3 / 17
1巻
1-3
しおりを挟む
突然の行動に驚いたのか青年は一歩、後退する。そして眼鏡をカチャリと掛け直して動揺を隠すように咳払いをした。
隣でその様子を見ていた少女はにっこりと微笑みながら、チェルシーに問いかける。
「チェルシーお姉様、目が覚めたのですね。ネザー様に謝罪の手紙は送ったのですか?」
「ネザー様? 誰、それ」
「ベネールガ公爵家の令息ですわ。お姉様ったら、先日の失態を忘れてしまったのですか?」
「…………?」
「折角、婚約者ができるチャンスでしたのに残念ですわね」
クスリと笑いながら言った際の表情で、見覚えのある人物だと気づく。
(この子知ってる! 夢で見た性格の悪いチェルシーの妹だ……! 日記を勝手に見て馬鹿にしてたし、嫌なことばかり言ってきた奴じゃん)
どうやら〝チェルシー〟として目覚める前に夢で見ていたものは本当に起きた出来事だったようだ。そう思い当たれば確かに、チェルシーに暴言を吐いて去って行った金持ちそうな青年は、ネザーと呼ばれていた気がする。
そんな二人の後ろには、チェルシーたちを嘲笑いながらこちらを見ている侍女の姿があった。
「ネルっち、リリにゃん。この感じ悪い奴らの名前ってなんだっけ?」
二人を指差しながら言うと、唖然としながら面白いほどに目を見開いている。ミントグリーンの髪を揺らしながら慌てた様子でネルが耳打ちする。
「この方たちはチェルシーお嬢様のお兄様のダミアン様と、妹君のジェニファー様ですよ! 忘れたのですか?」
「ふーん。ネルっち、ありがとう」
「い、いえ……」
四人の心の声が表情を通してここまで聞こえてくるような気がした。ジェニファーがチェルシーの妹でダミアンが兄であることを知ったとしても不愉快な気持ちは減るどころか増していく。
「感じが悪い、だと? もしかして俺たちに向かって言ったのか?」
「チェルシーお姉様、わたくしたちの名前を忘れるなんて熱で記憶喪失にでもなったのかしら?」
「またいつものように自分の愚かさを誤魔化そうとしただけだろう」
目の前に本人がいるのに言いたい放題である。今度はチェルシーが熱を出したことで記憶喪失になったと思われているようだ。この二人にも別人だと説明しても信じてはくれなさそうだと判断したチェルシーは口を噤む。
(ダミアンとジェニファーは兄妹って感じだけど、チェルシーとは雰囲気があんまり似てない感じ。ま、どうでもいいけどね~)
二人の言葉を右から左に聞き流して無視しながら花冠作りを再開する。
「様子を見に来てみれば……父上と母上が騒いでいたのはコレが原因か」
「ほんとよね。普段はお部屋でずっと本を読んでいるのに不思議だわ」
「ふざけた態度を取って見過ごせないな」
「頭がおかしくなってしまったのかしら?」
ジェニファーと侍女たちのクスクスとチェルシーを馬鹿にするような笑い声が響く。もちろん居心地のいいものではない。
(うるさい奴らは無視無視……ラブちゃんとよくウザい奴らは相手にしないに限るって話してるもん)
チェルシーは二人の存在を無視しながら手を動かしていた。しかしダミアンとジェニファーは、そんなチェルシーの態度が気に入らないと言いたげに眉を顰めてこちらを見ている。
(早くどっか行かないかなぁ)
チェルシーの視線は手元に向けられたままだ。ネルとリリナはチェルシーと彼らを交互に見ているが誰も言葉を話すことはない。空気は固くて気まずいものだった。
立ち去る様子のない二人に向かってチェルシーは呟くように言った。
「まだ何か用? 暇なの?」
「……ッ、チェルシーお姉様こそ何をやっているのですか?」
「何って見てわかんない? ネルっちとリリにゃんと遊んでんの」
プッと吹き出すような声が聞こえたが、チェルシーが相手にすることはない。
「そんなに見ていてやりたいの? ジェニファーも一緒にやる?」
「えっ……?」
「今……ジェニファーを誘ったのか?」
「うん、そうだけど。あ、作り方がわからないなら、アタシが教えてあげるよ」
「…………」
周囲は静まり返っていた。まるで時が止まったような沈黙に耐えきれなくなり首を傾げていると……
「アハハッ、侯爵家の令嬢が何を言ってるのかしら」
「はしたない……幼児に逆戻り?」
「ほんと、侍女も侍女なら主人も主人よね」
「ふふっ、本当よね。二人とも使えないものね」
「両方とも出来損ないよ。旦那様と奥様に怒られてばっかり」
後ろからコソコソと聞こえる悪口にチェルシーは振り向いた。どうやらジェニファーの侍女が五人ほどこちらを見て何かを言っている。
(姉のチェルシーの侍女が二人で妹のジェニファーの侍女が五人……なんで?)
その言葉にネルとリリナは恥ずかしそうに俯いている。
「令息に振られたことがショック過ぎて、ついにおかしくなっちゃったんじゃない? フフッ」
「あはは、笑っちゃダメよ」
「あなたこそ! ああ、おかしい」
ジェニファーの侍女たちの暴言が辺りには響き渡っているにもかかわらず、ジェニファーやダミアンはそれを咎めようとしない。二人はいつものことだと言いたげに黙ってその様子を見て楽しそうに唇を歪めているだけだ。
仮にも兄妹ならば庇ったりしないのだろうか。少なくとも自分ならばそうするが、ダミアンとジェニファーが動くことはない。そのまま無視していてもチェルシーへの暴言は続く。
(はぁ……? 何だコイツら。喧嘩売ってんの?)
クスクスと耳障りな笑い声に耐えきれなくなり、反論するために口を開いた。
「じゃあ聞くけど、アンタたちみたいにジェニファーも性格悪いわけ?」
「……!?」
「ジェニファーお嬢様になんてことをっ!」
「信じられないわ!」
「だってさ、こうやって目の前で聞こえるようにコソコソ悪口言う奴らの主人なんでしょ? 最悪じゃん」
吐き捨てるように言うと、ジェニファーは驚いていたがすぐに「ひどい……」と言って、瞳を潤ませて口元を押さえながら首を横に振っている。
それを見たダミアンが前に出て、あろうことかチェルシーの胸ぐらをつかんで引き上げる。強制的に立たされて、ダミアンの顔が間近に迫った。
チェルシーは動じることなくダミアンを睨み上げていた。リリナとネルは小さな悲鳴を上げ、「おやめください、ダミアン様!」「チェルシーお嬢様……っ」とチェルシーを助けようとするがダミアンに振り払われてしまう。
地面に崩れる二人の体。笑う侍女たちの声。チェルシーはそれを見て目を見開いた。
「ちょっと、女の子に暴力を振るうなんて信じられない……!」
「お前の侍女などどうでもいい。今すぐにジェニファーに謝罪しろ」
「どうでもいいわけあるか! お前こそリリにゃんとネルっちに謝れっ!」
そのチェルシーの態度の変化にダミアンは一瞬だけたじろいたが、すぐに取り繕い鋭い視線を向ける。そのまま睨み合いは続いていたがダミアンが沈黙に耐えかねて唇を開く。
「今すぐに撤回しろ……!」
「…………は?」
「ジェニファーに言ったことを撤回しろって言ってるんだ。今までずっと黙っていて、やっと話し出したと思ったら……やはり出来損ないだな」
脳裏にはチェルシーの願いが書かれたメモの内容が思い浮かぶ。
(チェルシーが〝ダミアンお兄様とジェニファーは無理〟ってメモに書いていた理由がわかった気がする)
それと同時に思うのだ。こんな一方的に攻撃して笑っているような奴らと仲良くする必要なんてない、と。夢では何も言い返せなかったが、今でも痛みや苛立ちが確かに胸に残っていた。
その後ろで侍女たちに庇われながら口元を歪めるジェニファーの姿を見てプチンと何かが切れる音がした。
「チェルシー、聞いているのか!?」
「…………手、離せよ」
チェルシーはダミアンを睨みつけたまま怒りを込めて低い声を出す。掴んでいる手首を上から思いきり力を込めて握り返した。力は足りなくとも爪を思いきり食い込ませているため、ダメージはあるだろう。ダミアンは眉を顰めて苦痛の表情を浮かべる。
「女に手をあげる奴は最低だって……習わなかったのかよ! 今すぐ離せ、クソ野郎が」
「……!」
「本当にチェルシーの兄? ジェニファーだけ可愛がってナイト気取りかよ? マジだっさ……」
その言葉に胸元を掴んでいる力が強まる。襟が詰まっているワンピースだからか、更にグイッと服を上に引かれて首が締まってしまう。いかにも知的な見た目をしているダミアンだが、怒りの沸点は低く手も早いようだ。
「……っ、いい加減にしろ! 調子に乗るなよっ」
「ぐっ……」
息苦しさに耐えられなくなりそうになっていると、ダミアンがもう片方の腕を振り上げたのが見えた。
「───痛ッ!」
チェルシーは身を乗り出して、胸ぐらを掴んでいるダミアンの手首を両手で固定し体重を掛ける。驚いて手を離したダミアンにガブリと噛みついた。スカートが短すぎるからと、キララを心配した母に習った痴漢撃退法がまさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
しかしダミアンに思いきり腕を振り払われてチェルシーは体を支えられずに尻餅をつく。
「っ、この……」
再び脅しのように振り上げられた手を見てチェルシーは「また暴力振るうのかよ! 最低のクソ野郎じゃん」と叫ぶとダミアンの腕が震えながら下がっていく。
「こんな幼稚な奴がコウシャク家を継げんの? 絶対無理だわ」
「なっ……!」
フン、と鼻息を吐き出したチェルシーは、立ち上がって息を整えてからワンピースについた土を払う。噛まれた手を押さえているダミアンにアッカンベーと舌を出してヨレヨレになったワンピースの襟元を整えてから、呆然としているジェニファーとダミアンに背を向けた。
「ネルっち、リリにゃん、アイツらほっといて行こう。ほんっと最低っ」
「は、はい!」
「……待ってください! チェルシーお嬢様」
ドシドシと地面を踏みしめながら歩いていた。頭の中は怒りでいっぱいだ。さっさと自室に帰りたいが、チェルシーの部屋の場所がわからずに振り返ってからリリナとネルに案内してもらう。
部屋に戻ってワンピースを脱いで、新しい服に着替える。首には絞められた痕がついてしまったようだ。それにしてもチェルシーのクローゼットに入っているドレスやワンピースはどれもパッとしない色ばかりだ。それもジェニファーのプレゼントだったり、一緒に選んだものだったりするというから気に入らない。
(あの女……こんな地味でチェルシーに似合わない色ばっかりプレゼントするなんて絶対にわざとだろ?)
ダミアンの前ではか弱い女を女優ばりに演じていたジェニファーの姿とあの性格の悪そうな侍女たちの姿に嫌悪感でいっぱいだった。
あまりの理不尽な扱いにベッドに倒れ込みクッションを叩きつけていると、作った花冠をサイドテーブルに置いたネルと、廊下に顔を出して様子を見ていたリリナがチェルシーの元にやってくる。
「悔しいっ、絶対に許せない! もう一回、アイツの鼻に噛みついてやればよかった」
「チェルシーお嬢様がダミアン様とジェニファー様に、あんなことを言うなんて今でも信じられません」
「驚きです。いつもはだんまりなのに……」
驚くネルとリリナを見て、先ほどの出来事を思い出しながら顔を歪めていた。
「だってさ、いきなり服掴まれて首絞まってたんだよ! あとアタシを殴ろうとしていたし、リリにゃんたちだって吹っ飛ばしてさ。信じられない……めっちゃ腹立つ」
「怒ってくださるのはありがたいのですが……大丈夫でしょうか」
「とても嫌な予感がします」
「嫌な予感……?」
そして次の日、ネルとリリナの嫌な予感は的中することとなる。
朝起きて紅茶と軽食が運ばれてくる。目が覚めてもやはり電車の中でも渋谷でもなかった。頬を掻きながらボーっとしていたチェルシーが、リリナとネルに促されるようにして、慣れない苦い紅茶に砂糖とミルクを大量に入れながら飲んでいると……
「──チェルシー、起きてるのか!?」
「今すぐ話があるの。いいから来なさいっ!」
ノックもせずに乱暴に扉を開けて部屋に入ってきたのは、チェルシーの両親だった。それも表情を見る限り、顔を真っ赤にしてかなり怒っているように見える。
チェルシーは紅茶を置くと「リリにゃんとネルっち下がって」と言って、リリナとネルを庇うように自分の後ろに下げた。リリナが不安そうな声を出してチェルシーに問いかける。
「チェルシーお嬢様、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫、大丈夫! 二人は巻き込まれないようにここにいてね」
「ですが……」
「また余計なことを言われて怒られたら嫌でしょ? チェルシーもそう思っているような気がするし」
顔を見合わせて困惑している二人の手を握って大きく頷いてから足を進めた。
(チェルシーはこの二人が大好きなんだから、アタシも二人を守る……!)
チェルシーが両親の前に行くと、その後ろには守られるようにして立っているダミアンとジェニファーの姿があった。それを見てチェルシーの胸が針で刺されるように痛む。疎外感を感じるのは当然だろう。
(まるでチェルシーが家族全員の敵みたいじゃない……!)
グッと手のひらを握って、チェルシーは顔を上げた。目覚めたらチェルシーになっていて、元の場所に帰れないだけでなく、彼女は家族から疎まれている。
けれどこんな状況に置かれても絶対に譲れないものがある。チェルシーは腕を組んで仁王立ちしながら四人に問いかけた。
「ノックもしないで、何……?」
「昨日から好き放題やっているそうじゃないか!」
「みんなを困らせて一体、何がしたいというの!?」
「何がしたいのって、どういう意味?」
「昨日、ダミアンとジェニファーと揉めたそうじゃないか。自分の無能さを反省するわけでもなく、二人のせいにするとはどういうことだ」
「いい加減にして。二人を巻き込むなんてありえないわ」
「は……?」
どうやら昨日の出来事は、大分捻じ曲がった解釈をされたまま両親に伝わっているようだ。
(どうしてチェルシーが悪いって決めつけるの?)
キララの時も格好が派手だから、普通と違うから、ギャルだから……そんなイメージで悪いと決めつけられていたことを思い出す。
ダミアンとジェニファーが両親の後ろに隠れて、勝ち誇ったように笑みを浮かべている。こちらも負けじと睨みつけるとチェルシーの父親の怒号が響く。
「なんだその態度は……! お前は一体、何様のつもりだ。二人だけではなくジェニファーの侍女たちにも酷いことを言ったそうだな。そのせいで昨日はジェニファーがどれだけ落ち込んだと思う?」
その言葉に納得できずにすぐにチェルシーも声を上げた。
「それはジェニファーの侍女が、アタシとアタシの侍女の悪口を言ったから言い返したんでしょう? 言っておくけど先に喧嘩売ってきたのはそっちだから!」
チェルシーの言葉に辺りがシンと静まり返った。まさか言い返されるとは思っていなかったのだろう。
チェルシーの父と母の口が何かを言いたげにパクパクと動いている。ジェニファーは自分の思った展開にならないことが不満なのか不機嫌そうだ。
チェルシーは「マジでだっる」と言いながら深い溜息を吐いて髪を掻き上げた。
(超ぶりっ子……別人じゃん。マジで性格悪っ)
ジェニファーが父親の服の裾を引っ張りながら上目遣いをして猫撫で声を出す。
「で、でもチェルシーお姉様は、わたくしのことを最低って言ったんですよ!」
「……ジェニファー」
「侍女たちもわたくしを守ろうとしてくれただけで何も悪くないのに……悲しくなってしまって」
チェルシーの前で見せる意地悪な姿とは別人だ。弱々しく振る舞い、瞳を潤ませているジェニファーを見て舌打ちしそうになるのを押さえていた。あれだけ裏ではチェルシーを馬鹿にしていたのにもかかわらず、両親と兄の前では弱者のフリをしている。なんとなくチェルシーが除け者にされている理由を察しつつもジェニファーに問いかける。
「ねぇ、何勘違いしてんのか知らないけど、ちゃんと話聞いてた?」
「……え?」
「アンタの侍女たちがさ、アタシとアタシの侍女を馬鹿にしたからそっくりそのまま言葉を返しただけなんだけど。一緒に聞いてたよね?」
それを聞いて少し離れた場所で得意げな顔をしていたジェニファーの侍女たちの表情が曇り、視線を逸らす。
両親と兄妹、侍女たちにもまったく怯むことなく、堂々としているチェルシーを見て、ここにいる全員が戸惑いを感じているようだ。
しかし、その後に返ってきた言葉にチェルシーは耳を疑いたくなった。
「ジェニファーが嘘をつくわけないだろう?」
「……!」
「こんなにジェニファーに気にかけてもらっているのに、何故お前はいつもジェニファーと仲良くできないんだ!」
「本当ね。ダミアンとジェニファーに迷惑ばかりかけて……なのに今度は横暴な態度を取るなんて許せないわ」
満足そうに微笑むジェニファーに気づくことなく、兄、父、母と次々に彼女の肩を持ち、チェルシーの言葉をまったく信じてはくれない。ジェニファーのことをまったく疑っていないようだ。
(洗脳でもされてんの……? ありえないんですけど。それにこんなに馬鹿にしてくる兄妹と仲良くしろって無理でしょ)
チェルシーから言わせてもらえば、ダミアンとジェニファーはチェルシーと仲良くするつもりなど微塵もない。しかも同じように怯えていたってジェニファーは〝可愛い〟でチェルシーは〝出来損ない〟だ。長年積み重ねてきたことが大きいのだろうが、それにしてもこの大きな差には違和感を覚えてしまう。
「それにチェルシーお姉様はダミアンお兄様に突然、噛み付いたんです! わたくし、とても怖かったわ」
「何……!?」
「父上、母上……これを見てください!」
ダミアンの意気揚々とした顔を見てげんなりしていた。ダミアンは袖を捲って二人の前に手を掲げる。当然ではあるが、そこには昨日、チェルシーが身を守るために思いきり噛み付いた痕がくっきりと残っていた。
チェルシーの母はそれを見て小さな悲鳴を上げた。チェルシーの父の表情には怒りが滲む。しかし気になるのはチェルシーにされたことだけを報告して被害者面していることである。
(もしかしてこのままアタシが何も言わないとでも思ってんの?)
二人がチェルシーを貶める手口がなんとなくわかった気がした。
「隠れてダミアンにこのようなことをしていたとは!」
「まぁ……なんて野蛮なことを」
「ふんっ」
ダミアンのざまぁみろと言いたげな余裕の表情が鼻につく。いつもならば、チェルシーは絶対に言い返したりはしないのだろう。俯いて「ごめんなさい」と謝って、相手の気が済むのを待っている姿が、見たこともないはずなのに想像できた。
だけど今は違う。何故チェルシーだけがここまで責められなければならないのか、言葉にならない怒りが爆発寸前である。そちらがそのつもりならばとチェルシーは地味で露出が少ないワンピースの首元に手をかけてリボンを外す。
昨日、ダミアンに胸元を鷲掴みにされて体を引かれた際に襟元が食い込み、くっきりと肌に残った赤い線を見せる。それを見せるとダミアンはわずかに目を見張りピクリと肩を揺らす。
「なんだ、いきなり。その首の痕はなんだ……?」
「昨日、ソイツに乱暴に胸ぐらを掴まれたの。だから抵抗して噛みついた。アタシを殴ろうとしたからでしょう?」
「……ッ!」
「首が絞まったから超痛かった。昨日着てたワンピース、胸元が伸びてるし、証拠に持ってこようか?」
その言葉に父と母の視線がダミアンに向かう。ダミアンの瞳は大きく揺れ動いている。
「まさか。ダミアンがそんな乱暴なことをするはずないわ! 嘘でしょう?」
「ダミアン、チェルシーの言っていることは事実なのか?」
「…………ッ!」
「息ができなくて苦しかったから抵抗して噛み付いたの。なんだっけ。セイトウボウエイ的な?」
黙り込んでしまったダミアンを庇うように、ジェニファーが前に出る。
「ですが、ダミアンお兄様はわたくしを助けてくださったのですわ……!」
「……ジェニファー」
「チェルシーお姉様が、わたくしと侍女たちを馬鹿にしたんだもの。お兄様が怒るのも無理はないわ」
「そ、そうだ! ジェニファーの言う通りです」
涙を浮かべながら、胸元で手を組んでいるジェニファーの言葉にダミアンは「ありがとう」と言って感謝しているようだ。
(アタシがおかしいの……?)
ここまで言っても言葉が通じないモヤモヤとした感覚に地団駄を踏みたくなった。そしてあろうことか両親は「そういう理由だったのか」と納得しているではないか。
(これだけ言ってもチェルシーの言葉を信じようとしないとか……マジ?)
あまりにも理不尽な扱いに開いた口が塞がらない。顔を隠して僅かに肩を揺らしているジェニファーの女優並みの演技に寒気が止まらなかった。
(うわぁ……何コイツ、悲劇のヒロイン気取り?)
隣でその様子を見ていた少女はにっこりと微笑みながら、チェルシーに問いかける。
「チェルシーお姉様、目が覚めたのですね。ネザー様に謝罪の手紙は送ったのですか?」
「ネザー様? 誰、それ」
「ベネールガ公爵家の令息ですわ。お姉様ったら、先日の失態を忘れてしまったのですか?」
「…………?」
「折角、婚約者ができるチャンスでしたのに残念ですわね」
クスリと笑いながら言った際の表情で、見覚えのある人物だと気づく。
(この子知ってる! 夢で見た性格の悪いチェルシーの妹だ……! 日記を勝手に見て馬鹿にしてたし、嫌なことばかり言ってきた奴じゃん)
どうやら〝チェルシー〟として目覚める前に夢で見ていたものは本当に起きた出来事だったようだ。そう思い当たれば確かに、チェルシーに暴言を吐いて去って行った金持ちそうな青年は、ネザーと呼ばれていた気がする。
そんな二人の後ろには、チェルシーたちを嘲笑いながらこちらを見ている侍女の姿があった。
「ネルっち、リリにゃん。この感じ悪い奴らの名前ってなんだっけ?」
二人を指差しながら言うと、唖然としながら面白いほどに目を見開いている。ミントグリーンの髪を揺らしながら慌てた様子でネルが耳打ちする。
「この方たちはチェルシーお嬢様のお兄様のダミアン様と、妹君のジェニファー様ですよ! 忘れたのですか?」
「ふーん。ネルっち、ありがとう」
「い、いえ……」
四人の心の声が表情を通してここまで聞こえてくるような気がした。ジェニファーがチェルシーの妹でダミアンが兄であることを知ったとしても不愉快な気持ちは減るどころか増していく。
「感じが悪い、だと? もしかして俺たちに向かって言ったのか?」
「チェルシーお姉様、わたくしたちの名前を忘れるなんて熱で記憶喪失にでもなったのかしら?」
「またいつものように自分の愚かさを誤魔化そうとしただけだろう」
目の前に本人がいるのに言いたい放題である。今度はチェルシーが熱を出したことで記憶喪失になったと思われているようだ。この二人にも別人だと説明しても信じてはくれなさそうだと判断したチェルシーは口を噤む。
(ダミアンとジェニファーは兄妹って感じだけど、チェルシーとは雰囲気があんまり似てない感じ。ま、どうでもいいけどね~)
二人の言葉を右から左に聞き流して無視しながら花冠作りを再開する。
「様子を見に来てみれば……父上と母上が騒いでいたのはコレが原因か」
「ほんとよね。普段はお部屋でずっと本を読んでいるのに不思議だわ」
「ふざけた態度を取って見過ごせないな」
「頭がおかしくなってしまったのかしら?」
ジェニファーと侍女たちのクスクスとチェルシーを馬鹿にするような笑い声が響く。もちろん居心地のいいものではない。
(うるさい奴らは無視無視……ラブちゃんとよくウザい奴らは相手にしないに限るって話してるもん)
チェルシーは二人の存在を無視しながら手を動かしていた。しかしダミアンとジェニファーは、そんなチェルシーの態度が気に入らないと言いたげに眉を顰めてこちらを見ている。
(早くどっか行かないかなぁ)
チェルシーの視線は手元に向けられたままだ。ネルとリリナはチェルシーと彼らを交互に見ているが誰も言葉を話すことはない。空気は固くて気まずいものだった。
立ち去る様子のない二人に向かってチェルシーは呟くように言った。
「まだ何か用? 暇なの?」
「……ッ、チェルシーお姉様こそ何をやっているのですか?」
「何って見てわかんない? ネルっちとリリにゃんと遊んでんの」
プッと吹き出すような声が聞こえたが、チェルシーが相手にすることはない。
「そんなに見ていてやりたいの? ジェニファーも一緒にやる?」
「えっ……?」
「今……ジェニファーを誘ったのか?」
「うん、そうだけど。あ、作り方がわからないなら、アタシが教えてあげるよ」
「…………」
周囲は静まり返っていた。まるで時が止まったような沈黙に耐えきれなくなり首を傾げていると……
「アハハッ、侯爵家の令嬢が何を言ってるのかしら」
「はしたない……幼児に逆戻り?」
「ほんと、侍女も侍女なら主人も主人よね」
「ふふっ、本当よね。二人とも使えないものね」
「両方とも出来損ないよ。旦那様と奥様に怒られてばっかり」
後ろからコソコソと聞こえる悪口にチェルシーは振り向いた。どうやらジェニファーの侍女が五人ほどこちらを見て何かを言っている。
(姉のチェルシーの侍女が二人で妹のジェニファーの侍女が五人……なんで?)
その言葉にネルとリリナは恥ずかしそうに俯いている。
「令息に振られたことがショック過ぎて、ついにおかしくなっちゃったんじゃない? フフッ」
「あはは、笑っちゃダメよ」
「あなたこそ! ああ、おかしい」
ジェニファーの侍女たちの暴言が辺りには響き渡っているにもかかわらず、ジェニファーやダミアンはそれを咎めようとしない。二人はいつものことだと言いたげに黙ってその様子を見て楽しそうに唇を歪めているだけだ。
仮にも兄妹ならば庇ったりしないのだろうか。少なくとも自分ならばそうするが、ダミアンとジェニファーが動くことはない。そのまま無視していてもチェルシーへの暴言は続く。
(はぁ……? 何だコイツら。喧嘩売ってんの?)
クスクスと耳障りな笑い声に耐えきれなくなり、反論するために口を開いた。
「じゃあ聞くけど、アンタたちみたいにジェニファーも性格悪いわけ?」
「……!?」
「ジェニファーお嬢様になんてことをっ!」
「信じられないわ!」
「だってさ、こうやって目の前で聞こえるようにコソコソ悪口言う奴らの主人なんでしょ? 最悪じゃん」
吐き捨てるように言うと、ジェニファーは驚いていたがすぐに「ひどい……」と言って、瞳を潤ませて口元を押さえながら首を横に振っている。
それを見たダミアンが前に出て、あろうことかチェルシーの胸ぐらをつかんで引き上げる。強制的に立たされて、ダミアンの顔が間近に迫った。
チェルシーは動じることなくダミアンを睨み上げていた。リリナとネルは小さな悲鳴を上げ、「おやめください、ダミアン様!」「チェルシーお嬢様……っ」とチェルシーを助けようとするがダミアンに振り払われてしまう。
地面に崩れる二人の体。笑う侍女たちの声。チェルシーはそれを見て目を見開いた。
「ちょっと、女の子に暴力を振るうなんて信じられない……!」
「お前の侍女などどうでもいい。今すぐにジェニファーに謝罪しろ」
「どうでもいいわけあるか! お前こそリリにゃんとネルっちに謝れっ!」
そのチェルシーの態度の変化にダミアンは一瞬だけたじろいたが、すぐに取り繕い鋭い視線を向ける。そのまま睨み合いは続いていたがダミアンが沈黙に耐えかねて唇を開く。
「今すぐに撤回しろ……!」
「…………は?」
「ジェニファーに言ったことを撤回しろって言ってるんだ。今までずっと黙っていて、やっと話し出したと思ったら……やはり出来損ないだな」
脳裏にはチェルシーの願いが書かれたメモの内容が思い浮かぶ。
(チェルシーが〝ダミアンお兄様とジェニファーは無理〟ってメモに書いていた理由がわかった気がする)
それと同時に思うのだ。こんな一方的に攻撃して笑っているような奴らと仲良くする必要なんてない、と。夢では何も言い返せなかったが、今でも痛みや苛立ちが確かに胸に残っていた。
その後ろで侍女たちに庇われながら口元を歪めるジェニファーの姿を見てプチンと何かが切れる音がした。
「チェルシー、聞いているのか!?」
「…………手、離せよ」
チェルシーはダミアンを睨みつけたまま怒りを込めて低い声を出す。掴んでいる手首を上から思いきり力を込めて握り返した。力は足りなくとも爪を思いきり食い込ませているため、ダメージはあるだろう。ダミアンは眉を顰めて苦痛の表情を浮かべる。
「女に手をあげる奴は最低だって……習わなかったのかよ! 今すぐ離せ、クソ野郎が」
「……!」
「本当にチェルシーの兄? ジェニファーだけ可愛がってナイト気取りかよ? マジだっさ……」
その言葉に胸元を掴んでいる力が強まる。襟が詰まっているワンピースだからか、更にグイッと服を上に引かれて首が締まってしまう。いかにも知的な見た目をしているダミアンだが、怒りの沸点は低く手も早いようだ。
「……っ、いい加減にしろ! 調子に乗るなよっ」
「ぐっ……」
息苦しさに耐えられなくなりそうになっていると、ダミアンがもう片方の腕を振り上げたのが見えた。
「───痛ッ!」
チェルシーは身を乗り出して、胸ぐらを掴んでいるダミアンの手首を両手で固定し体重を掛ける。驚いて手を離したダミアンにガブリと噛みついた。スカートが短すぎるからと、キララを心配した母に習った痴漢撃退法がまさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
しかしダミアンに思いきり腕を振り払われてチェルシーは体を支えられずに尻餅をつく。
「っ、この……」
再び脅しのように振り上げられた手を見てチェルシーは「また暴力振るうのかよ! 最低のクソ野郎じゃん」と叫ぶとダミアンの腕が震えながら下がっていく。
「こんな幼稚な奴がコウシャク家を継げんの? 絶対無理だわ」
「なっ……!」
フン、と鼻息を吐き出したチェルシーは、立ち上がって息を整えてからワンピースについた土を払う。噛まれた手を押さえているダミアンにアッカンベーと舌を出してヨレヨレになったワンピースの襟元を整えてから、呆然としているジェニファーとダミアンに背を向けた。
「ネルっち、リリにゃん、アイツらほっといて行こう。ほんっと最低っ」
「は、はい!」
「……待ってください! チェルシーお嬢様」
ドシドシと地面を踏みしめながら歩いていた。頭の中は怒りでいっぱいだ。さっさと自室に帰りたいが、チェルシーの部屋の場所がわからずに振り返ってからリリナとネルに案内してもらう。
部屋に戻ってワンピースを脱いで、新しい服に着替える。首には絞められた痕がついてしまったようだ。それにしてもチェルシーのクローゼットに入っているドレスやワンピースはどれもパッとしない色ばかりだ。それもジェニファーのプレゼントだったり、一緒に選んだものだったりするというから気に入らない。
(あの女……こんな地味でチェルシーに似合わない色ばっかりプレゼントするなんて絶対にわざとだろ?)
ダミアンの前ではか弱い女を女優ばりに演じていたジェニファーの姿とあの性格の悪そうな侍女たちの姿に嫌悪感でいっぱいだった。
あまりの理不尽な扱いにベッドに倒れ込みクッションを叩きつけていると、作った花冠をサイドテーブルに置いたネルと、廊下に顔を出して様子を見ていたリリナがチェルシーの元にやってくる。
「悔しいっ、絶対に許せない! もう一回、アイツの鼻に噛みついてやればよかった」
「チェルシーお嬢様がダミアン様とジェニファー様に、あんなことを言うなんて今でも信じられません」
「驚きです。いつもはだんまりなのに……」
驚くネルとリリナを見て、先ほどの出来事を思い出しながら顔を歪めていた。
「だってさ、いきなり服掴まれて首絞まってたんだよ! あとアタシを殴ろうとしていたし、リリにゃんたちだって吹っ飛ばしてさ。信じられない……めっちゃ腹立つ」
「怒ってくださるのはありがたいのですが……大丈夫でしょうか」
「とても嫌な予感がします」
「嫌な予感……?」
そして次の日、ネルとリリナの嫌な予感は的中することとなる。
朝起きて紅茶と軽食が運ばれてくる。目が覚めてもやはり電車の中でも渋谷でもなかった。頬を掻きながらボーっとしていたチェルシーが、リリナとネルに促されるようにして、慣れない苦い紅茶に砂糖とミルクを大量に入れながら飲んでいると……
「──チェルシー、起きてるのか!?」
「今すぐ話があるの。いいから来なさいっ!」
ノックもせずに乱暴に扉を開けて部屋に入ってきたのは、チェルシーの両親だった。それも表情を見る限り、顔を真っ赤にしてかなり怒っているように見える。
チェルシーは紅茶を置くと「リリにゃんとネルっち下がって」と言って、リリナとネルを庇うように自分の後ろに下げた。リリナが不安そうな声を出してチェルシーに問いかける。
「チェルシーお嬢様、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫、大丈夫! 二人は巻き込まれないようにここにいてね」
「ですが……」
「また余計なことを言われて怒られたら嫌でしょ? チェルシーもそう思っているような気がするし」
顔を見合わせて困惑している二人の手を握って大きく頷いてから足を進めた。
(チェルシーはこの二人が大好きなんだから、アタシも二人を守る……!)
チェルシーが両親の前に行くと、その後ろには守られるようにして立っているダミアンとジェニファーの姿があった。それを見てチェルシーの胸が針で刺されるように痛む。疎外感を感じるのは当然だろう。
(まるでチェルシーが家族全員の敵みたいじゃない……!)
グッと手のひらを握って、チェルシーは顔を上げた。目覚めたらチェルシーになっていて、元の場所に帰れないだけでなく、彼女は家族から疎まれている。
けれどこんな状況に置かれても絶対に譲れないものがある。チェルシーは腕を組んで仁王立ちしながら四人に問いかけた。
「ノックもしないで、何……?」
「昨日から好き放題やっているそうじゃないか!」
「みんなを困らせて一体、何がしたいというの!?」
「何がしたいのって、どういう意味?」
「昨日、ダミアンとジェニファーと揉めたそうじゃないか。自分の無能さを反省するわけでもなく、二人のせいにするとはどういうことだ」
「いい加減にして。二人を巻き込むなんてありえないわ」
「は……?」
どうやら昨日の出来事は、大分捻じ曲がった解釈をされたまま両親に伝わっているようだ。
(どうしてチェルシーが悪いって決めつけるの?)
キララの時も格好が派手だから、普通と違うから、ギャルだから……そんなイメージで悪いと決めつけられていたことを思い出す。
ダミアンとジェニファーが両親の後ろに隠れて、勝ち誇ったように笑みを浮かべている。こちらも負けじと睨みつけるとチェルシーの父親の怒号が響く。
「なんだその態度は……! お前は一体、何様のつもりだ。二人だけではなくジェニファーの侍女たちにも酷いことを言ったそうだな。そのせいで昨日はジェニファーがどれだけ落ち込んだと思う?」
その言葉に納得できずにすぐにチェルシーも声を上げた。
「それはジェニファーの侍女が、アタシとアタシの侍女の悪口を言ったから言い返したんでしょう? 言っておくけど先に喧嘩売ってきたのはそっちだから!」
チェルシーの言葉に辺りがシンと静まり返った。まさか言い返されるとは思っていなかったのだろう。
チェルシーの父と母の口が何かを言いたげにパクパクと動いている。ジェニファーは自分の思った展開にならないことが不満なのか不機嫌そうだ。
チェルシーは「マジでだっる」と言いながら深い溜息を吐いて髪を掻き上げた。
(超ぶりっ子……別人じゃん。マジで性格悪っ)
ジェニファーが父親の服の裾を引っ張りながら上目遣いをして猫撫で声を出す。
「で、でもチェルシーお姉様は、わたくしのことを最低って言ったんですよ!」
「……ジェニファー」
「侍女たちもわたくしを守ろうとしてくれただけで何も悪くないのに……悲しくなってしまって」
チェルシーの前で見せる意地悪な姿とは別人だ。弱々しく振る舞い、瞳を潤ませているジェニファーを見て舌打ちしそうになるのを押さえていた。あれだけ裏ではチェルシーを馬鹿にしていたのにもかかわらず、両親と兄の前では弱者のフリをしている。なんとなくチェルシーが除け者にされている理由を察しつつもジェニファーに問いかける。
「ねぇ、何勘違いしてんのか知らないけど、ちゃんと話聞いてた?」
「……え?」
「アンタの侍女たちがさ、アタシとアタシの侍女を馬鹿にしたからそっくりそのまま言葉を返しただけなんだけど。一緒に聞いてたよね?」
それを聞いて少し離れた場所で得意げな顔をしていたジェニファーの侍女たちの表情が曇り、視線を逸らす。
両親と兄妹、侍女たちにもまったく怯むことなく、堂々としているチェルシーを見て、ここにいる全員が戸惑いを感じているようだ。
しかし、その後に返ってきた言葉にチェルシーは耳を疑いたくなった。
「ジェニファーが嘘をつくわけないだろう?」
「……!」
「こんなにジェニファーに気にかけてもらっているのに、何故お前はいつもジェニファーと仲良くできないんだ!」
「本当ね。ダミアンとジェニファーに迷惑ばかりかけて……なのに今度は横暴な態度を取るなんて許せないわ」
満足そうに微笑むジェニファーに気づくことなく、兄、父、母と次々に彼女の肩を持ち、チェルシーの言葉をまったく信じてはくれない。ジェニファーのことをまったく疑っていないようだ。
(洗脳でもされてんの……? ありえないんですけど。それにこんなに馬鹿にしてくる兄妹と仲良くしろって無理でしょ)
チェルシーから言わせてもらえば、ダミアンとジェニファーはチェルシーと仲良くするつもりなど微塵もない。しかも同じように怯えていたってジェニファーは〝可愛い〟でチェルシーは〝出来損ない〟だ。長年積み重ねてきたことが大きいのだろうが、それにしてもこの大きな差には違和感を覚えてしまう。
「それにチェルシーお姉様はダミアンお兄様に突然、噛み付いたんです! わたくし、とても怖かったわ」
「何……!?」
「父上、母上……これを見てください!」
ダミアンの意気揚々とした顔を見てげんなりしていた。ダミアンは袖を捲って二人の前に手を掲げる。当然ではあるが、そこには昨日、チェルシーが身を守るために思いきり噛み付いた痕がくっきりと残っていた。
チェルシーの母はそれを見て小さな悲鳴を上げた。チェルシーの父の表情には怒りが滲む。しかし気になるのはチェルシーにされたことだけを報告して被害者面していることである。
(もしかしてこのままアタシが何も言わないとでも思ってんの?)
二人がチェルシーを貶める手口がなんとなくわかった気がした。
「隠れてダミアンにこのようなことをしていたとは!」
「まぁ……なんて野蛮なことを」
「ふんっ」
ダミアンのざまぁみろと言いたげな余裕の表情が鼻につく。いつもならば、チェルシーは絶対に言い返したりはしないのだろう。俯いて「ごめんなさい」と謝って、相手の気が済むのを待っている姿が、見たこともないはずなのに想像できた。
だけど今は違う。何故チェルシーだけがここまで責められなければならないのか、言葉にならない怒りが爆発寸前である。そちらがそのつもりならばとチェルシーは地味で露出が少ないワンピースの首元に手をかけてリボンを外す。
昨日、ダミアンに胸元を鷲掴みにされて体を引かれた際に襟元が食い込み、くっきりと肌に残った赤い線を見せる。それを見せるとダミアンはわずかに目を見張りピクリと肩を揺らす。
「なんだ、いきなり。その首の痕はなんだ……?」
「昨日、ソイツに乱暴に胸ぐらを掴まれたの。だから抵抗して噛みついた。アタシを殴ろうとしたからでしょう?」
「……ッ!」
「首が絞まったから超痛かった。昨日着てたワンピース、胸元が伸びてるし、証拠に持ってこようか?」
その言葉に父と母の視線がダミアンに向かう。ダミアンの瞳は大きく揺れ動いている。
「まさか。ダミアンがそんな乱暴なことをするはずないわ! 嘘でしょう?」
「ダミアン、チェルシーの言っていることは事実なのか?」
「…………ッ!」
「息ができなくて苦しかったから抵抗して噛み付いたの。なんだっけ。セイトウボウエイ的な?」
黙り込んでしまったダミアンを庇うように、ジェニファーが前に出る。
「ですが、ダミアンお兄様はわたくしを助けてくださったのですわ……!」
「……ジェニファー」
「チェルシーお姉様が、わたくしと侍女たちを馬鹿にしたんだもの。お兄様が怒るのも無理はないわ」
「そ、そうだ! ジェニファーの言う通りです」
涙を浮かべながら、胸元で手を組んでいるジェニファーの言葉にダミアンは「ありがとう」と言って感謝しているようだ。
(アタシがおかしいの……?)
ここまで言っても言葉が通じないモヤモヤとした感覚に地団駄を踏みたくなった。そしてあろうことか両親は「そういう理由だったのか」と納得しているではないか。
(これだけ言ってもチェルシーの言葉を信じようとしないとか……マジ?)
あまりにも理不尽な扱いに開いた口が塞がらない。顔を隠して僅かに肩を揺らしているジェニファーの女優並みの演技に寒気が止まらなかった。
(うわぁ……何コイツ、悲劇のヒロイン気取り?)
932
お気に入りに追加
5,778
あなたにおすすめの小説
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつもりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。