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第三話
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暗い玄関に薄く開いたドアから残酷な光が差し込む。ドアノブにかける薄い手には指輪はなくなっていて、もう片方の手に握るいっぱいに詰め込まれた大きなバッグが印象的だった。
「……母さん?」
いつもと違う様子の母に子供ながらに言いようのない不安を感じる。名前を呼ばれた彼女はちらりとこちらを振り向き、まるで大罪を犯してしまったように顔を苦しそうに歪ませる。
だけど彼女は俺から目を逸らすともう振り返ることはせずにそのまま光の中に消えて行ってしまった。後ろから父が俺の肩を掴み、はっきりと現実を突きつける。
「あいつはお前を捨てたんだ」
そんなの信じられなくて俺は母を追って暗い玄関を飛び出す。だけどもうそこに母はいなかった。
暗くて苦しい渦に突き落とされたような俺の心とは打って変わって太陽は燦々と健やかに俺を照らす。塀の向こう側からはパシャパシャと軽い水飛沫と庭で遊んでいるであろう秀司とその妹の楽しそうな声が聞こえてきた。
視界に映るのは一つだけ電灯のついた淡いオレンジ色の天井。窓からはまだ陽の光は差し込まない。
また起きてしまった。
これで何度目だろう。数えるのも面倒になる程だった。
嫌な記憶を思い出した。
夢にも逃げ場がないなんてなとまた眠る気にはなれなくてゴロリと寝返りを打つ。
カチカチと鳴る時計の針の音が気に障る。耳を両手で塞ぐと次はバクバクと爆弾でも抱えているような心臓の音がよく聞こえた。
試合が怖かった。時計の針が進む先に待つ決勝が怖い。
結果を残せなかったらどうしよう。俺が失敗してそのせいでチームが負けたらどうしよう。
考えてもキリがないって分かっているのに頭に過るのは最悪の未来。
母は不倫して間男のもとへ俺を置いて行ってしまった。俺にはもう父しかいない。だけど俺が期待に添えなかったら俺は父に捨てられる。
「お前は要らない」
そう言われる光景がまざまざと浮かび上がって怖くて体は寒くもないのにフルフルと小刻みに震える。
捨てられたくない。
頭に占めるのはその思いだけだった。
なんとか体の震えを抑えようと交差した両手で肩をがっしり掴むけれど一向に治る気配はなく、焦って息が上がる。
その荒い息遣いで起きてしまったのだろうか二段ベッドの下からギシリと木が軋む音が響く。上にいる俺を秀司が梯子を登って心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?」
「ごめっ、俺、ちょっと、おかし……」
息苦しさにまともに返事もできない。そんな俺を見て秀司が少しでも楽になれるように背中を摩ってくれる。おかげで幾分か呼吸がしやすくなって、やっと落ち着いた頃には疲れてぐったりとしてしまっていた。
「水いるか?」
「……うん」
お言葉に甘えると秀司は水を取りに一旦部屋を出て行く。俺も俺でなんとかバクバクと鳴る心臓を治めようとベッドから起き上がり、なるべく快適な扇風機の風がよく当たる勉強机に突っ伏して冷静になろうと試みる。
タプタプと揺れる水の入ったコップを持って秀司が部屋に戻る。「ほら」と差し出されたそれを俺はぐっと飲み干した。
「ごめん。ありがとう」
「気にすんな。どうだ、体調大丈夫か?」
「さっきよりは全然楽だよ」
ひとまず安心したように秀司の不安そうだった表情がふっと柔らかくなる。
「なんか悪い夢でも見たのか?」
「まぁな。それで少し気分が悪くなっただけさ」
「少しって程度じゃないだろ。……なぁこの頃ちゃんと眠れてるのか? 日に日に隈も酷くなってるみたいだし、そんなんじゃいつか倒れるぞ」
「分かってる。けどどうしたって眠れないんだ」
振り払おうとしても頭から試合のことが離れない。自身の力を存分に発揮するために健康的な生活がなにより大事なのはよく分かっていた。だからこそ眠れない自分に苛立ちが募る。ふと秀司が俺の腕を掴む。
「な、なに?」
「こっち来て」
引っ張られるままに連れて行かれたのは秀司のベッド。そこへ寝転がる秀司になんだろうかと眺めていると、「おいで」と腕を掴んで引き寄せる。
そのままベッドへ沈んでいき、秀司と向き合う形になる。狭いベッドでは体が密着して今までとは違う意味で心臓が高鳴った。
「えっ? ちょっどしたん?」
「効くかと思って」
「効く?」
「妹がまだ小さい頃、眠れない時はこうやって一緒に寝るとぐっすりだったから」
どうやら秀司は俺のためにやってくれているらしかった。肌と肌が触れ合って胸の鼓動は治ることはないけれど確かに秀司の匂いはお日様みたいで落ち着く。
タオルケットをかけられ、一緒にその布の下で横になるとまたあのポカポカした匂いがふわりと舞って俺を優しく包み込んだ。落ち着く香りと時おり触れる人肌が心地よくなってきて段々瞼が重くなる。
「透はよく頑張ってる。誰よりも早く起きて誰よりも遅くまで練習してさ。透みたいに一生懸命努力してる奴、俺は尊敬してるし好きだ。だけど辛そうに努力してるのなんて俺は見たくないんだ。透は努力なんて当たり前かと思ってるかもしれないけど本当は辛いんじゃないのか?」
「辛い? ……そんなこと考えてもみなかったな」
俺は結果を残せればなんでも良かったから努力することに関しては何も思ったことはない。昔はよく練習が嫌で仕方なかったけど今の俺にしれみれば捨てられることの方が嫌だった。
「はっきり言って透は野球好きじゃないだろ。昔から見てて多分透は親父さんのためにやってるんだろうなとは分かってたけど、好きじゃないこと無理矢理続けるのって辛くないか? 親父さんを想うのも分かるけど自分の意思を尊重して野球辞めたって俺はいいと思うけどな」
いや、秀司は何も分かってないよ。
野球を辞めたらもう俺に残ってるものなんて何もないんだ。ぽいって捨てられて行き着く先はゴミ溜めの中。俺はゴミになりたくはない。
「辞めても高校はお前を退学させられるわけじゃないんだ。一旦気楽に考えてみたらどうだ?」
「そうだな。……少し考えてみるよ」
これっぽっちもそんな気はないが、瞼がもう開きそうにないから簡単にそれだけ言う。意識を手放すと今度は夢も見ずに朝までぐっすり眠れた。
球場は観衆の落胆と歓喜で溢れかえっていた。
九回表、同点。塁は全て埋まり、勝利への襷を手渡され俺は強くバットを握る。仲間とコーチ、そして観衆の信じる熱い眼差し。
真っ青な空に浮かぶ太陽がじりじりと肌を照らし、汗が止めどなく流れる。
ツーアウト。全ては俺にかかっているんだ。耳障りな胸の鼓動は無視して目の前に集中する。
ボール、ストライク、ストライク、ファウル、ファウル。
俺にできることはただ球に喰らいつくことぐらいだ。
そうして振り切ったバットに一球が当たる。それは何度もバウンドし、セカンドへと転がって行き、ああというどよめきが球場に広がるなか打った瞬間すぐさま俺は駆け抜ける。
してしまったと感じた。
だけどどよめきを上回る大きな叫びがあがる。
横目で見れば転がったボールは二塁手を抜け未だに転がり続けていた。
人生でこんなに必死に走ったことはないくらいの様で俺は一塁を踏み込んだ。三塁も埋まり、一人がホームへ帰っていく。
どっと歓声が湧き上がる。
心の奥底からほっとした。
ミスをした相手側の内野手を拝みたくなる程の安堵が広がる。
ベンチを遠くに眺めると戻ってきた選手を盛大に出迎えているなか、俺の視線に気付いたのか秀司がこちらにニカリと満面の笑みを浮かべ拳を上に突き出す。俺も安堵を噛み締めながら拳を上げてそれに応えた。
だけどその直後、腕を下げる際に秀司がぎこちなく右肩を気にしているのに俺は違和感を感じていた。
九回裏、守備位置から遠く秀司を見守る。やはり秀司の球は他とは段違いで、相手ももう目は速さに慣れただろうに繰り出されるコントロール抜群の多様な球の多さに空振りが続く。次々とアウトを取るその姿はまるで獲物を俊敏に狩る鷹のようだった。
けれど勝利までもうあと一人というところで秀司が痛みに顔を歪めて肩を押さえる。
「秀司!」
ベンチから控えの数人と捕手が秀司に駆け寄る。動揺がベンチ、守備全員に広まるなか、俺は顔を真っ青にしてその様子を棒立ちで眺めていた。
ピッチャー交代の後、最後の一人をなんとか討ち取り甲子園進出が決まる。
その試合の直後、秀司が医者に行ったことがすぐ周囲に広まった。みんなは特に秀司の不調なんて感じなかったから戸惑いが多かったが、俺は拭いようのない不安を感じていた。戻ってきたのはその日の夜、何もする気もなれずそわそわとベッドに腰掛けているとガチャリとドアが開き、ゆっくりと秀司が入ってきた。
「どうだった? 医者はなんて?」
すぐさま声を掛けるが、秀司は俯いたままで立ち尽くしているだけ。
「……秀司?」
「透、俺肩壊しちまったみたいだ」
秀司がパッと顔を上げ、無理矢理作ったような笑みを浮かべる。
「……嘘だろ」
信じられなかった。まさか秀司が肩を壊すだなんて。あの違和感は本物だったのか。
心配させないように笑顔を見せていたのだろうが、そんなの効くはずもない。それを悟ったのか秀司の表情は見る見るうちに暗くなっていく。
「もう右では投げれないって、そう言われたよ」
「……そんな」
「でもそもそも俺が悪いんだ。試合中違和感は感じていたんだが、あと一イニングだしって勝ちたくて知らないふりをしていた。だけどまさか投げれなくなるなんてな……」
「……いや違う。俺も、俺も違和感は抱いていたんだ。俺が早く気付いていれば……」
俺と違って秀司は野球が大好きだ。幼い頃に見た秀司の父とキャッチボールをする姿は本当に楽しそうで声を掛けなければ永遠とするくらいだ。
そんな彼が投手として野球ができなくなるなんてどんな思いか……。
「透は何も悪くない。全部俺が悪いんだ」
泣きそうな俺の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。なんで俺が慰められてんだよ。辛いのはそっちじゃないか。
眠る秀司の背中はやけに小さく見えて、目を離したらいつの間にかいなくなってしまいそうだった。
俺は秀司に何ができる?
分からない。けれどそばにいてやりたい。支えてやりたい。
明日に怯える俺のそばにいてくれたように、思い返せば今まで何度も秀司には助けられた。今度は俺が助ける番だ。
秀司を見つめるその瞳に俺は決意を宿していた。
秀司はチームの要。故障で試合に出られなくなったのは相当な痛手で、代わりの選手はもちろんいるのだがエースの欠けたチームではやはりと言うべきか甲子園ではあっさり一回で敗退してしまった。
「……母さん?」
いつもと違う様子の母に子供ながらに言いようのない不安を感じる。名前を呼ばれた彼女はちらりとこちらを振り向き、まるで大罪を犯してしまったように顔を苦しそうに歪ませる。
だけど彼女は俺から目を逸らすともう振り返ることはせずにそのまま光の中に消えて行ってしまった。後ろから父が俺の肩を掴み、はっきりと現実を突きつける。
「あいつはお前を捨てたんだ」
そんなの信じられなくて俺は母を追って暗い玄関を飛び出す。だけどもうそこに母はいなかった。
暗くて苦しい渦に突き落とされたような俺の心とは打って変わって太陽は燦々と健やかに俺を照らす。塀の向こう側からはパシャパシャと軽い水飛沫と庭で遊んでいるであろう秀司とその妹の楽しそうな声が聞こえてきた。
視界に映るのは一つだけ電灯のついた淡いオレンジ色の天井。窓からはまだ陽の光は差し込まない。
また起きてしまった。
これで何度目だろう。数えるのも面倒になる程だった。
嫌な記憶を思い出した。
夢にも逃げ場がないなんてなとまた眠る気にはなれなくてゴロリと寝返りを打つ。
カチカチと鳴る時計の針の音が気に障る。耳を両手で塞ぐと次はバクバクと爆弾でも抱えているような心臓の音がよく聞こえた。
試合が怖かった。時計の針が進む先に待つ決勝が怖い。
結果を残せなかったらどうしよう。俺が失敗してそのせいでチームが負けたらどうしよう。
考えてもキリがないって分かっているのに頭に過るのは最悪の未来。
母は不倫して間男のもとへ俺を置いて行ってしまった。俺にはもう父しかいない。だけど俺が期待に添えなかったら俺は父に捨てられる。
「お前は要らない」
そう言われる光景がまざまざと浮かび上がって怖くて体は寒くもないのにフルフルと小刻みに震える。
捨てられたくない。
頭に占めるのはその思いだけだった。
なんとか体の震えを抑えようと交差した両手で肩をがっしり掴むけれど一向に治る気配はなく、焦って息が上がる。
その荒い息遣いで起きてしまったのだろうか二段ベッドの下からギシリと木が軋む音が響く。上にいる俺を秀司が梯子を登って心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?」
「ごめっ、俺、ちょっと、おかし……」
息苦しさにまともに返事もできない。そんな俺を見て秀司が少しでも楽になれるように背中を摩ってくれる。おかげで幾分か呼吸がしやすくなって、やっと落ち着いた頃には疲れてぐったりとしてしまっていた。
「水いるか?」
「……うん」
お言葉に甘えると秀司は水を取りに一旦部屋を出て行く。俺も俺でなんとかバクバクと鳴る心臓を治めようとベッドから起き上がり、なるべく快適な扇風機の風がよく当たる勉強机に突っ伏して冷静になろうと試みる。
タプタプと揺れる水の入ったコップを持って秀司が部屋に戻る。「ほら」と差し出されたそれを俺はぐっと飲み干した。
「ごめん。ありがとう」
「気にすんな。どうだ、体調大丈夫か?」
「さっきよりは全然楽だよ」
ひとまず安心したように秀司の不安そうだった表情がふっと柔らかくなる。
「なんか悪い夢でも見たのか?」
「まぁな。それで少し気分が悪くなっただけさ」
「少しって程度じゃないだろ。……なぁこの頃ちゃんと眠れてるのか? 日に日に隈も酷くなってるみたいだし、そんなんじゃいつか倒れるぞ」
「分かってる。けどどうしたって眠れないんだ」
振り払おうとしても頭から試合のことが離れない。自身の力を存分に発揮するために健康的な生活がなにより大事なのはよく分かっていた。だからこそ眠れない自分に苛立ちが募る。ふと秀司が俺の腕を掴む。
「な、なに?」
「こっち来て」
引っ張られるままに連れて行かれたのは秀司のベッド。そこへ寝転がる秀司になんだろうかと眺めていると、「おいで」と腕を掴んで引き寄せる。
そのままベッドへ沈んでいき、秀司と向き合う形になる。狭いベッドでは体が密着して今までとは違う意味で心臓が高鳴った。
「えっ? ちょっどしたん?」
「効くかと思って」
「効く?」
「妹がまだ小さい頃、眠れない時はこうやって一緒に寝るとぐっすりだったから」
どうやら秀司は俺のためにやってくれているらしかった。肌と肌が触れ合って胸の鼓動は治ることはないけれど確かに秀司の匂いはお日様みたいで落ち着く。
タオルケットをかけられ、一緒にその布の下で横になるとまたあのポカポカした匂いがふわりと舞って俺を優しく包み込んだ。落ち着く香りと時おり触れる人肌が心地よくなってきて段々瞼が重くなる。
「透はよく頑張ってる。誰よりも早く起きて誰よりも遅くまで練習してさ。透みたいに一生懸命努力してる奴、俺は尊敬してるし好きだ。だけど辛そうに努力してるのなんて俺は見たくないんだ。透は努力なんて当たり前かと思ってるかもしれないけど本当は辛いんじゃないのか?」
「辛い? ……そんなこと考えてもみなかったな」
俺は結果を残せればなんでも良かったから努力することに関しては何も思ったことはない。昔はよく練習が嫌で仕方なかったけど今の俺にしれみれば捨てられることの方が嫌だった。
「はっきり言って透は野球好きじゃないだろ。昔から見てて多分透は親父さんのためにやってるんだろうなとは分かってたけど、好きじゃないこと無理矢理続けるのって辛くないか? 親父さんを想うのも分かるけど自分の意思を尊重して野球辞めたって俺はいいと思うけどな」
いや、秀司は何も分かってないよ。
野球を辞めたらもう俺に残ってるものなんて何もないんだ。ぽいって捨てられて行き着く先はゴミ溜めの中。俺はゴミになりたくはない。
「辞めても高校はお前を退学させられるわけじゃないんだ。一旦気楽に考えてみたらどうだ?」
「そうだな。……少し考えてみるよ」
これっぽっちもそんな気はないが、瞼がもう開きそうにないから簡単にそれだけ言う。意識を手放すと今度は夢も見ずに朝までぐっすり眠れた。
球場は観衆の落胆と歓喜で溢れかえっていた。
九回表、同点。塁は全て埋まり、勝利への襷を手渡され俺は強くバットを握る。仲間とコーチ、そして観衆の信じる熱い眼差し。
真っ青な空に浮かぶ太陽がじりじりと肌を照らし、汗が止めどなく流れる。
ツーアウト。全ては俺にかかっているんだ。耳障りな胸の鼓動は無視して目の前に集中する。
ボール、ストライク、ストライク、ファウル、ファウル。
俺にできることはただ球に喰らいつくことぐらいだ。
そうして振り切ったバットに一球が当たる。それは何度もバウンドし、セカンドへと転がって行き、ああというどよめきが球場に広がるなか打った瞬間すぐさま俺は駆け抜ける。
してしまったと感じた。
だけどどよめきを上回る大きな叫びがあがる。
横目で見れば転がったボールは二塁手を抜け未だに転がり続けていた。
人生でこんなに必死に走ったことはないくらいの様で俺は一塁を踏み込んだ。三塁も埋まり、一人がホームへ帰っていく。
どっと歓声が湧き上がる。
心の奥底からほっとした。
ミスをした相手側の内野手を拝みたくなる程の安堵が広がる。
ベンチを遠くに眺めると戻ってきた選手を盛大に出迎えているなか、俺の視線に気付いたのか秀司がこちらにニカリと満面の笑みを浮かべ拳を上に突き出す。俺も安堵を噛み締めながら拳を上げてそれに応えた。
だけどその直後、腕を下げる際に秀司がぎこちなく右肩を気にしているのに俺は違和感を感じていた。
九回裏、守備位置から遠く秀司を見守る。やはり秀司の球は他とは段違いで、相手ももう目は速さに慣れただろうに繰り出されるコントロール抜群の多様な球の多さに空振りが続く。次々とアウトを取るその姿はまるで獲物を俊敏に狩る鷹のようだった。
けれど勝利までもうあと一人というところで秀司が痛みに顔を歪めて肩を押さえる。
「秀司!」
ベンチから控えの数人と捕手が秀司に駆け寄る。動揺がベンチ、守備全員に広まるなか、俺は顔を真っ青にしてその様子を棒立ちで眺めていた。
ピッチャー交代の後、最後の一人をなんとか討ち取り甲子園進出が決まる。
その試合の直後、秀司が医者に行ったことがすぐ周囲に広まった。みんなは特に秀司の不調なんて感じなかったから戸惑いが多かったが、俺は拭いようのない不安を感じていた。戻ってきたのはその日の夜、何もする気もなれずそわそわとベッドに腰掛けているとガチャリとドアが開き、ゆっくりと秀司が入ってきた。
「どうだった? 医者はなんて?」
すぐさま声を掛けるが、秀司は俯いたままで立ち尽くしているだけ。
「……秀司?」
「透、俺肩壊しちまったみたいだ」
秀司がパッと顔を上げ、無理矢理作ったような笑みを浮かべる。
「……嘘だろ」
信じられなかった。まさか秀司が肩を壊すだなんて。あの違和感は本物だったのか。
心配させないように笑顔を見せていたのだろうが、そんなの効くはずもない。それを悟ったのか秀司の表情は見る見るうちに暗くなっていく。
「もう右では投げれないって、そう言われたよ」
「……そんな」
「でもそもそも俺が悪いんだ。試合中違和感は感じていたんだが、あと一イニングだしって勝ちたくて知らないふりをしていた。だけどまさか投げれなくなるなんてな……」
「……いや違う。俺も、俺も違和感は抱いていたんだ。俺が早く気付いていれば……」
俺と違って秀司は野球が大好きだ。幼い頃に見た秀司の父とキャッチボールをする姿は本当に楽しそうで声を掛けなければ永遠とするくらいだ。
そんな彼が投手として野球ができなくなるなんてどんな思いか……。
「透は何も悪くない。全部俺が悪いんだ」
泣きそうな俺の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。なんで俺が慰められてんだよ。辛いのはそっちじゃないか。
眠る秀司の背中はやけに小さく見えて、目を離したらいつの間にかいなくなってしまいそうだった。
俺は秀司に何ができる?
分からない。けれどそばにいてやりたい。支えてやりたい。
明日に怯える俺のそばにいてくれたように、思い返せば今まで何度も秀司には助けられた。今度は俺が助ける番だ。
秀司を見つめるその瞳に俺は決意を宿していた。
秀司はチームの要。故障で試合に出られなくなったのは相当な痛手で、代わりの選手はもちろんいるのだがエースの欠けたチームではやはりと言うべきか甲子園ではあっさり一回で敗退してしまった。
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