なんだからやっぱり俺ら親友だな」
「屁理屈っぽいぞそれ」
そう言えばイェルクは「そうか?」と言ってうーんと唸り出した。俺たちが親友だと納得する理由でも考えているのだろう。
「だけど俺はお前のこと好きだぞ」
そうぽっと呟くようにイェルクが真顔で俺を見る。ダイレクト過ぎて一瞬何を言ってるのか分からなかった。周りからそんな言葉を向けられたことがないからどんな表情すればいいのか分からない。
「お? 照れてんのか?」
「照れてねぇよ。大体俺たち会ったのなんて数日前じゃねぇか」
「俺、人の顔見ればそいつがどんな奴か大体分かるんだけど、お前はいい奴だよ。だから俺は好きだ」
そんなに好意を全面に出されたらなんて返せばいいか分からない。
「あっそ」
そう言って目を背ければ、イェルクが口元を手で隠し、笑いを堪えるような仕草をする。
「お前かわいいとこあるよな」
「は?」
「ごめんって。そんな露骨に嫌そうな顔すんなよ」
そりゃあ男ならかわいいよりかっこいいって言われたい。しかも時を遡る前は結婚を何度も俺に申し込んだ相手だ。かわいいと言われて身構えるのも当然だろう。
視線を感じれば休憩をしていた騎士たちが恐怖なのか驚愕なのか目を見開いてこちらを凝視していた。
砕けた口調の俺が珍しいのか、はたまた馴れ馴れしいイェルクに俺がキレて手を上げることを恐れているのか。いまいち分からないが、部下がいる手前言動は気をつけよう。
「で? 次は兄貴と対決というわけか。アラン殿の戦に関する噂は全く聞かないが、実際どうなんだ?」
今回は特別に俺と兄とで別々の軍を受け持ち、それぞれ独立した軍として演習に参加している。そして午後からは敵軍から市街地を占領されたことを想定しての奪還訓練なのだが、その占領軍は兄が指揮している。つまり俺はこれから兄と戦うはめになるということだ。
「知らない。兄上と稽古をしたこともないから俺も全く分からない」
「へぇ。んじゃ初めて兄貴と剣を交えるかもしれないんだな。楽しみだな!」
楽しみとは言い難い。だって戦場で戦うのは俺の役目。俺が犬なら兄は手綱を握る飼い主のようなものだ。だから演習を機にそのバランスが崩れて戦場に出てもらいたくはない。兄が傷付くのは御免だ。それになにより兄と戦いたくはない。兄の幸せを守るために国を平和にすべく剣を振るっているのになぜ兄と戦うのか分からない。演習だとしても戦いたくはない。
顔を曇らせた俺を見てイェルクがもどかしいような表情を浮かべる。
「やっぱりお前なんか悩んでるんだろ」
「だったら何だ? お前には関係ないだろ」
「……じゃあさ、仲良くなれば悩み打ち明けてくれんのか?」
「ん? ああ」
兄のことで頭がいっぱいで思わず曖昧に頷いてしまう。するとイェルクが突然俺の耳元に寄ってきた。端正な顔立ちが目の前に迫り思わずビクリと驚く。
「じゃあさ、やっぱり街行って酒呑みに行こうぜ。二人で抜け出してさ。大勢で抜け出すと目立つし、人少ない方がお前も気楽だろ?」
内緒話をするようにイェルクが耳元で囁く。
「抜け出すのか?」
真っ先に思い浮かんだのは兄だった。そんな勝手なことして兄が許すはずがないし、罵倒は慣れっこだが、かと言って怒られたくもない。
「何をそれぐらいで迷ってんだ坊ちゃん。まさか怒られるのが怖いのか??」
イェルクが馬鹿にしたように笑う。
「そんなこと思ってねぇよ! もちろん行くさ」
煽り耐性などない俺はそう即答すると、イェルクが「声が大きい」と注意する。だけど肩を組み、「じゃあ今日の夜な」と笑う顔はとても嬉しそうだった。にしても抜け出すのが今晩だなんて即決、即行動もいいところだな。イェルクらしいが。
突然イェルクがどこかへと視線を向けると、何やら悪戯めいた笑みを浮かべる。勘が働く。なんか碌なことにならない気がする。面倒事に巻き込まれる前に早いとこ離れよう。
そう思うや否や頬に柔らかい感触が当たる。目の前には端正な顔と髪と同じ赤い睫。
ドクリと胸が高鳴る。
イェルクが俺の頬にキスをした。一瞬何が起こったか分からなかったが、そう気付き力一杯肩を押す。だけど俺を離さないとばかりに肩を掴まれ身動きが取れない。
「おい何すんだよ!?」
そう声を荒げても「ん? 仲良くなってる最中」と意味の分からないことを言って何度も頬や首元にキスをする。
本当に何やってんだこいつ!!
「っやめろよ!!」
どんなに力を入れて押してもびくともしない。こいつ力強すぎだろ。部下も見てるってのに。
暴れる俺を宥めるようにイェルクが囁く。
「分かったからさ。ちょっと付き合ってよ」
「これで仲良くなってるつもりかよ。だとしたら逆効果だぞ。だからやめろっ──ぁっ……」
耳を舐められ、思わず声が漏れる。
「ぷはは。気持ちよくなってんじゃん」
公衆の面前で問答無用でキスされ、しかもその軽々しい物言いに俺の怒りは沸点にまで達していた。
「……てめぇ」
拳の制裁を加えようとしたところで俺とイェルクを包む雰囲気が凍るように冷たくなっていることに気付く。周りを見渡せばその空気の中心には兄が立っていた。
演習から戻ってきたのだろうが、兄は無表情でこちらに冷たい視線を送っていた。殺気まで放っているようで思わず足が竦む。
それは周りも同じようで皆巻き込まれまいと視線を逸らしている。唯一その凍った空気で異質なのは「ぷははは」と呑気に笑ってるこのアホくらいだ。イェルクがなんとか笑いを堪えると、震えた声で小さく俺に言う。
「すっげぇ顔だな、お前の兄貴」
「てめぇのせいじゃねぇか!」
「それはすまん。だけど分かったろ? お前の兄貴やっぱりおかしいぜ。兄弟ならあそこまで怒るか普通?」
普通も何も俺がイェルクと関わるなという言いつけを破ったから怒っているのだろう。にしても怒りすぎではあるけれど。怖くてまともに兄の目を見れない。
「イーライ、お前兄貴には気をつけた方がいいぜ」
面白がるような、しかし真剣味の増した声色でイェルクが言う。
言葉の意味がよく分からない。なぜ俺が兄に気をつけなければいけないのか。だがそう訊ねる前にイェルクは「じゃあな」と言い残して去ってしまった。
あいつ逃げやがったな。
その場に残るのは怯える騎士らと冷たく無表情を貫く兄だけ。
その凍った空気にイェルクに憤慨するどころではなかった。
なんと言えば弁明できるだろうか。アイツが無理に話しかけてきたと言えば分かってくれるだろうか。
俺は必死な思いで「兄上!」と名を叫ぶが、兄は応じることもせず踵を返して離れて行ってしまう。追いかけてなんとか話を聞いてもらおうと兄上と呼び続ければ、ピタリと兄が止まってくれた。
「あ、兄上──」
「何も言わなくていい」
「ですが──」
そう言った途端兄の刺すような冷たい視線が俺に向けられる。
これ以上その口を開くなと暗に言われているようだった。
「言いつけを言ったそばから破るとはな。お前は全く俺の期待を裏切らないな」
「……っ」
「だがこれでお前がそういうつもりなのはよく分かった。……なら俺は徹底的に潰すだけだ」
そう言い放って兄は背を向けて去って行ってしまった。その断言に近い冷たい響きに言いようもない恐怖が俺の心を覆い尽くす。
その時兄が何のつもりで言ったのか全く分からなかった。だけど俺は知らなかった。その言葉の意味を近いうちに非情にも突きつけられることを。
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