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白き月は幼子を抱く

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 また母さんに怒られた。
 算数のテストで60点。
 なぜこんな点数を取るんだと正座したまま二時間説教された。
 僕は一日のほとんどを勉強に充てている。だけど僕は頭が悪いからテストの点数はいつも悪いし、毎度母さんを失望させている。
 ある日、風邪を引いた。喉は痛くて、熱で起きていることも辛い。だから学校を休ませて欲しいと母さんに頼んだ。
「何言ってるの! 出来の悪いアンタが休んだら授業に追いつけなくなるでしょ! さっさと準備して学校に行きなさい!」
 僕は朝食を食べている父さんに助けを求めた。けど、
「俺に言ったって仕方ないだろ。この家は母さんが女王様なんだから。諦めて母さんの言うことをきくんだ」
 半笑いでそう言って、父さんはテレビに再び視線を戻した。
「……母さんは僕の成績が良かったらなんでもいいの?」
 消え入りそうな声で僕は訊く。
 僕は心配されたかったのだ。「大丈夫?」と声を掛けて欲しかった。優しくして欲しかった。
 だが甲高い声で母さんが言う。
「あったり前でしょ! いい? 今が一番大事な時なの! 学歴は後から大きく影響するの! 今休んで大人になって苦労するのはアンタなんだよ!」
 今が大事な時……。何度言われたか分からない。
 僕は幼稚園からずっと大事な時らしい。
 僕はランドセルを背負い、とぼとぼと家を出た。いつものように電車に乗る。降りる駅に着くけれど僕はその気にはなれなかった。
 学校に行ったって楽しいことは何一つない。「あっ」、「えっと」ばかりで人とまともに話せないいつも俯いてばかりの暗い子。そんな僕に友達なんか出来るわけがなくて挙動不審だからみんなからなんだコイツと気持ち悪がられる。
 素の自分でいられるのは動物相手くらいだ。
(どこか遠いところに行きたい)
 一駅、また一駅過ぎて終点に到着する。
 降りたそこは人のいない田舎だった。緑が一面に広がって駅も無人。降りたのは僕だけのようで小さな不安と冒険心が湧いてくる。
 今だけは熱っぽい体を忘れられた。
 空き家がポツポツとあるだけの道を歩いていく。一人になれる所に行きたかった。
 誰もいないだろう消えかけた山道に入っていく。遂に道が無くなる。だが僕はその奥にとても興味深いものを見つけた。
 崩れた鳥居、朽ちた神社。
 僕はその光景に親近感を覚えた。
 朽ちた神社に寄り添うように僕は横になる。冷たい材木が熱を持った体に心地良い。
 ふと上から声が降ってくる。そのおどろおどろしい声色から人間じゃないというのはすぐに分かった。
「穢らわしい人間が。我の棲家に無断で立ち入ろうとは」
 見上げると、黒い靄のかかった化け物がこちらを見ていた。歯はギザギザと鋭く、あちこち腐れているのか骨が見えている。僕なんか一飲み出来るくらいの大きさだ。靄のせいで見えにくいが、目の前のそれは黒い狐だった。
 こんなに大きな狐初めて見た。しかも喋ってる。
 僕は熱によくあるそんなぼうっとした意識で緩く興奮していた。
「その無礼な魂、噛み刻んで喰ってやる」
 黒い狐が大きく口を開ける。
 食べられるんだと僕は悟った。けれど怖くなかった。
 多分僕は生きることに億劫になっていたのだ。
 僕は喰べられるのか。……でも別にいいか。狐さんもお腹が減って辛いんだろうし。
 それに孤独で寂しいって目をしている。
 ……彼は僕と同じだ。
 狐の頬に手を伸ばして添える。
「今まで辛かったよね。もう我慢しなくていい。いっぱい泣いていいんだよ」
 それは僕が誰かに言われて欲しかった言葉だったのかもしれない。
 狐がピタリと体を止める。縦の瞳孔を閉じ込めた黄金の瞳が少し潤んでいる気がした。
「ほらおいで。僕が抱きしめてあげる」
「っ……!」
 両手を広げると狐は目を丸くしていた。けれどおずおずと狐は僕に身を預ける。
「いい子、いい子」
 僕は抱きしめ、ボサボサとした毛並みに指を通して優しく撫でる。狐は冷水のように冷たかった。だが今の熱っぽい体にはその冷たさが心地良かった。
 うとうとと意識が沈んでいく。
 次に目を覚ますと辺りはすっかり陽が沈んでいた。
「……母さん心配してるかな。いや多分怒られちゃうな」
 気持ちを暗くしたくなくて笑みを溢す。その時違和感に気付いた。
「ん?」
 崩れた材木に寝ていたはずなのにフワフワの枕に頭を預けている。
 あれと体を起こす。するとあの黒い大きな狐が僕をぐるっと囲む形で眠っていた。
「……夢じゃなかったんだ」
 あの狐は熱のせいで見た幻覚、そう思っていた。けれど手に感じる毛の感覚ははっきりとした現実のものだ。
 狐が目を開く。
「ふん。やっと目を覚ましたか」
「……えっと、もしかして僕のそばにずっといてくれていたの?」
「ここは我の棲家だ。勝手に死なれて棲家を穢されるわけにはいかんからな」
 なにかと尊大な態度で僕を見下ろしているが、心優しいのがバレバレだ。
「ありがとう」
「感謝される謂れはない」
 狐なのに猫みたい。
 面白くて笑みを溢す。すると狐が訝しげに僕に訊ねる。
「貴様、我のことが恐くないのか?」
「確かに見た目はちょっとぞっとするけど、僕と似てるからそんなに恐くはないかな」
「似てるだと?」
「うん」
 狐の姿はまるで自分の心を映し出したかのように酷いものだ。
 狐が呆れたように「はあ」とため息を吐く。
「貶されているのか、我は」
 僕は空を見上げる。月が既に昇っている。そろそろ帰らないと。
 起き上がると狐が僕に視線を向ける。
「じゃあね狐さん。僕もう帰らなきゃ」
「もう帰るのか?」
「え? まだ僕にいて欲しいの?」
「ち、違う! こうるさい童がいつ帰るものかと窺っておったのだ。ほらさっさと帰れ」
「うん。狐さんバイバイ」
 手を振って、よいしょと置いていたランドセルを背負って僕は狐に背を向ける。けれど数歩歩いて足が鉛のように重くなって動かなくなってしまう。
「ねぇ。もうちょっとここにいていい?」
 振り向いて遠慮がちに請う。狐が何かに気付くような表情をする。そして尊大に言い放った。
「ふん、好きにするがいい。もう夜だ。暗闇で足を滑らせて領域を血で穢されては敵わないからな」
「狐さん、ありがとう」
 お礼をすると狐はそっぽを向くが、照れ隠しにしてはあからさまだ。
「ああ、そういえば我の食べ残した鹿肉があったな。腐って臭っても困る。ほれ、くずをやろう」
 狐がドギマギした様子でどこからか鹿肉を持ってくる。けれど食べ残しというより少し口を付けただけに思える。
「こんなにいいの?」
「もうこの味には飽きたからいらぬ。貴様に全部やろう」
「……ありがとう。でも狐さんって妖怪だと思ってた。妖怪でも食事ってするんだね」
「娯楽のようなものだ。それと我は妖怪ではない。畏れ多い神だ」
「あー神様だったんだね。ごめん気付かなかった」
「なんだそのなんとなく納得がいっていないような顔は。我は燦然さんぜん白月神しろつきのかみ。白き月のような輝きを放つ白狐の神だ」
 そうは言うものの狐は全体的に真っ黒だ。白くはない。首を傾げると狐は「色々あったのだ」と返す。
「そうだ。貴様の名はなんと言う?」
「佐藤奏太です。ごく普通の人間です。というか僕の名前なんて興味ないかと思ってた」
「興味ではない。貴様は無断に我の棲家に立ち入った要注意人物だからな。名前は憶えておかねば。ほれそれよりさっさと肉を喰わんか。すぐに腐ってしまうぞ」
 僕は狐さんの言う通りに夕食に移ることにした。狐さんは丁寧に魔法のように火を出して肉を焼いてくれた。
 見た目は少し恐いけど狐さんはとても優しい。
 もぐもぐと肉を食べると狐さんが「美味しいか?」と訊く。
「うん美味しい。白さんありがとう」
「白さん?」
「燦然白月神だとちょっと長いし、白さんだと親しみやすいでしょ」
「ふ、ふん! この童が! 畏れ多き神をかような薄っぺらい名で呼ぶとは。童でなければ息の根を止めておるぞ」
 そう言うものの白さんは明らかに嬉しそうだった。


 四年後、俺は中学生になっていた。


「ぐはっ!」
 腹に深く蹴りが入る。休みはない。体中蹴られて自分がボールになった気分だ。
 痣だらけの体では起き上がることは叶わない。必死に開いた扉に手を伸ばすが、男達によって無情に閉められる。体育館倉庫に悍ましい暗さと湿っぽさが広がる。
「っやめて、うぐ、おねがいだから──!」
 何度もやめてと叫ぶ。だが同級生の男は苛立たしげに俺を責める。
「お前が抵抗すんのが悪りぃんじゃねぇか。オナホはオナホらしく股広げてりゃあいいんだよ」
 男が俺の下を脱がせ始める。
「っやだやだやだ! やめろ触るな!」
 暴れるが、取り巻き二人によって押さえられる。シャツははだけ、下は靴下だけ。うつ伏せで尻だけを晒す状態にされてしまう。
 ズンと一気に衝撃が腹に伝わる。
「ッ──!」
 背筋に電気が走る。俺はこの感覚が嫌いだった。
「ハッ、いやいや言っといて挿入れただけでイッたのか。この淫乱が」
「ちがっ──」
「違わねぇ、だろ!」
「あっ──!」
 腰を強く掴まれ、腹の奥深くを突かれる。嫌なはずなのに気持ちいい。
 そんな自分が気持ち悪い。
「おら! 気持ちいいって言えよ! おら、おら!」
 ドチュッドチュッドチュッ。
 勢いよく中を責める。既に何度も責め苦を受けた後孔は素直に受け入れ、彼のものを下僕が主に奉仕するように抵抗はせずいい具合に締め付ける。
 前立腺も押し潰され、涙が溢れてくる。快楽に逆らえずに嬌声を漏らす。
「あっあっ、や、んあっあ、ああ!」
「やだじゃねぇだろ!」
 ぐぽっ。
 大きく腰を振る。入っちゃいけないところに汚いそれが無断で入り込む。
「おっ──!」
 下品に目は上を向き、突き出した舌から唾液が垂れる。受け止めきれない刺激に中心からびゅうと精液がアーチを描く。
「はっ、やっぱ気持ちいいんじゃねぇかよ。雑魚マンがよ!」
「おい俺のも咥えろ」
 取り巻き達も事を始める。手に握らせ、口に含ませ、したいように中を突かれる。
 まるで本当の物になったようだった。
 人との付き合い方が分からない俺は中学生になっても友達がいないでいた。どうやって友達を作っていいか分からない。頑張ってもテンパって同じ話を何度もしちゃって相手に気を遣われる始末だ。
 そんな独りきりの、気弱な俺を狙ってアイツらは物のように扱う。
 最中の写真も撮られて、誰かに言ったらばら撒くと脅されて助けなんて呼べない。家に帰っても母に勉強しろと言われるばかりで、きっと父に打ち明けたとしても面倒臭がって母に押し付けるだけだろう。
 人間社会に居場所がなかった。だから最近は白さんの家へ尋ねることが多くなっていた。
「白さん」
「また来たのか。童」
 白さんは毎回うんざりしているような言動を見せるが、顔が嬉しいという感情を隠しきれていない。
 白さんを見て思わず笑みを溢す。白さんと話すのは楽しい。辛い現実を忘れられる。
 一人と一柱が地面に座る。
「白さん、俺チョコ買ってきたんだ。一緒に食べよ。……あっやべ、俺やっちゃった」
「どうした?」
「今まで気付かなかったけど狐ってチョコ食べれないじゃん」
「問題ない」
「あっ」
 手にしたチョコを白さんがむしゃむしゃと奪い取るようにして咀嚼する。
「甘いな……」
「だ、大丈夫なの?」
「ああ。我は神だからな。食べれないものはない」
 けれどあまり美味しそうに食べてるようには見えない。
「甘いの苦手だった?」
「嫌いとまではいかんな」
「ふふ、無理しなくていいよ。俺も甘いのは苦手だから」
 そうして俺も口に含む。うっ、やっぱり甘い。
 今日はバレンタインデー。本当は手作りを渡したかったけれど母さんに見つかったらそんなことより勉強だと叱られるし、男なのにチョコを作る俺を気持ち悪いと思うに違いない。だから貯めたお小遣いで高い市販のものを買ってきたのだ。
「奏太……」
 隣に顔を向けると黒の着物を着た男がそこにいた。闇夜のような黒髪に狐のとんがった耳、ふわふわした尻尾。悍ましい顔を隠すために顔に狐のお面を被っている。
 俺は目を丸くさせる。
 白さんは人間を嫌悪しているから人の姿に変化するのは珍しいことなのだ。
「以前奏太が家に置けないからとここに持ってきた漫画とやらの書物に書いてあったな。ばれんたいんでーは好きな男にあげるものだと。今日はそのばれんたいんでーとやらだな。さて、奏太。そなたは我のことが好きなのか?」
「あっ……えっと……」
 俯き、頬を赤くさせる。自己満足で終わらせるつもりだったのに。このまま流せる雰囲気でもない。
 胸がドキドキと速く大きく鼓動する。
「……人間ごときがって思うかもしれないけれど、好きだよ。白さんのそばから一瞬も離れたくない。それくらい大好きだ」
 反応が怖くて顔を上げられない。すると白さんが俺の顎に手を添えて前を向かせる。
「いつから我らは同じ気持ちだったのだろうな」
「え……」
「我はそなたと出会ってすぐに欲しくなった」
 白さんが仮面を口だけが露わになるようズラす。
 艶かしい唇が近付く。
 ふと触れちゃいけない、俺はそう思った。
「っ……!」
 咄嗟に肩を押す。白さんはショックを受けていた。
「白さんごめん。でも違うんだ」
 俺は穢れてる。白さんが触れていいような体じゃない。でも本当のことは言えない。言ってしまったらきっと白さんは俺を嫌う。
 それにどうにも気持ち悪くなってしまったのだ。快楽に抗えず、嬌声をあげる自分が。
「白さんのことは大好きだ。でも俺、そういうことしたくないんだ。なんだか自分が気持ち悪く感じて」
「そうか……徐々にというわけにはいかんのか?」
「……ごめん。多分一生出来ない」
 白さんは残念そうに肩を落とす。だが調子をすぐに戻す。
「それなら仕方ない。だが繋がる方法は一つではない。魂で精神的に繋がることも我には可能だ」
 精神的に繋がるとか想像はつかないけど流石神様なだけある。というより。
「そんなに俺を求めてくれてたんだね」
 他の方法を使ってでも繋がりたいという気持ちがとても嬉しかった。
「そ、そんなわけなかろう。我はただ方法があるから言ったまでだ」
「うん。でも俺嬉しいよ」
 空を見れば月が昇っていた。時間が経つのが早いな。
 それくらい白さんとの時間が楽しいってことだけど。
「帰りたくないな」
 ぼそりと本音を呟く。白さんは可哀想に思ってしまうくらい申し訳なさそうな様子で「すまない」と返す。
「数日なら問題ないが、我と長くいすぎるとそなたの魂まで穢れてしまう。そなたには我のような姿にはなって欲しくない」
 既に自分の心がそうなのだから別に穢れてしまってもいいのだけれど白さんの悲しむ顔は見たくない。だから軽く笑って気丈に装う。
「そんな深刻に捉えないでよ。ちょっと言ってみただけ。今日ここで泊まって白さんパワーを補充したら元気いっぱいになるからさ」
「そうか……」
 親には塾で勉強合宿があると言っているから大丈夫だ。
 あー嫌だ嫌だ。ここにいる時くらい親も勉強も忘れよう。ウキウキした気分で白さんにせがむ。
「ねぇねぇいつものやらせて」
「童は本当に飽きないな」
 許しを得たところで白さんのふわふわした長い尻尾を首に巻く。白さんマフラーの完成だ。
「うへへ、ふわふわして気持ちいい」
「全く。我の気も知らないで」
 そわそわした様子で白さんが言う。
 尻尾が敏感なのは知っていたが、堪能せずにはいられない。白さんの匂いを胸いっぱいに吸い込んで毛の優しい肌触りを味わう。
 夜、暗い寒さで体が冷えて沈んでいた意識がぼんやりと浮かび上がる。
 横になる俺を見下ろす形で人の姿をした白さんがいた。
「他人に見えないところばかり傷をつけおって。なんと姑息で醜悪か」
 白さんはどうやら怒っているらしい。しかもこれは激怒だ。
「魂まで傷が及ぶとは。体は治せてもこれでは我にはどうすることも……」
 肌寒くて体が震える。すると白さんは「すまない。寒かっただろう」と俺のシャツのボタンを閉める。
「この土地に縛られている限り我はどこへも行けない。だがそなたに屈辱と苦しみを与えた人間どもを何の罰もなく野放しにするつもりはない。必ずや我が復讐を果たそう」
 白さんの柔らかな狐の毛に囲まれて再び意識が沈む。
 寝ぼけていた俺は白さんがシャツの前を開け痣だらけの体を見ていたこと、白さんが何を言っているかさえ分からずそもそも憶えていなかった。
 朝、体の痛みがないことに気付いてあれと服の中を覗く。体中にあった痣は一つもなくなっていた。白さんが様子を窺う。
「どうした?」
「白さんパワーってすごぉ……」
 俺は呑気にそう呟いた。


 十八歳、俺は社会人になった。
 所謂なんちゃって進学校にはギリギリ入学でき、中学のアイツらともおさらばになったのは良かった。だがやっぱり頭の悪い俺は授業についていくのでやっとで大学も一つだけ受けていた国立は落ちた。
 母さんは発狂。父さんは普段俺と関わることさえもしないくせに今更父親面してきて「これからどうするんだ?」と迫る始末。
 俺はもうこんな家にいたくはなかった。だから家を出た。親に追われないよう県は出る。その前に白さんに挨拶しに行くのが筋だろう。
「白さん」
「来たか童よ。久しぶりだな。ずっとそなたを待っておったのだぞ」
 余程寂しかったのだろう。いつもの照れ隠しはなしに白さんは素直に喜ぶ。鼻先を顔に近付けて俺の匂いを嗅ぎ、頬を擦り付ける。心配そうに白さんが訊ねる。
「……奏太、少し痩せたか?」
「そうかな。最近忙しかったから」
 ごまかすが、家で色々と揉めたストレスだろう。近頃食欲がさっぱり湧いていなかった。
「…………」
 明らかに元気のない俺を心配したのだろう。白さんが優しく俺に言う。
「奏太、茶でも飲まないか? つい昨日肝試しにきた奴らを蹴散らしたんだが、あやつらが放った荷に菓子があったのだ。茶葉なら奏太が置いていったものがあるしどうだ──?」
「白さん」
 これ以上聞いていると名残惜しくなってしまう。白さんの言葉を遮り、俺は手にしていた紙袋からプラスチック容器に入った何のタレもついていない真っ白な団子を取り出す。
 不穏な雰囲気を白さんも感じ取ったのだろう。恐る恐る「これは?」と訊ねる。
「ごめん白さん。俺、しばらくここには来れない」
「そんな……どうしてだ? 我が何か至らぬことをしてしまったからか?」
「違う。白さんは何も悪くない。俺の都合だよ。だからしばらくの別れの挨拶に来た。これ食べて。白さんの大好物でしょ」
 白さんの手前に団子を置く。けれど白さんは見向きもしないで俺に強く主張する。
「嫌だ。別れの挨拶などするな! そなたがいなくなったら我は……、我は……!」
「大丈夫、白さんは独りじゃないよ。どんなに遠くに離れていても心は白さんのそばにずっといる。だから白さんが独りになるなんてことはない」
「だが……次はいつ帰ってくるつもりなのだ!?」
「……三年後に必ず帰ってくるよ」
「三年……。嫌だ! そんなの嘘に決まっておる! 人間が約束など守れるものか!」
「白さん、俺だけは特別だと思っててよ」
「嫌だ! この嘘つきの人間め! こんな奴我はもう知らん!」
 白さんは背を向けて拒絶する。
「白さん、こっち向いて。しばらく会えないんだよ? 喧嘩で終わりたくなんてない」
 だが白さんは頑なにこちらを見ようとしない。思わずため息を吐く。多分今何を言っても無駄だ。残念だけど仲直りは今は諦めて再会の時にしよう。
「白さんごめんね。でも約束は必ず守るから。それと社の修復、結局最後まで出来なくてごめん。元通りにするって意気込んでいたのに三分の一しか元に戻せなかった」
 しかも素人作りの出来の悪い修復だ。本当に申し訳なく思う。
「じゃあ白さん元気でね。必ず三年後会いに来るから」
 帰り際、何度も社の方向を振り返る。だが白さんは最後までこちらを見ることはなかった。
 トイレも共用のボロアパートに住んで最低賃金のアルバイトで生きていく。だが俺の人生が上向きになることはなかった。
 あまり人と話さずに済むようにスーパーの品出しアルバイトを選んだのだが、どうやら俺は無能という奴らしい。
 仕事を教えてもらう際には事細やかにメモし、必死に覚えようとした。
 最初は頑張っているんだなと評価されたが、新人という時期を過ぎると態度も冷たく変わる。
 完璧を求めるせいで仕事は遅いし、本当に出来ているのか不安で何度も手順を訊き返す。しかも集中すると周りが見えなくなると来た。
 結果、俺は無能という烙印を押された。
 完璧主義と自信がないことが原因なのは分かっていた。だが性格を変えようと頑張ってもそう簡単に変わりはしない。
 職場では無能だと邪険にされ、お局の口調もキツくなる。バイトを変えもしたが結局は同じ結末になった。
 今してるビル内の清掃バイトでもそうだ。
 休憩室に戻ると先輩が苛立たしげに言う。
「佐藤さん、また苦情。会議始まるってなったら掃除は途中でやめてまた後でにしてって言ったよな?」
「すみません。で、でも後もうちょっとで終わりそうだったので……」
「だからって相手側の都合を曲げちゃいけないだろ。はぁ……。ったくいつまで新人気分でいるんだよ」
「っ……」
 先輩の言い分は正しい。だが体が先輩を拒絶する。
 男の怒る低い声色に冷や汗が体を伝う。
 思い出したのは中学の頃の記憶だ。
 男たちが怒鳴って俺を蹴り踏みつけ、辱める。心と体に刻まれる苦痛。
 体が恐怖で震え、息が苦しくなる。
「……はぁ、っはぁ、はぁ、はぁ」
 吸っても吸っても苦しい。
 これが初めてじゃない。深呼吸を意識してなんとかして鎮めようとするけれど呼吸は苦しいまま。先輩が更に苛立ちを見せる。
「おいまたかよ。お前それわざとやってんのか?」
「っはぁ、はぁ、はぁ、すみ、すみません」
「本当にそう思ってんのかよ。ったく、これじゃあ俺が悪いやつみたいじゃねぇかよ。俺はただ指導してるだけなのによ」
 怖い怖い怖い。
 指先まで震えてくる。俺はもう耐えきれなかった。
 朦朧とした意識でトイレに駆ける。個室の鍵を閉めるなり、俺はドアに背を預けて床に座り込んだ。
「はっ、はぁはぁ……」
 袖で口元を押さえて呼吸だけに集中する。しばらくしてやっと落ち着き、そして溢れたのは大量の涙だった。
「あぁぁ~うあぁああ、ああぁぁああ」
 頬に大きな涙が洪水のようにボロボロと流れる。
 思い出したくない。なのにあの頃の記憶が何度も何度もループして頭から離れない。
 声も我慢出来ない。俺は子どものように泣きじゃくった。
 人の世で俺は誰からも愛されない、誰からも必要とされていない。俺は独りだ。
 会いたいと願った。
 今すぐ白さんに会いたい。
 お金だけ持って俺は白さんの元に駆けて行った。電車の窓からは春の暖かな日差しが入り込む。
 駅に着き、急いで社へ走っていく。山は冬の寒さから解き放たれ元気さを取り戻し、花を咲かせる。
「白さんっ……!」
 約束とは違い、二年で戻ってしまった。だがそんなことどうでもでいい。
 早く白さんに会いたい。このまま真っ直ぐ進んだら社につく。
 白さんに会えると思うと自然と笑みが溢れた。
 山奥に社はある。白さんが待ってる。そう思ったのに。
「白さん──」
 笑みをなくし、俺は立ち尽くす。
 目の前に広がるのは草原。社はそもそもここに存在しなかったかのように跡形もなくなっていた。
「え……」
 目を擦る。だが光景は何一つ変わらない。ただ一つ、見慣れないものがあった。
 看板があった。駆け寄って読む。
「参拝客の皆様へ。この度白月山神社は下記に移設いたしましたのでご案内申し上げます」
 看板の地図が示す神社は人の多い街にあった。
 その時、俺が感じたのは喜びだった。
「よかった……」
 心の底からそう思った。
 もう白さんは独りじゃない。きっと人通りも多いだろうから参拝客も俺だけじゃなくなるはずだ。
 素人作りじゃない、職人が手がけた新しい社に、参拝客。これでもう白さんが独り寂しくなることはない。
 俺は駄目でも白さんは報われる。
 白さんに自分を重ねていた俺にとってこれほど幸せなことはない。
 安心すると俺は草原に倒れるように横になった。
 なんだか体がとても重い。
 思えばここまで走りっぱなしだった。
 休もう。流石に疲れた。
 横を見ると、何十年前に雷が落ちて枯れた桜の木があった。ぼっきりと幹が縦に裂けてしまっている。
 いつかの白さんとの会話を思い出す。
「もし桜が咲いてたら白さんとここでお花見が出来たんだけどなぁ」
「出来るさ」
「えっ出来るの!? でもこの木枯れてるよ」
「我の力があれば再び花を咲かすことも可能だ」
「じゃあ──!」
「だが今の我は穢れている。我が今この木を治したところで咲かす花は馬糞のように汚いものになってしまう。だから咲かすとしたら我に再び信仰が戻り、神聖な神の輝きを取り戻した時だろうな」
「そっか。……じゃあさ俺が社を直すよ!」
 白さんが目を丸くする。
「確か神は祀られる存在で、自分自身で祀ることは出来ないから社だけは信仰心ある人間が直さなきゃいけないんだよね。だったら俺が社を直すよ! そしたら白さんの神の輝きも戻るんだよね!?」
「あ、ああそうだが。だいぶ時間と労力がかかるぞ」
「それでもいい! 白さんとお花見できるように頑張って直すよ!」
 結局は社も完全に直すことは出来ず、お花見を一緒に見ることは叶わなかった。
「ああ、白さんとお花見したかったなぁ……」
 桜に手を伸ばし、目を瞑る。
 頬に寂しさの涙が伝う。ふと涙の川に何かが降ってきた。
 目を開ける。
「わぁ……」
 視界いっぱいに桜の花が咲いていた。ピンクの花びらが雨のように降って宙を舞う。
 再び横を見ると桜の木には傷一つなく、大きな幹が上へと力強く伸び、花咲く枝が空いっぱいに広がっていた。
「綺麗だ……」
 両手を広げ、桜の花びらに身を委ねる。
 これが耐え難い現実から逃げるために見た幻覚でもなんでもいい。
 ただ美しさに浸り、心に平穏を取り戻そう。
 胸いっぱいに桜の甘い匂いを吸い込み、瞳を閉じる。
 体から力が抜けていく。限界が来たことを感じ取る。
 俺は流れに逆らわずそのまま人の世との繋がりを断った。


♢♢♢


 我は畏れ多き気高き白狐の神、燦然白月神。
 だが最初は小さな妖狐であった。その頃の我は人懐っこく、よく村の子どもと遊んでいた。
 災害があれば村人を助けもした。闇夜でもよく見えるようにと躰を白い月のように輝かせ、道標となって村人を安全な場所へ避難させた。
 我は村人に感謝され、我も大勢の人を助けたことを誇りに思った。
 だが災害が続けざまに起きると人の目は変わった。
「お前が災厄を呼んでるんだろ!」
「この疫病神が!」
 災害の度に助けていたにも関わらず、人間たちは我を責めた。そして我を嬲り殺した。
 妖狐は生き絶え、復讐心を燃え上がらせて蘇った。
 村人は全員残らず呪い殺した。村を通りかかった者、女子供関係なく全ての人間をもだ。
 その話は都まで届き、術師が村までやってきた。
 術師はわざと山火事を起こさせ動物たちを助けていた我を不意打ちで封印した。そして神社を建て我を「燦然白月神」として祀った。
 だが我がそれで鎮まるわけがない。我の力が及ぶ領域に人間が入ろうものなら呪ってやった。
 おかげで新しく村に人が入っても長続きはせずに引っ越し、村はなくなり、誰も神社に近寄らなくなった。
 だが信者をなくし神社が廃れることは神が穢れることを意味する。
 我の美しい月光のような毛は黒く汚れ、姿は骨も丸見えの醜いものとなった。
 だが本当に醜いのは人間の方だ。恩を忘れ、全ては我のせいだと嬲り殺した。
 人間ごときに祀られるよりこうして孤独でいる方がずっといい。
 そう思っていたのに。
「今まで辛かったよね。もう我慢しなくていい。いっぱい泣いていいんだよ」
 抱きしめる幼子は我と違って暖かくてとても優しかった。
 あの子が現れてから全てが変わった。
「また来たか童。そなたは暇なのか?」
 神社に来てくれたことが本当は嬉しくてたまらないのに厄介な口は別のことを言ってしまう。
 けれどあの子は賢いから誤解することはこれまで一度もなかった。
 奏太が来てから我の人生には花が咲いた。
 奏太が好きだ。我の穢れがあの子に影響しなければすぐに嫁にもらいたいくらいだ。願うことならずっと彼のそばにいたい。
 しかし奏太は突然別れを告げた。
「じゃあ白さん元気でね。必ず三年後会いに来るから」
 当時の我は奏太ともう二度と会えないような気がして子どものように駄々を捏ねて喧嘩という形で別れてしまった。
 時間が経ち、我は後悔した。別れがあのような形でいいわけがないと。
 奏太が別れを告げてその少し後だ、神主らしき人物が訪れたのは。
 どうやら街に新しく神社を建てて、引っ越すつもりらしい。
 我は悪くないと考えていた。
 新しい神社で信仰心が戻れば我の姿は浄化され、嫁として奏太をもらいずっとそばにいることが出来る。
 我は苦虫を噛み潰す思いで人間を領域に入れ、神体の鏡に触れることを許し、新しい神社に移った。
 大昔の封印の事は神主が知らなかったらしい。封印ごと神社を解体したため我はもう土地に縛られずどこへでも行ける。
 だから引っ越して早速我は奏太に屈辱と苦しみを与えた男どもに復讐を始めた。
 あやつらはもうこの世にはいない。勿論輪廻の輪に戻れないように魂を粉々にした。
 奏太の両親もそれ相応の罰を与えた。もう幸せというものは七度生まれ変わっても味わえないだろう。
 穢れていた頃は人の願いを叶えても必ず本望ではない結果になっていた。だが今は違う。
「モテますように!」
「第一志望の高校に合格しますように!」
「逃げた愛人と夫に天罰が降りますように……」
 全く、ここに来る人間は全員馬鹿だ。
 我は災害専門だと言うのに。だがようやく月光の毛を取り戻し、本来の神の姿に戻ったのだ。奏太と共に暮らすため穢れないよう信仰心の維持は大切だ。
 全員の願いを聞いてやる。
 願う人間の列は神社の外まで続いていた。この様子だと夕方までかかるな。


 奏太が会いに行くと約束した年、我は浄化した己を見せて驚かせようと人の姿に変化して、光より速くかつて棲んでいた神社の跡地へ翔んで行った。しかしすぐに異変に気付いた。
 漂う霊気。我のよく知る者の霊気だ。
 霊気に近付き、地面を見る。
「っそんな……、いや違うっ、そんなはずはない!」
 認めたくなかった。
 地面に転がるのは白い骨。
 だが散らばる魂はあの子のもので。
「ああ、そんな……」
 膝から崩れ落ち、散らばった魂を集めて腕に抱く。
 あの子はこんな最期を迎えていい存在じゃない。こんな冷たい地面で独りきりで死んでいい人間じゃない。
 察するに体ではなく魂が先に崩れたのだろう。魂に受けた傷は治すことが出来ない。何度も魂は槍で突き刺され、傷は裂けて広がり遂に砕け散った。そして生力の源である魂が崩れたことで体が機能を止めた。
 奏太は生きることを諦めたのだ。
「奏太、奏太……」
 抱きしめる魂に雫が落ちる。
 悲しみの涙は天候を荒れさせ、山は洪水で跡形もなくなった。


♢♢♢


 人賑わう街に白月山神社がある。そこには白狐である燦然白月神が祀られ、一時期どんな願いでも叶うと噂が広がっていたが、今は立ち入ったら災いが降りかかると誰も神社を訪れる者はいない。
 しかし神社を管理する神主は度々不思議な光景を目にしていた。
 最初に二人の姿を見たのは桜の木の下であった。
 雪のような着物を着た男が白橡の着物を身に纏う男児を抱いて腰を下ろしている。
 男は月光のようにキラキラと輝く白い髪で、作りものめいた美しい顔をしていた。頭には狐のような耳がついていてふわふわした少し長めの尻尾が男児に添えられている。
 その姿は明らかに人ではない、ここの神だと神主はすぐに気付いた。
 一方男児は彼と比べ狐の耳も尻尾もなく、なんてことない普通の顔つきだったが、すやすやと眠っているようで男が愛おしそうに彼を眺めていた。
 桜の花びらが舞い、愛に包まれる二人に降り注ぐ。その光景は神秘的で美しく暖かい。神主は目が離せなかった。
 すると神が突然視線を向け神主を射抜く。
 邪魔をするな。早くどこかへ行けと言っているようなきつい目つきに神主は慄き、慌てて背を向けた。
 その後も二人を見ることは度々あったが、いつも神は男児を抱き、男児はいつも眠っていた。
 だが神主はあまり深入りしない。遠くから二人の幸せを願い見守っていた。


 燦然白月神は奏太を片腕で抱え、境内を散歩していた。無礼な神主が目の前を通る。
「人間が、神主でなければ殺してるところだぞ」
 前の神主が老衰で死に、新しい神主がやって来てから燦然白月神は苛立つことが多くなっていた。
 夢枕で境内は隅を歩けと忠告しておくかと彼は考える。
 あの件から神は奏太をあんな最期に追いやった人間の世が憎く、また人間を拒絶し、憎悪していた。
 故に参拝客はもれなく呪う。しかし神主だけは神社の維持に必要だと例外にしていた。勿論神主の金運を天井抜いて上昇させ参拝客がいなくとも運営出来る状況にさせている。
 それも奏太が起きた際、何不自由なく棲めるようにするためだ。
 燦然白月神は奏太の砕けた魂を一欠片残らずかけ集め、神力で一つの魂に戻した。とは言っても神力を系にして縫い合わせたつぎはぎの魂だ。
 そのため霊体は元の姿にはならず幼児に、ここ百年はずっと眠ったままだ。
 だが燦然白月神は諦めることはない。いつか目覚めることを信じて奏太に愛を注ぐ。
「参拝客がいなくとも我の輝きが燻むことはなかった。それは何故か分かるか?」
 眠る奏太に神は優しく微笑む。
「いつも奏太がそばにいたからだ。そなたの愛という信仰心が我の輝きを保ち続けたのだ」
 神は判断を誤っていたのだ。奏太が穢れないように黒き神は長く共にすることはなかった。だが愛という信仰心を持つ奏太と共にいることで神は清められていたのだ。
 それにもっと早く気付いていたらなと後悔しない時はない。
 神は切なげにだが確かに愛情深く腕に抱く奏太の柔らかな髪を撫でる。
「我はずっとそなたが目覚めるのを待っているぞ。何百年、何千年経とうともずっと……」
 幾ら時が経っても変わらない白い月の光が境内に二つの影を作りだす。
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