19 / 23
第十九話
しおりを挟む
「こら! 待ちなさい!」
背後から俺を追う声がした。追いつかれたら終わり。走って走って走る。何日も歩き続けた靴はボロボロで靴底がペラペラと捲れて走りづらかった。
まだ試合は始まったばかりだからか中は席に着こうとする通行人の数も多く、人でいっぱいだった。
隠れるのなら森の中。人の流れに潜っていき、追っ手を撒く。けれど振り返ると人を強引に掻き分けるスタッフの姿が見えた。
楽しくない追いかけっこが繰り広げられる中、アナウンスがスタジアム内に響き渡る。
「ただいま守備につきましたヤコルトチームの守備の紹介をいたします。ピッチャー九重──」
バッと視線を向けるとマウンドに秀司が立っていた。その姿は新聞に映っていた通り、輝きの欠片もない錆びれた姿だった。幸いにもグラウンドまでの距離は近い。あんな秀司の姿を見たら居ても立っても居られなくなってフェンスに向かって駆け出す。
その間にも時は進み、秀司が球を投げる。一球目から打たれ三遊間を抜ける。早くも一塁が埋まり、二打者目、二つストライクをなんとか取るもまたもや打たれ、球は伸びに伸びてホームランすれすれのファウル。
マウンドに立つその姿はいつもの秀司とは全く違っていた。秀司はこんなんじゃない。お前はもっと、もっと……。
「しゅうじー!」
網目のフェンスにしがみつき、スタジアム内に響く程声を大きく張り上げる。その声に秀司が俺を瞳に映した。
途端、驚きに瞳を大きく見開き、何かを呟く。聞き取れなかったが、口は「……とおる」と動き、俺を呼んでいた。
しんと静まる場内。そこには俺と秀司の二人だけしかいなかった。
秀司に何が起きてこうなったのかは分からない。けれど今の俺が秀司にしてやれるのは一つだけだ。
「しゅうじー! がんばれー!」
喉が潰れるんじゃないかと思うくらいの叫びにも似た応援。その応援に秀司の錆びた瞳が段々と輝きを取り戻していく。
直後、フェンスに肌が食い込む。見なくともわかる。スタッフ数人が俺を取り押さえていた。押し潰されて息が苦しい。スタッフは乱暴に両隣から俺を挟んで腕を引っ掴むと、引きずるようにして俺を連行し始めた。それでも俺は秀司から視線を外さなかった。
『全力を尽くせ』
その意味を込めて強い眼差しを彼に向ける。
秀司は連れて行かれる俺を前に心配そうな表情を浮かべていたが、込めた熱が届いたのか秀司の瞳に闘志が宿る。
スタジアムを出る最後に聴いたのは観衆のどよめきだった。打たれたのではないかと心配になって顔だけ無理に回して後ろを見る。人の群れから微かに覗けた電光掲示板に映る球の速度は見たこともない数字を示し、アウトを表す赤い電灯に光が灯っていた。
事務所のようなところに連れて来られ、刑事から事情聴取でもされるような形でパイプ椅子に座らされる。警察を呼んでいるのだろうか。スタッフがスマホを耳に当てて話し込んでいた。
周囲をスタッフでガチガチに固められる。やるべきことはやった。そんなことしなくてももう逃げたりしないのに。
扉が開かれ、新たに人が入ってくる。何かスタッフに耳打ちして、ちらりとこっちに視線を向けてくる。なんだろうか。身構えていると耳打ちした本人が俺の元にやってきた。
「九重選手のご友人の千歳透さんですよね?」
「……はい」
「九重選手が球場にご招待したいそうで、どうぞこちらへ」
まさかこうなるとは思っていなかった。言われるままに案内された先はバックネット裏に位置する最前列。ここは球団の関係者専用で、打者と投手の闘いを間近で観戦出来る。このような体験中々出来ることではない。
新鮮な眺めに浸っていると、登板する秀司の姿を捉える。
最初目にした姿とは打って変わって俺のよく知る秀司がそこにいた。
マウンドに立つ、高校時代俺が背負っていた七の背番号。その背はスッとしていて、瞳は鷹のように一点の曇りなく勝利だけをまっすぐ見据えていた。太陽のようにその輝きは誰にも阻むことは出来ない。
もう心配は無用のようだった。
『秀司、頑張れ』と相手ファンの応援に包まれる中、心の中でそう応援する。
鋭い眼光はそのままに、流れるようなフォームからボールが放たれる。指先から離れた球はブレることなく真っ直ぐに突き進む。そのスピードは凄まじくバットに掠めることもなくミットに入る。
電光掲示板に表示される速度は163km/h。数字だけでも伝わる凄まじい速さ。
二球目、美しさすら感じるフォームから放たれた球は直進かと思われたが打席直前に落ち、当てに来たバットの下をスレスレで潜る。内角低めのフォーク。速さは……。
「152km/h……」
思わず「ハハッ」と笑い声が漏れた。あのストレートからのこのフォーク。取れるわけがない。
追い込まれた打者を仕留める三球目。瞬きすら許さない目にも留まらぬ速さ。光線は迷いなく真っ直ぐ進み、バンと心地良い音がミットから響く。打者は完全に振り遅れていた。どっと上がる歓声。速度は165km/h。
「……ほんとに凄いよ、お前は」
プロ野球界では歴代最高球速。しかもこれが一度目ではない、今日二度目の最速記録だ。
その一連の投球は秀司の持つ野球への情熱をそのまま見たような感覚だった。
いつか秀司は歴史を塗り替える偉業を成し遂げるだろうと思っていたが、それを間近で体感できるとは思ってもみなかった。
こんな素晴らしい投手見たことがない。
次々と三振を取っていく秀司。その姿はここにいるどんな選手よりも野球を楽しんでいた。
そのまま秀司は最後まで投球を続け、チームを完封勝利に導いた。
試合が終了した後も秀司の最高のピッチングにしばらく余韻に浸っていると、スタッフが話し掛けてきた。
「九重選手が貴方にお会いしたいそうです」
そうして連れて行かれたのは選手たちが使うロッカールーム前の廊下だった。扉が開かれるごとに着替え終わった生のプロ野球選手が現れて毎度興奮する。野球への熱はないものの、やっぱり有名人に会うと心が躍った。
ボロボロな服を着て試合中に一人際立った応援をした俺に皆、好奇の視線を向ける。その中で一人、俺を見て「あっ!」と声を上げてズンズンと近寄ってくる男がいた。
「お前、九重にめっちゃ大きな応援してた奴じゃないか!」
「え、えと、はいそうですけど」
「お前凄いな! あの応援でアイツの投球、ありえないくらい空気が変わってよ。しかも歴代最高球速まで記録しやがって。全く……能ある鷹は爪を隠すと言うがまんまとしてやられたぜ」
「はは、ほんとにそうですよね」
あまりの変わりようにそう思うのも仕方ない。けれどそう言う彼は自分のことのようにとても嬉しそうだった。
ふと彼が神妙な面持ちになる。
「お前の応援がなきゃあアイツはずっと伸び悩んでたままだった。二軍落ちするんじゃないかと危ぶまれてたほどなんだ。……ほんとにありがとな」
心からの感謝。こんな風にお礼を言われるのは本当に久しぶりのことだった。言葉では表しきれないほどの嬉しさが込み上がってくる。
「ところでお前、一体何者なんだ? アイツに訊いたら幼馴染って言ってたけど絶対それだけじゃないだろ。お前、アイツとどういう関係なんだ?」
「そんな驚くような関係じゃないです。秀司の言う通り俺はただの幼馴染です」
その返答に彼は「そうか」と納得してるのかしてないのか曖昧に呟くと、何か推理を巡らせるように慎重に訊いてきた。
「なぁ、お前もしかして透って名前じゃないか?」
一般人でしかない俺の名前をバシリと当てられ、思わず驚く。
「えっなんで俺の名前知っているんですか?」
「そっか。じゃあアンタが九重の想い人か!」
「うぇ!? えっ、ええ!?」
思いもよらない言葉に頬が真っ赤に染まる。
「実は九重から相談を受けてな、その時アイツがお前の名前をつい出してたんだよ」
「え、相談って……?」
「ん? えっと……まぁ色々だよ」
なんだか歯切れが悪い。なんとなくその様子は俺を気遣っているように感じた。
「……けれどよ、アイツお前のこと相当心配していたぜ。アイツ、お前に電話が通じないってんで、始発から終電までお前が現れるのを期待して予定ギリギリまでずっと駅に詰めてたんだよ」
俺がゴミ溜めの中でただ毎日を虚に過ごしていた中、秀司がそんなことをしていたとは思ってもみなかった。もう自分の人生すらどうでもよくなって秀司のことも新聞を見るまで頭から抜けていた。
そんなに秀司に心配を掛けていたとは。本当に申し訳なく思う。
「……アイツにとってお前は想像もつかないほど大事で、野球と同じくらいかけがえのない存在なんだな」
彼のその言葉に気恥ずかしさすら忘れて頬が緩む。心底心配させたっていうのに今はその心配が心底嬉しかった。
「でも野球と同じくらいはないですよ。野球がないと秀司は秀司じゃなくなっちゃうから」
「いや、そんなことないと思うぞ。なんせアイツの成績が極端に悪くなったのもお前と完全に音信不通になった頃だったし──」
「えっ!? っそれってどういうことですか!?」
ぐいっと距離を詰める。途端、彼が「しまった」と後悔に顔をしかめて言葉を漏らす。
その時、ロッカールームの扉が開き、幼馴染が現れた。俺を探しているのか辺りを見渡す。そしていざ目が合うと、パッと明るく笑みを浮かべてニッコニコなままこちらに駆けてくる。けれど俺の隣に彼がいることを確認するや否や不快そうなむっとした表情を浮かべた。
「宮永さん」
「よぉ、九重。いいとこに来た!」
助け舟に忙しなく乗り込むように秀司の肩を叩き、俺の元へ押しやる。
「透、その話に関しては本人から聞くといい。じゃあ後は水入らずってことで。……九重、逃すなよ」
そうして彼は意味ありげに秀司に視線を送ると逃げるように立ち去ってしまった。
久しぶりの再会故の何とも言えない空気。もっとも俺は彼の言った言葉が気がかりだった。微妙な沈黙。最初にそれを打ち破ったのは秀司だった。
「ごめん透、こんなとこで待たせちゃって」
「いや、そんなことない。おかげで色んな選手が見れたし……」
「そっか。ああそうだ、さっきの人は宮永さんって言って正捕手を務めている方なんだ」
「知ってる。だってプロの捕手って言ったら最初に思い浮かぶくらいの有名人だからな」
「そっか。知ってたか」
「宮永選手、こんな身なりの俺でも気さくに話してくれて。とてもいい人だな」
褒めたつもりなのだが、秀司はなんだか気になって仕方ない様子だった。探るように秀司が尋ねる。
「なぁ、宮永さんと一体何を話してたんだ?」
押し黙る。宮永さんが言っていた言葉を思い出していた。思い切って訊いてみる。
「透のこと名前で呼んでたし、なんか距離感が近いって言うか──」
「なぁ、お前が調子悪かったのってもしかして俺のせいなのか?」
図星なのか目を見開いたまま何も返さない。やっぱりそうなのか。俺が心配をかけてしまったせいで秀司に迷惑を……。
「とりあえず場所を移さないか? 色々話したいこともあるし、透もわざわざここまで来てくれて長旅で疲れてるだろ?」
ひどく落ち込む俺に対して、秀司は軽くそう言う。
「そうだな」
こういう深いことはなるべく二人だけで話したいし、確かに秀司の言う通り疲れていた。
「タクシーは既に呼んでるから先にそっち行こう」
「分かった」
そうして歩き出したのだが、足に痛みが走って思わず立ち止まる。
「って……」
「どうした?」
「いや……」
秀司が痛む俺を見て足に視線をやる。しゃがみこんで、靴を脱がせる。見ると、包帯代わりに指に巻いていた布の端切から真っ赤な血が滲み出ていた。
「歩いてたら怪我して、処置はしたんだけど、また傷が酷くなっちまったみたいだ」
「歩いて怪我って……、まさかここまで歩いてきたのか?」
「それしか移動手段がなかったからな」
その返答に秀司が口を開いたまま唖然とする。秀司の手から靴を取って履き、歩き出そうとすると、途端秀司が俺を姫抱きのようにして抱き上げた。
「お、おい! 何やってんだよ!」
「歩いたら更に傷が酷くなるだろ」
「だからってこんな格好。おい、今すぐ下ろせ!」
じろじろと人の視線を感じて恥ずかしくして顔が真っ赤になる。バタバタと体を動かすも体格差が大きすぎて全く離してもらえない。
「分かった、分かったからせめておんぶにしてくれ。もう恥ずかして死にそうだ」
それを聞いて思案するように間が空くが、「却下」と一蹴されてしまった。
「なんでだよ!」
「この方が透の顔がよく見える」
秀司は冗談じゃなく本気で言っているようだった。ますます顔が赤くなる。モテていること間違いなしの精悍な顔立ちでそう言われてしまえば尚更だった。
けれど普段とは全く違う執着にも似たその行為は俺のせいなのかもしれない。秀司に随分な心配を掛けた罰としてそのままタクシーまで姫抱きを泣く泣く受け入れた。
背後から俺を追う声がした。追いつかれたら終わり。走って走って走る。何日も歩き続けた靴はボロボロで靴底がペラペラと捲れて走りづらかった。
まだ試合は始まったばかりだからか中は席に着こうとする通行人の数も多く、人でいっぱいだった。
隠れるのなら森の中。人の流れに潜っていき、追っ手を撒く。けれど振り返ると人を強引に掻き分けるスタッフの姿が見えた。
楽しくない追いかけっこが繰り広げられる中、アナウンスがスタジアム内に響き渡る。
「ただいま守備につきましたヤコルトチームの守備の紹介をいたします。ピッチャー九重──」
バッと視線を向けるとマウンドに秀司が立っていた。その姿は新聞に映っていた通り、輝きの欠片もない錆びれた姿だった。幸いにもグラウンドまでの距離は近い。あんな秀司の姿を見たら居ても立っても居られなくなってフェンスに向かって駆け出す。
その間にも時は進み、秀司が球を投げる。一球目から打たれ三遊間を抜ける。早くも一塁が埋まり、二打者目、二つストライクをなんとか取るもまたもや打たれ、球は伸びに伸びてホームランすれすれのファウル。
マウンドに立つその姿はいつもの秀司とは全く違っていた。秀司はこんなんじゃない。お前はもっと、もっと……。
「しゅうじー!」
網目のフェンスにしがみつき、スタジアム内に響く程声を大きく張り上げる。その声に秀司が俺を瞳に映した。
途端、驚きに瞳を大きく見開き、何かを呟く。聞き取れなかったが、口は「……とおる」と動き、俺を呼んでいた。
しんと静まる場内。そこには俺と秀司の二人だけしかいなかった。
秀司に何が起きてこうなったのかは分からない。けれど今の俺が秀司にしてやれるのは一つだけだ。
「しゅうじー! がんばれー!」
喉が潰れるんじゃないかと思うくらいの叫びにも似た応援。その応援に秀司の錆びた瞳が段々と輝きを取り戻していく。
直後、フェンスに肌が食い込む。見なくともわかる。スタッフ数人が俺を取り押さえていた。押し潰されて息が苦しい。スタッフは乱暴に両隣から俺を挟んで腕を引っ掴むと、引きずるようにして俺を連行し始めた。それでも俺は秀司から視線を外さなかった。
『全力を尽くせ』
その意味を込めて強い眼差しを彼に向ける。
秀司は連れて行かれる俺を前に心配そうな表情を浮かべていたが、込めた熱が届いたのか秀司の瞳に闘志が宿る。
スタジアムを出る最後に聴いたのは観衆のどよめきだった。打たれたのではないかと心配になって顔だけ無理に回して後ろを見る。人の群れから微かに覗けた電光掲示板に映る球の速度は見たこともない数字を示し、アウトを表す赤い電灯に光が灯っていた。
事務所のようなところに連れて来られ、刑事から事情聴取でもされるような形でパイプ椅子に座らされる。警察を呼んでいるのだろうか。スタッフがスマホを耳に当てて話し込んでいた。
周囲をスタッフでガチガチに固められる。やるべきことはやった。そんなことしなくてももう逃げたりしないのに。
扉が開かれ、新たに人が入ってくる。何かスタッフに耳打ちして、ちらりとこっちに視線を向けてくる。なんだろうか。身構えていると耳打ちした本人が俺の元にやってきた。
「九重選手のご友人の千歳透さんですよね?」
「……はい」
「九重選手が球場にご招待したいそうで、どうぞこちらへ」
まさかこうなるとは思っていなかった。言われるままに案内された先はバックネット裏に位置する最前列。ここは球団の関係者専用で、打者と投手の闘いを間近で観戦出来る。このような体験中々出来ることではない。
新鮮な眺めに浸っていると、登板する秀司の姿を捉える。
最初目にした姿とは打って変わって俺のよく知る秀司がそこにいた。
マウンドに立つ、高校時代俺が背負っていた七の背番号。その背はスッとしていて、瞳は鷹のように一点の曇りなく勝利だけをまっすぐ見据えていた。太陽のようにその輝きは誰にも阻むことは出来ない。
もう心配は無用のようだった。
『秀司、頑張れ』と相手ファンの応援に包まれる中、心の中でそう応援する。
鋭い眼光はそのままに、流れるようなフォームからボールが放たれる。指先から離れた球はブレることなく真っ直ぐに突き進む。そのスピードは凄まじくバットに掠めることもなくミットに入る。
電光掲示板に表示される速度は163km/h。数字だけでも伝わる凄まじい速さ。
二球目、美しさすら感じるフォームから放たれた球は直進かと思われたが打席直前に落ち、当てに来たバットの下をスレスレで潜る。内角低めのフォーク。速さは……。
「152km/h……」
思わず「ハハッ」と笑い声が漏れた。あのストレートからのこのフォーク。取れるわけがない。
追い込まれた打者を仕留める三球目。瞬きすら許さない目にも留まらぬ速さ。光線は迷いなく真っ直ぐ進み、バンと心地良い音がミットから響く。打者は完全に振り遅れていた。どっと上がる歓声。速度は165km/h。
「……ほんとに凄いよ、お前は」
プロ野球界では歴代最高球速。しかもこれが一度目ではない、今日二度目の最速記録だ。
その一連の投球は秀司の持つ野球への情熱をそのまま見たような感覚だった。
いつか秀司は歴史を塗り替える偉業を成し遂げるだろうと思っていたが、それを間近で体感できるとは思ってもみなかった。
こんな素晴らしい投手見たことがない。
次々と三振を取っていく秀司。その姿はここにいるどんな選手よりも野球を楽しんでいた。
そのまま秀司は最後まで投球を続け、チームを完封勝利に導いた。
試合が終了した後も秀司の最高のピッチングにしばらく余韻に浸っていると、スタッフが話し掛けてきた。
「九重選手が貴方にお会いしたいそうです」
そうして連れて行かれたのは選手たちが使うロッカールーム前の廊下だった。扉が開かれるごとに着替え終わった生のプロ野球選手が現れて毎度興奮する。野球への熱はないものの、やっぱり有名人に会うと心が躍った。
ボロボロな服を着て試合中に一人際立った応援をした俺に皆、好奇の視線を向ける。その中で一人、俺を見て「あっ!」と声を上げてズンズンと近寄ってくる男がいた。
「お前、九重にめっちゃ大きな応援してた奴じゃないか!」
「え、えと、はいそうですけど」
「お前凄いな! あの応援でアイツの投球、ありえないくらい空気が変わってよ。しかも歴代最高球速まで記録しやがって。全く……能ある鷹は爪を隠すと言うがまんまとしてやられたぜ」
「はは、ほんとにそうですよね」
あまりの変わりようにそう思うのも仕方ない。けれどそう言う彼は自分のことのようにとても嬉しそうだった。
ふと彼が神妙な面持ちになる。
「お前の応援がなきゃあアイツはずっと伸び悩んでたままだった。二軍落ちするんじゃないかと危ぶまれてたほどなんだ。……ほんとにありがとな」
心からの感謝。こんな風にお礼を言われるのは本当に久しぶりのことだった。言葉では表しきれないほどの嬉しさが込み上がってくる。
「ところでお前、一体何者なんだ? アイツに訊いたら幼馴染って言ってたけど絶対それだけじゃないだろ。お前、アイツとどういう関係なんだ?」
「そんな驚くような関係じゃないです。秀司の言う通り俺はただの幼馴染です」
その返答に彼は「そうか」と納得してるのかしてないのか曖昧に呟くと、何か推理を巡らせるように慎重に訊いてきた。
「なぁ、お前もしかして透って名前じゃないか?」
一般人でしかない俺の名前をバシリと当てられ、思わず驚く。
「えっなんで俺の名前知っているんですか?」
「そっか。じゃあアンタが九重の想い人か!」
「うぇ!? えっ、ええ!?」
思いもよらない言葉に頬が真っ赤に染まる。
「実は九重から相談を受けてな、その時アイツがお前の名前をつい出してたんだよ」
「え、相談って……?」
「ん? えっと……まぁ色々だよ」
なんだか歯切れが悪い。なんとなくその様子は俺を気遣っているように感じた。
「……けれどよ、アイツお前のこと相当心配していたぜ。アイツ、お前に電話が通じないってんで、始発から終電までお前が現れるのを期待して予定ギリギリまでずっと駅に詰めてたんだよ」
俺がゴミ溜めの中でただ毎日を虚に過ごしていた中、秀司がそんなことをしていたとは思ってもみなかった。もう自分の人生すらどうでもよくなって秀司のことも新聞を見るまで頭から抜けていた。
そんなに秀司に心配を掛けていたとは。本当に申し訳なく思う。
「……アイツにとってお前は想像もつかないほど大事で、野球と同じくらいかけがえのない存在なんだな」
彼のその言葉に気恥ずかしさすら忘れて頬が緩む。心底心配させたっていうのに今はその心配が心底嬉しかった。
「でも野球と同じくらいはないですよ。野球がないと秀司は秀司じゃなくなっちゃうから」
「いや、そんなことないと思うぞ。なんせアイツの成績が極端に悪くなったのもお前と完全に音信不通になった頃だったし──」
「えっ!? っそれってどういうことですか!?」
ぐいっと距離を詰める。途端、彼が「しまった」と後悔に顔をしかめて言葉を漏らす。
その時、ロッカールームの扉が開き、幼馴染が現れた。俺を探しているのか辺りを見渡す。そしていざ目が合うと、パッと明るく笑みを浮かべてニッコニコなままこちらに駆けてくる。けれど俺の隣に彼がいることを確認するや否や不快そうなむっとした表情を浮かべた。
「宮永さん」
「よぉ、九重。いいとこに来た!」
助け舟に忙しなく乗り込むように秀司の肩を叩き、俺の元へ押しやる。
「透、その話に関しては本人から聞くといい。じゃあ後は水入らずってことで。……九重、逃すなよ」
そうして彼は意味ありげに秀司に視線を送ると逃げるように立ち去ってしまった。
久しぶりの再会故の何とも言えない空気。もっとも俺は彼の言った言葉が気がかりだった。微妙な沈黙。最初にそれを打ち破ったのは秀司だった。
「ごめん透、こんなとこで待たせちゃって」
「いや、そんなことない。おかげで色んな選手が見れたし……」
「そっか。ああそうだ、さっきの人は宮永さんって言って正捕手を務めている方なんだ」
「知ってる。だってプロの捕手って言ったら最初に思い浮かぶくらいの有名人だからな」
「そっか。知ってたか」
「宮永選手、こんな身なりの俺でも気さくに話してくれて。とてもいい人だな」
褒めたつもりなのだが、秀司はなんだか気になって仕方ない様子だった。探るように秀司が尋ねる。
「なぁ、宮永さんと一体何を話してたんだ?」
押し黙る。宮永さんが言っていた言葉を思い出していた。思い切って訊いてみる。
「透のこと名前で呼んでたし、なんか距離感が近いって言うか──」
「なぁ、お前が調子悪かったのってもしかして俺のせいなのか?」
図星なのか目を見開いたまま何も返さない。やっぱりそうなのか。俺が心配をかけてしまったせいで秀司に迷惑を……。
「とりあえず場所を移さないか? 色々話したいこともあるし、透もわざわざここまで来てくれて長旅で疲れてるだろ?」
ひどく落ち込む俺に対して、秀司は軽くそう言う。
「そうだな」
こういう深いことはなるべく二人だけで話したいし、確かに秀司の言う通り疲れていた。
「タクシーは既に呼んでるから先にそっち行こう」
「分かった」
そうして歩き出したのだが、足に痛みが走って思わず立ち止まる。
「って……」
「どうした?」
「いや……」
秀司が痛む俺を見て足に視線をやる。しゃがみこんで、靴を脱がせる。見ると、包帯代わりに指に巻いていた布の端切から真っ赤な血が滲み出ていた。
「歩いてたら怪我して、処置はしたんだけど、また傷が酷くなっちまったみたいだ」
「歩いて怪我って……、まさかここまで歩いてきたのか?」
「それしか移動手段がなかったからな」
その返答に秀司が口を開いたまま唖然とする。秀司の手から靴を取って履き、歩き出そうとすると、途端秀司が俺を姫抱きのようにして抱き上げた。
「お、おい! 何やってんだよ!」
「歩いたら更に傷が酷くなるだろ」
「だからってこんな格好。おい、今すぐ下ろせ!」
じろじろと人の視線を感じて恥ずかしくして顔が真っ赤になる。バタバタと体を動かすも体格差が大きすぎて全く離してもらえない。
「分かった、分かったからせめておんぶにしてくれ。もう恥ずかして死にそうだ」
それを聞いて思案するように間が空くが、「却下」と一蹴されてしまった。
「なんでだよ!」
「この方が透の顔がよく見える」
秀司は冗談じゃなく本気で言っているようだった。ますます顔が赤くなる。モテていること間違いなしの精悍な顔立ちでそう言われてしまえば尚更だった。
けれど普段とは全く違う執着にも似たその行為は俺のせいなのかもしれない。秀司に随分な心配を掛けた罰としてそのままタクシーまで姫抱きを泣く泣く受け入れた。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
絶対にお嫁さんにするから覚悟してろよ!!!
toki
BL
「ていうかちゃんと寝てなさい」
「すいません……」
ゆるふわ距離感バグ幼馴染の読み切りBLです♪
一応、有馬くんが攻めのつもりで書きましたが、お好きなように解釈していただいて大丈夫です。
作中の表現ではわかりづらいですが、有馬くんはけっこう見目が良いです。でもガチで桜田くんしか眼中にないので自分が目立っている自覚はまったくありません。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!(https://www.pixiv.net/artworks/110931919)

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

君はアルファじゃなくて《高校生、バスケ部の二人》
市川パナ
BL
高校の入学式。いつも要領のいいα性のナオキは、整った容姿の男子生徒に意識を奪われた。恐らく彼もα性なのだろう。
男子も女子も熱い眼差しを彼に注いだり、自分たちにファンクラブができたりするけれど、彼の一番になりたい。
(旧タイトル『アルファのはずの彼は、オメガみたいな匂いがする』です。)全4話です。

騎士団で一目惚れをした話
菫野
BL
ずっと側にいてくれた美形の幼馴染×主人公
憧れの騎士団に見習いとして入団した主人公は、ある日出会った年上の騎士に一目惚れをしてしまうが妻子がいたようで爆速で失恋する。

理香は俺のカノジョじゃねえ
中屋沙鳥
BL
篠原亮は料理が得意な高校3年生。受験生なのに卒業後に兄の周と結婚する予定の遠山理香に料理を教えてやらなければならなくなった。弁当を作ってやったり一緒に帰ったり…理香が18歳になるまではなぜか兄のカノジョだということはみんなに内緒にしなければならない。そのため友だちでイケメンの櫻井和樹やチャラ男の大宮司から亮が理香と付き合ってるんじゃないかと疑われてしまうことに。そうこうしているうちに和樹の様子がおかしくなって?口の悪い高校生男子の学生ライフ/男女CPあります。

とある冒険者達の話
灯倉日鈴(合歓鈴)
BL
平凡な魔法使いのハーシュと、美形天才剣士のサンフォードは幼馴染。
ある日、ハーシュは冒険者パーティから追放されることになって……。
ほのぼの執着な短いお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる